太田述正コラム#12782(2022.5.30)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その18)>(2022.8.22公開)

 「・・・志学館大学准教授茶谷誠一<(注23)>氏は『昭和天皇 側近たちの戦争』で、「昭和天皇は即位直後から『統治権の総攬者』としての地位を自覚し、天皇大権の取り扱いについても、自分の意向を無視した恣意的な運用に厳しい目を向けていた。

 (注23)1971年~。「1995年明治大学文学部史学地理学科卒業。同大学院修士課程修了。2006年立教大学大学院文学研究科博士後期課程修了、「1930年代における宮中勢力の政治動向」で文学博士。成蹊大学文学部助教等を経て、2018年志學館大学准教授。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E8%B0%B7%E8%AA%A0%E4%B8%80

 昭和2年(6月15日)に田中義一内閣をおこなった中央・地方の官吏異動につき、天皇は牧野内大臣に対して反対の意思をもらした。<(注24)>

 (注24)「昭和天皇は・・・<昭和>2年<(1927年)>6月15日、内大臣の牧野伸顕を呼んで言った。「最近、官吏の更迭が頻繁で、節度を失していると思う。各省の事務次官を党人本位で更迭するのは、政務次官を別に設けた趣旨に反する。牧野から田中総理に、人事に考慮するよう注意してほしい」 牧野は、昭和天皇の懸念をもっともなことだと思いつつ、天皇の意思として注意すれば内閣不信任と誤解されかねないので、元老の西園寺公望を通じ、それとなく指摘することにした。これを聞いた田中は8月18日、昭和天皇に拝謁し、前内閣と比べて官吏の更迭件数はそれほど多くないと弁明した。昭和天皇は黙って耳を傾けていたが、4日後に牧野を呼んで言った。「田中は勘違いをしているのでないか」 牧野は驚き、誤解が生じたことを陳謝した上で、田中に会って数の問題ではないことを改めて伝えた。しかし、田中はよく理解していなかったようだ。翌3年5月、政商として悪評のあった衆院議員当選1回の久原房之助を逓信相に抜擢。さすがに他の閣僚からも批判が噴出し、文相が辞表を提出する騒ぎとなった。すると、田中は意外な行動に出る。昭和天皇に自らの進退伺を出したのだ。天皇が慰留すると見越して、政権批判が渦巻く世論を納得させようとしたのだろう。だが、これは天皇に政治責任を負わすことにほかならない。昭和天皇は牧野と相談の上、進退伺を却下したものの、それを責任回避の弁明にしないよう田中に伝えた。・・・
 3年6月12日《内閣より書類を以て治安維持法改正緊急勅令案が上奏され、枢密院への御諮詢が奏請される。・・・
  その第1条はこう規定する。「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」<。>
 これを田中は、「死刑又ハ無期若(もしく)ハ五年以上ノ禁錮」に厳罰化しようとした。
 しかし帝国議会に上程したものの審議未了となったため、昭和天皇の緊急勅令によって断行しようとしたのだ。天皇は御熟考の後、上奏書は御手許に保留され、内閣総理大臣田中義一に明日の参内をお求めになる<。>・・・結局、・・・枢密院<で>・・・政府案は賛成多数で可決された。
 6月29日《治安維持法改正案の御裁可に先立ち、午後一時過ぎ、内大臣牧野伸顕をお召しになる。その際(中略)御裁可は条件付きとしたい旨の御希望を漏らされ、牧野からの奏上をお聞きになる<。・・・しかし、>すでに枢密院の結論は出ている。昭和天皇の最後のためらいに、牧野は同意するわけにはいかなかった。同日午後《二時四十三分、内閣より奏請の「緊急ノ必要アリト認メ枢密顧問ノ諮詢ヲ経テ帝国憲法第八条第一項ニ依リ勅令治安維持法中改正ノ件」に御署名になる<。>」
https://sagay.eluppa.com/2018/12/16/%e7%ac%ac%ef%bc%97%ef%bc%99%e5%9b%9e%e3%80%80%e4%b8%8d%e4%bf%a1-%e6%b2%bb%e5%ae%89%e7%b6%ad%e6%8c%81%e6%b3%95%e3%81%ae%e5%8e%b3%e7%bd%b0%e5%8c%96%e3%82%92%e5%bc%b7%e8%a1%8c%e3%81%99%e3%82%8b/

 牧野も、『(天皇)大権<(注25)>に関すること、(天皇の)御責任につき、(昭和天皇が)御自覚あらせらるること、国事多難の際、国家、皇室のため最も祝福すべきこと』(『牧野日記』)と、大権への自覚をもつ天皇の政治姿勢を評価した。

 (注25)「天皇については日本国憲法第4条で国政に関する権能を有しないとされており、・・・大日本帝国憲法にお<けるような、或いは、>他の王制国で国王が保持する拒否権は認められないとされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%92%E5%90%A6%E6%A8%A9
 ちなみに、大日本帝国憲法に規定された天皇大権は、以下の通りだ。
・立法に関する大権
  -立法大権(法律の裁可・公布、法案への拒否権 – 第6条)
-緊急勅令・独立命令・執行命令(第8条・第9条)
・議会の組織及び開閉に関する大権(第7条) – 召集権、開会・閉会・停会命令権、解散権
・官制及び任官大権(第10条)
・軍編成の大権(第12条)
・外交大権(第13条)
・戒厳宣告の大権(第14条)
・陸海軍統帥の大権(統帥権 – 第11条)
・栄典授与の大権(栄典大権 – 第15条)
・非常大権 (第31条)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%A4%A7%E6%A8%A9
 なお、大日本帝国憲法が制定された1889年に制定された「内閣官制第7条により・・・、軍の統帥権は内閣総理大臣の国務上の輔弼事項の例外とされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B7%E5%B9%84%E4%B8%8A%E5%A5%8F

 (さらに牧野は)自分たち天皇側近者の輔弼の方向性が正しかったことを認識するのであった。
 (中略)天皇は、明治憲法に規定された天皇大権の恣意的な運用を厳しく戒めていた。
 それは、国務に関する任免大権や外交大権、統帥に属する統帥権であったも変わりなく、これら大権の輔弼機関である内閣や統帥部に適正な行使を求めていく。
 それだけ、天皇の君主としての大権に対する意思意気はつよかったのである」と指摘した。・・・
 昭和天皇は、・・・皇太子だったときの訪欧の際、ジョージ5世から話を聞き、「イギリス立憲君主制を手本とし、政治の一切を政党政治に委ねる立憲君主の立場に立つ」と御決意されたのだが、その後、牧野伸顕に感化されて「統治権を総攬する天皇親政」へ基本方針を大転換されたのである。」(98~99)
 
⇒これまで、少々舌足らずだったところもあるので、ここで天皇大権について改めて私見を記しておきますが、それは、明治維新以降の天皇には、タテマエ上は、国政に係る全てのことについて、拒否権、のほか、(命令権に関しては私見ですが)命令権、も「復活」したけれど、当初明治天皇は親政の意向を示したため、それでは天皇が国政全般に政治責任を負うことになり、将来議会制を導入した暁に天皇と議会(ひいては世論)との対立を招きかねないことを懸念し、日本を牛耳り続けたところの、政府部内の秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者達は、同主義/コンセンサス完遂を目指す(真の目的を公にすれば世論の賛同が得られないであろう)戦争を日本が開始する時のことを想定し、天皇に、統帥大権と(統帥大権と密接な関係を有する)外交大権・・宣戦、講和、条約締結権
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5%A4%A7%E6%A8%A9-457236
中の宣戦、講和権・・だけは行使するのは認めるけれど、それ以外の拒否権、命令権は行使するのを止めさせることにした、と見ており、このような、天皇の部分的親政とでも形容すべきものを可能にすべく、参謀総長(やがてこれに軍令部長が加えられる)に対しては行政府を介さずに直接天皇が指揮命令できるという慣例を確立した上で、憲法が制定された後も、このような態勢を維持することにした、というものです。
 ところが、明治天皇を崇敬していた昭和天皇が、だからこそなのでしょうが、即位直後、親政の意向を示した上、この昭和天皇が、これまた明治天皇に倣って平和主義者であった(コラム#省略)、ときていたのですから、西園寺と牧野は、慌てて、田中義一と共に、昭和天皇に親政を諦めさせるあらゆる算段を講じ、恐らくは、統帥権(と外交大権)の行使を含め、天皇に親政を諦めさせることにやっとのことで成功した、ということであったはずです。
 鈴木が拠っている茶谷の記述や「注23」は、そういう目で読み直さなければならないのです。
 その際、『牧野日記』に書かれていることが全て事実だ、などと思ってはいけないということは、太田コラムの長年の読者であれば、お分かりでしょう。
 ジョージ5世と後の昭和天皇との挿話自体は恐らく事実だったのでしょうが、それを昭和天皇の親政放棄の理由として世間に流布させたのは、西園寺/牧野でしょうね。(太田)
 
(続く)