太田述正コラム#12796(2022.6.6)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その25)>(2022.8.29公開)

 「・・・帝人事件<(注34)>により政府批判が高まり、斎藤実内閣は<1934>年7月に総辞職した。

 (注34)「1934年(昭和9年)に起こった疑獄事件。齋藤内閣総辞職の原因となったが、起訴された全員が無罪となった。そのため、現在では倒閣を目的にしたでっち上げの可能性が極めて高いものと見なされている。・・・
 でっち上げの背後にいたのは、司法官僚出身で当時枢密院副議長の平沼騏一郎とされる。平沼は五・一五事件で暗殺された犬養毅の後継内閣総理大臣の地位を狙っていたが、後継の推薦権がある元老・西園寺公望からその志向をファシズム的であるとして嫌われ、推薦候補にすら上らず、また枢密院議長昇格の要望も西園寺の反対で副議長のまま置かれていた。このため、西園寺とこれを支持する立憲政友会主流派(但し、同党総裁であり平沼直系の鈴木喜三郎も西園寺により後継総理就任を阻止されていた。)を深く恨んで、同党内部の不満分子を抱き込みながら捜査を進めていったという。また、時事新報が記事を書いたのは、丁度この頃、朝日新聞の東京進出が云われており、焦ったためだという。
 歴史学者の佐々木隆は・・・「この事件は一般に平沼の使嗾を受けた若手検事が捏造したものといわれているが、これには「西園寺公と政局」の「平沼陰謀説」的な先入観が多分に混入しているものと思われ、平沼が何処まで関与していたかは判らないというべきである」「この事件は元来政友会の内紛として発生し、そこに明糖事件空洞化に対する検事の不満や、軍、右翼等の様々思惑が雪崩込んで肥大したとみるべきであり、最初から諸勢連合の「大陰謀」が計画されていたとみるのは穿ち過ぎある」としている。
 政友会の内紛というのは、中島商相が斡旋し鳩山一郎(政友会主流派)が主導した政友会・民政党連携運動に対し、政友会非主流派であった久原房之介が党内主導権を奪う為に、この政友会・民政党連携運動を潰そうとしたことを指す。政友会・民政党連携運動を斡旋した中島商相は足利尊氏問題で辞任を余儀なくされ、鳩山一郎も久原派代議士による疑獄暴露(五月雨演説事件)により攻撃を受けている。。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 中島久万吉(1873~1960年)は、「父の中島信行は土佐藩を脱藩した尊王の志士で、海援隊に入るなど国事に奔走した。明治政府の高官の道を歩むが、下野し、自由民権運動に参加、自由党副総理となる。初代衆議院議長、イタリア公使を務めた。その勲功により男爵となる。そのため、長男の久万吉も男爵を襲爵する。実母はつは、陸奥宗光の妹で、3人の幼い息子を残して逝去した。継母の岸田俊子は、女流の民権活動家・文学者として知られる。妻の八千子は岩倉具経子爵の娘で、岩倉具光は義弟。・・・
 1894年(明治17年)に、11歳で慶應義塾幼稚舎に入学。明治学院では島崎藤村と同窓で、文学雑誌『菫草』を主宰し、島崎が文学者になる道を開く。高度な英語力を養い、深いキリスト教的霊性を受けた。その後、慶應義塾本科(現・慶應義塾大学)に復学するも、勉学よりも遊びに身が入り除籍処分となる。土佐に帰郷後、再度上京して高等商業学校(現・一橋大学)に入り、1897年(明治30年)に本科を卒業した。東京株式取引所理事長大江卓秘書役、三井物産専務理事益田孝秘書役、京釜鉄道線路調査委員などを経て、内閣総理大臣秘書官を長く務めた。男爵議員として貴族院議員を長く務め・・・る。
 古河コンツェルン入りし、古河系企業の多角化を推し進め、古河電気工業や横浜護謨を設立させた。財閥外でも日本工業倶楽部の設立に関わるなど、財界人として独自の地歩を歩む。・・・
 足利尊氏問題<については、>1921年(大正10年)、中島は、清見寺(静岡県静岡市清水区)にある足利尊氏自作の尊氏木造を拝観し、その感想文を俳句同人雑誌『倦鳥』に投稿した。当時、皇国史観に基づき、後醍醐天皇に背いた足利尊氏は謀反人と断定されていたが、中島は尊氏と足利時代(室町時代)を再評価すべき旨、その感想文に記していた。
 その記事が掲載されてから13年後の1934年(昭和9年)、中島の感想文が雑誌『現代』2月号に転載される。同年2月3日の衆議院予算総会において、栗原彦三郎議員(野党・国民同盟所属)が、この転載記事を利用して、逆賊たる尊氏を評価するような者が大臣の職にあることは「日本の教育行政にとって望ましくない」と政府の教育行政を批判した。この場は、中島が転載を知らなかったと釈明し、陳謝して収まった。
 しかし、軍部出身議員や右派議員を多く擁していた貴族院において、尊氏論は再燃する。これら、軍部出身議員や右派議員は、斎藤内閣の軍縮姿勢と中島が主導した政友会・民政党の連携による軍部抑制策に不満を持っており、政府攻撃の隙を窺っていたからである。尊氏論は、その格好の攻撃材料となった。
 中島攻撃を主導したのは、菊池武夫・貴族院議員(予備役陸軍中将、男爵、南朝の功臣菊池氏の子孫)である。菊池は、逆賊尊氏を礼賛することは輔弼にあたる大臣の任に堪えないとして、斎藤首相に「しかるべき措置」を取るべきと、中島の商工大臣罷免を迫った。斎藤首相は、すでに中島の陳謝により決着済みであり、議論は場違いであることを指摘した。この答弁に不満を述べた三室戸敬光・議員(子爵)は、さらに中島の爵位辞退をも要求し、斎藤の政治責任を追及した。
 議会の内外でも右翼の執拗な攻撃が続き、宮内省にも批判の投書が殺到したため、中島は商工大臣を辞任せざるを得なくなった(爵位は辞退せず)。この足利尊氏論に関わる一連の顛末は、政治に対する軍部の介入と右翼の台頭に勢いを与え、翌年の天皇機関説事件の要因ともなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E4%B9%85%E4%B8%87%E5%90%89

⇒脱線気味ながら、第一に、累次申し上げているところの、政策を異にする複数政党成立環境にない日本での政党の堕落に嘆息させられますし、第二に、幼年学校、陸士、陸大というエリートコースを進んだ陸軍人の中にも(しかも、名門出身だというのに、)菊池のようなダメ人間もいて、(陸軍当局は、そんな菊池だからこそ特別昇任で中将にした上ですぐリタイアさせていたにもかかわらず、)貴族院議員にはそんな人間でも(男爵議員の互選を経て)なれたことが、足利尊氏問題や天皇機関説事件を惹起させた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E6%AD%A6%E5%A4%AB_(%E9%99%B8%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E4%BA%BA) ←事実関係
と総括できそうです。(太田)
 
 前述のとおり元老西園寺公望は、「天皇制を維持するには政治を政党政治に委ねるべき」と天皇の政治関与を戒めたが、天皇親政を目指す牧野伸顕・木戸幸一の進言で犬養首相の後継に斎藤実が指名され、西園寺の元老としての地位は衰徴した。
 しかし虎視眈々と復権の機会をうかがっていた元老西園寺は、斎藤実内閣が総辞職すると、用意周到に自身の復権と政党政治の復活を目指して動き出した。」(122~123)

⇒御伽噺転じて怪談が、といったところですね。(太田)

(続く)