太田述正コラム#12736(2022.5.7)
<永井和『西園寺公望–政党政治の元老』を読む(その9)>(2022.7.30公開)

 「平田東助内大臣は、1924(大正13)年6月から神奈川県逗子の別荘で病気療養中であり、常時輔弼の職責をつくすのが困難だとして、内々に西園寺に辞意を洩らしていた。・・・
 1924年11月になって、ついに平田は辞職を決意し、正式に辞表を出したいと西園寺に伝えた。・・・
 総理大臣、内大臣および宮内大臣の人事(これに枢密院議長を加えてもよい)に関しては、奏薦権ないし協議権を有する元老が実質的な決定権を有していたとみてよい。・・・

⇒永井はこのくだりの典拠を示していませんが、西園寺その人が、最後の元老として、元老の役割の拡大に努め、この拡大された役割を牧野及び牧野の後任の内大臣に承継させ演じさせようとした、と、私は見ています。(太田)

 <1925年3月30日の>牧野の内大臣就任により、西園寺=平田・牧野体制は西園寺=牧野・一木<(注13)>体制へと移行した。

 (注13)一木喜徳郎(1867~1944年)。「1887年(明治20年)に帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)卒業<、>・・・、内務省に入省。1890年(明治23年)、自費でドイツに留学して行政法を学ぶ。1894年(明治27年)、帰国して帝国大学法科大学教授となり、明治39年(1906年)に帝国学士院会員となる。法学者として天皇機関説を唱えるとともに、美濃部達吉らを育てた。 法科大学教授(憲法国法第一講座担当)とともに、1900年(明治30年)10月まで内務省に勤め、大臣官房文書課、県治局員、参事官、参与官を歴任する。
 1900年(明治33年)9月26日、勅選議員として貴族院議員に就任した。1902年(明治35年)には、法制局長官に就任した。また、第2次大隈内閣においては、大正3年(1914年)より文部大臣を務め、大正4年(1915年)からは内務大臣を務めた。
 1917年(大正6年)8月14日、枢密顧問官に就任した。それにともない、同年8月30日、貴族院議員を辞職した。大正14年(1925年)には、宮内大臣に就任した。1933年(昭和8年)4月25日、多年の功により男爵に叙された。
 1934年(昭和9年)には枢密院議長に就任した。枢密院議長在任中、天皇機関説の提唱者として、弟子である美濃部達吉とともに非難される。一木との政治抗争にあった平沼騏一郎の政略であったとも云われている。昭和11年(1936年)の二・二六事件で内大臣斎藤実が殺害されると、後任が決定するまでの1日間のみ内大臣臨時代理を務めている。なお事件中は宮中において昭和天皇の相談相手を務め、事件終息に尽力した。
 1938年(昭和13年)枢密院議長を退任。・・・
 一木の父は報徳思想の啓蒙に努めた衆議院議員岡田良一郎であり、兄は京都帝国大学総長や文部大臣を歴任した岡田良平である。一木の実子には、検事の一木輏太郎、行政法学者の杉村章三郎がいる。また、輏太郎の長男充は松下電器のシステム推進部長であったが日本航空123便墜落事故の犠牲者となった。一木の実弟で母の実家・竹山家の養子となった純平の息子には、東京大学教養学部で教授を務めた小説家の竹山道雄、元建設省官僚、東京都立大学、日本女子大学教授で建築構造学の重鎮であった竹山謙三郎がいる。山梨大学教育学部教授の竹山護夫、東京大学名誉教授の平川祐弘は、一木の姪孫にあたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9C%A8%E5%96%9C%E5%BE%B3%E9%83%8E

⇒一木とその弟子である美濃部達吉の天皇機関説が全く同じだったわけはないでしょうが、美濃部説によれば、「天皇大権の行使には国務大臣の輔弼が不可欠である・・・慣習上、国務大臣は議会の信任を失えば自らその職を辞しなければならない」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%AA%AC
であるところ、一木は、宮内大臣就任時には、この美濃部説に立っていたと想像され、だからこそ、西園寺/牧野は、一木を宮内大臣に起用したのでしょう。
 その最大の狙いは、来るべき対米英戦宣戦に(将来の天皇である)摂政が、たとえ反対であってもその時の内閣の輔弼通りにそれを受け入れさせるところにあった・・内閣の輔弼の対象ではない、外交大権と統帥大権、を天皇が行使するにあたっても内閣がそれに反対するという形の輔弼をしない限り同様・・、と、私は見るに至っています。
 「摂政であり天皇であった昭和天皇は、天皇機関説を当然のものとして受け入れていた。 」(上掲)は、牧野の意向を受け一木が天皇機関説を摂政時代の昭和天皇にレクを重ねた結果である、と。(太田)

 それにともなって西園寺は牧野に、西園寺・平田合意の正確な内容すなわち後継首相奏薦に関しては「元老・内大臣協議方式」をとり、西園寺健在のあいだは「一人元老制」を維持することを説明しなければならなかったはずだが、「牧野日記」には説明があったような記述はない。」(51、66~68)

⇒杉山メモ(コラム#省略)同様、「牧野日記」についても、後世の人々を欺くためにあえて書かれなかった「都合の悪い」話がいくらでもあると考えるべきであり、摂関家の日記はそんなものだった、ということを、恐らく、西園寺が牧野に教えた上で、彼にそういう日記をつけるように勧めたのではないでしょうか。(太田)

(続く)