太田述正コラム#12774(2022.5.26)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その14)>(2022.8.18公開)

 「・・・支那では関東軍と張作霖の軋轢が高まり、張作霖が昭和3年6月4日に鉄道列車爆破により殺害され、爆殺実行者は関東軍の河本大作大佐とされた。
 そこで田中首相は昭和天皇に、12月24日、河本大佐を軍法会議で処罰する旨を言上したが、陸軍刑法は、一、下士官・兵の命令不服従・脱走・敵前逃亡など利敵行為を処罰 二、下士官・兵の賭博・強姦・郡備品窃盗など破廉恥不正行為の処罰 を想定し、「諜報活動による敵性人物の殺害」は対象外だったから、陸軍は軍法会議による河本大佐の処罰に強く反対した。
 軍法会議の主管者である軍に軍法会議開催の意思がない以上、内閣が軍に軍法会議開催を要求することは越権行為である。
 行政を司る内閣には、軍法会議と言う軍の司法権に介入することは出来ないのだ。

⇒初めて聞く、しかも、一見もっともらしい説明ですが、仮に河本大佐が張作霖を殺害したとして、その行為に、関東軍が関与した(a)のか関与しなかった(b)のか、前者(a)の場合、戦前の日本の陸海軍には平時においても機関・部隊には、自身を防禦するための戦闘行為が認められていたはずであるところ、本件はその防禦権を行使したものなので個人を裁く軍法会議の対象たりえないということになった(した)のか、更に、後者(b)の場合、軍法会議で軍刑法を適用できるケースではないだけではなく、軍法会議で一般刑法の殺人罪を適用できるケース(注17)ですらないということになった(した)のか、まで鈴木には追究して欲しかったところです。(太田)

 (注17)「軍法会議は、主に軍事犯罪<(軍人等軍関係者の犯罪)>を裁く裁判所で、軍刑法<犯罪>だけでなく一般の刑法<犯罪>なども対象となります。(軍法会議は「刑事手続法」である軍法会議法に拠りますが、その「刑事実体法」は刑法、陸軍刑法/海軍刑法、軍機保護法等でした。)」
https://oplern.hatenablog.com/entry/2019/11/03/213955

 内閣には付与されている権限は関東軍の警備上の手落ちとして河本大佐を停職とする行政処分しか無かったので田中首相は、昭和4年<(1929年)>5月14日、河本大佐を第九師団司令部付へ移動させる左遷人事を発令し、事件の最終決着をはかるべく6月27日、天皇に、「張作霖横死事件につき、河本大佐を停職とする行政処分を致します」と言上した。

⇒「田中義一・・・首相<は、>・・・国際的な信用を保つために容疑者を軍法会議によって厳罰に処すべきと主張し、その旨を天皇にも奏上したが、陸軍の強い反対に遭ったため果たせ<ず、結局、>・・・関東軍は張作霖爆殺事件とは無関係であったと昭和天皇(以下「天皇」)に奏上した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%BE%A9%E4%B8%80
というわけであり、田中は、対外的配慮から何もしないわけにはいかないと判断するとともに、同じく対外的配慮から(、また陸軍の強い反対もあり、)関東軍そのものを指弾することとなる(a)ではなく、「矮小」な(b)を選択した挙句、(これまた陸軍の強い反対もあり、そもそも河本を殺人罪に問うのは余りにも酷との判断で、)単に河本を停職(事実上の馘首)に処すことに留めた結果、陸軍と昭和天皇のどちらをも敵に回してしまった、ということでしょうね。(太田)

 すると天皇は内大臣牧野伸顕の助言に基づき、田中首相を、「(河本大佐を軍法会議にかけて)責任を明確に取るにあらざれば、許しがたし」と御𠮟責なされ、田中義一内閣は7月2日に総辞職した。

⇒「天皇は「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と田中を直接詰問した。このあと奥に入った天皇は鈴木貫太郎侍従長に対して、「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ」との旨を述べたが、これを鈴木が田中に伝えてしまったところ、田中は涙を流して恐懼し、7月2日に内閣総辞職した。」(上掲)というわけであり、本来、侍従長は宮中外のこの場合府内(内閣)に影響を及ぼすような言動は控えるはずなのに、あえてやったのは、内大臣・・牧野・・の(恐らくは西園寺に諮った上での)指示が彼に対してなされた、と鈴木は見ているわけです。
 問題は、どうして牧野らが、彼らのお気に入りだったはずの田中をこんな形で解任しようとしたか、です。
 「1928年(昭和3年)・・・4月19日、北伐が再開されると、日本は居留民保護のために第二次山東出兵を決定し、5月3日、済南事件が起こった。さらに日本は、満洲から混成第28旅団を山東に派遣し、代わりに朝鮮の混成第40旅団を満洲に派遣した。5月16日、もし満洲に進入したら南北両軍の武装解除を行うことを閣議決定し、17日、英米仏伊の四カ国の大使を招いて、この方針を伝達し、18日、この内容を張作霖と蔣介石に通告した。19日、鈴木荘六参謀総長は田中義一首相と協議して、首相が上奏し奉勅命令を伝宣する時期を21日と決定した。<しかし、米国から横やりが入り、>5月20日から関係当局の会議が開かれ、25日にようやく既定方針で進むことが決定されたが、有田八郎アジア局長と阿部信行軍務局長が腰越の別荘にいた田中首相に決裁を求めると、田中首相は「まだええだろう」と答え、関東軍宛てに「錦州出動予定中止」が打電された。・・・村岡長太郎関東軍司令官は国民党軍の北伐による混乱の余波を防ぐためには、奉天軍の武装解除および張作霖の下野が必要と考え、関東軍を錦州まで派遣することを軍中央部に強く要請していたが、・・・陸軍少佐時代から張作霖を見知っており、「張作霖には利用価値があるので、東三省に戻して再起させる」という方針<であった>・・・田中首相は・・・最終的に・・・出兵を認めないことを決定した。そこで村岡司令官は張作霖の暗殺を決意した。河本大作大佐は初め村岡司令官の発意に反対したが、のちに独自全責任をもって決行した・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96%E7%88%86%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
という事情を踏まえれば、杉山構想の完成と実施開始を予定していた1931年を目前に控えて、変節し敵前逃亡したと言われても仕方がない、田中、の政治生命はこの際絶つ必要がある、と、西園寺/牧野が考えた、ということではないでしょうか。
 この時、外相は田中義一首相が兼任していて、次の濱口内閣では外相に幣原喜重郎が就任する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%8B%99%E5%A4%A7%E8%87%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
のですが、興味深いことに、田中義一首相兼外相の時の1928(昭和3)年7月24日に、田中が直々に外務次官に就任させていた吉田茂は、濱口内閣になっても留任しています(~1930(昭和5)年12月6日)。
https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E4%BA%8B%E5%8B%99%E6%AC%A1%E5%AE%98%E7%AD%89%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7_%E5%A4%96%E5%8B%99%E4%BA%8B%E5%8B%99%E6%AC%A1%E5%AE%98%EF%BC%88%E5%A4%96%E5%8B%99%E6%AC%A1%E5%AE%98%EF%BC%89
 田中内閣の外務政務次官で事実上の外相であった森恪(もりかく。1883~1932年)は、当然、更迭されていますが・・。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%81%AA 
 これは、吉田が、「事務方」であったこともさることながら、森よりも更に田中の変節に批判的であったからこそだと思われます。(太田)

 辞任した田中義一は、二か月後に死んだ。
 死因は狭心症の発作とも自決とも云われている。」(82)

⇒結果的に「昭和天皇は、田中を叱責したことが内閣総辞職につながったばかりか、死に追いやる結果にもなったかもしれないということに責任を痛感し、以後は政府の方針に不満があっても口を挟まないことを決意した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96%E7%88%86%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
ことを、西園寺/牧野は大いに喜ぶ一方で、昭和天皇の軍人・軍事嫌い/平和志向、が公になってしまったこと・・私の言葉で言えば、縄文モード化が天皇によって宣言されてしまったこと・・により、完成目前の杉山構想の完遂までに残された時間は余りない、と、彼らは杉山の尻を更に叩いたことでしょう。(太田)

(続く)