太田述正コラム#12742(2022.5.10)
<永井和『西園寺公望–政党政治の元老』を読む(その12)>(2022.8.2公開)

 「1930(昭和5)年3月に西園寺が風邪をこじらせて肺炎に罹り、一時はもはや絶望かと伝えられた時に、西園寺死後のことを心配した昭和天皇が、元老亡きあとは内大臣が後継首相を推薦することになっているが、もしも内大臣が欠員の時には、一体誰に下問すればよいのかと西園寺に下問し、病状回復後に西園寺が、その場合には、宮内大臣が臨時に内大臣を兼任して内大臣の資格で天皇の御下問に答えるのがよいと奉答した。
 これは1926年10月上奏の増補といえる。・・・
 五・一五事件後から西園寺の死までは「一人元老制」が維持されるが、奏薦方式は「元老・内大臣・重臣協議方式」に変化し、さらに「内大臣・元老・重臣協議方式」へと移行する。
 つまり、「一人元老性」と「元老・内大臣協議方式」の組合せは右にあげた時期に固有の制度だったわけである。
 いうまでもなく、この期間は「政党政治の時代」「政党内閣期」と呼ばれる時期とぴったり重なっている。
 いいかえれば、「政党政治の時代」は元老制度のあり方からいえば、「一人元老制」のもとで「元老・内大臣協議方式」がとられた時代だったことになる。
 この一致は単なる偶然の産物なのか、それとも両者のあいだにはなんらかの必然性があるのか、そのいずれなのだろうか。
 この問題を考える手がかりになるのが、対象デモクラシーの理論家であった吉野作造<(注16)>の議論である。」(80~81、83)

 (注16)1878~1933年。「宮城県志田郡大柿村96番地(現・大崎市古川十日町)に木綿織物の原料を扱う糸綿商吉野屋を営む父・年蔵、母・こうの長男として生まれた。・・・
 1898年(明治31年)7月3日、内ヶ崎作三郎・島地雷夢らと三人一緒に浸礼を受ける。キリストネーム「ピリポ」。二高で事件となった。・・・
 [その後、東大学生時代には海老名が主宰する雑誌『新人』の編集を助けたり、本郷教会を通して安部磯雄(あべいそお)や木下尚江(きのしたなおえ)らのキリスト教社会主義者と交流する。]・・・

⇒敬虔なキリスト教徒であることは、欧米史等をキリスト教的プリズムを通して見ることにならざるをえないので、政治史学者としてはハンデ以外の何物でもないと思う。(太田)

 小野塚喜平次の教えをうけ<」、>・・・東京帝国大学法科大学政治学科卒業(銀時計受領)し、同大学院進学。同大工科大学講師就任。1906年(明治39年)、中国に渡り、袁世凱の長男・袁克定・・・の家庭教師等を務めた。1909年(明治42年)、帰国し、2月5日東大法科大学助教授就任。1910年(明治43年)4月より3年間の欧米留学。1913年(大正2年)7月、3年間の留学を終えて帰国後、東京大学で政治史講座を担当することになった。・・・
 1916年(大正5年)、『中央公論』・・・1月号に代表作となった評論「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表。大正デモクラシーの代表的な論客となる。・・・
 吉野は民本主義を尊重した思想家として知られている。・・・吉野は民主主義は手段の民主性を、民本主義は結果の民主性を求めるものと定義した。
 <また、>・・・軍首脳が閣議を経ずに直接的に天皇に上奏(帷幄上奏)することを、「戦時」のみならず「平時」においても存在する二重権力だと解釈して批判したため、・・・逆手にとられ、二重政府が憲法からあたかも導かれると誤解させ、かえって荒木貞夫をはじめ昭和の軍人によって平時においても統帥権をもち、軍隊が政府さえも導くことができると主張するのに益したとされている。
 しかし、晩年になると吉野は無産政党関係者とかかわるようになり、その時点においては民本主義という語をやめ、デモクラシー、民主主義と表現するようになり、政治スタンスはオールドリベラルから社会民主主義的なものへと変化し<、>・・・右派無産政党である社会民衆党の結成に関わっている。なお、赤松克麿は吉野の娘婿である。・・・
 <また、>吉野自身は、朝鮮独立運動家や<支那>の民族主義者に対して共感<を示している。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E4%BD%9C%E9%80%A0
 「吉野の政論は、主権の運用論、つまり、政治の目的が一般民衆の利福にあること、政策決定は一般民衆の意向によるべしとする民衆輿論の尊重に力点が置かれた。彼は、大日本帝国憲法の枠内で立憲政治の実現を意図し、主権の所在と運用を明確に区分して、民衆は政治の「監督者」であって「主動者」でないとするなど、徹底した人民主権説をとらなかったので、社会主義者たちから批判された。しかし、普通選挙制や政党内閣制の主張、貴族院や枢密院改革論など具体的な内政改革を提唱し、また、軍備縮小論やシベリア出兵批判、武断的な植民地支配の攻撃や朝鮮・<支那>民族のナショナリズムに深い理解を示すなど「民主的国際主義」の対外認識を示した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%90%89%E9%87%8E%E4%BD%9C%E9%80%A0-146205 ([]内も)

⇒誰の影響を受けたのかは知りませんが、吉野の民本主義なるものは、要は、人間主義的政治のことだ、と見てよいでしょう。
 従って、それが、民主主義と違って、日本の人々のみならず、東アジアの人々、ひいては世界の人々、まで射程に入れたものであること、かつまた、社会主義的な側面があること、は当然である、ということになります。(太田) 

(続く)