太田述正コラム#12770(2022.5.24)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その12)>(2022.8.16公開)

原敬は、東大法の前身である司法省法学校に入学こそしていますが放校処分を受けたので卒業はしておらず、新聞社の社員として社会人生活を始めた人間
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC 前掲
なので東大法出身とは言えない、ということを踏まえれば、内田康哉は、政治家/官僚になった東大法卒者としては例外的にまともであった、ということになります。
 まともであったもう一人の例外は、もちろん、廣田弘毅です。
 大胆に想像すれば、山縣有朋自身、最晩年において、陸海軍出身の首相はともかくとして、東大法出身者を首相に就けるのはリスクが大きいと思うに至っており、原の横死の瞬間、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス完遂プログラムの実行は、少なくとも歴代の首相にやらせずに、陸軍のしかるべき者・・既に杉山元に白羽の矢を立て、当該プログラムの策定を指示することにしていた・・にやらせることとし、歴代の首相には(原則として当該プログラムの存在を伝えないことにする一方で、その実行を妨げることはなさそうな、つまりはその点に関しては)陸軍の傀儡的な人物を充てることにしよう、と最終的な決断を下したのではないでしょうか。(太田)

 「・・・首相加藤友三郎の病気急逝のため加藤内閣が総辞職して6日後の<1923年(大正12年)>9月1日、政治が空白状態のなか、関東大震災が発生。・・・
 12月27日には無政府主義者難波大助が摂政宮裕仁皇太子を狙撃する「虎の門事件」が発生したので、第二次山本内閣は警備上の責任をとり12月29日に在任4ヵ月で総辞職した。・・・
 <今度は、>枢密院議長清浦圭吾が、大正13年1月7日、貴族院勢力を背景に組閣した。・・・
 しかし・・・5月<の>・・・総選挙<で>・・・護憲三派が絶対多数・・・を獲得し<たので、>・・・清浦内閣は6月7日に総辞職した。・・・
 そして議会第一党の憲政会総裁加藤高明が護憲三派連立内閣を組閣し、「憲政の常道」がスタートする。・・・
 首相加藤高明が大正15年1月28日に病気急逝すると、「憲政の常道」に基づき、加藤内閣の内相だった若槻礼次郎が、1月30日、憲政会を基盤として第一次若槻礼次郎内閣(外相幣原喜重郎)を組閣した。・・・
 <ところが、1927年(昭和2年)4月5日、>鈴木商店が倒産し台湾銀行の命運が風前の灯になると日銀の経営が揺らぎ始めた。
 一刻の猶予もならない緊急事態だったので、第一次若槻内閣は台湾銀行救済のため、4月14日、・・・「緊急勅令」を公布すべく、枢密院に<諮>った。
 しかし枢密顧問官伊藤巳代治<(注14)>伯爵は「第一次若槻内閣の対支外交が軟弱外交だ」と不満を持っていたので、4月17日の枢密院の会議で、台湾銀行救済の緊急勅令を却下したうえ、内閣総辞職をを要求。

 (注14)1857~1934年。「、長崎町年寄伊東善平の3男として長崎酒屋町で誕生。早くから長崎英語伝習所でグイド・フルベッキに師事して英語を修め語学を修得。明治4年(1871年)に明治政府の工部省の試験に合格して上京、電信技師となったが退職、明治6年(1873年)に兵庫県訳官を経て明治9年(1876年)に再び上京、神田孝平の推薦で伊藤博文の知遇を得て工部省に出仕した。
 伊藤の側近として事務作業に従事し明治11年(1878年)に内務省へ異動、明治13年(1880年)に太政官権少書記官、明治14年(1882年)に参事院議官補兼書記官を歴任した。明治15年(1882年)に伊藤の欧州憲法調査に随行、翌16年(1883年)の帰国後は制度取調局御用掛も兼ね、明治18年(1885年)に第1次伊藤内閣が誕生すると首相となった伊藤の首相秘書官となった。
 明治19年(1886年)から井上毅・金子堅太郎と共に大日本帝国憲法起草に参画。明治21年(1888年)に伊藤が首相を辞任して枢密院議長に移ると枢密院書記官として引き続き伊藤に仕え、同年末から翌明治22年(1889年)1月の再検討を経て2月11日の大日本憲法公布に繋げた。明治23年(1890年)9月29日には貴族院議員に勅選され<たが>・・・明治24年(1891年)・・・11月17日に貴族院議員を辞任。同年には、経営が傾いた東京日日新聞(現在の毎日新聞)を買収、在官のまま第3代社長を務め、日清戦争から日露戦争にいたるまでの日本の政治・外交において、政府擁護の論陣を張った。明治37年(1904年)に加藤高明に売却するまで13年間社長を務めている。・・・
 明治25年(1892年)に第2次伊藤内閣の内閣書記官長に就任、明治27年(1894年)・・・に勃発した日清戦争に際して発生した旅順虐殺事件について海外マスコミに弁明、海外の日本に対する不評を最小限に押し止めた。明治28年(1895年)5月7日に全権弁理大臣として下関条約批准書交換のため清の芝罘へ渡海、帰国後は戦争中の功績で男爵に叙せられた。また、政府とロイター通信社の契約を取り纏めることで海外に日本寄りの情報発信を画策、自由党幹部の林有造を通して政府と自由党の提携を実現させるなど情報面と政局に手柄を挙げた。ただし、翌29年(1896年)に自由党から板垣退助が内務大臣に就任したことで内閣が分裂、伊藤の辞任により内閣書記官長を辞職している。
 明治31年(1898年)に第3次伊藤内閣の農商務大臣を務め板垣を再入閣させようとしたが、大蔵大臣の井上馨の反対に遭い取り止めになったことを恨み辞職した。
 日清戦争以降は山縣有朋の知遇をも得て、明治32年(1899年)に枢密顧問官となり枢密院でも大きな影響力をもった。同年に帝室制度調査局が発足すると、総裁となった伊藤の下で御用掛となり皇室典範増補に取り掛かったが、伊藤の辞任で一旦中断となった。

⇒このあたりから、伊藤巳代治が、次第に大恩のある伊藤博文を見限り、山縣に接近していったことが分かる。(太田)
 
 明治33年(1900年)、伊藤の立憲政友会結成に際して憲政党の星亨と新党結成を交渉するなどその準備過程には参加しながら入党せず、翌34年(1901年)に第4次伊藤内閣が倒閣すると、伊藤と桂太郎との交渉に取り組み第1次桂内閣の成立に一役買った。
 明治36年(1903年)に山縣と結託して伊藤を枢密院議長に祭り上げ、政界から遠ざかった伊藤から離れたが、同年に帝室制度調査局副総裁となり総裁に復帰した伊藤と再度手を組み、・・・明治40年(1907年)の皇室典範増補と公式令公布に尽力した。
 また、清の立憲制度導入に意欲を示した伊藤から、将来の清への同行を予定されていたが、明治42年(1909年)に伊藤が暗殺されたため挫折した。
 以後は政党外部に身を置きつつ気脈を通じてしばしば政界の表面に登場し、「憲法の番人」を自任して官僚勢力のために種々の画策を講じ、枢密院の重鎮として昭和初期まで政界に影響力を保った。・・・
 大正6年(1917年)に臨時外交調査委員となり重要な対外政策の決定に関与し、常に積極的な対外政策を主張した。

⇒伊藤巳代治は、一貫して、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者、的な行動をとってきたわけだ。(太田)

 憲政会・立憲民政党内閣の進めた協調外交(幣原外交)に批判的で、昭和2年(1927年)には枢密院で台湾銀行救済緊急勅令案を否決させ第1次若槻内閣を総辞職に追い込み、昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮条約締結時にも反対して濱口内閣を苦しめた。

⇒杉山構想は彼には明かされなかったとみえ、伊藤巳代治は、山縣の死後は困ったお偉い人化してしまったようだ。(太田)

 明治40年に子爵を授爵、大正11年(1922年)に伯爵に陞爵。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E5%B7%B3%E4%BB%A3%E6%B2%BB

⇒一体どうして、幣原外交を協調外交と呼ぶのか、私には理解できません。
 協調といっても、各国が角突き合わせている当時の国際場裡・・今も基本的に同じですが・・において、特定の国/国々と協調することは多くの場合それ以外の国/国々と敵対することになるので、協調外交一般はありえず、だからこそ幣原外交は英米協調外交と呼ばれる(注15)ところ、それもおかしいのであって、英米だって常に協調しているわけではなく、現に、ロンドン会議当時は、幣原は、英国の申し出を断って米国と手を握ったのでしたし、南京事件の時は英米の申し出を断って蒋介石政権と手を握ったのですからね。

 (注15)「国際協調主義、特に英米協調外交は、陸奥宗光や小村寿太郎ら歴代の外務大臣から続く、外務省における伝統となっていた。戦前の外交官である石射猪太郎は回顧録において、この「霞
ヶ関正統外交」を「理論つけ、敷衍して集大成したのが、幣原外交であった」と述べている。」(湯川勇人「東アジア秩序をめぐる日米関係:1930年代の外務省による東亜新秩序の模索」より)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/thesis2/d1/D1006818.pdf

 もっとも、幣原自身は、そんな自覚など全くなかったはずですが、西園寺/牧野/杉山、にとっては、まことに有難い外交を彼はやってくれたわけであり、たまたま、満州事変直前から表舞台を退いていたことにより、彼には「傷」がつかず、戦後、吉田茂によって東久邇首相の後の首相に引っ張り出される羽目になるわけです。(太田)

 第一次若槻内閣は、同日夕刻、総辞職した。
 この軟弱外交とは、「第一次若槻内閣の昭和2年3月24日に北伐中の蒋介石軍が南京の日本領事館へ乱入して略奪・暴行・凌辱を行った南京事件の際、同様の被害にあったイギリス・アメリカが日本政府に『懲戒のため蒋介石に最後通牒を突き付けて共同出兵しよう』と持ちかけたが、幣原喜重郎外相は日支間の紛争拡大を憂慮し加害者処罰・賠償金支払いで決着させた」ということを指す。」(72~74、76~79)

(続く)