太田述正コラム#12754(2022.5.16)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その4)>(2022.8.8公開)

 「第一次桂内閣と第一次西園寺内閣から始まる数年間は、桂太郎と西園寺公望が交互に内閣を組織したので桂園時代<(注3)>といわれている。

 (注3)「明治末期、藩閥系で山<縣>有朋の後継者桂太郎と立憲政友会総裁西園寺公望が交互に政権を担当した時代。・・・
 1903年西園寺公望が立憲政友会の第2代総裁になってから1912年までの10年間を呼んだ。この間桂太郎と西園寺が交互に首相につき,その内閣をお互いに支持し協力した。政権のたらい回しと呼ばれ,非立憲制を非難された。1912年桂が政友会との提携を切り,立憲同志会と組んで第3次内閣をつくり終了した。・・・
 第一次桂太郎内閣の後期、桂首相は日露戦争終結前後の難局乗り切りのため1904年(明治37)末より政友会の原敬と7回にわたり会談。後継首班には西園寺を推挙し、次年度の政策、予算は桂内閣で立案、政党内閣と称しない、元老の紐つきを入閣させないなどを条件とし、桂は「手伝人」として西園寺公望内閣の成立に尽力。当初は援助したが、原敬内相の山県系切り崩しに危険を感じ、内閣の財政策失敗をとらえ元老を使嗾して倒閣した。第二次桂内閣では「一視同仁」策(すべての政治グループを平等にみる意。しかしじつは政友会打破策)を掲げ、反政友会政党を結集しようとしたが、失敗すると直ちに西園寺と妥協した(原外遊中)。大逆事件以後の難局には政友会と「情意投合」して、原が難局をきり抜けた。次の第二次西園寺内閣では原は内閣の独自性を首相に進言、行財政整理に没頭した。これに対し陸軍は師団増設を強要、明治天皇の死により欧米漫遊の途中で帰国した桂は、内大臣になったのを理由に政府の調停依頼を怠り内閣は倒れた。第三次桂内閣は憲政擁護運動・・第1継護憲運動・・のため2か月余で倒れた。この時代は桂内閣と政友会との表面妥協・裏面対立の進行した時期である。」
https://kotobank.jp/word/%E6%A1%82%E5%9C%92%E6%99%82%E4%BB%A3-488183

 桂園時代は実に巧妙な統治システムだった。
 桂太郎は、山県有朋の腹心=知恵袋であり、山県の後継者である。
 西園寺公望は、伊藤博文の秘蔵っ子であり、伊藤の後継者である。」(31)

⇒大村益次郎が西園寺を見込んでフランスに留学させたという話を既にしたばかりですが、「益次郎が暗殺されたのは、大阪城内、天保山の軍事基地を検分した翌日、9月4日夕方のことで<あったところ、>・・・益次郎が京都に入った際、益次郎を慕う西園寺公望は出かけようとし<たけれど、>旧友に会ったことからその場所へ向かえず、難を逃れてい<る>」
https://history-men.com/omura-masujiro/
という、緊密な関係に両者があったことを改めてまず強調しておきましょう。
 さて、「大村益次郎の銅像を靖国神社に設置した人は、国軍の父と呼ばれた山縣有朋です」(上掲)が、それは、「1872年11月,太政官は徴兵告諭を発して,「国民皆兵」を宣言し,翌1873年1月に徴兵令を公布した<ところ、この>徴兵令は,長州藩出身の大村益次郎がフランス軍制をモデルに<構想>し,大村が暗殺されたあと同じく長州藩出身の山県有朋は大村の意図を受け継いで実施した」
https://ameblo.jp/minojuku/entry-11976341985.html
という関係が山縣と大村との間にあったからこそです。(もっとも、同じ藩出身者で、しかも、奇兵隊や戊辰戦争の東北戦争を共に戦いながらも、不思議なほど両者には互いの交流に係る挿話が残っていませんが・・。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%9B%8A%E6%AC%A1%E9%83%8E )
 私が言いたいのは、幕末から維新にかけての時代に(大村益次郎を介して)山縣と西園寺は同志であった、ということです。
 ですから、「西園寺公望は、伊藤博文の秘蔵っ子であり、伊藤の後継者である。」との鈴木の西園寺評は、桂/山縣、との違いをプレイアップし過ぎというものです。
 もちろん、桂太郎(1848~1913年)だって、「戊辰戦争では奥羽鎮撫副総督澤為量の参謀添役や第二大隊司令として奥羽各地を転戦し、敵情視察や偵察任務、連絡役など後方支援に従事し<た後、>・・・明治3年(1870年)8月、・・・帝政ドイツに留学した<けれど、それは>賞典禄を元手にした私費留学であった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%A4%AA%E9%83%8E
と、西園寺(1849~1940年)とは比べ物にならないほど厳しい処遇下であったとはいえ、この2人は年齢も若い頃の経験も瓜二つと言ってよく、もちろん、両者だって同志でしたが・・。
 いや、同志だったからこそ、桂園時代はこの2人が協力してもたらしたのだ、というのが私の見解なのです。(太田)

(続く)