太田述正コラム#12862(2022.7.9)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その27)>(2022.10.1公開)

 「・・・<1889年10月>19日朝、山県・山田・西郷従道(海相)・大山巌(陸相)・松方の5大臣は条約改正<(注38)>延期(中止)を決意し、黒田首相が聞き入れなければ、辞職する覚悟で黒田を説得することにした。・・・

 (注38)「大隈は、伊藤に憲法制定の功績あるならば自分は条約改正の功を立てたいと決意し、また、その功績をもって改進党勢力を伸張させ、憲法発布後に予定されている帝国議会で主導権を握るという具体的な将来構想を抱いていた。薩摩藩出身の第2代内閣総理大臣黒田清隆は、枢密院議長となった伊藤に憲法制定を任せ、大隈には条約改正を任せるという体制を採っていたが、この両者が互いにほとんど連繋しなかったことは後に重大な問題を引き起こすこととなる。・・・
 機密主義によって進行してきた改正交渉のあらましが1889年4月19日付のイギリス紙『タイムズ』に掲載された。この条約案を『タイムズ』にひそかにリークしたのは外務省翻訳局長だった小村壽太郎だったともいわれる。・・・
 『タイムズ』誌のニュースが日本に伝わるや、国内世論からは激しい批判が湧き上がった。学習院院長三浦梧楼からは改正中止の上奏がなされ、新聞『日本』の主筆陸羯南などによって激しい反対論が展開された。鳥尾小弥太、谷干城、三浦梧楼の三中将、西村茂樹、浅野長勲、海江田信義、楠田英世の7人は、世に「貴族七人組」といわれる反対派であった。ただし、『東京経済雑誌』主筆の田口卯吉は大隈案の擁護に努めており、徳富蘇峰の『国民之友』は論争に積極的に参加しなかったが政府案に対し好意的であった。
 反対論の中には、日本の司法権が脅かされるとの批判があり、さらに重大なことには、発布されたばかりの帝国憲法に違反することを指摘する声があった(外人法官任用問題)。すなわち、憲法第19条「文部官任用条項」に抵触し、同第24条「裁判官による裁判を受ける権利」の侵害にあたるというのである。これについては、すでにこの年の3月末に陸奥宗光駐米公使が指摘していたが、大隈はその重大さに気がつかなかったといわれる。民間では民権派・国権派の大半が結集して非条約改正委員会が組織され、条約改正反対運動(非条約運動)が展開された。
 憲法制定と条約改正は同時並行で進められていたものの相互に没交渉であったことが、憲法が制定される状況下で憲法違反の条約改正が進むという矛盾を生じてしまった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A1%E7%B4%84%E6%94%B9%E6%AD%A3

⇒山縣は後事を黒田首相に託して外遊に出発したのでしょうが、黒田は伊藤をつんぼ桟敷に置いて大隈に条約改正を推進させた結果、内閣は分裂して角突き合わせる状態に陥ってしまったわけです。
 このことからも、伊藤が、当時、事実上の最高権力者などでは全くなかったことが分かりますね。(太田)

 こうして黒田内閣は倒れた。・・・
 1889年10月22日、黒田首相は辞表を奉呈する際に、・・・松方・大山という薩摩出身有力閣僚の総意<も背景に、>・・・山県を首相とするように上奏、翌日山県を訪れて首相就任を勧めた。
 しかし山県は応じなかった。・・・
 24日に・・・松方・西郷・山田・大山ら6人の閣員たちが山県を後継首相にすることを上奏しても、やはり山県は応じなかった。

⇒山縣は、幕末の朝廷における(天皇は別格として)事実上の最高権力者であった近衛忠煕が、法的な最高権力者である関白の座を、原則、鷹司家、九条家、二条家、に委ね、自らは、1862年6月から1863年正月までの半年間しか務めなかったことを念頭に、維新後の日本政府における事実上の最高権力者である自分も、できうる限り法的な最高権力者である太政大臣や首相に就任しないようにしようと決意していた、というのが私の見方であり、だからこそ、うまく政府が回らないからと、みんなから懇願されてもなお就任に難色を示し続けたのではないでしょうか。(太田)

 そこで明治天皇は10月25日、やむなく三条実美内大臣(前太政大臣)を首相兼任とし、閣員は黒田内閣のときのまま、という形で新内閣を発足させた・・・。・・・
 三条<は>山県との間で、外交の方針や内閣組織の方針が決まったら辞任する、と約束していた・・・。
 この三条内閣の下で、12月13日、すでに条約を調印したアメリカ・ドイツ・ロシア3国に、準備ができないとの理由で条約実施の期日の延期を通告した。
 その後12月24日、三条は首相兼任官を辞任し、山県が第3代首相に任命された。
 これは、さきに黒田首相や閣員らが山県を後継首相に推したことを、天皇が尊重したものである。
 また山県は、これまでの陸軍に対する功労が大きいということで、天皇の特旨で、首相になってからも現役軍人でいることを許された。」(242~244)

⇒今回は、山縣としても、年貢の納め時だと腹は括りつつも、自身の現役軍人としての形式的地位の維持に係る根回しを行う間、三条に首相役を代行させた、ということでしょう。
 この先例が、現役陸軍大将の東條英機の対英米戦開戦時首相への就任を可能にしたわけです。
 (ちなみに、東條の後任の小磯國昭も現役陸軍大将として首相に就任していますが、小磯の場合は、予備役陸軍大将だったのを現役復帰させたものです。)
http://y-whitestone.com/htm/japan-syowa-sori.htm (太田)

(続く)