太田述正コラム#12780(2022.5.29)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その17)>(2022.8.21公開)

 「・・・大正天皇が大正15年12月25日に崩御し裕仁摂政宮が即位した後は、牧野伸顕(薩摩)が天皇の最側近として絶大なる権勢を保持し、天皇を政治利用するようになる。・・・

⇒形の上だけですが、ここは、偶然、鈴木の主張と私見は似通っています。(太田)

 宮内大臣牧野伸顕は元老による天皇親政を目指して元老の補充を企図。

⇒ありえません。絶句。(太田)

 薩摩閥の海軍長老山本権兵衛と枢密院議長清浦圭吾を新たな元老に加えようとした。
 天皇親政を目指す牧野伸顕は、こうして立憲政党政治を推進する元老西園寺公望と激突した。・・・
 牧野伸顕は父大久保利通の「有司専制<(注22)>の天皇親政」を理想として政党政治を否定し、天皇親政を目指して元老の補充を目論み、「元老は、『憲政の常道』を保護し、政党政治を発展させて、静かに消えゆくべし」とする西園寺公望と、激突したのである。」(95~96)

 (注22)「1873年(明治6年)、明治政府では岩倉使節団などの洋行派と、西郷隆盛ら国内残留派の路線対立が激しくなっていた。
 10月に大久保ら洋行派が勝利し、西郷や板垣退助らを下野に追い込んだ。
 ・・・<いわゆる、>明治六年政変<である。>・・・
 この年の11月に内務省が設置され、大久保が参議兼任のまま内務卿となったが、この時期に有司専制が確立されたという見解が一般的となっている。
 以降、参議による各省の卿兼任が一般的となり、各省は参議による操作を受けることとなった。
 これに対し、1874年(明治7年)に板垣退助・後藤象二郎らによって政府へ出された『民選議院設立建白書』の中にある「臣等伏シテ方今政権ノ帰スル所ヲ察スルニ、上帝室ニ在ラス下人民ニ在ラス、而独有司ニ帰ス」の言に由来しており、「有司」とは政府中枢を指して議会政治によらず彼らの合議だけで国家の方針を決めている現状は、国民の「輿論公議」を重んじるとした『五箇条の御誓文』の精神に反すると痛烈に批判し、以後自由民権運動における政府批判と議会設置を求めるスローガンとして用いられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%8F%B8%E5%B0%82%E5%88%B6
 「有司<とは、> その職を行なうべき官司。また、そこに属する官人。官署。官吏。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%89%E5%8F%B8-650679

⇒鈴木が、「牧野≒大久保」論を主張するのは、華族における家の継続性を重視する私と、ここでも表見的には似通っているけれど、そもそも、明治六年政変の前の1871年に、木戸・・五ヵ条の御誓文策定の中心的人物・・はただ一人の参議になるように彼以外の維新の元勲達の総意で求められたところ、「リベラルな合議制を重んじる木戸は、これを固辞し続け<たので、>大久保による妥協案により、木戸は、西郷と同時に参議になることを了承するが、翌7月には、政務に疎い西郷を補うためという口実で、肥前の大隈重信を参議入りさせることを西郷に提案し、西郷も「それでは土佐の板垣退助も参議にすべきだ」と応じ、薩長土肥1人ずつの共和制的な参議内閣制が確立され<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81
というのに、その後、「海外視察<(洋行)>組(岩倉・木戸・大久保・伊藤たち)と留守政府組(三条・西郷・江藤・大隈・板垣たち)との間」で征韓論を巡る政争が勃発し、変節した三条、大隈
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9A%88%E9%87%8D%E4%BF%A1
以外の、板垣を含めた側が政府を去る羽目になったというわけであり、もともと板垣だって「有司」の一員だったわけですし、そもそも、維新の元勲のトップとも言うべき木戸自身が「輿論公議」を元勲達の間で最も重んじていた人物だった上、この木戸が今度は台湾出兵に反対して参議を辞職していたのを、大久保らが「明治8年(1875年)2月、大阪会議に招待<し、>板垣もこれに加わり、木戸と板垣は、立憲政体樹立・三権分立・二院制議会確立を条件として参議復帰を受け入れ、ただちに立憲政体の詔書が発布され<、>議会(立法)については元老院・地方官会議が設けられ、上下の両院に模された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81
といった経緯に鑑みれば、大久保が「有司専制の天皇親政」を理想としていたなどとは到底言えません。
 ですから、鈴木は、その立論の前提たる事実認識において既に間違っていると言うべきでしょう。
 なお、前回のシリーズでも申し上げたように、(元老制の廃止を含め、)牧野は西園寺と一体に近い同志的存在であり、牧野の宮内大臣就任自体も西園寺の意向であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95
この点でも、鈴木の立論の事実認識は間違っています。(太田)

(続く)