太田述正コラム#12802(2022.6.9)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その28)>(2022.9.1公開)

 「・・・宇垣一成が・・・1月25日に陸相寺内寿一大将を訪ねて陸相の推薦を要請すると、陸相寺内寿一は大いに恐縮し、元老西園寺公望への前言を翻して、「大局から見れば、(宇垣)閣下の御出馬が国家のため最善と思うが、(陸軍省軍務局の幕僚たちが、宇垣首相では)軍の統制が乱れると<し>て騒ぐから、(宇垣閣下は首相辞退を)御考慮願いたい」と述べた。・・・

⇒本件では寺内の責任が最も重いと言うべきでしょう。
 陸軍部内の空気を全く把握できておらず、「宇垣<が>、その陸相在任時<に>、予備役編入が内定した寺内の「母の胎内にいる時から陸軍に育った私です。任地は由良でも澎湖島の要塞でも結構ですから、どうか一生陸軍に置いて頂きたい」との言葉にほだされ、<寺内>を現役に留めた恩人であった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%86%85%E5%AF%BF%E4%B8%80
ということもあり、当初、宇垣の大命降下の打診を受けた時、それに賛成してしまったのですからね。
 なお、杉山が杉山構想を寺内に明かしていた可能性は大いにあり、だからこそ、寺内は、南方軍総司令官の時にインパール作戦に積極的だったのだ、と私は見ています。(太田)

 さらに翌1月26日午前、教育総監杉山元大将・・・が宇垣一成の組閣本部を訪れ、「(宇垣)閣下が陸相のとき、大正14年、四個師団を削減されました。その後、陸軍部内は複雑になりまして、(陸軍)部内がまとまりません<(注36)>。この際、善処(首相辞退のこと)して頂けませんか」と述べた。・・・

 (注36)「第一次世界大戦後、世界的に軍縮が大勢となって、海軍力の軍縮が主要国で協議された。
 陸軍でも極東における軍事的脅威が薄らいだことから、帝国議会の追及を受けて山梨半造陸軍大臣のもと二度にわたり軍備の整理・縮小(山梨軍縮)を実施したが、これではまだ不足であるとした政府・国民の不満と、1923年(大正12年)9月に発生した関東大震災の復興費用捻出のため、1925年(大正14年)5月に宇垣一成陸軍大臣の主導の下、第三次軍備整理が行なわれることとなった。・・・
 師団の数は維持した(将官のポストは減らさなかった)山梨軍縮とは違い、宇垣軍縮は4個師団を削減したために将官の整理を行う結果となった。それは軍備縮小に名を借りた思い切った陸軍の「体質改善」(近代化)を目指したもので<も>あったが、一度に大量の将校の首を切ったことは陸軍内部に深刻な衝撃を与え派閥抗争の激化を招いた<。>・・・また、将校の退役と進級の停滞と将校採用枠の削減は、のちの日<支>戦争以後の将校不足の原因となった。・・・
 <なお、>これにより浮いた金額は欧米に比べると旧式の装備であった陸軍の近代化に回した。

 主な近代化の内容として戦車連隊、各種軍学校などの新設、それらに必要なそれぞれの銃砲、戦車等の兵器資材の製造、整備に着手した。また、学校教練制度も創設された。しかし、それでも師団の編制装備内容は列強陸軍に著しく劣った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%9E%A3%E8%BB%8D%E7%B8%AE

 宇垣一成<は、>・・・「部内を鎮めるのは貴方の責任じゃないですか。僕に辞めろというのはおかしいじゃありませんか」と反駁<した。>・・・
 同日午後4時、陸軍三長官会議(陸相寺内寿一、参謀総長閑院宮載仁親王、教育総監杉山元)が、「陸相に推挙する適当な人物は居ない」との結論を出し、組閣本部に伝えた。
 <その挙句、>陸軍省では、・・・<同>日午後9時頃、陸相官邸に梅津美治郎次官・磯谷廉介軍務局長・関係課長・高級課員が集まり、「宇垣一成首相候補への陸相推薦を拒絶する」と機関決定したのである。・・・

⇒鈴木が、本件での石原莞爾の「働き」に一切触れない理由が私には解せません。(太田)

 昭和天皇の周辺では、天皇が宇垣内閣成立のため現陸相寺内寿一に陸相留任を求める優詔を下すことについて、内大臣湯浅倉平・<内大臣府秘書官長>木戸幸一・海軍軍令部総長伏見宮博恭王元帥が反対していた。
 そして昭和天皇ご自身も宇垣一成という人物を好まれず、優詔を下さなかった。
 昭和天皇は、敗戦翌年の昭和21年、昭和天皇独白録において、「宇垣一成は一種の妙な僻(癖)がある。私(昭和天皇)に対しては明瞭に物を云うが、他人に対しては、よく『聞き置く』と云う言葉を使ふ。(中略)この様な人は総理大臣にしてはならぬと思ふ」と述べられた。・・・
 元老西園寺公望は、面子を潰されただけでなく、事実上、失脚したのである。」(163~165、169~171)

⇒実際は、杉山からの連絡で慌てた牧野が、湯浅と木戸に指示して、昭和天皇に宇垣の「欠点」を入れ知恵して宇垣の優詔要求却下に賛同させた、といったところだったはずです。
 なお、杉山と宇垣とのやりとりを鈴木が何に拠っているのか、また、その内容が事実なのか、はともかくとして、杉山も宇垣も、やりとりの本当の内容・・私のヨミでは、三月事件の時の宇垣の日和見がメインだったはずです・・を明かすはずがありません。
 いずれにせよ、こんなことくらいで「失脚」できるような軽い立場には西園寺はなかったのであって、彼はこの直後に待望の近衛内閣を実現させることになるのです。(太田)

(続く)