太田述正コラム#12746(2022.5.12)
<永井和『西園寺公望–政党政治の元老』を読む(その14)>(2022.8.4公開)

 「・・・ただし、西園寺の「御下問範囲拡張」への反対は、いわゆる政党政治期に限られるものではなくて、少なくとも1922(大正11)年の山県有朋の死の時までさかのぼることができる。
 また、護憲三派内閣成立時の加藤高明奏薦より前の西園寺が中間内閣論に立っていたことはまぎれもない事実であり、この時期の西園寺の政治路線が「情意投合」路線に立脚するもので、加藤高明奏薦も、その時点においては西園寺にとってはなはだ「不本意」な選択であったことが明らかになっている。
 つまり、護憲三派内閣成立後の西園寺の「御下問範囲拡張」反対論(「一人元老性」+「元老・内大臣協議方式」論)が「「憲政常道論」と表裏一体であるとしても、それ以前の時期においては両者の関係は薄かったといわざるをえない。
 少なくとも加藤友三郎から護憲三派の加藤高明を奏薦する決意をするにいたるまでの西園寺の「御下問範囲拡張」反対は、「情意投合」路線と結合していたのであって、吉野作造が指摘したような政党内閣主義と表裏一体のものではなかった。・・・
 <それは、>消極的には元老の後継者として西園寺の眼鏡にかない、かつ万人を納得させるにたる候補者のいなかったことがその理由であり、積極的理由としては、下馬評にあがっていた山本権兵衛や清浦圭吾の元老化、準元老化に西園寺が終始一貫して反対だったことがあげられる。
 山本や清浦の準元老化に西園寺が反対したのは、彼らの政治的力量、識見、人格に信頼をよせていなかったからであり(とくに山本は西園寺があたえたチャンスを生かすことができなかった)、薩摩系の宮中での勢力が圧倒的になるのをきらったこと、山本はシーメンス事件<(注19)>、清浦は下野銀行事件など金銭がらみのスキャンダルがあったこと、また短期的には清浦が憲政会寄りであったこと、などがさらに理由としてあげられる。

 (注19)「明治末期から大正初期にかけては、藩閥・軍閥に対する批判が高まった時期であり、軍の経理問題にも一般の関心が寄せられた。前年の1913年(大正2年)には大正政変・第1次護憲運動で長州閥・陸軍に攻撃の矢が向けられたが、このシーメンス事件が発覚すると、薩摩閥と海軍とに批判が集中した。
 山縣有朋とヴィルヘルム2世との利害関係一致による陰謀との説があり、シーメンス事件当時検事総長だった平沼騏一郎も後に回顧録でこの説を容認している。山縣有朋は薩摩閥・海軍と対立していた長州閥・陸軍の代表的存在であった。

⇒山縣は長州閥ではないとのかねてよりの私見を持ち出すまでもなく、山縣と山本との対立は、同じ秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者として、日露戦争勝利後、いかなる構想を描くかについての対立だった、というのが私の見方だ。
 山縣は、ロシアが引き続き日本の最大の脅威であるとのタテマエの下、日本の軍事力の整備は、今後は陸軍中心に行うべきだと考えたのに対し、山本は、当時、世界最大の経済力を持った世界最先進国となっていて、しかも、東アジアでフィリピンを領有するに至っていたところの、米国、
https://www.jcer.or.jp/j-column/column-saito/20181120.html
を日本の最大の脅威であると見、日本の軍事力の整備は、引き続き海軍中心に行うべきだと考え、だから両者は対立した、と。(注20)

 (注20)「明治 33(1900)年以. 降、日本の海軍費は対陸軍費の比率で8割近く以上を占め<るようになっていたところ>、大正2(1913)年には海. 軍費が陸軍費を上回<るに至>っていた」
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjn8tO_0tn3AhXKnFYBHd5fBQUQFnoECBIQAQ&url=http%3A%2F%2Fwww.nids.mod.go.jp%2Fpublication%2Fsenshi%2Fpdf%2F200803%2F04.pdf&usg=AOvVaw20dYJa8GDS9GoaeTzu1Rw1
 ↑開かないので、検索画面で分かる範囲を引用した。(太田)

 「注20」を踏まえた取敢えずの私見だが、日露戦争の時の海軍の陸軍に比しての活躍ぶりが国民にアッピールしたのだろうか、それ以降、日本では海軍優位の軍事力整備が行われるようになった、ということのようだ。
 付言すれば、山縣は、後に(負けて勝つ)杉山構想として結実したものの骨子をこの頃に既に抱懐していて、米国と正面から戦うことを山本のように想定しなかったのではなかろうか。(太田)

 この少し前に日本海軍の活躍により日露戦争に勝利、「日本海軍育ての親」と称される山本権兵衛が首相となった。山本権兵衛は陸軍の主張であった軍部大臣現役武官制を一部廃止、陸軍の二個師団増設案を拒否、山縣有朋が議長を務め天皇のブレーンとなっていた枢密院の定員削減などの行政改革をしながら八八艦隊建設計画予算を計上していた。ヴィルヘルム2世はイギリス海軍に対抗して海軍拡張を進めており、イギリス海軍の分身とみなす日本海軍の金剛型戦艦4隻を「ドイツ東洋艦隊を無力化する」として脅威に感じていた。
 シーメンス横浜支配人の吉田収吉の姪が海軍艦政本部部員の鈴木周二造船中監の妻であったことから、シーメンスは入札情報を事前に入手し、イギリスのヴィッカースやアームストロングより有利に入札、海軍関係の通信・電気装備品を一手に納入し、謝礼を海軍将校に支払っていた。外国企業が受注の謝礼をするのは当時当然の慣例になっており、宮内大臣にも贈って来ていたが、平沼騏一郎によれば歴代の宮内大臣でこの謝礼を私有せず国庫に納めたのは波多野敬直だけだったという。また日本海軍でもロンドンの銀行にイギリス人名義で秘密口座を持っていた。

⇒当時の日本政府は、現在のロシア政府やつい最近までのウクライナ政府並みの腐敗政府だったわけだ。(太田)

 この事件は、この謝礼を示す秘密書類をシーメンス社員のカール・リヒテル(Karl Richter)が会社から盗み出し、買い取るよう1913年10月17日に東京支店長宛脅迫文書を送ったところに始まる。要求金額は2500ポンドとも25000円ともいうがこの脅迫は拒否され失敗、カール・リヒテルはこの書類をロイター通信特派員アンドルー・プーレー(Andrew M. Pooley)に売ってドイツへ帰国した。シーメンス重役陣は同社の信用失墜と関係海軍将校への影響を怖れてもみ消しを図り、公表を阻止した。これを知らされた当時海軍大臣の斎藤実は「わが海軍部内にかかる醜事に関係する武官あるべからず、秘密書類の公表はむしろ望むところなり」と回答し、内情調査をするよう連絡したが、政局重大の折でもあり海軍当局の正式な連絡後に司法活動を開始することとし一応静観の態度を取った。その後シーメンスとプーレーの間で妥協が成立し、1913年11月27日にシーメンスが秘密書類を50,000円で買い取り横浜領事館で焼却、一度事件は終結を見た。
 ところがドイツの秘密機関がこの経過を全て把握しており、ドイツ官憲はシベリア鉄道で帰国するリヒテルがドイツへ入国した瞬間にこれを逮捕、恐喝未遂罪で起訴した。判決は贈収賄があったと認定し、贈収賄が犯罪を誘発したとして情状酌量を認め、カール・リヒテルは2年に減刑された懲役刑に処された。公正中立をもって知られるドイツ司法裁判所ではあったがこの事件に限っては国際儀礼に反して一審判決から日本海軍将校の実名をも進んで通信社に公表した。
 1914年(大正3年)1月21日、ベルリン発のロイター外電が、リヒテルに対するベルリン公判廷での判決文の中で、彼の盗んだ書類中に発注者の日本海軍将校(艦政本部第四部長藤井光五郎海軍機関少将と艦政本部部員沢崎寛猛海軍大佐)に会社側が賄賂を贈ったとの記載があると伝えたことから、1月23日、第31議会衆議院予算委員会で立憲同志会の島田三郎がこの件について厳しく追及した。山本内閣は、この議会に海軍拡張案とその財源として営業税・織物消費税・通行税の増税の予算案を提出していたことからこれに反対する民衆の攻撃の的となり、新聞は連日海軍の腐敗を報道し、太田三次郎、片桐酉次郎ら海軍内部からの内部告発もあり世論は沸騰した。2月5日、憲政擁護会は時局有志大会を開き、薩閥根絶・海軍郭清を決議した。2月6日、各派連合有志大会が国技館で開かれ、1万5000人が参加した。
 1月末から2月初めにかけて関係者の喚問や家宅捜索が開始された。アンドルー・プーレーは1月30日に家宅捜索を受け、プーレーがリヒテルから秘密書類を購入したことが発覚、拘置された。この代金は750円とも25万円ともいう。プーレー夫人のアンは帰宅を許されたが1月31日の取り調べの後剃刀で自殺未遂をしている。 2月7日藤井光五郎機関少将と沢崎寛猛大佐が検挙され、海軍軍法会議に付された。2月18日、呉鎮守府司令官松本和が家宅捜索を受け、3月31日収監された。2月10日野党の立憲同志会・立憲国民党・中正会は衆議院に内閣弾劾決議案を上程した。その日、日比谷公園で内閣弾劾国民大会が開かれていたが、この決議案が164対205で否決されたことを聞くと、この大会に集まっていた民衆は憤激して国会議事堂を包囲し、構内に入ろうとして官憲と衝突した。軍隊が出動し、警官が抜刀し、記者・民衆を斬った。2月12日夜、警視庁は政友会系毎夕新聞社をとりまく民衆465人を検束した。2月15日、東京朝日の記者芳賀栄蔵は原敬内相私邸前で護衛中の壮士に襲撃され負傷した。2月23日、全国記者大会が開かれ、内相原敬の辞職を要求した。
 司直の取調べが進むとこの汚職事件はいっそう広がり、3月12日イギリスのヴィッカースの日本代理店である三井物産の重役岩原謙三が、1910年(明治43年)に巡洋戦艦「金剛」をヴィッカースに注文させるため海軍高官に贈賄した容疑で拘禁され、ついで飯田義一・山本条太郎ら三井物産の関係者が起訴された。その結果、当時の艦政本部長で元呉鎮守府司令長官松本和中将が「金剛」の建造に際し、三井物産の手を経てヴィッカースから約40万円の賄賂を受けていたことが判明した。この間、貴族院は海軍予算7000万円を削減することを可決し、予算案は両院協議会の不調となり不成立となり、3月24日山本内閣は総辞職した。
 後継の第2次大隈内閣は海軍粛正の声に押されて八代六郎新海相の元で大改革を断行、5月11日には山本前首相及び斎藤実前海相を予備役に編入した。5月19日軍法会議は、松本和前艦政本部長に対し三井物産からの収賄の容疑で懲役3年、追徴金40万9800円を、また沢崎寛猛大佐に対し海軍無線電信所船橋送信所設置に絡みシーメンスから収賄した容疑で懲役1年、追徴金1万1500円の判決を下した。東京地方裁判所は7月18日山本条太郎ら全員に有罪判決を下し(控訴審では全員執行猶予)、9月3日の軍法会議では藤井光五郎に対し、ヴィッカース他数社から収賄したとして、懲役4年6ヶ月、追徴金36万8000余円の判決を下し、司法処分は完了した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 これらの理由は「憲政常道論」と結びつくものではなく、むしろそれに反するとさえいえよう。」(87~89)

⇒私は、西園寺の念頭にあったものは、一貫して「憲政常道論」ではなかった、と申し上げているわけですが、いずれにせよ、西園寺は、後に1924年に山本を再び首相に奏薦して就けている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%A8%A9%E5%85%B5%E8%A1%9B 前掲
以上、清浦のことに触れるまでもなく、「山本・・・の準元老化に西園寺が反対したのは、<そ>の政治的力量、識見、人格に信頼をよせていなかったからであり(とくに山本は西園寺があたえたチャンスを生かすことができなかった)」からだ(上出)とする永井和の説は成り立ちえないと言うべきでしょう。(太田)

(続く)