太田述正コラム#12844(2022.6.30)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その18)>(2022.9.22公開)

 「・・・1879年(明治12)5月になると、・・・伊藤参議(内務卿)と<の協議に基づき、>井上参議(工部卿)・・・は山県参議に会い、参謀本部長を辞めさせようとした。
 しかし山県は、自分<が>参謀本部に残る方が陸軍のためになると主張して、井上の説得を受け付けなかった・・・。・・・
 伊藤・井上らは参謀本部長を軽いポストと考え、どこかの省の卿にしようとしたのである。
 しかし山県は、軽いポストの参謀本部長職に固執し、1882年2月伊藤博文の後任として参事院<(注23)>議長になるまで続けた。

 (注23)「明治太政官制上の機関の一つ。長を議長といい,初代の長は参議伊藤博文であった。 1881年10月21日の太政官達 89号により設置され,72年7月の太政官達で設けられた正院法制局を受継いだもので,85年12月22日,内閣法制局発足とともに廃止された。その権限はきわめて強大で,各法律規則案の起草上申および審査にとどまらず,諸領域に及んだ。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%82%E4%BA%8B%E9%99%A2-70718
 「コンセイユ・デタ<(Conseil d’État)は、>・・・フランスにおける最高位の行政裁判・諮問機関。国務院,参事院とも訳される。1799年にナポレオンによって,法律案・行政規則の起草,行政に関する紛争等の解決を目的として創設された。」(上掲)

⇒コトバンクが、参事院とコンセイユ・デタとを一緒の頁で扱っていますが、確かに、参事院は、ッコンセイユ・デタを日本に移植しようとしたものであったであろうところ、法令の起草までトップダウンで行うというのは日本では機能しなかったために事実上廃止された、ということでしょうね。
 しかし、本件に限りませんが、当時の日本政府の実験的精神は、見上げたものです。(太田)

 山県が4年近くも務めた上に、大山参議も陸軍卿と共に参謀本部長になったことで、参謀本部長の重みが増した。

⇒全て、計画的に、山縣が、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス完遂戦争遂行中枢の確立・独立/整備・強化を図るために行ったことである、と見るわけです。(太田)

 山県参謀本部長は、これまでも戦争の危機があった清国との戦争に備えて、清国の兵制・軍備・地理の調査を行うため、1879年に10余名の将校を清国に派遣した。
 山県の片腕の桂太郎<(注24)>中佐(参謀本部管西局長)も、その中の一人だった。・・・」(181~183)

 (注24)1848~1913年。「毛利家の庶流で重臣であった桂家の出身で、大江広元や桂元澄などの子孫に当たる。
 戊辰戦争に参加し、明治維新後、横浜語学学校で修学し帝政ドイツへ留学。帰国後は山縣有朋の下で軍制を修学した後に陸軍次官、第3師団長、台湾総督を歴任した後、第3次伊藤内閣、第1次大隈内閣、第2次山縣内閣、第4次伊藤内閣で陸軍大臣を務めた。
 明治34年(1901年)6月2日、内閣総理大臣に就任、第1次桂内閣発足。日英同盟を締結し、日露戦争で日本を・・・勝利に導いた。西園寺公望と交代で首相を務め、「桂園時代」と呼ばれた。・・・
 明治19年(1886年)、伊藤博文内閣は、陸軍の軍制改革に当たって、経費節減を命じた。陸軍省は現役兵の帰休(予備役化)による縮小と、代人料(一時期導入されていた、金納による徴兵免除)制度の復活で、経費節減を実現しようとした。桂はこれに反対する目的で、川上操六、川崎祐名と連名で、大山巌陸軍大臣宛に「軍政上改革に就き建議書」を提出した・・・。
 桂らの主張は、以下の内容だった。
・現役兵の帰休で節減できるのは「僅少の金額」であり、経費節減には抜本的な軍制改革が必要である。
・軍隊の目的は二つある。第一は、「單に敵國の襲来を防禦」し、局外中立を守るための目的で、欧洲の二等国の目的はこれである。
・第二は、「大いに武威を輝かし」、他国の干渉を受けずに「他働の兵を養ふ」目的で、欧洲の(多数の植民地を支配している)一等国の目的はこれである。
・本邦の軍制の目的は、「決して此第一に止まらず」第二の目的がある。欧洲の諸強國は、徴兵の任期は3-5年で、十分な教育を行って非常時に備えている。徴兵の途中で兵を帰休させてしまえば、十分な教育を施せず、帝國は二等国に甘んじるしかない。
・代人料を復活させれば、「資産品行あるもの」はみな徴兵免除を選ぶから、兵士の質が低下する。
・兵士の帰休と代人料復活が「大いに不可」なのは、一等国の軍制を二等国に後退させるばかりか、「未開の地位に退却」させてしまうからである。
・他省庁の手前、どうしても経費節減を免れないのなら、東京湾海防予算削減などを行うべきである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%A4%AA%E9%83%8E

⇒「注24」に出てくる「建議書」に言う、軍隊の他働の兵としての第二の目的、なるものは、山縣の考えの受け売りであると私は見ていますが、ここで、山縣は、子飼いの桂らの口を借りて、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス完遂のために必要な兵力量を日本は追求すべきことを(その趣旨が伝わるであろう人々に向けて)宣言したわけです。(太田)

(続く)