太田述正コラム#12842(2022.6.29)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その17)>(2022.9.21公開)

 「・・・内閣の実力者の伊藤・岩倉は、竹橋騒動<(注21)>後に山県を陸軍卿にとどめたままでは、陸軍の統率が難しいと判断した・・・。

 (注21)「明治初年の陸軍兵士の反乱事件。 1878年8月 23日竹橋 (現東京都千代田区北の丸公園) 在営の近衛砲兵隊二百数十人が,西南戦争の恩賞遅延を理由に決起し,隊長,士官を殺害。大蔵卿大隈重信邸を襲撃し,仮皇居 (現在の迎賓館赤坂離宮) 門前で天皇に直訴しようとしたが,同日東京鎮台兵の手で鎮圧された。陸軍裁判所は,同年 10月 15日に死刑 53人,準流刑 118人,その他の刑を宣告。死刑はただちに執行された。この事件をきっかけとして政府は「軍人訓誡」「軍人勅諭」を発布し,軍律強化に努めた。」
https://kotobank.jp/word/%E7%AB%B9%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6-93099

 そこで、山県を参謀局長とする案を立てた。・・・
 伊藤は自らが内務卿を辞任し、工部卿の井上を内務卿とすることによって、空いた工部卿か西郷従道の就いていた文部卿に山県をあてることを考えたらしい。・・・
 しかし伊藤が内務卿を辞めることについては、三条も岩倉も極めて重大なこととして決断できなかった。
 また井上が内務卿を引き受けるかどうかもわからなかった。・・・
 <また、>鳥尾小弥太中将(参謀局長)は、1877年から仕事に不満を持っていた。・・・
 <そして、>陸軍将校の間でも参謀局の拡張要求が高まってきた。
 鳥尾も、1878年9月頃から参謀本部独立論(史料上は「参謀部立論」の用語)を唱えていた・・・。
 そこで、病気の山県に代わって陸軍卿を兼任していた西郷従道が、参謀局の費用年8万円の定額金を増額して充実させることを山県に提案した。
 平時においては地理や政情などを調査して戦時に備え、戦時には戦略や作戦などを立てる、というものだった。
 この構想には、参謀局を充実させれば鳥尾が辞意を撤回するだろうという期待もあった。
 すでに、伊藤は参議の大隈重信(大蔵卿)に財政上の保証を求め、大蔵省から好意的な返答を得ていた・・・。
 山県の危機に際して、政府最有力者の伊藤が、山県と連携して近代国家を作るという強い意志を持って、山県を支援していることがわかる。・・・

⇒伊藤も、私の言う、出たとこ勝負史観なので、鳥尾が竹橋騒動の直後に唐突に参謀本部独立論を打ち出した、と読者は受け止めざるをえないわけですが、そこへ、今度は「陸軍将校の間でも参謀局の拡張要求が」というくだりがまた唐突に現れるので、ストーリーが頭の中で全く流れないのではないかと想像しています。
 私は、幕末からは、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス史観を採っているので、山縣が、かねてから参謀本部の独立を実現する機会を伺っていたところ、竹橋事件が起きてくれた・・起こしたのだとしても私は驚きません・・ところ、その責任を取るという名目で、自分が座る座布団として参謀局を強化・独立させた上で、参謀局長に収まろうとした、そして、その目的のために、鳥尾や陸軍将校達に裏から手を回して、参謀本部独立論をぶち上げさせた、と見るわけです。
 また、これも(武装解除した戦後日本を普通の国視していると思われる)伊藤之雄とは違って、私は、既にこの時点で、伊藤博文よりも(軍を掌握しているが故に)山縣の方が上位者たる「政府最有力者」だったと見ているので、伊藤が山縣のために仕事をさせられるのは当たり前だ、と見るわけです。
 なお、大久保は、生前、自分の後継は山縣である旨を、恐らく、三条には伝えず、(秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者である)岩倉には伝え、岩倉は山縣が働き易い環境を作ることに腐心し続けた、と、私は想像しています。(太田)

 ところが、参謀本部の独立に異議を唱えた人物がいた。
 それは26歳になった明治天皇である。
 天皇は、将来陸軍省と参謀本部が対立しないか、と心配したのだった。・・・
 伊藤や岩倉らは、閣議で決まったことに天皇が異を唱えること自体を好ましく思わない。
 しかも若くて未熟な天皇が、・・・佐々木高行<(注22)>(たかゆき)(土佐出身)・・・らの親政運動の影響を受けて政治介入することなど、論外だった。

 (注22)1830~1910年。「土佐・・・藩の尊攘派上層武士として勤王党とは一線を画しつつ幕末の政局に奔走。・・・1867・・・ 年,後藤象二郎らと藩主に説いて大政奉還を幕府に勧告させた。明治政府に登用されて参与,刑法副知事,刑部大輔と司法畑の重職を歴任。明治3(70) 年参議,翌年司法大輔となり,岩倉遣外使節に随行してヨーロッパ諸国の司法制度を調査。征韓派の板垣退助ら土佐派が下野した際もこれに同調せず,西南戦争の際には土佐の立志社に起った反乱陰謀を弾圧した。天皇の侍補をつとめ,のち,1881年参議兼工部卿。 88年には枢密顧問官となった。侯爵を授けられた。晩年,明宮 (のちの大正天皇) の御教養向主任となった。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E9%AB%98%E8%A1%8C-18008

 岩倉や伊藤、西郷従道(参議兼文部卿)らの間で、参謀本部長に予定された山県が参議として閣内に留まることで天皇の不安を除くことができるとし、それを天皇の考えとして提案すれば良い、との考えがまとまった。」(173~176、179~180)

⇒そんなもの、最初からその予定だったものを、天皇向けに、そういう話にしただけのことでしょう。(太田)

(続く)