太田述正コラム#13029(2022.10.1)
<皆さんとディスカッション(続x5308)/国賊自民党を牛耳ってきた反社の岸カルトの成立をめぐって>

<TSY>(昨日)

 太田さん、<TSY>です!
 こんにちは!
 <明日のオフ会の「講演」原稿案の>後半、ありがとうございました。
 <その数時間前に送っていただいた>前半読了。
 なので、明日までには、余裕をもって<後半も>読めると思います。
1.縄文のエッセンスであり、現在も日本人と呼ぶに値する人間集団が保持している行動様式であり、判断基準である、人-間主義。
2.1を守るために敵に勝てる武士(軍隊)の養成。
3.仏教坊主や寺院(両者の作る雰囲気)に、人造弥生人たる武士の精神安定剤(救い)という役割付与。{非常時の人-間主義回帰ルート}
4.日蓮の着想した1による世界開拓というビジョン。
 この4つを、有機的に結合したのが日本国とします。
 既存の学問ジャンルで、ムリムリ表現すると、人類学と、宗教学と、軍事学と、歴史学と、政治学を最低限全部使わないと上記の日本国の概要も記述できません。

⇒経営学が抜けてるような・・。(太田)

 で、<太田さんは、>これまで、それをやってきたわけですよね。
 この基礎がないと、「岸信介」の評価は、できないのだなあと、読みながら感じてます。
 1で、まっとうな日常の振る舞い、判断基準が手応えある形で把握されているから、宗教と名がついても、1とは遠い、統一教会、創価学会に、まどわされることなく、その軍事的な帰結(非武装=1の崩壊)に焦点を合わせた記述ができ、またその記述を読んで納得もできる。
 記述にも理解にも、それなりの年季が必要だなあ、とちょっと思いました。
 明日、よろしくお願いします。

<太田>

 安倍問題。↓

<フン。↓>
 「自民「旧統一教会」調査、平井元デジタル相ら12人追加報告・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E8%87%AA%E6%B0%91-%E6%97%A7%E7%B5%B1%E4%B8%80%E6%95%99%E4%BC%9A-%E8%AA%BF%E6%9F%BB-%E5%B9%B3%E4%BA%95%E5%85%83%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E7%9B%B8%E3%82%89%EF%BC%91%EF%BC%92%E4%BA%BA%E8%BF%BD%E5%8A%A0%E5%A0%B1%E5%91%8A-%E5%B1%B1%E9%9A%9B%E5%86%8D%E7%94%9F%E7%9B%B8%E3%81%AF%E5%A0%B1%E5%91%8A%E3%83%9F%E3%82%B9/ar-AA12rsIn?cvid=3517a4989a0e4433b55f110740438784
 <世界を股にかける大政治家?↓>
 「山際氏の会合出席を追加報告 旧統一教会、ナイジェリアで・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/1d4120be5a19cb601f621a2fbf754e9723b760d7
 <そうかねえ?↓>
 「・・・韓国では「カルト」という表現は一般的ではありません。これは世界的にも珍しいことだと思います。同じ漢字文化圏の日本、中国でも「カルト」と言うにもかかわらず、です。
韓国では「異端(イダン)」という言い方が一般的です。あるいは「似而非(サイビ=フェイク)」と言い方も。「異端」という言葉は非常にキリスト教的な表現です。これが一般化しています。「外れた者たち」というニュアンスです。これは韓国的な特徴ですね。
 統一教会も「異端」です。それが、日本に行って社会的に興味を持たれる「カルト」として問題を起こしている。
 ここに認識の違いがあると思います。・・・」
https://news.yahoo.co.jp/byline/yoshizakieijinho/20220930-00317382
 <既にハナシが矮小化されちまってるなあ。↓>
 「・・・被害者救済の法案は、実は立憲民主だけじゃなく維新も考えていて、ただちょっと法案に違いがあるんで、来週までに結論を出そうということになってるんですが、そういう一本化ですよね。やっぱり野党が一緒になって与党と対峙しているという構図、これが一番大事で、その中心が立憲と維新なんです。でもこの2党は、水と油って言われて、憲法観も全然違う。次の臨時国会では共闘を宣言したので、ひび割れができることなく、きっちりといけるかどうかが、巨大与党とどう向き合うのかというところが臨時国会のポイントかなと思っています。 」
https://news.yahoo.co.jp/articles/449fde763ef32e609ae5032ae8210a0b1dceabec
 <トンデモ・ハップン、もちろん、その点でも安倍氏の遺志を継いでるんだよ。↓>
 「林外相が国葬から“台湾を排除”した理由 “中国に配慮するように”と指示、迎賓館に台湾は入れず・・・
 安倍元総理は生前「台湾有事は日本有事」と語り、9月24日には、台湾の高雄市に等身大の銅像まで建てられた。安倍氏の地盤は継いでも遺志は継がず――。どうやら、それが林氏の政治信条のようだ。」
https://news.yahoo.co.jp/articles/16312263a493cc329fd680b3f27f297b834e4f18

 ウクライナ問題。↓

 <ロシア軍、投降して欲しいな。↓>
 「ウクライナ軍、ドネツク州リマンでロシア軍を包囲・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E8%BB%8D-%E3%83%89%E3%83%8D%E3%83%84%E3%82%AF%E5%B7%9E%E3%83%AA%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%81%A7%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%BB%8D%E3%82%92%E5%8C%85%E5%9B%B2/ar-AA12qVH9?cvid=7330660a5f6446e9b000b33068d5b2cd
 <我慢我慢。↓>
 「英軍制服組トップのラダキン国防参謀総長は30日、ウクライナに侵攻しているロシア軍について、「脆弱性が増大」している兆候が出ているとの見方を示した。
ラダキン氏はワシントンで記者団に対し「いくつかの圧力ポイントがあり、ロシア軍には脆さが見えている」と指摘。ただ、戦闘の推移は緩慢なためロシア軍が突然崩壊することはないとし、「ウクライナ軍とロシア軍のバランスが大きく変化することはない」との見方を示した。・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%BB%8D%E3%81%AB-%E8%84%86%E5%BC%B1%E6%80%A7-%E7%AA%81%E5%A6%82%E5%B4%A9%E5%A3%8A%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84-%E8%8B%B1%E8%BB%8D%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97/ar-AA12rCR7?cvid=057cbeddc6e94ffdb55f7508131de2a5
 <殿、御乱心が続いてるわけだが、ロシア人の大部分が同じく(恒久的)御乱心状態、ってのが深刻。↓>
 「プーチン大統領 ウクライナ4州併合を宣言 併合に関する条約にも調印・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/43f29db61383cc547cabea42d340dca893deff79
https://www.newsweek.com/fact-check-putins-russia-doesnt-fully-control-annexed-ukrainian-regions-1747858
 <プーチン等のロシアの権力者の特異性だと。新しい話ないなあ。↓>
 ・・・the sacred base of charismatic power in Russia, the Byzantine tradition of saintly tsars and princes that transmogrified into the cults of Lenin and Stalin; nor the patrimonial nature of autocracy in Russia, where the leader is the master of the land and its people, a form of despotism and enslavement of society that goes from the Mongols to Stalin (“Genghis Khan with a telephone”, as the Bolshevik Bukharin described him). The very word for power in Russian (vlast) comes not from action, as in western languages (puissance, potenza, macht, etc), but from the term for a fiefdom, a territory owned by its ruler.・・・
https://www.theguardian.com/books/2022/sep/27/personality-and-power-by-ian-kershaw-review-builders-destroyers-modern-europe-12-democrats-dictators
 <冗談キツイわ。↓>
 「プーチン大統領は30日、ロシアはウクライナとの停戦交渉の用意があると明言、軍事作戦停止の可能性を示唆した。・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/0c6ac4d7403651954d527743702591c1ecc3e32e
 <よし!↓>
 「プーチン政権続く限り「ロシアとは交渉せず」 ウクライナ大統領・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3%E6%94%BF%E6%A8%A9%E7%B6%9A%E3%81%8F%E9%99%90%E3%82%8A-%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BA%A4%E6%B8%89%E3%81%9B%E3%81%9A-%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98/ar-AA12ruzh?ocid=msedgntp&cvid=50b52758f5e041668f29d1a64f9336d0
 <そりゃあ、戦争が終わってからよ。↓>
 「ウクライナ、NATO加盟申請へ ロシアの編入宣言に対抗・・・」
https://mainichi.jp/articles/20221001/k00/00m/030/013000c
 <・・・。↓>
 「・・・(中村名誉教授) 「・・・今、国際社会でも国内でも非常に孤立化しているプーチン大統領ですが、最後は、6つの原子炉があるというザポリージャ原発を狙うことです。これが一番怖いんです。あの原子炉は、頑丈ですからミサイルを撃ってもなかなか壊せないのですが、最後に戦術核でもってここを撃つという“最悪のシナリオ”が考えられていて、アメリカはこれをどうやって防ぐか、迎撃システムをどうやって作っていくかということで、もうすでに動いているという情報も入ってきているんです」・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/668899b5059a1b4fdc128ecdab8775b5da57a8d0
 <参考にどーぞ。↓>
 Three maps that explain Russia’s annexations and losses in Ukraine・・・
https://www.washingtonpost.com/world/2022/09/30/map-ukraine-regions-annexation-russia/
 <知らんがな。↓>
 「ロシアによるウクライナ4州併合で中国は微妙な立場に置かれている。「台湾独立」を警戒する中国は「主権と領土保全」の原則を譲れない。「住民投票」を盾に他国領を切り取ったプーチン露政権とは本来、相いれない立場だ。このため中国は、4州併合に明確な態度を示さず、対米で連携を深めるロシアとの溝を露呈させないよう苦心している。・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E4%B8%AD%E5%9B%BD-%E9%9C%B2%E3%81%A8%E3%81%AE%E6%BA%9D%E3%81%AB%E8%8B%A6%E5%BF%83-%E4%BD%8F%E6%B0%91%E6%8A%95%E7%A5%A8-%E7%9B%B8%E3%81%84%E3%82%8C%E3%81%AC%E7%AB%8B%E5%A0%B4/ar-AA12qQpW?cvid=33c1b2f07a1c4136a0cac3d57012aeb3

 それでは、その他の記事の紹介です。↓

 ご冥福を祈る。↓

 「落語家の三遊亭円楽さん 肺がんで死去、72歳 脳梗塞から8月高座復帰も…がん治療再開した矢先に・・・」
https://news.livedoor.com/article/detail/22944482/
 「アントニオ猪木さん 自宅で死去 79歳 燃える闘魂 プロレス黄金期けん引・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/24b35ddcbefd2e240aca03cbf969209e43037f4d

 練習して自分で演奏しちゃう方が話が速そう。↓

 「クリアな音再現、有機トランジスタアンプを開発 さいたまの技術ベンチャー・・・」
https://www.sankei.com/article/20220929-5MLLUDCIONNURM4O4HLVR3KWZE/?dicbo=v2-0b2f9525332a0b114b2f6f7d3533e14d

 姑息、間違っちゃったわー。↓

 「「姑息」「割愛」の意味は? 本来と異なる使い方定着・・・」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE261KO0W2A920C2000000/

 日・文カルト問題。↓

 <・・・。↓>
 「「北朝鮮の潜水艦を追跡」、韓米日が5年ぶりに対潜訓練–在韓米特殊戦司令部が「斬首作戦」の訓練を公開・・・
 これまで東海の公海上で日本とは人道的な捜索救助訓練が行われたことはあるが、独島から遠くない公海上にまで日本の艦艇がやって来て訓練を行うケースは珍しいという。・・・」
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2022/10/01/2022100180881.html
 <!!!。↓>
 「韓国進歩党、「独島沖の日本自衛隊の合同演習を中止すべき」・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/296108
 <小さいロシアの方が、持ちそうだな。↓>
 「北朝鮮、未詳の弾道ミサイル発射…韓日米、対潜水艦訓練で「対抗」・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/296121
 <取り上げることを許す。↓>
 「MLB: 8回二死まで「ノーヒットノーラン」…大谷が15勝目–アスレチックス戦で10奪三振・無失点–打撃では4打数2安打、チームの勝利に貢献・・・」
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2022/10/01/2022100180940.html
 <分かったがな。↓>
 「韓国航空各社、新型コロナの水際対策緩和で日本路線を大幅増便、個人旅行解禁で予約も急増・・・聯合ニュース・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b902059-s39-c30-d0059.html

 ジョンソン前英首相は、確かに面白い人物ではあったな。↓

 ・・・Gimson exults in the perceived triumphs of an Old Etonian charlatan over pitiful ranks of “moralists”, the “virtuous” (they get a particular kicking here), the “serious-minded” and the so-called “priggish middle classes”. ・・・
https://www.theguardian.com/books/2022/sep/28/boris-johnson-by-andrew-gimson-review-a-fawning-defence

 ゴーンの入ってる現在の「拘置所」、ますますシュールに。↓

 ・・・“There is no plan, there is no functioning government, no one is coming to help us, we are on our own,” says Mohamed, the Beirut vendor. “We have to make our own decisions and our own plans to survive.”
https://www.csmonitor.com/World/Middle-East/2022/0930/Facing-new-hardships-Lebanese-weigh-safety-vs.-living-this-life

 中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓

 <人民網より。
 あーそー。↓>
 「中日国交正常化50周年記念レセプションが北京で開催・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2022/0930/c94474-10154148.html
 <ここからは、レコードチャイナより。
 アンタも好きねー。↓>
 「米軍のステルス艦2隻が同時に日本へ、「異例!」と・・・環球時報・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b902102-s25-c100-d0193.html
 <出、に戻りつつある?↓>
 「羽生結弦さんの単独アイスショーが決定! 中国ファン歓喜「有言実行だ!」「爆泣き」・・・羽生さんのツイッター公式アカウント・・・アイスショーの公式ウェブサイト・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b902111-s25-c50-d0052.html
 <ひつこい。↓>
 「インドの「高速鉄道経済」は前途多難、日本の技術導入も4年以上遅れ・・・環球時報・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b902021-s25-c20-d0193.html
 <よろしい。↓>
 「日本人のおかげでシャインマスカットが激安に? 乱暴な論理に中国ネット「本当に恥ずかしい」・・・網易・・・」

https://www.recordchina.co.jp/b902105-s25-c30-d0193.html

 一人題名のない音楽会です。
 パデレフスキ(Paderewski)(コラム#2566、3243、4471、9034、9533)小特集をお送りします。

plays “Menuet in G(1887年?)(注)”  (1937 movieの一場面)
https://www.youtube.com/watch?v=M9IBBd-9aRM

(注)「『メヌエット』は、イグナツィ・パデレフスキが作曲したピアノ曲で、彼の作品で今日唯一広く知られている。もとは「6つの演奏会用ユモレスク Op.14」の第1曲であった。比較的簡単ながら格調高い曲想。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%83%E3%83%88_(%E3%83%91%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD)

ポーランド幻想曲 作品19(1893年) ピアノ:反田恭平(コラム#10559、10631、12322、12338、12340、12342) 指揮:原田慶太楼 オケ:N響 25.44分

https://www.youtube.com/watch?v=BqqhKD5Hs4w

      –国賊自民党を牛耳ってきた反社の岸カルトの成立をめぐって–

1 プロローグ

2 岸カルトがコア商品として克服対象とする吉田ドクトリンについて
 (1)吉田茂(1878~1967年)
 (2)芦田均(1887~1959年)
 (3)鳩山一郎(1883~1959年)
 (4)東大の政治「学者」達
  ア 南原繁(1889~1974年)
  イ 丸山眞男(1914~1996年)
 [日本の戦後文系学問の悪しき理念型となった南原政治学]
  ウ 坂本義和(1927~2014年)
 [非武装中立論成立まで]
 (5)高坂正堯(1934~1996年)
 (6)永井陽之助(1924~2008年)

3 岸カルトを巡って
 (1)岸信介と創価学会
 (2)岸信介及び統一教会並びに嫌朝鮮(雑商品A)
 (3)岸カルトによる防諜欠如状態の放置(雑商品B)
  ア スパイ防止法
  イ 秘密保護法
 (4)岸カルトによる諜報機関欠如状態の放置(雑商品C)
 (5)岸カルトによる共産党対策手抜き状態の放置(雑商品D)
  ア 戦後ドイツの共産党対策
  イ 日本の場合
 (6)岸信介の「反」中共政策–宗主国移行布石(雑商品E)
 [自民党主要派閥の系譜]

4 岸信介の生涯
 (1)家業としての政治屋業なる発想の淵源
 [毛利家とその戦前・戦後]
 一、毛利家のルーツ
 二、毛利家の戦前・戦後
 [明治維新後の旧長州藩人と政治権力]
 [林家]
 [安倍家]
 [岸/佐藤体制の岸/安倍/佐藤体制化のヒントとしての毛利両川体制]
 [岸信介の家フェチシズム]
 (2)首相になるまで
 [東大法出身首相群]
 [兄 佐藤市郎]
 [弟 佐藤栄作]
 [岸と産業合理化]
 [近衛文麿の母]
 (3)首相時代
 [岸とCIA]
 [岸信介とフィクサー達]
 一、児玉誉士夫
 二、笹川良一
 三、矢次一夫
 [旧安保と新安保の比較]
 (5)首相引退後

5 エピローグ

1 プロローグ

 最初は、内外向け見せ金として再軍備追求を掲げる政治屋家業の岸/佐藤/安倍家、というテーマ一本の内容、つまり、目次の4だけの、比較的すっきりとした「講演」原稿になるはずだった。
 ところが、本年7月8日の山上徹也容疑者による安倍晋三元首相殺害を契機とする、旧世界基督教統一神霊協会(統一教会)と国会議員等、就中安倍氏との関係が取り沙汰されるようになったことから、岸が政治屋のビジネスモデルとして開発し創始した政治屋家業を岸カルトと呼んでしかるべきことに気付き、目次の3を加えることにした。
 更にその後、岸カルトが吉田ドクトリンの克服を標榜してきたことから、吉田ドクトリンについての目次の2を加えることにした。
 結果、少なくとも、目次3と4の箇所は、合体した上で全面的に書き直すべきだったのだが、時間と私の能力の限界から果たせなかった次第。
 で、岸カルトとは、一体何ぞや。
 それは、コア商品たる冒頭に掲げた見せ金再軍備商品・・(それ自体が架空の存在たる)吉田ドクトリン(後述)を「克服」対象として掲げるところの、コア商品、とも形容することができる・・のほか、日本の「右」の人々が好むありとあらゆる政治的課題を掲げる一方で、(阿吽の談合関係にあるところの)「左」の人々を使嗾してそれらに対して反対の言動を行わせる、というマッチポンプを継続的に行うことによって、それが永遠に達成できない、という形で商品化して、「右」の人々向けに「売り」出す、という世界を見渡しても他に例を見ない、政治屋家業、であって、岸信介から始まるところの、この岸カルト、の、世襲される代々の教主が、日本の「右」の人々をして、これらインチキ商品を、合法非合法の政治資金を提供したり、票を投じ、集めたりして購入する信徒たらしめ続けることによって、これまた同カルトが創りだした、自由民主党なる政党、を恒久政権政党化すると共に、その政党を事実上支配し続ける、つまりは、日本を支配し続ける、という、統一教会も真っ青の醜悪極まりないカルトなのだ。
 この岸カルトは、必然的に、日本の、米国への属国化、及び、宗主国の中共への移行準備、をもたらすこととなり、その結果として、日本の脳死と日本文明の滅亡・・プロト日本文明への回帰・・を招来して現在に至っている。
 
 範例:
  岸信介・矢次一夫・伊藤隆『岸信介の回想」(1981年) ☆
  原彬久編『岸信介証言録」(2003年) ★
  加瀬英明監修 加地悦子(聞き手)『岸信介 最後の回想–その生涯と60年安保』(2016年) *  

  岸信介のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B ※

2 岸カルトがコア商品として克服対象とする吉田ドクトリンについて

 (1)吉田茂(1878~1967年)

 「「軽武装」「経済重視」の吉田氏の政策を、政治学者の永井陽之助氏は「吉田ドクトリン」と呼んだが、果たして<吉田氏の政策は本当に>そうだ<ったのだ>ろうか。
 国際政治学者の高坂正尭氏も著書『宰相 吉田茂』(中央公論社)で、「吉田茂にとって、国際関係にとってもっとも重要なことは、その国が富み栄えているかどうかということであった。この、いわば商人的国際政治観は、第二次世界大戦以前から彼の行動を色付けている。だから、第9条を交渉の道具として使ったことも、彼にとって当然のことなのであった」として、吉田氏の「商人的政治観」を吉田ドクトリンの源流と捉えていた。
 しかし、高坂氏は後年、吉田氏から「経済中心主義の外交なんてものは存在しないよ」と言われている。高坂氏も「彼(吉田氏)は、昭和25(50)年にはダレスの再軍備を断固として拒否したが、いつまでも日本の防衛をアメリカに大きく依存しようとは思っていなかった。彼があとから、能力に応じ、必要に応じて武装すべきであることを説いたことはよく知られている事実である」と認めている。
 吉田氏自身も、1960年代には日本人に軍事防衛の重要性をもっと説くべきであったと後悔しているのである。」
https://www.iza.ne.jp/article/20220326-WAZW7TVRKVIR5IK2TQFGZM42NQ/

⇒これは、元海上幕僚長にして前統合幕僚長の河野克敏(かわのかつとし。1954年~)元海将のコラムだが、河野氏自身がどう考えているのかは知らないけれど、私自身は、吉田は晩年に改悛し転向したのだ、とつい最近まで考えていた。
 少し長いが、このつい最近までの私の考えがコラム#1651に記されているので、興味ある方は読み返してみていただきたい。
 そのコラムの中で、1957年2月に防大1期生達何名かと共にその1人として平間洋一氏が防大生当時に吉田邸で吉田から聞いたという話を紹介している。
 この紹介済みの話を、今回は、現時点での私のコメントを付しつつ、改めて紹介したい。↓

 「国防は国の基本である。

⇒晩年に転向したのではなく、一貫して吉田はそう考えていた、と見るべきだろう。(太田)

 しかし、今の日本はアメリカとの安全保障の下に経済復興を図るのが第一で、アメリカが守ってやるというのだから守って貰えばよいではないか。

⇒これは今にして思えば、吉田茂が杉山構想について示唆した発言だった。
 付言すれば、吉田が、1946年5月に初めて首相に就任する際、「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」と側近に語った。」(コラム#1651)(注1)のも、また、朝鮮戦争勃発時の占領軍による日本再軍備要求を撥ねつけたのも、それぞれ、米ソ関係が杉山らの目論見通りに展開しているので、当面、高みの見物を続けたい、という趣旨に加えて、それみたことか、対ソ抑止どころか、事実上米ソ熱戦が勃発したじゃないか、杉山構想はスゴイや、ここは朝鮮での戦争が終わるまでは米国だけに対処させるぞ、という趣旨、だったに違いない、と、今頃になって気付いた。

 (注1)これは、当時のウィキペディアに拠ったものだが、現在のウィキペディアでは、「吉田は「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」として、マッカーサーに対しては「よき敗者」としてふるまうことで個人的な信頼関係を構築することを努めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82
と、吉田の発言時期をぼかした上で、(当時のウィキペディアもこの点は同じだったのかもしれないが、)「よき敗者」云々という別の話に強引に繋げてしまっている。

 (ここで忘れないうちに書いておくが、吉田がマッカーサーに恩義を感じた事柄としては、単に自分を、約束通り再度首相にしてくれたことだけではなく、朝鮮戦争勃発時点での日本の再軍備を拒否した自分(後述)を咎めないでくれたこと、更には、マッカーサーが馘首される少し前に今度は180度反対に日本の再軍備を可能にする憲法改正を指示するよう依頼した(後述)のを死ぬまで明かさなかったこと、も付け加えられるのではなかろうか。)(太田))

 また、憲兵に追われ投獄され取調べを受けたが、かれらのものの解らないのにはどうにもならなかった。だから僕は陸軍が嫌いだ。

⇒憲兵は陸軍に所属しながら、管轄は海軍にも及ぶという特殊な軍人であり、憲兵でもって陸軍の代表的存在としているかのようなこの発言は非論理的だし飛躍がある。
 しかも、あたかも、海軍は好きであるかのような文意になってしまっていて、吉田が何が言いたいのか分かりにくい。
 私は、かつては、これは、吉田が軍人嫌いであるゆえんを説明したものだと受け止めていたが誤解だったと言うべきだろう。(太田)

 昔のようにものの解らない片輪な人間を作ってはならない。そのためには東大出身者は固くて分からず屋が多いので駄目だ。」

⇒結局、すぐ上のくだりは、このことを言わんがための、韜晦を意図しつつも不自然なものになってしまったところの、前置きに過ぎなかった、と解されよう。
 ここも、東大出身の自分自身も形の上ではこき下ろしてしまっているが、吉田の念頭にあったのは、自らが曲学阿世の徒と難詰した、東大総長の南原繁ら(下出)である、と受け取るのが無難ながら、ひょっとして、(戦前の東大出の首相は相当前のことなので、)戦後の歴代首相中の、東大卒であるところの、幣原、片山、芦田、鳩山、(首相になる直前の)岸、も含まれていたのかもしれず、仮にそうだったとすれば、新たに創る大学の出身者に将来の日本を担わせるべく、自分は防衛大学校を作ったのだ、と、吉田は言いたかった、ということになろう。
 初代校長に、アジア主義の伝統があったところの、慶應義塾、から、塾長であった(吉田の懇意の)小泉信三(注2)の推薦で同義塾理事で歴史学者の槇智雄(注3)を迎えたのも、吉田が校長を東大から迎えるのを忌避したかったからだろう。

 (注2)1888~1966年。慶應義塾卒、英仏独の各大学で学ぶ。「日本聖公会のクリスチャン。・・・経済学博士。・・・小泉は共産主義の批判者であったが、・・・講和問題でもソ連とは与せず単独講和論を主張している。・・・1949年(昭和24年)に、東宮御教育常時参与に就き、皇太子明仁親王(現在の上皇)の教育掛として、ハロルド・ニコルソン『ジョージ5世伝』や福澤の『帝室論』などを講義し、新時代の帝王学を説いた。美智子皇太子妃実現にも大きく関与した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B3%89%E4%BF%A1%E4%B8%89 
 (注3)まきともお(1891~1968年)。慶應義塾卒、オックスフォード大卒。博士号を持たない。
 「父・槇武(1861年生) – 長岡藩士・槇小太郞の長男。慶應義塾を卒業後、奧羽日日新聞に入社、のちに主筆となる。米穀取引所理事、三井銀行を経て、1907年に新竹製脳会社を興して取締役に就任、その後、岩城炭鉱、新竹拓殖軌道の社長のほか、有阪製袋、新竹電燈、台湾製脳、台湾製塩、花蓮港木材などの重役を務めた。
  父方叔父・槇哲 (1866-1939) – 槇小太郞の次男。慶應義塾理財科卒業後、慶応義塾監督、舎監を経て、1896年北越鉄道入社、王子製紙を経て、1906年日本統治下の台湾で塩水港製糖支配人となり、のち社長に就任。台湾花蓮港木材、新日本砂糖工業、東北砂鉄でも社長を務めたほか、台湾倉庫、南昌洋行、台湾製脳、台湾電気興業、台湾生薬、南満州製糖の重役など、植民地経営に尽力した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%87%E6%99%BA%E9%9B%84

 (「注3」から、槇家が、慶應義塾一家であったこと、父も父方叔父もアジア主義人的生涯を送ったことが見て取れる。但し、槇に学者としての目ぼしい業績がないことは残念な点だ。)
 私としては、こう解して、初めて、どうして吉田が、防大のような、士官学校ではない、新しい形態の単なる大学をわざわざ作ったのかを説明できるように思えてきている。
 防大を、発足当時は理系だけの大学としたのも、吉田が、東大の雄でありかつ文系の雄たる東大法出の東大の学者達や官僚達や政治家達の立身出世至上主義とそれと裏腹とも言える非科学性に心底辟易していたからだろう。(太田)

 「君達は自衛隊在職中決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく自衛隊<生活>を終わるかも知れない。きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。御苦労なことだと思う。しかし、自衛隊が国民から歓迎され、ちややほやされる事態とは外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか国民が困窮し国家が混乱に直面しているときだけなのだ。言葉を変えれば君達が日陰者であるときのほうが、国民や日本は幸せなのだ。堪えて貰いたい。一生御苦労なことだと思うが、国家のために忍び堪え頑張って貰いたい。自衛隊の将来は君達の双肩にかかっている。しっかり頼むよ」

⇒これは、吉田は国防は国の基本であるところ、米国に(十分)守ってもらえなくなる時期が将来必ず来て、そうなったら自衛隊が中心になって日本の国防を担うことになるのだから、諸君、ないし、諸君の後輩達が国の基本を担うことになる、だから、日本の将来は諸君の双肩にかかっている、という趣旨だ、ということになる。
 しかも、それは、東大を凌ぐ、日本の最高の大学を出た、諸君の後輩達中、自衛官以外の道に進んだ人々が、国防を支える分野や国防以外の分野で最先端において活躍して日本に貢献してくれるであろうことを含めてのことだ、という趣旨でもあったのではないか
 仮にそうだとして、これは、決してリップサービスなどではなかったのではなかろうか。
 その吉田が、初内閣の時に司法大臣、次の内閣の時に、法務総裁、行政管理庁長官、法務大臣、保安庁長官/防衛庁長官、に任じた木村篤太郎の、法務大臣就任以降の言動を振り返ってみよう。↓(太田)

 「*1952.5.1(S27)法務総裁を務めていた木村篤太郎は戦犯の国内法上の解釈について、戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」とする通達をした。  これにより、戦傷病者戦没者遺族等援護法も一部改正され、遺族年金や恩給の対象とされていなかった今までと変更し、戦犯としての拘留逮捕者について「被拘禁者」として扱い、当該拘禁中に死亡した場合はその遺族に扶助料を支給する事になった。」
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kimura_to.html
 「警察予備隊から保安隊・警備隊へと繋がる再軍備政策にも関与し、保安庁長官(自衛隊発足後は横滑りで防衛庁長官)や隊友会会長を務めた。長官在任中の1954年に予備自衛官制度を制定。
 保安庁長官時代1953年6月9日、記者団に、警備5か年計画について発言し(1957年度に保安隊20万人、艦船十数万トン、航空機千数百機の再現をめざす長期防衛計画)、問題化した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E7%AF%A4%E5%A4%AA%E9%83%8E
 「<1953年に>参議院初当選、2期つとめ、<1965>年引退。再軍備、徴兵制を主張した。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%A8%E6%9D%91%20%E7%AF%A4%E5%A4%AA%E9%83%8E-1643696

⇒木村が法務総裁の時に行ったことは東京裁判の事実上の全面否定であり、防衛庁長官の時に言ったことは大軍事力整備計画案のぶち上げであるところ、その全ては首相の吉田茂の意思であり、木村が、引退後、再軍備、徴兵制、を主張したのも吉田の意向を代弁したものだ、と見てよかろう。
 最後に、憲法9条を巡る吉田と岸の関係を振り返っておこう。↓(太田)

 「岸<いわく、私は、>・・・<巣鴨の>獄中を通じて、新憲法はいかんと考え、改憲論者になっているけれど、その私に憲法調査会長をやれというのはどういう意味かと<吉田に>問うた。

⇒しかし、岸によって獄中で書かれた「断想録」(☆)中、新憲法への言及は見当たらないので、岸は、当時の大多数の国民や衆議院と貴族院の大多数の議員達と同様、憲法、就中その第9条、に殆ど関心などなかったと想像される。
 ちなみに、新憲法の政府案が上程されてからの経過は次の通りだ。↓

 「1946年・・・4月22日、枢密院で、憲法改正草案第1回審査委員会が開催された(5月15日まで、8回開催)。同日に幣原内閣が総辞職し、5月22日に第1次吉田内閣が発足したため、枢密院への諮詢は一旦撤回され、若干修正の上、5月27日に再諮詢された。5月29日、枢密院は草案審査委員会を再開(6月3日まで、3回開催)。この席上、吉田首相は、議会での修正は可能と言明した。6月8日、枢密院の本会議は、天皇臨席の下、第二読会以下を省略して直ちに憲法改正案の採決に入り、美濃部達吉・顧問官を除く起立者多数で可決した。
 これを受けて政府は、6月20日、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、憲法改正案を衆議院に提出した。衆議院は6月25日から審議を開始し、8月24日、GHQの指示なく追加した国家賠償請求権・刑事補償請求権・生存権・納税の義務などの若干の修正を加えて、圧倒的多数(投票総数429票、賛成421票、反対8票・・反対の青票を投じたのは、日本共産党の柄沢とし子、志賀義雄、高倉輝、徳田球一、中西伊之助、野坂参三、新政会の穂積七郎<(注4)>、無所属クラブの細迫兼光<(注5)>・・で可決した。
 続いて、貴族院は8月26日に審議を開始し、10月6日、若干の修正を加えて可決した。翌7日、衆議院は貴族院回付案を可決し、帝国議会における憲法改正手続は全て終了した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95

 (注4)1904~1995年。東大法経済科卒。「日本労働総同盟に入り、日本労働学校主事、「労働日本」主幹となる。戦時中は大日本産業報国会(総同盟と統合)参事、大日本言論報国会理事として活動した。・・・戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙で愛知2区(大選挙区制)から無所属で立候補して初当選する。当選後は無所属倶楽部、新政会、国民党、国民協同党に所属した。衆議院議員として日本国憲法制定には反対票を投じた。翌年、言論報国会での活動のため、公職追放となる。追放解除後の1952年の第25回衆議院議員総選挙において愛知5区から無所属で立候補したが落選。翌1953年の第26回衆議院議員総選挙で左派社会党から立候補して当選した。社会党では外交部会長、中央執行委員などを歴任」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%82%E7%A9%8D%E4%B8%83%E9%83%8E
 (注5)1896~1972年。東大法卒。「新人会<に入っていたところ、>卒業後は弁護士となる。労働農民党に入り、書記長となり、1929年新労農党が結成されると書記長となったが、翌年除名される。1932年治安維持法により検挙される。その後は故郷に帰り、厚狭町議、小野田市長、山口県弁護士会副会長などを務める。
 戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙で山口県から立候補して当選するが、間もなく公職追放となり、一時政界を去る。追放解除後の1952年の総選挙で山口1区から日本社会党左派公認で立候補して落選、翌1953年の総選挙で復帰した。衆議院議員は1966年まで務め、この間社会党中央執行委員、国会対策委員長、山口県連会長などを務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E8%BF%AB%E5%85%BC%E5%85%89

 すなわち、反対者は、枢密院では美濃部達吉のみ、また、衆議院では、共産党の従ってマルクス主義者の6名全員と、彼ら以外の(軍事重視を旨とする)マルクス主義者達中の2名、そして、貴族院については分からなかったが、貴族院議員で京都大学の憲法学者の佐々木惣一(注6)は反対であった(下掲)ところ、9条に係る事情を知っていた幣原と吉田、そして、9条を骨抜きにした修正を施したと信じた芦田(や、芦田と同様に信じた恐らくはいたとしても極めて少数の者)、が賛成したのは当然としても、それ以外で賛成票を投じた者全員が非難されてしかるべきだろう。

 (注6)「芦田解釈」と同じ第9条解釈を、佐々木惣一は1951年1月21日付の朝日新聞に掲載された小論で発表しているところ、それは、芦田が芦田修正の真意についての主張を初めて同年1月14日付の毎日新聞に公表した1週間後だったが、佐々木が芦田の主張に影響を受けたのか否かは定かではない。」
https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/111E0000017-9-5.pdf

 なお、岸は、「いわゆる護憲勢力という社会党や、共産党の連中がだな、憲法制定のときには、国会内で反対し<、>・・・賛成したのは<今>自民党<にいる>連中<、ときている。>」(*163)と回想してぼやいてみせているけれど、変節した連中も、変節しなかった連中も、全てが咎められなければならないのだ。(太田)

 すると吉田さんは、お前の思うようにやったらいい、俺も今の憲法は気にくわないけれど、<お前に明かさないが、昭和天皇とそれを受けた義父さんの意向だったので(太田)、俺は>あれを呑むよりほかなかったのだから、君らはそれを研究して改正しなきゃいかんと言う。
 それで私は会長を引き受けた。<その時、横から>矢次<いわく、>・・・その頃吉田さんはマッカーサーのところに、憲法改正の話をもっていったのではないかな。そのうちマッカーサーの首がとんでしまって、吉田さんは吉田さんはリッジウェーに話をすると、間もなく日米講和条約ができるから、憲法改正はその後にしたらどうかということになったという話を吉田さんから聞いたことがある。
 <これを受けて、更に>岸<いわく、>・・・吉田さんは憲法改正論者だったんです。しかも占領軍がいる間に改正しないと、できなくなると言っていた。その意味で私に思うようにやれと言ったのですよ。
 <これに対して、更に>矢次<いわく、>・・・吉田さんが憲法改正論者だったということは世間にはあまり知られていない。」(☆125)

⇒岸自身も矢次が指摘した話に頷いている(★94)ところ、このような背景事情からすると、吉田は改憲を占領軍にやらせようとして失敗し、その時点で、芦田解釈へと憲法9条の政府解釈を再変更する選択肢が理論上あったものの、それは、旧憲法下で、一度断って幣原に首相をやらせた自分を改めて首相に任命してくれた昭和天皇に対する反逆行為そのものであって、亡くなった岳父の牧野伸顕にも顔向けができないだけではなく、廃止されなかったところの、内奏(注7)、の際に昭和天皇から直接難詰されることが必至であることから採り得ず、日本の主権回復後の1953年に、岸に対し、憲法改正が事実上不可能であって政府解釈変更しか手段がないことを自覚させるために憲法調査会会長を命じ、岸の方は、実は憲法改正も政府解釈変更もやる気がなかったことから、ボロが出るのを避けるため、翌年、真逆の理由をあえて標榜して吉田から逃げた、と、私は見るに至っている。

 (注7)「芦田は戦前・戦中を通してリベラルな政治姿勢で知られており、斎藤隆夫の反軍演説の際には、牧野良三や宮脇長吉らとともに除名に反対票を投じた。政友会解党後は鳩山一郎率いる同交会に入り、1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では非推薦で当選した。・・・
 前任の片山が社会党委員長でかつ熱心なクリスチャンでありながら、昭和天皇の護持に心を砕いたのに対し、芦田は「新憲法になって以後、余り陛下が内政外交に御立入りになる如き印象を与えることは、皇室のためにも、日本のためにも良いことではない」と、憲法に記載されている通り、天皇を元首としてではなくあくまで象徴として扱うことを心がけた。首相就任当時、芦田は、これ以降閣僚の内奏を取り止める旨を奏上した。芦田自身も外相時代、天皇に上奏をほとんど行わなかったため、鈴木一侍従次長が「陛下は外交問題について御宸念遊ばしてゐる(中略)外務大臣が内奏に見えないのか(中略)見えるなら土曜日でもよろしい」と、当時の岡崎勝男外務事務次官に漏らしていた。それを聞いた芦田は「御上の思召」なら行くべきだと宮中へ参内した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A6%E7%94%B0%E5%9D%87

 なお、吉田は、憲法の規範性に拘泥していた(首相をやった)芦田均を頭が固い、また、(首相になりたい気満々の)岸信介には再軍備の意思なしと見抜いていて、どちらの人物も軽蔑していたのではなかろうか。
 (やはり首相をやった)幣原喜重郎や片山哲に対する、吉田の軽蔑理由は、前者は書いたことがある(コラム#省略)し、後者は後述するところを参照。
 引退後の吉田は、揃いも揃って(自分もその出身であることが恥ずかしい)東大法出のバカ者ども、という認識だったに違いない。(太田)

 (2)芦田均(1887~1959年)

 「1946年(昭和21年):自由党から出馬し当選。帝国憲法改正小委員会委員長に就任し、芦田修正条項を入れる。
  1947年(昭和22年):自由党から一派を率いて離党し、日本進歩党と共に民主党を結党。党総裁に就任。片山哲内閣の外務大臣就任
  1948年(昭和23年):3月10日に内閣総理大臣に就任するが、昭和電工事件により10月5日に総辞職、12月7日芦田自身も逮捕。以後、民主党野党派、国民民主党、改進党、日本民主党(最高委員)と保守傍流政党に属する。
  1955年(昭和30年):自由民主党結成に参加。・・・
  1958年(昭和33年):昭和電工事件の無罪判決が確定。
  1959年(昭和34年):71歳で死去。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A6%E7%94%B0%E5%9D%87

⇒芦田は、ずっと保守傍流政党に所属していたことと、昭和電工事件の被告であったことから、芦田解釈への政府憲法解釈変更・・当然のことながら、彼は、この範囲ならば憲法の規範性と抵触しないと考えていたはずだ・・を推進することができないまま死去した、ということだろう。(太田)

 (3)鳩山一郎(1883~1959年)

 「鳩山の追放は<1951>年8月6日に解除された。・・・
 翌年の第25回衆議院議員総選挙で自由党代議士に復帰した。しかし、吉田首相が「鳩山復帰後は総裁を譲る」という約束を事実上反故にしたことで、対立が表面化。バカヤロー解散での造反と吉田自由党への再合流を経て、1954年(昭和29年)11月24日に再び自由党を離脱して改進党と合流し、日本民主党を結党した。
 貴族主義的でワンマンと呼ばれた吉田茂は不人気で政権を降り、同年12月10日に首相となった。・・・1955年(昭和30年)11月15日、盟友で寝業師と言われた三木武吉<、や、とりわけ岸信介>の尽力により日本民主党・自由党の保守合同を成し遂げ、自由民主党(自民党)を結成した。これにより保守勢力と革新勢力(この時点では社会主義)を軸とした55年体制が確立された。1956年(昭和31年)4月5日に自民党初代総裁に就任し、7月8日の第4回参議院議員通常選挙では、「友愛精神」の政治理念と日ソ国交回復・独立体制の整備・経済自立の達成などの政策目標を訴え、鳩山ブームを起こした。・・・日ソ共同宣言を同年批准し、公約通り日ソ国交回復を成し遂げた。
 鳩山内閣においては、日本の独立確保という視点から再軍備を唱え、改憲を公約にしたが、与党で改憲に必要な3分の2議席には達しなかった。また、改憲を試みるために小選挙区制中心の選挙制度の導入を図ったが、野党からはもちろん、与党内からも選挙区割りが旧民主党系寄りという反対があり、「ゲリマンダーならぬハトマンダー」と批判され、実現には至らなかった。またエネルギー政策での功績では、原子力基本法を提出、成立させ、のちの原子力発電時代の礎を築いた。
 鳩山は日ソ共同宣言に署名して帰国した直後に総理・総裁引退の声明を発表。ソ連との国交回復後に内閣総辞職し政界の第一線を退いた。・・・
 なお、鳩山内閣期の1955年(昭和30年)に、在日米軍の駐留を認める旧日米安保に代わる条約として、在日米軍を撤退させ日本の集団的自衛権を認める「日米相互防衛条約」を検討し、重光葵外相がアメリカに打診したが、国務長官だったジョン・フォスター・ダレスは日本の軍備の不十分さなどから非現実的とこれを一蹴した。同席していた岸信介(党幹事長)はこのダレスの対応に大きなショックを受け、安保条約の改正のためには自主防衛努力の姿勢や西側陣営に属することを明確化する必要性があることを痛感、自らの政権でそれを実現していくことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A9%E5%B1%B1%E4%B8%80%E9%83%8E

⇒上掲引用文の最終段落(「なお」以下)については、岸が、「ダレスとの会談において、重光さんは自分には事前に何の相談もなく、アメリカに安保改定を提案したんです。」(★151)や「後で、どうして突如ああいうことを言ったんだと重光君に聞くと、彼にしてみれば、日米関係を本当に基礎のある、将来に向って変らないような強固な基盤をもったものにするには、アメリカ軍が日本内地で勝手気儘な振舞いをしているようではいかん、それでああいうことを言ったんだというんです。」(☆158)、と証言していることから、これは鳩山の了解なしに重光が独断でやったことだ、と見てよかろう。
 そのことは、岸が、「鳩山さんはあの健康だから、日ソ交渉、これだけはやるということだった。それがまた必要だったのは、日本を国際社会に復帰せしめるため、国連に加盟するのにソ連は常に拒否権を使っていた。その意味から日ソ交渉がどうしても必要で、それに全精力を傾けた。だから鳩山さんとしては、憲法改正についての気力がなかった。」(☆149)とも証言していることからも明らかだろう。
 憲法改正を行う気力が鳩山にはなかったのだから、安保改定を行う気力だってなかったと考えるのが自然だからだ。
 しかし、私に言わせれば、鳩山は、芦田解釈への政府憲法解釈変更を、まず、最優先順位で実行すべきだったのだ。
 いや、それを行い、再軍備に乗り出しておれば、ソ連との国交回復や平和条約締結は、容易に、しかも、日本に有利な形で実現できたはずなのだ。
 鳩山は吉田にわだかまりがあり、二人が胸襟を開いて話をすることはできなくなっていた(典拠省略)ことから、吉田が鳩山に知恵を付ける機会はなかったことだろうが、吉田は、やはり、東大法出の鳩山はてんでダメだな、と溜息をついていたことだろう。
 とまれ、この時、鳩山が憲法政府解釈変更/再軍備をやらなかった、というその後の日本にとっての致命的ミスに、鳩山のすぐ側にいた岸は付け込む形で岸カルトの隠れ「教義」を構築した、と、私は見るに至っている。(太田) 

 (4)東大の政治「学者」達

  ア 南原繁(1889~1974年)

 「1910年(明治43年)
6月 – 第一高等学校卒業。
7月 – 東京帝国大学法学部政治学科に入学する。入学後、内村鑑三の弟子となり、生涯を通じて無教会主義キリスト教の熱心な信者であった。一高に入学したときの校長は[キリスト教徒(クエーカーの
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B8%A1%E6%88%B8%E7%A8%B2%E9%80%A0 ]新渡戸稲造であり、影響を受けた。
・1914年(大正3年)
7月 – 東京帝国大学法学部政治学科卒業後内務省入省。
1917年(大正6年)
3月 – 富山県射水郡郡長に任ぜられる。灌漑排水事業計画の取り組みや農業公民学校(現・富山県立小杉高等学校)の設立に関わった。
・1919年(大正8年)
1月 – 内務省警保局事務官に任じられる。労働組合法の草案作成などを手がける。
・1921年(大正10年)
5月 – 内務省を辞め、東京帝国大学法学部助教授に就任。内務省時代、アテネ・フランセでフランス語を学んでいた。<欧州>留学を経て、小野塚喜平次の後任として、政治学史を担当。
・1925年(大正14年)
8月 – 教授となり、政治学史を担当。西欧の政治哲学とキリスト教をバックボーンに共同体論を深め、その研究は、1942年(昭和17年)『国家と宗教――ヨーロッパ精神史の研究』(岩波書店、1942年)、『フィヒテの政治哲学』(1959年、岩波書店)に結実する。福田歓一(政治学史)、丸山眞男(日本政治思想史)は彼の教え子である。
・1945年(昭和20年)
3月 – 東京帝国大学法学部長に就任。高木八尺、田中耕太郎、末延三次、我妻栄、岡義武、鈴木竹雄とともに終戦工作に携わるが失敗に終わり、敗戦を迎える。
12月 – 東京帝国大学総長に就任。
・1946年(昭和21年)
2月11日 – 紀元節には日の丸をかかげ、日本精神そのものの革命を通じての「新日本文化の創造」を説く。日本に宗教改革が必要であり、真の覚醒は神の発見とその神に従うことで可能となるため、日本的神学とは別の宗教が必要と述べた。
3月 – 貴族院勅選議員に任じられる(22日 – 1947年5月2日。無所属倶楽部所属)。単独講和を主張した当時の内閣総理大臣・吉田茂に対し全面講和論を掲げ、論争となった(単独講和と全面講和論)。このことで、南原は吉田茂から「曲学阿世の徒」と名指しで批判された。・・・
 無教会主義の立場から国家主義とマルクス主義を批判。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E7%B9%81

⇒南原は、日本をキリスト教国にしなければならない、めいたことを言っているただ一点だけでも、政治学者ではなく道学者である、と言われても致し方あるまい。
 「東大政治「学者」」の「学者」、は、学者、ならぬ、道学者、の意味なので、念のため。(太田)

  イ 丸山眞男(1914~1996年)

 丸山については、様々な機会に論じてきたので、屋上屋を架す感が無きにしも非ずだが・・。

 「「日本を破滅的な戦争に駆り立てた内的な要因は何だったのか」。これが丸山氏の問題意識であり、その分析は「脳外科医の手術に似ている」と評された。

⇒この問題意識そのものが誤りであるにもかかわらず、生涯、誤りである可能性に気付いた気配がないことだけをとっても、丸山は、思い込みの激しい、学者失格人間だと言えよう。(太田)

 そこで浮かび上がったのは、政治的な意思決定への責任意識が極めて希薄な軍人や政治家の存在であり、天皇制国家それ自体が「無責任の体系」に支えられていたこと、そして日本人における「主体性意識の欠如」だった。・・・

⇒丸山は、ナチスドイツは「責任の体系」であったとしたところ、かかる主張それ自体がナンセンス(コラム#省略)だが、そのことはさておき、かかる丸山の主張に対して内在的批判を行うとすれば、例えば、自らが担っていたところの、外交大権と統帥権マターに係る「政治的な意思決定」についての「責任意識が極めて希薄」であったために、「日本を破滅的な戦争に駆り立てた内的な要因」の最たるものであるはずの昭和天皇、に対する批判を丸山が全く行わず、「軍人や政治家」だけを批判したのは論理的一貫性を欠いていることが挙げられよう。
 (「丸山は,張作霖爆破事件後の田中義一内閣の総辞職を決定づけたのは天皇だとして父・幹治が「天子さんはえらい」と言うのを聞いて以来,昭和天皇に好ましさを感じていたことと,大日本帝国憲法に規定されている立憲主義的天皇制を肯定していた」
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwi91vumkPb5AhVFRt4KHXiVDScQFnoECBAQAQ&url=https%3A%2F%2Fwaseda.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D16360%26item_no%3D1%26attribute_id%3D162%26file_no%3D1&usg=AOvVaw2R9BwsSqr1_3GL6VQLSQVp
というが、そんなことで、彼の上記論理的一貫性の欠如が何ら免責されるわけではない。)(太田)

 「大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』に賭ける(かける)」と言い切った丸山氏・・・

⇒丸山は戦前の日本が民主主義だったのか否かについての見解を明らかにしていないが、彼が単に怠慢だったのか、それとも逃げたのか、どちらにせよ、誹りを免れない。
 私見では、男子普通選挙実現以降の戦前の日本は、外交大権と統帥権に係る政府の意思決定以外の全ての意思決定に関して民主主義が貫徹していたことから、少なくとも内政に関しては民主主義だったのであり、他方、戦後は、米国の属国となり、外政の基本を米国に委ねているのだから、戦後日本の民主主義度だって戦前とほぼ同じで変化はない、と言えよう。
 だから、丸山は、戦後日本の政治体制を肯定するのなら、戦前のそれも肯定しなければならないのだ。(太田)

 「進歩的文化人」や「近代主義者」といわれる人たちに共通な、西欧近代をモデルに日本の政治や社会を分析し、その「前近代性」を断罪する方法の限界を指摘する声も多い。・・・

⇒その通りであり、復習的に私見を申し上げれば、狭義の欧州諸国もイギリスをモデルに近代化に努める歴史を持つ点で日本等と大同小異なのであり、これら諸国のモデルとなったイギリスは、どこまで遡ってもそうであったところの、戦いを生業としつつも平時には個人主義/資本主義、というユニークな文明の国なのだ(コラム#省略)。(太田)

 サンフランシスコ講和条約締結の際、丸山氏ら<は>多数講和ではなく、全面講和を主張した」
https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2003/01291/contents/105.htm

⇒自分のメンターの南原の主張の驥尾に付しただけなのかどうかは知らないが、実現不可能だった全面講和を主張するなど、南原も丸山も、そしてまた下出の坂本も、吉田茂の形容した「曲学阿世」・・一応学者、より正確には科学者ではある・・というより、科学者と称されるに値しないところの、道学者、であると断じてよかろう。(太田)


[日本の戦後文系学問の悪しき理念型となった南原政治学]

 「南原繁・・・の<欧州>精神史の捉え方がプラトン/アウグスティヌス/トマス/ルター/カント/ヘーゲル/ニーチェの系譜からマルクス主義とナチズムを位置づけ、日本国家・民族の針路を考究するという、現代からすると余りに狭い西欧中心主義の視点に捕らわれている<し>、イスラム文明との関係性抜きにキリスト教や欧米社会文化の発展を理解できない<のにイスラム教を全く無視しているし>、また南原のキリスト教の理解もその多様性やユダヤ教などへの顧慮がまったく欠落している・・・

⇒東大の「学者」達は、長らく、欧米先進国の文献を翻訳したり要約したりして日本の官民に参考として供するのが使命であったところ、南原らもそういった考え方を引きずっていたことから、イスラム教など、欧米先進国の学者達がイスラム教世界を(古典ギリシャ等の文献翻訳の貢献等を除いて)正当に低評価してきた以上、イスラム教「専門家」以外はイスラム教を取り上げないのは当たり前だし、かつまた、欧米先進国の学者達もまたユダヤ人(ユダヤ教徒)に対する偏見から自由ではなかった以上、ユダヤ教に顧慮しないのも当たり前なのであって、このような南原批判は南原に対して酷というものだ。
 単に、南原は、この点に関しては、科学者ではなく、(道学者でもなく、)翻訳家/要約紹介者である、と指摘すれば足りる。(太田)

 南原<は>、教育勅語は天地の公道を示したものと肯定的にとらえていた。それにとどまらず、彼は神権的国体論と神聖天皇崇敬もほぼ当時の政府見解に即して受容して、さほどの批判もしていなかった。「玉音放送」を聞いた南原は天皇の心情を思って落涙したとか、「天長節」を祝う演説で、一系の皇室を上に抱く日本が遠き昔から聖別して、天皇の「宝寿の無窮」を祝う日と述べるなど、神権的国体論を無批判に受け入れていたようです。
 新憲法の改正に対しても、南原は批判的で、それは余りにも西洋的であり、日本の統治権の独自性は、「日本古来から伝わり、今日に至るまで守られてきました、いわゆる神勅にある」(40頁)と論じ、「肇国以来」、神勅に由来する天皇の地位を尊ぶ国体が存在し続けたという認識をもっていた。国家が始まって以来、一度も変わっていない国体が日本の民族的共同性の核にあるものだというのです。従って、憲法改正によって西洋的な民主国家になるのは行き過ぎで、君民同治の日本民族共同体を形成すべきだという論を展開していたようです。そこには神聖天皇崇拝や神権的国体論が明治維新以降に造られたものという認識はうかがえません。西洋思想に依拠し、近代人としての自律・自由を尊ぶ政治理論を構築してきたはずの南原が、ここまで神権的国体論の立場を深く受け入れてきたの<だ。>・・・

⇒南原は、欧米先進国の政治学文献の翻訳家/要約紹介者に過ぎず、また科学者でもないのだから、日本に関して平均的な戦前の日本人的な見方をしていても全く不思議ではないのであって、そんなことを問題にする方がおかしい。(太田)

 「人間革命」という用語は、敗戦後の一九四五年一二月に東京帝国大学総長に就任した南原繁によって頻繁に語られ、当時の流行語になっていた。南原は日本が全体主義国家に成り果て、無謀な戦争に突入して破綻したのは、軍閥や一部官僚・政治家の無知と野心によるとしながらも、それらを許したのは「自律と自由」な精神を失って迎合した知識人や国民の「内的欠陥」にあると捉え、戦後における真の民主主義実現のためには日本国民の精神的変革が不可欠であることを敗戦直後から主張した。総長就任後の一九四六年一月一日のラジオ放送「学生に興ふる言葉」一九四六年一月一日)では、戦後の改革には「社会的革命と相並んで、或いは寧ろその前提として人間の革命でなければならぬ。人間の革命―わが国民の精神革命―はいかにして可能であるのか」という問題提起のもとで語った。また一九四七年九月三〇日の卒業式演述「人間革命と第二産業革命」では、人間そのものの革命、すなわち「人間革命」なくしては民主的政治革命も社会的経済革命も空虚となり、失敗に終わると警鐘を鳴らしたのである。

⇒これも単純な話で、南原は、日本人はみんなキリスト教徒になるべきだ、と、ほんの少し韜晦しながら言っているわけだ。(太田)

 それに刺激されてか、一九四六年の夏頃には日本では「人間革命」を当時の知識人やメディアがこぞって主張しはじた。哲学者・柳田謙十郎や政治学者・中村哲、経済学者・高島義哉のほか、田中美知太郎、清水幾太郎、下村寅太郎、片山正直、恒藤恭、長田新、出口勇蔵)、片山敏彦、新明正道、甘粕石介、 羽仁五郎などである。しかし、一九五〇年代に入ると論壇ではマルクス主義が優勢となりはじめ、時代状況として朝鮮戦争の勃発と警察予備隊の創設、サンフランシスコ講和条約、レッドパージなどを背景に、「人間革命」論は迂遠な主張として顧みられなくなった。
 また南原が説く「精神革命」「人間革命」論には、彼が内村鑑三の無教会派クリスチャンであったからであろうが、人間の内面を自省的に突き止めていくことで、人間を越えた超主観的な絶対精神―「神の発見」と、それによる自己克服が必要だと説くように、キリスト教における宗教革命がもたらしたプロテスタント的宗教性によって実現すると考えていた。先の島薗講演はこの点を鋭く摘出し、その一方で南原の国体論や天皇観が明治以来の政府による創作であるにもかかわらず、それを戦後も無批判に受容していたことを明らかにした。・・・
 丸山真男<は>南原の弟子筋にあた<る>・・・が、・・・丸山の思想と学問は南原の対極、もしくは否定性のうえにある・・・。南原が政治は「文化創造の業」の一つであり、教育や芸術と並ぶ一つの固有の領域と捉えるのに対し、丸山はそれは「暴力」や「支配階級の搾取の道具」というネガティブなもので、人間活動の諸領域に亘って働く力と考えていました。ファシズムへの批判では共通してい・・・たが、南原は個人を超越すると共に「神の国」に連なり、「世界主義」に結びつく民族共同体の確立に賭けたのに対し、丸山は民族や国家に先立つ主体的な近代的個人の可能性を探究しつづけてい・・・た。・・・」
http://tnakano1947.asablo.jp/blog/2020/09/21/9297749

⇒南原は、欧米に、政治学なる、法学や経済学等と区別される学問、すなわち文化領域、があると言っているのに対し、丸山は、政治も(私の想像では)法も経済も、人間社会のあらゆるところに遍在していると言っているのであって、相互に何の矛盾もない。
 丸山は、南原が、欧米的価値観、就中欧米的理想的人間像、を至上のものとする点を踏襲しつつ、「改善」したに過ぎないのであって、「改善」したのは、第一に、キリスト教徒には、カトリック教徒を中心とする中南米等の非近代人も多数いることから、キリスト教徒一般ではなく、プロテスタントを中心とする近代人、へと日本人を人間革命させなければならないと思い至ったことであり、第二に、このことと、南原自身の自己反省に由来すると思われるが、南原から、研究対象を欧米ではなく日本にすべきであるとの指導を受けたこと、とを踏まえ、日本における近代人形成史の研究を専攻分野にしたことであり、あらゆる意味で、丸山は南原の忠実な弟子なのだ。
 (付言すれば、第三に、対象を日本にしたところ、欧米における日本の政治史研究が乏しく、その「翻訳家/要約紹介者」たりえなかった点でも、結果として南原政治学を「改善」することとなった、と言えそうだ。)
 だから、この南原/丸山は、自分(達)を含めたところの、理想的人間、へと大多数がそうではない日本人を導こうとする、という意味での、繰り返しになるが、道学者なのであって、経験科学たる科学を追究する科学者ではないのだ。
 さて、振り返ってみれば、明治維新後、蕃書調所当時とは違って、帝大(東大)には、欧米の学問の翻訳/要約紹介という点では変わらなくても、暗黙裡に、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサスの遂行のための知的手段提供を目的としたところの、欧米の学問の翻訳/要約紹介を行うことが期待されたのであって、そのことは、帝大(東大)の学者達の多くも自覚していた。
 その証左が、南原の恩師の政治学者たる小野塚喜平次を含む、東大教授6人と学習院教授1人からなる、1903年6月10日付の七博士意見書(注8)の首相・外相への提出だ。

 (注8)「東京帝国大学教授戸水寛人、富井政章、小野塚喜平次、高橋作衛、金井延、寺尾亨、学習院教授中村進午の7人によって書かれた。6月11日に東京日日新聞に一部が掲載され、6月24日には東京朝日新聞4面に全文掲載された。内容は桂内閣の外交を軟弱であると糾弾して「満州、朝鮮を失えば日本の防御が危うくなる」とし、ロシアの満州からの完全撤退を唱え、対露武力強硬路線の選択を迫ったものであった。
 この意見書は主戦論が主流の世論に沿ったもので、反響も大きかったが、伊藤博文は「我々は諸先生の卓見ではなく、大砲の数と相談しているのだ」と冷淡だったという。
 なお、戸水は日露戦争末期に賠償金30億円と樺太・沿海州・カムチャッカ半島割譲を講和条件とするように主張したため、文部大臣久保田譲は1905年(明治38年)8月に文官分限令を適用して休職処分とした。ところが、戸水は金井・寺尾と連名でポーツマス条約に反対する上奏文を宮内省に対して提出したため、久保田は東京帝国大学総長の山川健次郎を依願免職の形で事実上更迭した。これを受けて、東京帝国大学・京都帝国大学の教授は大学の自治と学問の自由への侵害として総辞職を宣言した。このため、翌年1月に戸水の復帰が認められた(「戸水事件」)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%8D%9A%E5%A3%AB%E6%84%8F%E8%A6%8B%E6%9B%B8

 さて、杉山構想の存在こそ知る由もなかったとしても、終戦によって、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス、的なものが終焉したこと、従って、東大の学者には翻訳/要約紹介だけではなく経験科学的研究を行うべき秋が来たことを、少なくとも政治学者の南原は察知していてしかるべきであったというのに、察知できず、当然丸山にもそうするよう促すこともないまま、道学者へと身をやつしてしまったことで、しかも、彼が、戦後の東大の初の総長となったことで、全法学部のみならず、法経文の全文系学部の脳死をもたらしたばかりか、理系の全学部にも、取り返しのつかない悪影響を及ぼしてしまった、というのが、私の取敢えずの仮説だ。
 (日帝強占期史観が「発展」したところの、金王朝史観と文カルト史観、の(実際の、或いは、事実上の)社会的強制によって、文系科学の発展が阻害された、北朝鮮と韓国において、それぞれ、核ミサイル、豊かな社会、を作ることはできたものの、中共ですら生み出しているところの、自然科学分野のノーベル賞受賞者を、ただの一人も生み出せていないことを想起せよ。)
 とまれ、今回の演題に即して言えば、南原や丸山が、道学者達として、非武装中立論と親和性のある全面講和論を主張したことが、丸山の弟子である坂本義和による非武装中立論の提起を通じて、戦後日本の「左」の再軍備反対論の「学問的」根拠を与えることになったことの罪は余りにも大きい。(太田)

  ウ 坂本義和(1927~2014年)

 「父は東亜同文書院教授の坂本義孝。」一高、東大法、1954年に東大法助教授、その後、「シカゴ大でハンス・モーゲンソウに師事。・・・1964年から1988年まで法学部教授として国際政治学を担当する。・・・東大教授退官後は明治学院大学、国際基督教大学で教える。・・・
 戦後冷戦期の論壇において、<米国>に批判的な平和主義の立場から、高坂正堯や永井陽之助らと外交や安全保障政策をめぐって、論戦を交わす。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E7%BE%A9%E5%92%8C
 「東大法学部で政治学者の丸山真男氏に師事。1959年に雑誌「世界」掲載の論文「中立日本の防衛構想」で、日本の中立化と国連警察軍の駐日論を提唱し注目を集めた。以降、核兵器否定と平和主義を主張し続け、戦後平和主義の理論的支柱として活躍した。」
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG06H2F_W4A001C1CC1000/

⇒私は坂本の授業に出て単位も取っているのだが、講義の中身が薄っぺらで呆れた記憶だけあって、彼の著書ももちろん読んでいるのだが、何の記憶もない。。
 日本が中立化するのであれば、(核抑止をどうするのかという問題はさておくとして、)国連警察軍なるものの日本駐留などという実現困難なものを追求する以上、それが実現するまでの間、日本が再軍備するほかなかろう。
 とにかく、右翼だろうが左翼だろうが、日本の再軍備を最初から選択肢から除外する者など、およそ政治学者とは言えないが、坂本は、国際政治学者なのだから、日本以外のあらゆる国々の安全保障も、同様のものが最善で実現可能であると論じなければならないのに日本についてだけ論じたと思われるのであって、仮にそうであったとすれば・・こういったことを確認する気にすらなれない・・、坂本は、南原や丸山よりも一層質(たち)の悪い道学者である、ということになろう。(太田) 


[非武装中立論成立まで]

 非武装中立のウィキペディアは、提唱者を挙げていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E6%AD%A6%E8%A3%85%E4%B8%AD%E7%AB%8B
 また、コトバンクは、提唱者群の中に、坂本義和を登場させていない。↓

 「安倍能成、中野好夫ら知識人が集う平和問題談話会は1950年1月「講和問題について」と題する全面講和・中立不可侵・軍事基地提供反対の声明を発表し(『世界』1950年3月号)、社会党も同年4月の第6回党大会でいわゆる「平和三原則」の一つとして中立的立場を確認し、朝鮮戦争勃発後の7月の第2回中央委員会で非武装中立を決定した。・・・

⇒丸山眞男は平和問題談話会のメンバーだが、南原繁はそうではない。他方、南原の次の東大総長の矢内原忠雄(東大経)のほか、東大法教授の、鵜飼信成、川島武宜、高木八尺、もメンバーだ。(太田)

 1959年(昭和34)、社会党は「積極中立」構想を打ち出して以降、「日本の平和と安全を保障する道(非武装中立構想・石橋政嗣(いしばしまさし)案、1966)」「非武装・中立への道」(1968年12月)を経て、1969年の第32回臨時党大会で「日米安保体制の打破、自衛隊の縮減改組、平和中立の達成、非武装不戦国家の実現」を決定確認した。これは同党の1970年代までの対外政策の基本方針となった<。>」
https://kotobank.jp/word/%E9%9D%9E%E6%AD%A6%E8%A3%85%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E8%AB%96-120717
 
⇒しかし、(調べがつかなかったが、)平和問題懇話会の声明は、スローガンに留まっていて、非武装中立の何たるかについて、具体的に何も語っていなかった、と、私は見ている。
 それを、初めて、1959年に行ったのが坂本義和なのだ。↓

 「「中立日本の防衛構想」(『世界』1959年8月号)・・・の中で坂本先生は、中立に向かって日本は方向転換するべきだということを強く唱えていますが、非武装中立とは言っていません。
 当時の社会党は非武装中立論でしたが、坂本義和は、現に存在している自衛隊は大幅に縮小するけれども、国連を中心とした多国籍からなる常時駐留軍を招き、その中に自衛隊を組み込んでいくことを提唱しました。
 日米安保が現在のように当たり前になっていると、非現実的なことを語っているように聞こえてしまうかもしれませんが、例えば1959年に日本の安全を保障していく上で米軍の援助に期待すると言っていた人は、『読売新聞』の調査でも18%にすぎませんでした。
 何らかの中立的な方法、例えば国連に頼るとか、日本が勝手に中立になるとか、あるいはアメリカだけではなくて、ソ連や中国とも仲よくしようというのを含めて、中立主義的な方法が良いと思っている人が、世論の中で67%。安保条約でアメリカに頼るということが良いと言っていたのは14%でした。
 ・・・そういう条件の中で、日本が自国の安全を守っていくには何あるいはどういう方法が必要なのかということを考えたのが、「中立日本の防衛構想」という論文でした。・・・成蹊大学法学部教授 遠藤誠治」
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/2286/1/0130_018_009.pdf
 

 遠藤は、これが、あたかも非武装中立論ではないかのように書いているが、「国連を中心とした多国籍からなる常時駐留軍を招き、その中に・・・大幅に縮小<された>・・・自衛隊を組み込」んだとして、その時点以降は、日本の政府は自衛隊に対する指揮権はなくなるわけだから、日本としては非武装中立、となるわけだ。(太田)

 (5)高坂正堯(1934~1996年)

 京大法卒の「高坂が一般に知られるようになった契機は、『中央公論』誌での活躍からで、高坂は1963年にハーバード大学留学から帰国した直後に、当時『中央公論』編集部次長であった粕谷一希の依頼により「現実主義者の平和論」を同誌1963年1月号に寄稿、論壇にデビューした。高坂は同論文において、当時日本外交の進むべき道として論壇の注目を集めていた坂本義和らの「非武装中立論」の道義的な価値を認めながらも、実現可能性の難しさを指摘し、軍事力の裏付けのある外交政策の必要性を主張した。
 さらに翌1964年に吉田茂を論じた「宰相吉田茂」は、吉田の築き上げた日米基調・経済重視の戦後外交路線をその内外政に即して積極的に高く評価し、否定的な評価が広まっていた吉田に対する評価を一変させ、現在に至る吉田茂への肯定的評価を定着させることとなる(また、同年に寄稿した「海洋国家日本の構想」では、島国の日本が海洋国家として戦略的・平和的発展を目指すべしと論じて、この議論を補強する論を展開している)。・・・

⇒当時の世間の吉田茂否定論も大部分は誤解だったわけだが、高坂の吉田茂論に至っては吉田の完全な誤解であり、この高坂の言う吉田茂の日米基調・経済重視外交路線(=永井陽之助の吉田ドクトリン(下出))は、「タカ派」を標榜する岸カルトによって、ちゃっかり、タテマエ上の克服対象として利用されてしまうことになる。(太田)

 有識者研究会を幾つも設置し、長期的な政策検討を行った大平内閣では、その一つである「総合安全保障研究グループ」の幹事として、報告の実質的な取りまとめを行った。軍事力による安全保障だけでなく、外交政策・経済・エネルギー・食料などを総合して日本の安全保障を追求すべしと論じた同グループの報告書は、高坂が肯定的に評価してきた戦後外交路線の性格を、戦略的なものとして実現しようとする意志の現れであったと評価する研究者もいる。

⇒(再軍備による)軍事力による安全保障抜きの総合安全保障論は、吉田ドクトリンの恒久化を図るものでしかなかった。(太田)

 その後、1983年に設置された中曽根康弘首相の私的諮問機関「平和問題研究会」でも座長を務め、防衛費1%枠見直しの提言を行ない、当時の防衛力整備の理論的根拠とされていた基盤的防衛力の見直しを提言した。
 高坂は自民党の雑誌『月刊自由民主』に少なくとも73本の論考を掲載しており、外務大臣だった藤山愛一郎とは「岸時代岸時代と日米安保」について対談し、高坂は「岸さんという人は旧式のナショナリストなんですよ」と語っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%9D%82%E6%AD%A3%E5%A0%AF

⇒吉田茂を、岸のように意図的に曲解したのではなく、単に、完全に誤解した高坂は、論理必然的に、岸信介についても完全に誤解してしまうことになったわけだ。(太田)

 (6)永井陽之助(1924~2008年)

 「 東京大学法学部政治学科卒業。
 東京大学では堀豊彦に師事。当初は政治意識の研究など、政治学・政治理論研究にその重点を置いていたが、ハーヴァード大学での在外研究中にキューバ危機という米ソ二大国間のパワー・ポリティクスを目の当たりにし、強い衝撃を受ける。
 一方で、依然として日本国内ではそのような権力政治的要素を等閑視し、イデオロギーに規定される形で国際問題についての硬直化した議論が行なわれていることに不満を感じたことから、国際政治に関する研究・評論を開始、
 『中央公論』1965年5月号に発表した「米国の戦争観と毛沢東の挑戦」で論壇にデビューする。同時期に論壇に登場した高坂正堯とともに、現実主義の立場から日本外交を論じた。
 核時代の権力政治という状況への注目から、いわゆる非武装中立主義だけでなくタカ派に対しても批判的であり、1980年代前半の米ソが厳しい対立状態にあった「新冷戦」期には、岡崎久彦らを軍事力を行使可能な手段として過大視する「軍事的リアリスト」として批判、一方で軽武装・経済重視の戦後日本外交を「吉田ドクトリン」<(注9)>と名づけ高く評価し、岡崎との間に「政治的リアリスト―軍事的リアリスト」論争を展開した。

 (注9)「1980 年代から、永井陽之助、高坂正堯といった研究者によって用いられるようになった・・・「吉田路線(吉田ドクトリン)」<は、>・・・(1)<米国>との同盟関係を基本とし、それによって日本の安全を保障する、(2)したがって日本の防衛費は低く抑える、(3)そのようにして得られた余力を経済活動に充て、通商国家としての日本の発展を目指す、というものである。」(宮城大蔵)
https://www2.jiia.or.jp/kokusaimondai_archive/2010/2015-01_002.pdf?noprint

 永井の評論活動は三島由紀夫[要出典]、福田恆存などからも高い評価を受けていた。福田恆存は『平和の代償』を「論壇のバラバラ事件」と称している(竹内洋によれば、戦後の進歩的文化人の思惟構造をバラバラにしたという意味である)。また菅直人は大学時代に永井の影響を受け、自らの所信表明演説でも言及している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E9%99%BD%E4%B9%8B%E5%8A%A9
 『現代の戦略』(1985年)(上掲)は、「「日本の国家戦略はいかにあるべきか」ということをテーマとして考察した一冊で、政治的リアリズムの立場から戦後の経済重視・軽武装路線を「吉田ドクトリン」と定義付け、軍事的リアリストへの批判を展開した戦略論の名著で<、>・・・同書の内容構成は、「I 防衛論争の座標軸」、「II 安全保障と国民経済―吉田ドクトリンは永遠なり」、「III ソ連の脅威―軍事バランスという共同幻想」、「IV 有 事―日米運命共同体の幻想がくずれるとき」、「V 戦略的思考―死こそ赤への近道」、「VI 摩擦と危機管理」となってい<る>。」
https://honto.jp/netstore/pd-review_0628173013.html

⇒高坂、永井ともハーヴァード大留学経験があるわけだが、大胆な想像(下司の勘繰り?)をすれば、そこで、どちらもビジネススクールに関心を持ち、経営学、就中、マーケティング理論、に目を啓かされたのではなかろうか。
 年齢こそ相当違うが、この両者は、(相互に意識的・無意識的に連携しつつ、)戦後日本の大半の世論を標的に、(ためにする辛辣過ぎる批判であるとの叱正は甘んじて受けるが、)方や京大の、そして方や東大残留に失敗した、政治学者僭称者達、としての、東大の政治学者僭称者達、への劣等感に由来する卑しい対抗意識をバネに、吉田ドクトリンなる、客観的には、吉田茂自身とは全く無縁の、口当たりこそいいが有害な新しいイデオロギー商品を開発ならぬ捏造し、それを鳴り物入りで宣伝し、売り込むことによって名声なる大枚の利益を確保することに成功したところの、(世事に疎いが東大ブランドに依拠することができた、東大の道学者達、ならぬ、)世知に長けた非東大の売文業者達、とでも称すべき人々であり、この2人こそ、まさに、曲学阿世と呼ばれるにふさわしい、国賊達だったのだ。
 (事実上の、非武装と主権の放棄、を含む、有害な、このトンデモ・イデオロギーを、かりそめにも現実主義者(リアリスト)を僭称するこの2人がでっちあげた、この詐欺的な代物を、掴まされ、何の疑問も抱かずに信奉してきた、戦後日本の大半の国民には、憐憫の情は抱きつつも唖然とせざるをえない。
 日本でオレオレ詐欺にひっかかる人が後を絶たないわけだ。)

 蛇足ながら、以上、振り返ってきた道学者達と曲学阿世達6名中5名が国費を使って欧米に留学しているというのに、欧米の国制も政治も、軍事がその基盤をなしている、という肝心なことを学ばずに、しかも、欧米の非人間主義(本来的侵略性や人種主義や階級制/階層制、等)への問題意識に目覚めないまま、帰国したことは、国費の無駄遣いであり、かつての一官僚として、また、一納税者として、遺憾極まりないことだと断じざるをえない。(太田)

3 岸カルトを巡って

 (1)岸信介と創価学会

 「1930年(昭和5年)11月18日<、>・・・日蓮の仏法精神に基づく教育者の育成と、雑誌の発行を目的と<して>・・・創立。・・・
 創価学会は1941年10月の機関紙「価値創造」第3号において、『我が闘争』について大きく紙面を割いて紹介し、ヒトラーを「現代の転輪聖王」と持ち上げ、理想的な君主とみなしていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E3%81%8C%E9%97%98%E4%BA%89

⇒滅茶苦茶な時代迎合やおまへんか、と、言いたくなる。(太田)

 「1943年(昭和18年)6月 – 日蓮正宗総本山大石寺に呼ばれた<初代会長>牧口と戸田らは、軍部から強制された神札受け取りを拒絶する(「神札問題」)。その後、創価教育学会は大石寺から登山停止を言い渡される。
 7月 – 治安維持法違反・明治神宮に対する不敬罪の容疑で、牧口とともに逮捕される。
 1945年(昭和20年)7月 – 豊多摩刑務所(後の中野刑務所)から出所する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E7%94%B0%E5%9F%8E%E8%81%96

⇒ここまで、創価学会が、戦前日本の潮流に掉さした点と対英米戦中に軍部に反抗した点、で、岸の軌跡と似通っていることに気付かされる。(太田)

 「創価学会第二代会長・戸田城聖は創刊した宗教雑誌『大白蓮華』第二号(一九四九年八月一〇日)の巻頭言において、「かつて、東大の南原総長は、人間革命の必要を説いて、世人の注目をあびたのであったが、われわれも、また、人間革命の必要を痛感する」と語り、自身の小説や教団の中心思想として展開し、今日では海外の創価学会インターナショナルによって世界的に広がった。」
http://tnakano1947.asablo.jp/blog/2020/09/21/9297749 

⇒「宗祖を本仏と仰ぎ、本門戒壇の大御本尊を信じ、題目を唱えるならば、どんな者でも必ず成仏できるとしている。また、・・・日蓮正宗における戒・・・は捨悪と持善である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE%E6%AD%A3%E5%AE%97
ことから、人間革命=成仏、と捉えれば、この段階では、日蓮正宗と創価学会の間に教義上の齟齬は基本的にはない。
 ちなみに、田中智學は、「『日本書紀』巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」にある<「>・・・下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎」(上は則ち乾霊の国を授けたまいし徳に答え、下は則ち皇孫の正を養うの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為さん事、亦可からずや。)<(>日本書紀巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」<)>・・・という神武天皇の宣言に初めて着眼し、「養正の恢弘」という文化的行動が日本国民の使命であり、その後の結果が「八紘一宇」であると、「掩八紘而為宇」から造語した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%99%BA%E5%AD%B8 
、すなわち、田中は、日蓮のホンネを見抜き、日本国民は養正=成仏しており、養正=成仏するよう、(日本国民以外の)世界の全ての人々に促して行くべきだ、と唱えたのに対し、日蓮正宗/創価学会は、日蓮のタテマエ通り、折伏活動を通じて、日本国民中、まだ成仏していない者の成仏も行なわなければならない、としたわけだ。(太田)

 「創価学会は<、>日蓮正宗の在家の信徒団体であったが、戸田が布教の利便と宗門である日蓮正宗を外護するため、宗門に宗教法人格の取得の許可を願い出た。そこで日蓮正宗は「新規に入会した会員は信徒として末寺に所属させること」、「(日蓮正宗の)教義を守ること」、「仏・法・僧の三宝を守ること」を条件に承諾し<、>・・・1952年(昭和27年)、宗教法人の認証を得る。・・・
 教義的には・・・「法華経」思想の布教を宣言(広宣流布)し、平和な世界の実現を目標とするとしている。」・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A

⇒創価学会が宗教法人格を得たのは、岸が「1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効を機に公職追放を解除され復権し<た>」(※)時期と奇しくも時を同じくしている。
 岸は、自分の満州時代にその満州事変での活躍話を第三者から散々聞かされたはずの石原莞爾が、戦後、「戦前の主張であった日米間で行われるとした「最終戦争論」を修正し、日本は日本国憲法第9条を武器として身に寸鉄を帯びず、米ソ間の争いを阻止し、最終戦争なしに世界が一つとなるべきとし<、>・・・日本の軍備撤廃は惜しくはない、次の時代は思いがけない軍備原子力武器が支配する」と語ったという」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE
ことを知っていて、このように、石原が、彼が戦前属していた国柱会の田中智學の戦争批判論
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%99%BA%E5%AD%B8
に最終的に与するに至ったことから、田中の思想を形成した(広義の)日蓮宗に関心を抱き、平和的に「平和な世界の実現を目標と」する創価学会・・この点に限っては、日蓮正宗の教義と一味違っていた・・を「発見」し、積極的に戸田城聖に近づいたのではなかろうか。
 その主たる目的は、日本の再軍備反対勢力は、占領下で、軍備放棄へと消極的に転向し、自民党や非自民党の主流になった人々、と、軍備放棄には反対しつつもその後、党利党略的に軍備放棄に転向した共産党関係者や非共産党の筋金入りマルクス主義者、ばかりだったので、岸が立ちあげつつあった岸カルトが、不可欠な見せ金である再軍備、への反対をこれらの人々やその後継者達だけに期待するのでは心許ないと考えたからであり、副たる目的は、遠い将来の宗主国移行をも念頭に置きつつ、創価学会に日本の中共との国交正常化に向けたところの、経済界のそれとは一味違った民間外交、をやらせたいと考えたからだ、と見たらどうだろうか。(太田)

 「岸<は、>・・・創価学会第2代会長である戸田城聖とは個人的な付き合いがあり、1958年3月16日に大石寺大講堂で行われた広宣流布の記念式典に出席することになっていた。しかし、直前になって横やりが入ったため出席を断念。代理として、安倍晋太郎・洋子夫妻、南条徳男・前建設大臣を出席させた。」(※)

⇒そのように見ることで、初めて、このような岸の創価学会への熱烈な肩入れが説明できよう。
 この間、岸は、国柱会が国政進出を試みた前例
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%99%BA%E5%AD%B8
をも踏まえ、創価学会に対し、国政への進出を強く働きかけていたのではなかろうか。 
 なお、この直後の4月2日に戸田城聖は急逝している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E7%94%B0%E5%9F%8E%E8%81%96 前掲
が、岸は1960年に第3代会長に就任する池田大作
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%A4%A7%E4%BD%9C
とも親密な付き合いを続けたに違いない。(太田)

 「1962年(昭和37年)には「公明政治連盟」を創設し、2年後の1964年(昭和39年)には日本の政党の要件を満たしている唯一の宗教政党として「公明党」を結成し<た。>」(上掲)

⇒これらに、岸が積極的に助言し、支援を与えた可能性が高いと思う。(太田)

 「1977年(昭和52年)<、>信徒団体である創価学会が、1月の教学部大会で、会長池田大作の著作「人間革命」を日蓮の遺文に匹敵する御書に位置付けるなど、新たな路線を提示(52年路線)。これに対し、日蓮正宗側は教義からの逸脱であると批判し、創価学会は翌年に謝罪し、和解するが、批判はくすぶり続ける。・・・
 1991年(平成3年)11月、「教義の逸脱」などを理由に破門される」(上掲)
 
⇒この間の1987年に岸は亡くなるが、当然のことながら、公明党と、娘婿の安倍晋太郎、更には、その子で岸の孫の安倍晋三との関係は続き、公明党の自民党との提携関係樹立に向けての話し合いが水面下で続けられたことだろう。
 こうして、2000年になって、ついに、安倍晋三内閣官房副長官時代に自公連立政権が成立するに至る。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%98%8E%E5%85%9A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%8B%E4%B8%89 (太田)

 (2)岸信介岸信介及び統一教会並びに嫌朝鮮(雑商品A)

 「岸信介<は、>・・・正力松太郎などとともに<米>中央情報局(CIA)から膨大な資金提供を受けていた。・・・2007年に米国務省が日本を反共の砦とするべく岸信介内閣、池田勇人内閣および旧社会党右派を通じ、秘密資金を提供し秘密工作を行い日本政界に対し内政干渉していたことを公式に認めている。
 一方、冷戦期においては金額は少ないながらも社会党と共産党もソ連から援助を受けている。・・・
 また、岸の言葉として「政治は力であり、金だ。」というものがある。岸内閣の頃に金権政治の体質が始まったとする見方もあり、鳩山一郎は岸をさして「あんなに金に汚くてはいけない」と言っていたという。しかし岸は田中角栄の金の集め方を危険視しており、「金は濾過機を通せ」と語っていた。なお、岸にはいくつかの戦後賠償に関する汚職疑惑が浮上したが、いずれも立ち消えになっている。」(※)

⇒そもそも、他国の諜報機関から資金の提供を受けるなどということは、悪魔と契約したファウストに譬えるべき、国賊的行為であり、岸、ひいては岸が作ったに等しい自民党、も、社共も、全てが国賊的過去を持つと言われても仕方あるまい。
 ちなみに、CIAは、西独の諜報機関の整備を支援した(後述)が、西独の政党に資金提供した形跡はない。
 CIAは、岸に資金提供をしていたことに加え、日本で特権的立場にある宗主国の諜報機関であることもあり、岸のカネがらみ等の汚い部分の多くも掴んでいたはずだ。
 こういう次第である以上、岸は、CIAからの依頼を断れない立場にあり続けた、と見てよかろう。(太田)

 「旧統一教会は1954年の設立後程な[い1958年、]活動の舞台を日本に拡大した。日本は韓国にとって戦略上極めて重要な国だった。旧統一教会は日本社会への浸透に目覚ましい成功を収めた。何十年にもわたり、教団の収益の7割を日本での収益が占めていたほどだ。
 1959年以降は、<米国>への進出も開始した。」
https://news.yahoo.co.jp/articles/3f7815ee8d801716e251a13eaa759098bea894de
https://news.yahoo.co.jp/articles/83e44f9b774976bd24479c326098d1f9966b0217 ([]内)

⇒立ち上がりにおいては、統一教会は、単なる一新興カルトに過ぎなかったわけだ。(太田)

 「反共ということで韓国で逮捕歴もある文鮮明の率いる旧統一教会は、反共産主義の軍事独裁政権だった朴正煕政権[・・朴正熙<、>・・・1961年5月16日<に>5・16軍事クーデターを起こし、国家再建最高会議議長に就任。・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B4%E6%AD%A3%E7%85%95 ]<が>1961年に設立<し>たスパイ機関であるKCIA(中央情報部)の初代局長である金鍾泌氏が信者の増加に貢献した。金鍾泌は後に首相にもなった人物だ。
 1963年にまとめられたCIAの内部文書を読むと、そこにはこう書かれている。「金鍾泌はKCIAの長官として統一教会を組織化し、2万7000人の信者がいる同教会を政治的なツールとして使っていた」
 [1964年、日本で宗教法人として認証され、1968年には、反共産主義を掲げる政治組織「国際勝共連合」を設立。]
 1977年には米下院の国際情勢委員会で、民主党議員を中心に報告書がまとめられ、KCIAが文鮮明氏と結託して進めた韓国の影響工作に米議会の100人以上が関与したと指摘している。この騒動は「コリア・ゲート」と呼ばれた。」
https://news.yahoo.co.jp/articles/5ac2863903d246c30ee97433fcb1bcecca126f90
https://news.yahoo.co.jp/articles/83e44f9b774976bd24479c326098d1f9966b0217 ([]内)(前掲)

⇒しかし、1961年からは、統一教会は、KCIAのエージェントとなったわけであり、この関係が現在も続いている可能性を完全には排除できない。
 しかも、1965年までは、日韓には正式な国交がなかったこともあり、統一教会は、韓国政府や韓国の日本代表部の監督の下、日本政府関係者と接触したり日本政府関係の情報を収集する役割も担っていたことだろう。
 岸は、1961~65年の間に統一教会との付き合いが始まった(後出)わけだが、その教義の詳細を知るところとなったとしても、その反日的性格を問題視はしなかったはずだ。
 というのも、朴が打倒した李承晩政権も朴政権自身も、かつまた、北の金日成政権も、全てが日帝強占期史観を公定史観としていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%B8%B0%E9%82%84%E4%BA%8B%E6%A5%AD
からだ。
 岸が、KCIA/統一教会と付き合わされたのは、朴正熙と岸が満州繋がりの間柄だった(後出)ことから、岸に対して、CIAから、KCIAのエージェントたる統一教会と付き合うよう、要請があったからだろう。
 また、国際勝共連合設立の目的は、日本政府や日本の政治家達の、韓国に比して北朝鮮に好意的な姿勢を、その反ソ意識や反スターリン主義意識に付け込んで改めさせるところにあったのではなかろうか。(太田)

 「岸<は、>・・・日韓国交回復にも<、本人の、統一教会/CIAとの関係、及び佐藤との関係、から(太田)、>強く関与した。時の韓国大統領朴正煕もまた満州国軍将校として満州国と関わりを持ったことがあり、岸は椎名悦三郎・瀬島龍三・笹川良一・児玉誉士夫ら満州人脈を形成し、日韓国交回復後には日韓協力委員会を組織した。」(※)

⇒1965年6月22日に日韓国交回復を行ったのは、岸の弟の佐藤栄作の内閣(1964年11月~1972年7月)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B4%E6%AD%A3%E7%85%95 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%86%85%E9%96%A3
であり、そもそも、長年の懸案だった日韓国交回復の実現は、KCIA/統一教会/CIA、から岸に対してなされた要求に応えたものであったと思われるのであって、岸こそが、この日本側の実質的な当事者だったと見てよかろう。
 なお、日韓国交回復の時代背景として、「金日成<は、>・・・在日同胞の帰国反対・受け入れ拒否する韓国政府と対照的に、日本にいる同胞を資金や技術源に使えると判断し<、>・・・積極的に在日同胞の統制に関与し、朝鮮学校の設立を推進。韓国とは対照的に接することで、同胞世論の多数派を北朝鮮支持へと誘導することに成功した・・・北朝鮮は、在日同胞の有用性に気づき、敢えての‟順次”受け入れ方式を日本側に提案し<し>この方式により、いまだ帰国していない親族に対し帰国した者を人質に取って、金銭や技術を北朝鮮へ送らせたり、対韓・対日スパイをさせたりすることに成功した<(注10)>。

 (注10)「日本政府が終戦1年半後の1947年1月に北朝鮮帰還希望者を調査したところ1,413名にすぎず、実際に引き揚げた者は同年6月の時点で合計351名とさらに少なかった。在日朝鮮人のなかで北朝鮮出身者が少ないせいもあったが、在日の圧倒的多数が「朝鮮人連盟」に加入しており、当時の国際共産主義運動における「一国一党の原則」では、居住国との国籍が異なる場合、居住国の共産党に入党して活動することとなっていたことも、帰国者が少ない原因であったものと推定される。1950年頃、在日朝鮮人は、「日本革命」よりも「朝鮮革命」に参加するのが筋ではないかという「白秀論文」(実際の著作者は北朝鮮本国の朝鮮労働党中央)からの問題提起があり、1955年5月、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)が結成され、在日朝鮮人党員は全員日本共産党から離脱して金日成の朝鮮労働党の支配下に組み入れられた。在日朝鮮人社会は思想的に分裂したが、このとき考え出されたのが在日朝鮮人の帰国運動である。帰国運動を考え出したのは、金日成その人であった。・・・
 韓国は朝鮮戦争による荒廃からの復興が立ち遅れており、かつ農村部を中心に過剰な人口を抱えていたために在日朝鮮人の受け入れには消極的だった。また帰国事業については「北送」と呼び、在日朝鮮人に対する自国の管轄権を侵すものとして、在日本大韓民国民団(民団)とともに強硬に反対した。1959年(昭和34年)、日朝両赤十字社による交渉の進展が明らかになると、韓国政府は日韓会談(第4次)の中止や李承晩ラインに伴う日本人漁夫抑留の継続、貿易断交などを宣言し、日韓国交正常化交渉は一時中断状態に陥った。同時に、大量のテロ工作員を日本に送り込み爆破テロを企てた(新潟日赤センター爆破未遂事件)。
 韓国政府のこのような反発は、居住地選択の自由という人道主義を尊重する国際社会からの支持を得られなかった。その後、韓国政府は北朝鮮に対抗して、韓国への帰国事業を進めようとしたが、帰国や定住に関わる費用を日本に負担するよう求めたため、実現しなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%B8%B0%E9%82%84%E4%BA%8B%E6%A5%AD 前掲
 「新潟日赤センター爆破未遂事件(にいがたにっせきセンターばくはみすいじけん)とは、中国地方各地における韓国工作員による密出入国と、1959年12月4日韓国代表部(領事館)の金永煥三等書記官などにより企てられた新潟県での暗殺・爆破テロ未遂事件。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%BD%9F%E6%97%A5%E8%B5%A4%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E7%88%86%E7%A0%B4%E6%9C%AA%E9%81%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 <これが、>1950年代から1984年にかけて行われた・・・在日朝鮮人の帰還事業<であり、>・・・計93,340人が北朝鮮へ渡航し、そのうち少なくとも6,839人は「日本人妻」「日本人夫」およびその被保護者といった日本国籍保持者だった。また在日朝鮮人には日本から地理的に近い朝鮮半島南部の出身者が多く、彼らにとっては、祖国ではあるが異郷への帰還となった。帰国船の費用は北朝鮮政府が負担し<た。>・・・
 <ちなみに、>日本政府は1955年(昭和30年)末から在日朝鮮人の大量帰国を検討し始めた<が、その>背景として、在日朝鮮人への生活保護費の負担が財政を圧迫していたほか、在日朝鮮人の高い犯罪率(日本人の6倍)、在日朝鮮人と日本の左翼運動の連携への懸念があげられ<、>「在日朝鮮人帰国協力会」結成の際は日本側の呼びかけ人になったのは日朝協会で主導的な役割を担っていた社会党議員、共産党議員だけでなく、小泉純也、鳩山一郎など自民党議員も加わっており党派の枠を超えて推進された。日本社会党系・日本共産党系の関係者が帰国事業に取り組んだ背景には、北朝鮮の社会主義を宣伝することで、日本における政治的影響力の拡大を狙った所が大きい。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%B8%B0%E9%82%84%E4%BA%8B%E6%A5%AD 前掲
ということを念頭に置く必要がある。
 「1959年2月13日、石橋内閣は「在日朝鮮人の北朝鮮帰還問題は基本的人権に基づく居住地選択の自由という国際通念に基づいて処理する」とした閣議了解を行った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%BD%9F%E6%97%A5%E8%B5%A4%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E7%88%86%E7%A0%B4%E6%9C%AA%E9%81%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6
が、その時の日本の外相は岸信介だ(※)し、「1959年・・・8月13日、インドのカルカッタにて、日本赤十字社の葛西副社長、朝鮮赤十字会の李一卿副社長との間で「日本赤十字社と朝鮮民主主義人民共和国赤十字会との間における在日朝鮮人の帰還に関する協定」(カルカッタ協定)が結ばれ」(上掲)、帰還事業は事実上、日本政府と北朝鮮との間で本格的に行われる運びとなったわけだが、その時の日本の内閣は岸信介内閣(1957年2月~1960年7月)(※)だ。
 すなわち、岸(岸カルト)は、北朝鮮における、共産主義ならぬ金一家カルトの生誕と強化に決定的な役割を演じたわけだ。
 岸は、この、(反北朝鮮であるところの)韓国に対する敵対行為、及び、(その大多数が韓国地域出身者であるところの)帰還者を悲劇的境遇に陥らせたという罪、に関して、朴正熙政権(KCIA/統一教会)から落とし前を付けるように「ゆすられ」、韓国に有利な形での日韓国交回復の早期実現を余儀なくされたのではなかろうか。(太田)

 「岸元首相は、南平台の土地を1950年に購入している<が、>・・・1956年、岸元首相は、<隣の>高峰三枝子の屋敷をそっくり借り受け、<元からの土地の部分と併せ(?)、>自宅兼迎賓館として使い始め・・・た。しかし、<1960年7月の>首相退任後に返却し、その後の1964年、この建物を統一教会が借りて本部にした<。>・・・」・・・
 その後、岸氏の土地も高峰の土地も不動産会社のものとなり、現在はマンションが建てられている。・・・
 岸氏は、過去に『正体はわからないけど、隣に住んでいる若者たちが日曜日に賛美歌を歌っていた』『笹川(良一)君が統一教会に共鳴してこの運動の強化を念願して私に紹介した』と語っていた<。>」
https://news.yahoo.co.jp/articles/24fc6e045776bfdaab7b45fd33c6c52e5f8ad6c0
 「東京都渋谷区南平台(地区は松涛)の岸邸隣<(元々は岸邸の一部(コラム#省略)>に世界基督教統一神霊協会(統一教会)があり、岸も、統一教会本部やその関連団体「国際勝共連合」本部に足を運んだ。」(※)

⇒時系列が混乱している部分があるが、以上から、岸が、1964年までに統一教会との付き合いを始めさせられ、まず、一等地に統一教会施設を確保してあげた・・確保させられた・・、と見てよかろう。
 (笹川云々の部分はウソだろう。)
 他方、岸が、一方的に統一教会にサービスするだけに甘んじるわけがないのであって、最初から、統一教会との間で、同教会から、自分の政治活動に、ヒトの、ひょっとしたらカネも、支援をさせる関係を構築したのではないか、と、私は見るに至っている。
 もう一つ、より重要なことは、創始しつつあった岸カルトの支持者達へのニンジンとするために、再軍備を永遠の課題化した伝で、戦後日本人の間で広範に醸成された、反在日朝鮮人/反韓国/反北朝鮮、感情に逆らって、韓国の「不当な」諸要求に対して小出しに屈していくことで、日本人と韓国人の双方に不満感を与え続け、日本人、就中、岸カルトの支持者達に対しては韓国に対して厳しい姿勢をとることを永遠の課題化した、と、思われることだ。
 この場合も、日本の「左」は、「左」が、韓国/統一教会/北朝鮮、と、「日帝強占史観」を共有していることを岸カルトによって十二分に利用されることになった、とも。
 (その一方で、韓国民は、日本が小出しにしか譲歩してこないことに不満が鬱積して行くわけであり、日韓関係は構造的な悪化要因を抱えさせられることになった、とも。)(太田)

 「文鮮明が1968年(昭和43年)の1月に韓国に本部を持って発足した世界反共連合を同年4月に日本支部が設立した際、岸信介氏がこれに加わった。」(※)

⇒在日朝鮮人共産主義者問題や北朝鮮スパイ問題どころか、そもそも共産主義問題やスパイ問題一般に真剣に取り組もうとしなかった岸(後述)が、そんな活動に、本心から共鳴したはずがない。
 「ゆすられて」加わらせられた、ということだろう。(太田)

 「1974年(昭和49年)5月7日、東京の帝国ホテルで開催された文鮮明の講演会「希望の日晩餐会」では、岸が名誉実行委員長となっている。岸を名誉実行委員長とする「希望の日晩餐会」は、1976年にも開催されている。
 1984年(昭和59年)に関連団体「世界言論人会議」開催の議長を務めた際、米国で脱税被疑により投獄されていた教祖文鮮明の釈放を求める意見書をレーガン大統領(当時)に連名で送った。」(※)
 「岸信介<は、>・・・1984年11月26日付けで、時の<米>大統領ロナルド・レーガンに対し、脱
 「文鮮明は・・・、<米国>で脱税容疑にて起訴され、84年4月には懲役1年6カ月の実刑判決を受けて連邦刑務所に収監されていた<もの>。・・・
 <その文面は、>・・・文尊師は、現在、不当にも拘禁されています。貴殿のご協力を得て、私は是が非でも、できる限り早く、彼が不当な拘禁から解放されるよう、お願いしたいと思います・・・
 文尊師は、誠実な男であり、自由の理念の促進と共産主義の誤りを正すことに生涯をかけて取り組んでいると私は理解しております・・・
 彼の存在は、現在、そして将来にわたって、希少かつ貴重なものであり、自由と民主主義の維持にとって不可欠なものであります<、というものだった。>
 この時点で日本では、既に教会による若者への強引な勧誘などが社会問題化していたが、その教団の首領を、「誠実で貴重」と評価しているというわけだ。
 「この手紙を受け、<米国>政府は対応を協議します。元総理で、その当時もなお自民党の実力者であった岸氏の依頼だけにむげにはできなかったのでしょう。返事も書いたようですが、それは今も機密解除されていません。国家安全保障上の理由とのことでした」(・・・ジャーナリストの徳本栄一郎氏・・・)
 結局、釈放は難しいと判断され、文鮮明が出所できたのは翌85年の夏だった。」
https://www.dailyshincho.jp/article/2022/07201200/?all=1

⇒「連名」というところがミソであり、今度は岸が、統一教会から「ゆすられて」こんな異常かつ恥ずかしい書簡・・米国の司法制度を貶め、しかも、岸はウソまでついている!・・を米大統領に送らされたのだろう。
 (岸を統一教会に「ゆすらせた」黒幕が、朴正熙暗殺後、韓国の権力を掌握していた全斗煥
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E6%96%97%E7%85%A5
であった可能性を否定できない。)
 岸は自分の名前だけにしなかったことで、米側が察してくれることを期待したのではないか。
 いずれにせよ、以上のような経緯から、岸及び岸が創始した岸カルト、と、統一教会、とは、互いに相手の弱みを掴みあいつつ、利用し利用される関係を今日まで維持してきたのだろう。
 しかし、「対等な」相互利用関係はそこまでであり、歴代韓国政府は、岸以来の(岸が創始した)岸カルト(後述)の弱みを握っていて一方的に歴代日本政府を「ゆすってきた」し、CIA、ひいては歴代米国政府も基本的に岸カルトが掌握してきた日本の歴代政府を指示に従わせる際のネタの一つとして活用してきた、と思われる。
 (統一教会の北朝鮮への接近も、CIAや、勃興しつつあった(私の言う)文カルトによる工作の側面もあったのではないか。)
 このように、岸は、(北朝鮮はもとよりだが、)韓国に弱みを握られ、「ゆすられ」続ける後半生を送ったわけだが、この岸が創始した岸カルトが、その後も自民党を通じて基本的に権力を握り続けた結果、日本政府は、韓国政府のゆすりたかりに屈し続ける形で現在に至っており、そのこともあって、韓国の奇跡的な高度経済成長が実現したというのに、韓国でその恩をあだで返すことを「教義」とする文カルトが興隆し跳梁することとなり、ついに日韓の政府関係は破綻状況におちいってしまった、と言えそうだ。
 (例えば、前出の全斗煥は、「1982年に<日本で>第一次教科書問題が発生し、これを批判した<が>、これは純粋な歴史認識問題というよりも、日本に60億ドルの経済援助を求めていた<ものの>日本は呑めないということで膠着していた<ところ>、自らの独裁権力の強化のために、日本からの援助を引き出させる手段として用いたとする説もある<ほか、>・・・1982年には日韓基本条約締結時に棚上げを約束していた竹島を「独島海鳥類繁殖地」として韓国の天然記念物に指定し<、>・・・日本・・<当時>安倍晋太郎<が>外務大臣・・に対し昭和天皇が日本の朝鮮半島統治などについて反省を示すよう事前に求め<た上で、>・・・1984年9月に全斗煥が国賓として初訪日した際、昭和天皇は同年9月6日、宮中晩餐会の席上「今世紀の一時期において両国の間に不幸な過去が存在したことはまことに遺憾であり、繰り返されてはなりません」と述べ<させ、>・・・韓国はこれ以降大統領が交代するごとに日本に対して謝罪要求を行うようになった」(上掲))
 つまり、岸(岸カルト)が、私が文カルトと呼ぶところのものの「教義」の確立と同カルトの強大化を決定づけたのだ。
 ここで、先回りして言っておこう。
 内田樹は「岸信介元首相以来の<岸/安倍家の>「家風」<に由来する>・・・戦後の自民党の国家戦略は「対米従属を通じての対米自立」というもの<だっ>た。徹底的に対米従属して、<米国>の信頼を勝ち得る。<米国>の戦略的パートナーという足場を固めてから、「のれん分け」をしてもらう。そして、<米国>のくびきから逃れたら、改憲して、核武装して、ほんものの主権国家たる「第二大日本帝国」に回帰する…そういう「口に出されないシナリオ」があった。・・・
 <このシナリオを追求するにあたって、岸/安倍家が、>優先するのは、国と国との関係じゃなくて、誰が自分の味方で、誰が敵かということです。自分に反対する人間は自国民であっても敵だし、自分を支援する人間は隣国の人間でも味方である。・・・<だから、彼らが、>反日的な韓国の団体<である>・・・統一教会・・・と親しかった<のは不思議でも何でもない。>・・・
 そういう人<々>のことを「ナショナリスト」とは言<わない>。」
http://blog.tatsuru.com/2022/09/12_1044.html
と主張しているが、まず、引用前段は全体が誤りであり、そんな高尚な話と岸カルトは無縁であるし、引用後段は、好むと好まざるに拘らず、統一教会が岸カルトに対して味方として押しつけられたのだから誤りだし、引用結論部分は仮に引用前段が正しかったならば、ナショナリストの範疇には入るのであって論理矛盾だ。
 なお、我々は、岸(岸カルト)が、日本を脳死させたことも知っている。(太田)

 (3)岸カルトによる防諜欠如状態の放置(雑商品B)

  ア スパイ防止法

 「スパイの逮捕に成功した場合さえも、他の国にはある『スパイ防止法』が日本には無いために、本来は国家に対する重大犯罪であるスパイ行為を、出入国管理法、外国為替管理法、旅券法、外国人登録法を違反した罪で起訴している。これらはほとんど執行猶予の付く懲役1年の罪など軽い刑罰しか与えられないため、スパイ野放し状態である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%A7%98%E5%AF%86%E3%81%AB%E4%BF%82%E3%82%8B%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E8%A1%8C%E7%82%BA%E7%AD%89%E3%81%AE%E9%98%B2%E6%AD%A2%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%B3%95%E5%BE%8B%E6%A1%88

⇒属国に、スパイからも守られなければならないほどの国家機密はない、と、岸カルトは、ある意味、正しく判断してきた、ということ。
 今や、イと齟齬をきたしてきているというのに、いまだ、措置されていない。(太田)

  イ 秘密保護法

 「特定秘密の保護に関する法律(とくていひみつのほごにかんするほうりつ、平成25年12月13日法律第108号、英語:Specially Designated Secrets Act 略称SDS Act。)は、日本の安全保障に関する情報のうち特に秘匿することが必要であるものを「特定秘密」として指定し、取扱者の適性評価の実施や漏えいした場合の罰則などを定めた日本の法律である。通称は特定秘密保護法、秘密保護法、特定秘密法、秘密法などとも呼ばれる。
 2013年(平成25年)10月25日、第2次安倍内閣が閣議決定をして第185回国会に提出し、同年12月6日に成立し、同年12月13日に公布され、2014年(平成26年)12月10日に施行した。・・・
 <米>国務省副報道官のハーフは、2013年(平成25年)12月6日の記者会見で、日本で特定秘密保護法案が成立したことについて「情報の保護は同盟における協力関係で重要な役割があり、機密情報の保護に関する政策などの強化が前進することを歓迎する」と述べた。」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/196366

⇒同じ事であり、独立国が持つほどの国家機密が属国にはない、と、岸カルトは判断してきた、ということだが、自衛隊に米軍が機密情報を渡した場合に、そのままなら、自衛隊発足当時から、米軍の手の下にあった場合と同様の保護をすることなっていたものの、例えば、その機密の全部または一部を使って自衛隊が秘文書を作成した場合に、自衛隊できちんと秘密保全をしてくれないのでは、共同作戦なんてできない、ということから、しぶしぶ、安倍晋三首相当時に措置したもの。(太田)

 (4)岸カルトによる諜報機関欠如状態の放置(雑商品C)

 「1948年末、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)参謀第2部(G2)の部長を務めたウィロビー少将は、河辺を通じて、旧軍関係者を集めた諜報組織を設立させた。この「河辺機関」として知られる組織には、吉田茂の軍事顧問であり、終戦直後から国民党軍と米占領軍、双方と諜報面で協力関係のあった辰巳栄一や最後の陸軍大臣下村定も中心メンバーとして加わった。・・・
 河辺機関は1952年12月、米軍から次年度の資金提供の打ち切りを通告され、解散を決定した。・・・
 1952年、<吉田茂内閣の>内閣総理大臣官房に新たに調査室(内調)が設置された。その初代室長となった村井順から相談を受ける立場にあった辰巳は、河辺機関に所属していた諜報員を内調にスカウトしていた。
・・・1953年3月19日付のCIA文書には、内調がこの時期、<支那>からの引き揚げ者を利用する「最高機密計画」を立案していたことが記されていた。その計画の中心は<支那>からの引き揚げ者の尋問プログラムだった。」
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e6%80%aa%e3%81%97%e3%81%8f%e3%82%82%e9%ad%85%e6%83%91%e7%9a%84%e3%81%aa%e6%97%a5%e3%80%85%e3%82%92%e9%80%81%e3%81%a3%e3%81%9f%e8%88%aa%e7%a9%ba%e5%8f%82%e8%ac%80-%e5%ae%ae%e5%ad%90%e5%ae%9f%e3%81%ae%e5%8d%8a%e7%94%9f-%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%96%e3%82%8b%e3%80%8c%e5%90%8c%e6%9c%9f%e3%83%88%e3%83%83%e3%83%97%e3%80%8d%e3%81%9f%e3%81%a1%e3%81%ae%e6%88%a6%e5%be%8c%e5%8f%b2/ar-AA10kdeg
 「内閣調査室・・・設立時の主要メンバー
 村井順(内務・警察官僚、内閣総理大臣秘書官、内務省警保局公安第一課長、国家地方警察本部警備課長)
 前田稔※(海軍中将、海兵41期、ソ連・中国大使館付武官、第二復員局長)
 矢部忠太※(陸軍大佐、陸士33期、ソ連大使館付武官)
 末沢慶政※(海軍大佐、海兵48期、海軍省軍務局第二課長)
 浅井勇※(陸軍中佐、陸士42期、ソ連大使館付武官輔佐官、参謀本部ソ連課参謀)
 ※内閣総理大臣官房調査室顧問・・・
 1955年には国際部に「軍事班」が設けられ、元海軍中佐の久住忠男らを中心としてベトナム戦争の推移や沖縄に駐留する<米>軍の動向などを観察した。
 60年安保をきっかけに内調は論壇の流れをフォローするようになり、安全保障論の育成のために中村菊男、高坂正堯、若泉敬、小谷秀二郎ら現実主義的な論客の結集を助け、論議を普及するなどした。現在でも内調は勉強会を数多く行っており、学識経験者や企業を招いて情勢分析を聞くなどしている。
 1977年(昭和52年)1月1日には内閣調査室組織規則の施行により、内部体制が総務部門、国内部門、国際部門、経済部門、資料部門の5部門となる。
 第1次中曽根内閣時代には当時内閣官房長官だった後藤田正晴の決断によりそれまで官房長官に行っていた「長官報告」が「総理報告」に格上げされ、世界的スタンダードである政府首脳への直接報告体制が確立された。
 1986年(昭和61年)7月1日に内閣官房組織令の一部改正により、「内閣調査室」から現在の「内閣情報調査室」となる(5部門体制は継承)。・・・
 情報収集の手段別では、シギント(通信情報)は<防衛省>情報本部が、国内の諜報や防諜に関わるヒューミント(人的情報)は公安調査庁や公安警察がそれぞれ主に担っており、内調は内閣の重要政策に関する国内外の政治や経済、テロなどの治安に関しオシント(公開情報)、ヒューミントを中心に担っている。2013年にヒューミント専門部署の内調設置が政府内で検討された。内調の下部組織の内閣衛星情報センターは、情報収集衛星からイミント(画像情報)の収集及び分析を行っている。内調は<米>CIA<、>・・・<英>秘密情報部(SIS)などの外国政府の情報機関との公式なカウンターパートとなっており、ほかに合同情報会議の事務手続きも行っている。そのため、「日本版CIA」と称されることもある。
 日本の国家安全保障に関する司令塔として国家安全保障会議ならびに事務局の国家安全保障局が設立されているが、国家安全保障局が国家安全保障に関する政策提言・立案を行うため、内調が必要な情報を国家安全保障局に提供している。この連携のため国家安全保障局の情報班長には内調出向者が当てられている。
 安倍晋三政権下では、選挙の街頭演説における、いわば「ご当地ネタ」の収集などにも当たってきた。・・・
 内調は生え抜きの職員をはじめとして様々な省庁からの出向者が所属しているが、内閣情報官を筆頭に警察庁からの出向者が多く、霞が関では警察庁の出先機関と捉えられている。
 シギントを行っていた情報本部の前身組織のひとつである陸上幕僚監部調査部調査第2課別室(調別)は、実質的に内閣情報調査室の下部機関で歴代トップは内調から出向してきた警察官僚が占めており、この経緯から現在も情報本部の電波部長は内調出向者の指定席である。
 1999年(平成11年)3月1日に規則の一部改正により内部体制に情報収集衛星導入準備室が設置され、本格的に情報収集衛星の計画がスタートした。
 1996年(平成8年)〜 1998年(平成10年)の橋本政権で、後藤田正晴の発案で内閣情報局設置法案が用意され、実現一歩手前まで漕ぎ着けていた。これは、「内閣情報局」を創設して、戦前の情報局を復活させることを目指したものだった。
 2001年(平成13年)1月6日には中央省庁再編に伴う内閣法及び内閣官房組織令の一部改正により、内閣情報調査室長(政令職)が廃され内閣情報官(法定職)と改められた(組織の長の格上げのみで組織の名称・内容には変更なし)。4月1日には内閣官房組織令及び規則の一部改正により、情報収集衛星導入準備室が廃され内部組織として内閣衛星情報センターが設置される・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E6%83%85%E5%A0%B1%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%AE%A4

⇒「小泉政権時代の2004年11月4日、参議院の内閣委員会で・・・伊佐敷眞一・内閣審議官(当時)が・・・内閣情報調査室の・・・体制<について、>・・・165人でございます。このうち内閣情報調査室採用の者が73名、それ以外の者は関係省庁からの出向でございますが、重立ったところを申し上げますと、警察庁が42名、公安調査庁が15名、防衛庁が9名、内閣府が7名、海上保安庁が6名、外務省が3名、以下2名ないし1名の省庁が幾つかございます。」
https://sakisiru.jp/21046
と答えている。
 現時点での体制は分からないが、英国のSIS(Secret Intelligence Service=いわゆるMI6)は、2,500名の体制だとされ、人員の質を勘案しないとしても、内調など、存在しないに等しい貧弱な存在だし、自前のスパイはゼロのはずなので、そもそも極めて偏頗な代物だ。
 要するに、諜報について真剣に取り組む姿勢を見せたのは吉田茂時代までであって、岸カルトによって、日本は、戦後一貫して諜報機関欠如状態のまま放置されてきた、と言ってよかろう。(太田)

 (5)岸カルトによる共産党対策手抜き状態の放置(雑商品D)

  ア 戦後ドイツの共産党対策

 「1949年9月のドイツ連邦共和国(西ドイツ)建国宣言に対抗し、10月7日にドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国宣言が行われた。・・・
 1951年8月には従来の内乱罪・外患罪に若干の改正に加え、さらに国家危険罪を新設する刑法改正が行われた。・・・」
 1949年5月に制定されたボン基本法21条2項は「政党の内部秩序は、民主的原則に適合していなければならない」「政党で、その目的または党員の行為が自由な民主的基本秩序を侵害もしくは除去し、またはドイツ連邦共和国の存立を危うくすることを目指す物は違憲である。違憲の問題については、連邦憲法裁判所がこれを決定する」と定めており(戦う民主主義)、1951年11月16日の閣議でコンラート・アデナウアー首相率いる西ドイツ政府は共産党は21条2項に照らして違憲であるとして連邦憲法裁判所に提訴し、同党の禁止を求めることを閣議決定した。・・・
 1951年11月22日に連邦内相は連邦憲法裁判所第一部にドイツ共産党の活動の禁止を求める提訴を行った。・・・
 裁判は4年10か月の長期に及んだが、1956年8月17日の判決で西ドイツ政府の主張が全面的に認められ、共産党は禁止処分を受けた。・・・
 ドイツ共産党違憲裁判中の1953年7月の『前衛』において日本共産党はドイツ共産党について次のように論評している。「いま西ドイツ全人民の上に大きな危機が襲いかかっている。アデナウアー売国政府は<米>帝国主義の忠実な番犬として、ドイツ共産党の非合法化を急速に推し進めている。(略)これは我が日本において1950年6月以来、売国吉田政府が、<米>帝国主義の尻馬にのって、日本共産党の中央委員を追放し、アカハタを禁止し、恥知らずの態度をもって我が党の組織と斗争に暴圧を加えてきたことと好一対の帝国主義戦争勢力の暴挙である。・・・」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A

  イ 日本の場合

 「1950年5月には、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサーが、共産主義陣営による日本侵略に協力しているとして、日本共産党の非合法化を検討しているとの声明を出した。直後に日本共産党と占領軍の間で、大規模な衝突である人民広場事件が発生し、6月にはマッカーサーは日本共産党の国会議員など24人の公職追放・政治活動の禁止(レッドパージ)を指令した。7月には9人の共産党幹部(徳田球一、野坂参三、志田重男、伊藤律、長谷川浩、紺野与次郎、春日正一、竹中恒三郎、松本三益)に対し団体等規正令に基づく出頭命令を拒否した団規令事件で逮捕状が出て、9人の共産党幹部は地下に潜行した。
 公職追放と逮捕状が出た徳田球一や野坂参三らは、中央委員会を解体して非合法活動に移行し、中華人民共和国に亡命して「北京機関」とよばれる機関を設立し、日本には徳田らが指名した臨時中央指導部が残った(これらを後の日本共産党指導部は「一種の『クーデター的な手法』による党中央の解体」と呼び批判している。)1950年6月25日には朝鮮戦争が勃発した。
 コミンフォルム論評への対応に加え、レッドパージによる弾圧もあり、日本共産党は、主流派である徳田球一らの所感派と、宮本顕治ら国際派、春日庄次郎、野田弥三郎ら日本共産党国際主義者団、福本和夫ら統一協議会、中西功ら団結派など大小数派に分裂した。
 1951年2月、主流派(所感派)は第4回全国協議会(4全協)を開催し「軍事方針」を含む行動方針を採択した。この「軍事方針」はアメリカ帝国主義によるアジアでの侵略戦争を批判し、その暴力支配から日本国民を解放するため、中核自衛隊を組織しての武装蜂起、労働者の遊撃隊組織、山村工作隊による革命工作、などを掲げた。
 1951年4月、統一地方選では都道府県6人、市区町村489人の議員を当選させ、党の強さを発揮した。
 1951年8月、コミンフォルムは主流派(所感派)による4全協を支持し、宮本ら国際派を「分派活動」と批判した。このため宮本ら国際派は自己批判して党に復帰し、統一を回復した(ただし現在の執行部は、再統一は1955年の六全協と主張している)。
 1951年9月、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が調印された(日本共産党は「部分講和」に反対し「全面講和」を主張した)。
 1951年10月、第5回全国協議会(5全協)で51年綱領(武装闘争不可避論、武装闘争路線、暴力革命路線)と「軍事方針」を採択した。この武装方針に沿って、練馬事件、白鳥事件など様々な非合法活動が行われた。また血のメーデー事件、火炎瓶事件など多数の武装闘争・騒乱事件が発生した。
 しかし、これらの武装闘争路線は国民の支持を全く得られず、1952年の第25回衆議院議員総選挙、さらには1953年の第3回参議院議員通常選挙で党公認候補者が全員落選、国会議員が参議院の1人(須藤五郎)だけになるという最悪の結果につながる。また、武装闘争方針により保守政権は治安立法を強化、1952年には<木村篤太郎(前出)法務大臣によって>破壊活動防止法(破防法)が制定された。破防法における破壊的団体の規制に関する調査を行う公安調査庁は、発足当初から一貫して、日本共産党を調査・監視対象に指定している。

⇒「団体等規正令(だんたいとうきせいれい、昭和24年4月4日政令第64号)は、「暴力主義的・反民主主義的」とみなされた団体の規制を目的とした日本の政令である。当初は、1946年に、ポツダム命令の「政党、協会其ノ他ノ団体ノ結成ノ禁止等ニ関スル件(昭和21年2月23日勅令第101号)」として制定され、1949年(昭和24年)に全部改正された。しばしば「団規令」(だんきれい)と略称される。
 破壊活動防止法の施行に伴い、1952年に廃止された。・・・
 実際にはGHQの施策に反対する団体、戦前の軍国主義を呼号する団体、右翼団体、左翼団体、暴力団が規制対象団体となった。また在日本朝鮮人連盟、在日朝鮮民主青年同盟が規制対象団体に該当し、本令によって解散処分を受けた。
 1950年7月には9人の日本共産党幹部(徳田球一、野坂参三、志田重男、伊藤律、長谷川浩、紺野与次郎、春日正一、竹中恒三郎、松本三益)に対し、政府の出頭命令を拒否したとして団体等規正令違反で逮捕状が発付され、これに対して9人は地下潜行(団規令事件)。
 1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ講和条約発効により日本が国家主権を回復し、同令は同年10月25日に失効と規定された。同年7月21日に「暴力的破壊活動」を取り締まる破壊活動防止法が制定されたことにより、同令は3ヶ月早く失効した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E4%BD%93%E7%AD%89%E8%A6%8F%E6%AD%A3%E4%BB%A4
 「破壊活動防止法は、「治安維持法の復活である」として、様々な物議をかもしたが、吉田政権の側にしてみれば、公安保障法案に盛り込まれていた「緊急検束」、「強制捜査」、「雇傭制限」、「政治団体の報告義務」、「解散団体の財産没収」、「煽動文書の保持者の取締り」などを、やむを得ず削除しなければならなかった。しかも、それだけでなく「公安保障法」という名称まで変更するはめになった。その結果、破壊活動防止法は、吉田政権が意図したような左翼に対する有効な武器として機能しなかった。<(注11)>・・・

 (注11)「吉田内閣と与党である自由党は原案そのままの可決を目指した。 右派社会党は修正案、左派社会党と自らが標的とされる可能性が高くなる日本共産党は反対の立場で争い、<米国>的な考えである破防法に対して、「米帝の手先であり売国奴」と非難した。 結果、参議院では自由党は過半数に満たず、参議院すなわち緑風会・・・に委ねられることとなった。 緑風会は独自案を提出し、「この法律は国民の基本的人権に重大な関係があるから、公共の安全の確保に必要な限度においてのみ適用すべきであって、いやしくもこれを拡張し拡釈して解釈してはならない」などの文言を加えた。 結果、一度は否決されたが、吉田内閣が緑風会に譲歩した結果、参議院で通過し、衆議院本会議でも賛成多数によって可決成立した。」
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/seki_i.html
 「緑風会<は、>・・・1947年・・・の第1回参議院銀選挙<後、>・・・92人<という>最大勢力となった。主な内訳は、旧華族を中心とした貴族院議員からのスライド組、官僚出身者、文化人などである。初代参議院議長は、緑風会から松平恒雄が選出された。10月20日には、田中耕太郎の草案を元に、綱領を制定した。新憲法の精神を打ち出しつつ、左右の両極を排し、中道主義への立脚を目指す内容であった。・・・
 緑風会は基本的に保守政党に協力したが、参議院のみの会派であり、衆議院に候補を立てることも、政権獲得を目標とすることもしなかった。ただし片山内閣には和田博雄と栗栖赳夫を閣僚として出して与党になったが、両名はまもなく社会党と民主党に移籍している。この後1948~53年の吉田内閣を除き緑風会が表立って与党として行動することはなかった。
 また「是々非々」を旨とし、与党にいる間も含めて党議拘束を行わなかった。そのため同じ法案に緑風会から賛成・反対両方の討論を行ったこともある。衆議院を通過した法案が参議院で修正、あるいは否決されることも多く、破壊活動防止法(破防法)や義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法と教育公務員特例法一部改正(教育二法)などでは、独自の修正案を提出してこれを可決させている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%91%E9%A2%A8%E4%BC%9A

⇒緑風会関係で「注11」に登場する松平恆雄も田中耕太郎も東大法出身である・・松平は松平容保の子で外務官僚出身で宮内大臣歴があり、田中は(南原繁とぴったり同じだが)内務官僚歴のある東大教授出身でキリスト教徒だ・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%81%86%E9%9B%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%80%95%E5%A4%AA%E9%83%8E
ところ、「旧華族を中心とした貴族院議員からのスライド組、官僚出身者、文化人など」の多くが戦後すぐの東大法学部の学者達の論調(前出)に大きな影響を受けていた、と、私は見ている。
 (戦後、東大法が道学のメッカへと変身することで脳死してしまった(前述)ことがその背景にあるわけだ。)
 それが、骨抜きの破防法をもたらしてしまったことに、さぞかし吉田茂は怒り心頭だったことだろう。(太田)

 破壊活動防止法に対して、警察当局は賛同していたが、大歓迎するという姿勢ではなく、その取締り効果を冷やかに見ていた。国家地方警察<(注12)>本部調査統計課長兼企画課長であった桐山隆彦の「破壊活動防止法の捜査」(『捜査研究』第9号、1952年8月)では、
 破防法の審議のために、新警察法の審議がストップしたことを例に挙げて「破防法反対闘争デモに手を焼いたり、血を流したりするやら、とにかく制定に至るまでにも警察とはまことに因縁浅からざる法律である」と皮肉っているほか、わたくし一個の率直な私見を述べるならば、この法律が団体規制の処分として、共産党を全面的に非合法の線に追いやる含みで作られたのであれば別だが、そこまでは行かないという場合、規制されるべき団体に対して、この法律の本来の目的とされている規制を効果的に加えうるかどうか疑問を持つているということである。 (中略)腹をきめて暴力主義的破壊活動に乗り出して来た団体ともあろうものが、果たしてこの法律による規制を加えられておとなしく引つこむかどうか、あえてそうした規制を無視して平然と執ように同様の活動をくり返す態度に出ることも考えられ、その結果、目ざす団体にはききめがなく、おとなしく規制を受けて引き下がる団体ならば、むしろはじめから遵法的な穏健な団体ばかりといつたことになる虞はないかどうかという点が心配になるのである。— 桐山隆彦
と指摘しており、破防法の規制が日本共産党に対して有効に働かないだろうと予測している。・・・
 (注12)「国家地方警察は、1948年(昭和23年)1月1日から1954年(昭和29年)6月30日までの間存在した旧警察法(昭和22年法律第196号)により設置された日本の警察組織。略称は国警。旧内務省警保局(現・警察庁)に相当する中央機関として国家地方警察本部が設けられていた。・・・
 1954年(昭和29年)に新警察法が施行されたことにより、国家地方警察と自治体警察は廃止され、新たに警察庁と都道府県警察からなる中央集権的国家警察が再登場することになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E5%9C%B0%E6%96%B9%E8%AD%A6%E5%AF%9F

⇒ところが、吉田の後継保守諸政権は、緑風会が弱体化し、参議院でも多数を制するようになってからも、破壊活動防止法を強化することをサボタージュし続けた。(太田)

 「1956年(昭和31年)、第3次鳩山一郎内閣によって自治庁、建設省などを統合する「内政省設置法案」が提出される。自民党だけでなく、社会党右派(後の民社党)も賛成に廻っていたが、旧内務省土木局時代に冷遇されていた建設省の技術官僚が反発し、対抗法案として、国土省設置法案を起草し、自民党の一部議員や社会党左派から支持を受けるなど混乱を極め、結局は内閣自ら内政省設置法案を撤回し成立せず。
 1957年(昭和32年)~1960年(昭和35年)、岸信介内閣に設置された地方制度調査会において、内政省の設置と、地方制による官選知事制度(地方長官任命制度)の復活が検討された。これは、従来の都道府県を廃止して、新たにブロック制の地方を全国に7~9ヶ所程度設け、そこに官選の地方長官(キャリア官僚)を配置するというものだった。
 1960年(昭和35年)、自治省設置。分散した旧内務省地方局の業務を統合した自治庁が昇格したもの。当初は「内務省」または「地方省」とする予定だったが、内政省法案の二の舞を危惧して自治省とした。
 1963年(昭和38年)~1964年(昭和39年)、池田勇人内閣に設置された臨時行政調査会(第一次臨調)第1専門部会第1班の報告書に、自治省と警察庁を統合して、「自治公安省」または「内政省」を設置し、国家公安委員会を外局(行政委員会)とし、自治公安大臣または内政大臣が国家公安委員会委員長を兼務することが盛り込まれたが、旗振り役の池田首相が病に倒れたことや、旧内務省の復活を恐れた大蔵省・通産省などの経済官僚の反発で頓挫した。
 1970年(昭和45年)、自由民主党行政調査会が「警察制度改革 渡辺試案」において、1.警察を政府の直接指揮下に一元化するために、警察庁を昇格・独立させる、2.国家機動隊の新設、3.民間の対警察協力を義務化、4.外出禁止令と、集会・デモ禁止令の法制化を提起。
 1982年(昭和57年)~1987年(昭和62年)、中曽根康弘内閣で、自治省、総理府人事局、行政管理庁を統合して内政省を設置することが検討された。しかし、これは実現せず、代わりに総理府の大半と、行政管理庁を統合した総務庁が設置され、初代長官には旧内務官僚の後藤田正晴が就任した。
 2001年(平成13年)、中央省庁再編により自治省、総務庁、郵政省が統合され総務省が設置される。しかしながら、警察機能の統合は見送られた。ほか、主務大臣の設置と治安行政の一元化を悲願としている警察官僚主導で、警察庁、消防庁、海上保安庁、公安調査庁、入国管理局、厚生省の麻薬対策課、国土庁防災局、国土地理院、気象庁を統合した「国民安全省」を設置する案や、運輸省の外局である海上保安庁と厚生省の麻薬取締業務を、警察庁へ移管・統合する案が検討されたが、運輸省や厚生省が「警察への一体化は不適当」として反発したため頓挫した。橋本行革による海上保安庁と厚生省麻薬取締部門の警察庁への統合はすでに決定していたにも関わらず、経済利権を巡る族議員の暗闘により、一夜にして覆されたが、関口祐弘警察庁長官は全く寝耳に水だったという。
 2008年(平成20年)、自由民主党国家戦略本部の中央省庁再々編案に内務省の設置が盛り込まれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%8B%99%E7%9C%81_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)

⇒鳩山は再軍備よりも日ソ国交回復を優先するという誤りを犯した(前述)が、破防法の強化よりも内務省復活の法を優先するという誤りも犯したことになる。
 保守合同後、岸は、この鳩山の誤りを奇禍として、破防法強化を再軍備と並ぶところの、岸カルト恒久化のための永遠の課題化することに成功する。
 再軍備と違って、破防法強化は単なる法律改正問題なので、その前段として、(警察力の強化を最大の眼目とするところの)内務省復活を位置づけ、官僚機構内の縄張り争い・・この克服は国会対策よりも本来容易なはずなのだが・・を「放置」することで内務省復活をつぶし、ひいては破防法強化をさぼる、というやり方をしたわけだ。(太田)

 「1995年には地下鉄サリン事件など一連のオウム真理教事件を起こしたオウム真理教に対して解散を視野にした団体活動規制処罰の適用が検討され、公安調査庁が処分請求を行ったが、公安審査委員会(委員長:堀田勝二)は「将来の危険」という基準を満たさないと判断し、破防法の要件を満たさないとして、適用は見送られることとなった(オウム真理教破壊活動防止法問題)。これについては、オウム真理教にすら適用されないのなら、一体何に適用されるのか、実質的に適用できない法律ではないのかという根強い批判もある。オウム真理教に対しては代わりに団体規制法が制定・適用されることになった。・・・
 破壊活動防止法を違憲と考え同法の廃止を訴える者も少なくないが、非常に抑制的に運用されているため、現在のところ政治レベルで破壊活動防止法を廃止しようという動きは活発ではない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%B4%E5%A3%8A%E6%B4%BB%E5%8B%95%E9%98%B2%E6%AD%A2%E6%B3%95
 「「地方公務員法第16条第4号は、破壊活動防止法と表裏一体であって、『日本国憲法又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを主張する政党その他の団体』というのは、破壊活動防止法により団体の活動の制限又は解散の指定を受けた団体をいい、日本共産党は、破壊活動防止法に基づく調査対象団体ですが、破壊活動防止法により団体の活動の制限又は解散の指定を受けた団体に該当しないので、日本共産党の党員は、欠格条項に該当しません。」
https://minamoto-kubosensei.amebaownd.com/posts/11602560/ 

⇒やがて、破防法改正は懸案視されなくなり、現在に至っているということだ。
 しかし、岸のこの退嬰的手法は、警察力の強化の手抜きにも繋がり、そのせいで、岸の孫の安倍晋三はやすやすと暗殺されてしまった、とも言えそうだ。(太田)

 「戦後の逆コースの中で、昭和26年(1951年)秋に辻宣夫、小島玄之、松下喜太郎、柏木勇、三田村武夫らは、近代的な反共運動を起こすため「日本青少年善道協会」を創設。その世話人に有馬頼寧、丸山鶴吉、吉田茂、太田耐造、後藤隆之助、安倍源基、鹿内信隆を迎えた。
 だがこの動きを知った法務総裁・木村篤太郎が、「日本青少年善道協会による青少年に対する反共啓蒙運動では、手遅れだ」と主張し、全国の博徒、テキヤ、愚連隊を結集した20万人の「反共抜刀隊」計画を構想することになる。
 先ず木村は、元大日本国粋会理事長・梅津勘兵衛に博徒側の取りまとめ役を要請したものの、梅津は拒絶。7月に再度木村が東京都文京区の梅津宅を訪れ、大日本国粋会の再建を要請する。梅津は「刑法を改正し、賭博事犯は非現行なら検挙させないようにする」という条件をつけ、木村の要請を了承。早速梅津は、篠原、住吉一家・倉持直吉、田甫一家・金井米吉、生井一家・鈴木米太郎、生井一家・百瀬梅太郎らの協力をとりつけ、この時、篠原の代理人として森田も国粋会再建に関わることになる。また森田は高橋にも協力を依頼し、承諾を得ている。同年12月16日に東京・上野の「精養軒」で、第1回の大日本国粋会再建委員会が開かれ、「共産党が武装蜂起した場合には、博徒部隊はテキヤ部隊と協力して、武力で鎮圧する」との誓約がなされた。この会合の経費の殆どを、森田が負担した。
 だが、「反共抜刀隊構想」は吉田茂首相の反対に遭い頓挫、加えて梅津の死去にともない国粋会再建計画も中断してしまう。森田は高橋を連れて、衆議院議員の大野伴睦と小西寅松らに会い、小西に国粋会会長就任を大野に国粋会参与就任をそれぞれ要請した。小西は国粋会会長就任を承諾したものの、大野は返事を保留している。こうして昭和33年(1958年)7月3日に「日本国粋会創立記念式典」が、品川プリンスホテルで挙行された。式典には、生井一家、幸平一家、田甫一家、小金井一家、佃政一家、落合一家、信州斉藤一家、金町一家、伊勢紙谷一家、義人党や佐郷屋嘉昭、松本良勝、辻宣夫さらには防衛庁政務次官の辻寛一ら400余名が出席している。
 日本国粋会創立のその年12月24日、静岡県三島市で、鶴政会(後の稲川会)の若衆とテキヤ極東愛桜連合会(後の極東会及び極東桜井総家連合会)系の若衆で揉めごとが起こる。この時は互いに殴り込みの応酬があり、双方に死者・重傷者が出る事態となった。森田は、高橋と前川一家・荻島峯五郎総長に相談の上で仲裁に動き、極東愛桜連合会・関口愛治会長から事態解決の一任を取った。だが、鶴政会の稲川芳邑(後の稲川聖城)会長が納得せず、高橋・荻島が稲川を説得して、昭和36年(1961年)2月17日に東京築地明石町の料亭「治作」で両者の手打ちが成った。仲裁人には森田がなり、高橋と荻島が介添人となった。
 昭和35年(1960年)同年6月10日、ハガチー・アメリカ大統領新聞係秘書は、羽田空港出口で、デモ隊に取り囲まれた。ハガチーは、アメリカ海兵隊のヘリコプターで、羽田空港を出た。
 同月、岸信介首相は、警察の警備不足を補うため、自由民主党幹事長の川島正次郎を通して、児玉誉士夫に、右翼団体・暴力団・宗教団体の取りまとめを依頼した。
 児玉誉士夫は、警視庁と打ち合わせた結果、稲川組(後の稲川会)5000人、松葉会2500人、飯島連合会3000人、国粋会1500人、義人党300人、神農愛国同志会10000人を、「警官補助警備力」として、東京・芝の御成門周辺に配置することを決めた。
 昭和37年(1962年)夏ごろから、右翼の児玉誉士夫は、「一朝有事に備えて、全国博徒の親睦と大同団結のもとに、反共の防波堤となる強固な組織を作る」という「東亜同友会」の構想を掲げ、錦政会(後の稲川会)・稲川裕芳(後の稲川聖城)会長、北星会・岡村吾一会長、東声会・町井久之会長らに根回しを始め、同意を取り付けた。
 昭和38年(1963年)2月11日、京都市の都ホテルに、稲川裕芳、岡村吾一、町井久之、三代目山口組・田岡一雄組長らが集まり、児玉誉士夫の構想が披露された。関東の組長を稲川裕芳が、関西・中国・四国の組長を田岡一雄が、九州の組長を児玉誉士夫がまとめて、意思統一を図った。
 同年3月、グランドパレス事件
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%91%E3%83%AC%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6 >
が勃発した。結果的に、児玉誉士夫の推し進めていた東亜同友会構 同月、警察庁は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会の5団体を広域暴力団と指定し、25都道府県に実態の把握を命じた。
 同年12月21日、日本国粋会は、錦政会、住吉会、松葉会、義人党、東声会、北星会とともに、児玉誉士夫の提唱する関東会に参加した。
 同日、関東会の結成披露が、熱海温泉の「つるやホテルで行われた。松葉会・藤田卯一郎会長が、関東会初代理事長に就任した。児玉誉士夫、児玉誉士夫らが昭和36年(1961年)に結成した青年思想研究会(略称は青思会)常任諮問委員・平井義一元衆議院議員、青思会諮問委員・白井為雄、青思会常任実行委員・中村武彦、青思会常任実行委員・奥戸足百、松葉会顧問・関根賢、三代目波木一家・波木量次郎総長が関東会結成披露に出席した。
 同年12月下旬、関東会は、関東会加盟7団体の名で、「自民党は即時派閥抗争を中止せよ」と題する警告文を、自民党衆参両議院200名に出した。自民党衆議院議員・池田正之輔は、この警告文を、激しく非難した。警告文は、自民党の治安対策特別委員会で、議題に取り上げられた。これは、暴力団が連帯して政治に介入してきた、初めての事件だった。河野一郎派を除く衆議院議員と参議院議員は「関東会からの警告文は、児玉誉士夫と親しい河野一郎を擁護するものだ」と判断し、検察と警察当局に関東会壊滅を指示した。
 昭和39年(1964年)1月、「暴力取締対策要綱」が作られた。
 同年2月、警視庁は「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(第一次頂上作戦)を開始した。
 詳細は「第一次頂上作戦」を参照
 同年3月、名古屋市の「春日荘別館」で、三代目山口組若頭・地道行雄が五分の兄弟盃を交わした。
 同年12月、日本国粋会が解散した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%94%B0%E6%94%BF%E6%B2%BB

⇒警察力が弱体のままで破防法も骨抜きの内容になり、危機意識を抱いた木村篤太郎が、フライングで、日本共産党・・当時は、党員の3分の1は在日朝鮮人であり、やがて彼らは1955年に朝鮮総連として日本共産党から「分離」する・・
https://www.yanagiharashigeo.com/html/modules/report/content0004.html
等のスターリン主義勢力に対して暴力団・・その中にも在日朝鮮人が大勢いた(典拠省略)・・を結集して対処しようとし、吉田茂に却下されるわけだが、岸は、「盟友」の児玉(後出)を使って、この構想を実現したことになる。
 ここで、当時の日本共産党がいかに危険な存在であったかを振り返ろう。↓

 「1951年9月に日本はサンフランシスコ講和条約を締結。1952年4月に条約が発効され、日本は主権を回復した。これにより、公職追放は解除された。所感派中心の北京機関は、地下放送の自由日本放送で武装闘争を指示したが、内部でも徳田球一と野坂参三の対立が発生した。1953年に徳田球一が北京で死亡した(日本での徳田の死亡の公表は2年後の1955年)。また朝鮮戦争が1953年に休戦した。
 1955年7月、日本共産党は第6回全国協議会(六全協)を開き、従来の中国革命方式の武装闘争路線の放棄を決議した。またこの大会で志賀義雄、宮本顕治らの旧国際派が主導権を握った。宮本らは再統一を優先して個々の党員がどういう機関のもとに活動していたのかは不問とする方針を示し、旧所感派の野坂参三を第一書記として「再統一」を宣言した。
 更に1958年の第7回党大会では宮本顕治が書記長(後に委員長)となり、この第7回党大会と1961年の第8回党大会で、1950年から1955年までの分裂と混乱を「五〇年問題」(50年問題)や「五〇年分裂」(50年分裂)と呼び、その「軍事路線」はソ連・中国の大国による干渉と「徳田、野坂分派」の「政治的クーデター」による、暴力革命が可能という政治情勢が無いにもかかわらず武装闘争を行った極左冒険主義であると規定して批判した。これらは以後、外国からの干渉は受けない自主独立路線の始まりとなった。
 以後の日本共産党執行部は、この「五〇年問題」の期間に行われた五全協や、そこでの「軍事方針」である「51年綱領」の採択、六全協での「再統一」宣言、「北京機関」からの指示、それらに従って行われた武装闘争などは全て、徳田・野坂分派が党中央を無視して勝手に行ったもので、無効であり、従って「日本共産党の大会とも中央委員会とも何の関係なく、日本共産党の正規の機関が、武装闘争や暴力革命などの方針を決めたことは、一度もない」と主張している。
 この日本共産党の武装闘争路線と、突然の路線変更は各方面に大きな影響を与えた。党の方針と信じて武装闘争に参加していた党員は、党とは無関係に勝手に不法行為を行った形になり、一部は「党中央に裏切られた」と不信感を持ち、後に日本共産党への「スターリン主義」批判や日本の新左翼運動にもつながった。また、以前の「平和革命」の支持者や、マルクス・レーニン主義の暴力革命の原則を支持する一部の知識人や共産主義者、武装闘争に批判的な大多数の国民のそれぞれから、不信感や警戒心を持たれた。
 公安警察と公安調査庁は、日本共産党は「敵の出方論」や暴力革命を実際には放棄していないと見続けており、1986年には日本共産党幹部宅盗聴事件が発覚した。これに対して日本共産党は「敵の出方論」は歪曲で、不法行為によるスパイ行為を批判している。
 また警察庁の『警察白書』では、現在も日本共産党を「調査対象団体」とし、数ページを割いて動静を記述しているが、これは国会に議席を持つ政党に対しては唯一の扱いである。警察学校の「初任科教養」でも、日本共産党の綱領や決定について、批判的な講義がされている。
 一方、破壊活動防止法に基づく調査活動を行っている公安調査庁では、現在では公然情報の整理と分析に留まっているが、時々職員によるスパイ工作が発覚し、党組織や日本国民救援会の人権団体を通じて抗議活動が行なわれている。日本共産党が武装路線を放棄した後も1960年代半ばまで、朝日新聞などの全国紙では、政党担当記者が共産党を取材して記事を書くのではなく、警察担当記者が公安情報を元に記事を書くという状況が続いた。これによりマスメディアに対し、日本共産党は「新聞は権力の手先」と反発していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A

 西独で共産党が禁止されていたことを踏まえれば、日本の場合、より一層、日本共産党と朝鮮総連、及びその実質的後継組織、を禁止しなければならなかったのに、それをあえて行わなかったのが、岸信介であり岸カルトなのだ。(太田)

 (6)岸信介の「反」中共政策–宗主国移行布石(雑商品E)

 「1953年7月に中華人民共和国も参戦していた朝鮮戦争が休戦に至ると、・・・岸も・・・提案者で<あった>・・・「日中貿易促進に関する決議」が衆参両院で採択された。そして・・・岸<が>藤山とともに・・・打ち合わせを行っ<たところの、>・・・池田正之輔を団長とする日中貿易促進議員連盟代表団が訪中、10月に第二次日中民間貿易協定を結び、民間貿易が活発化した。・・・
 総理就任後も対中政策重視のため に起用した藤山愛一郎外相とともに国会答弁などで中華人民共和国との国交樹立は尚早としつつ第四次日中民間貿易協定への「支持と協力」や「敵意を持っている、あるいは非友好的な考えを持っているということは毛頭ない」として日中貿易を促進したい旨 を再三述べており、岸は中華人民共和国との関係は基本的に「政経分離」であると語ってる。・・・
 そして1958年3月に岸政権の承諾 で第四次日中民間貿易協定が締結された。その時の覚書に通商代表部の設置や外交特権を与え、両国の国旗掲揚も認めるなどの内容が盛り込まれていて、このことで日本政府に対して中華民国と<米国>から反発が出て、予定していた日華通商会談を中止して日本製品の買い付け禁止の処置も出され、岸政権は結局民間サイドでの約束であったので外交特権も国旗掲揚も認めない方針を出し、今度は中華人民共和国側と緊張関係が漂う中で1958年5月2日に「長崎国旗事件」が起きた。これに中華人民共和国の陳毅外相が日本政府の対応を強く批判して、5月10日に全ての日中経済文化交流を中止すると宣言したのである。日中間の貿易が全面中断されて、ここまで積み上げてきた民間交流がここで頓挫していった。・・・
 [<しかし、>1958年6月12日<から>1959年6月18日<まで>・・・岸内閣<の>・・・通商産業大臣<を務めた>・・・高崎達之助<は、池田勇人内閣の時の>・・・1962年には訪中経済使節団団長として北京へ渡り、廖承志アジア・アフリカ連帯委員会主席と会談し、「日中総合貿易に関する覚書」に調印した。それまで、友好商社間での取引に終始していた日中貿易は、署名者である廖(Liào Chéngzhì)と高碕のイニシャルからLT貿易と呼ばれるこの覚書の締結によって、半官半民の大規模な交易が日中国交正常化まで行われることになった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%A2%95%E9%81%94%E4%B9%8B%E5%8A%A9 ]

⇒この間の「1968年9月8日,・・・ 当時,創価学会の会長であった池田大作・・・<は>,日中国交正常化提言を2万名の学生を前に発表<し、>・・・一部保守派の問には,共産主義国中国は,侵略的で危険な国であるとの見方があ<っ>たが,会長は「それは正しくない。毛沢東主義は,本質的には民族主義に近く,東洋的な伝統を引き継いでいる。中国が「武力をもって侵略戦争を始めることは,過去のその国の歴史に照らしてみて考えられない」と喝破した・・・。「むしろ,今世界をみると,世界の不安定,危機を招いているのはアジアである。アジアの貧困,自由圏のアジアと共産圏のアジアとの隔絶と対立と不信感これを変えなくては世界の本当の平和はない。日本が今,中国との友好関係を樹立することは,アジアの中の東西の対立を緩和し,解消することになる・・・。・・・日本は対米追従主義ではなく,独立国である以上,独自の信念で 自主外交を進めていくべきである。地球上の人ロの4分の1を占める中国が国連から排除されている現状 は国連の欠陥である。これを解決するのが,真の国連中心主義である」と強調<し>」ている。
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjdrpb1_7n6AhVDFKYKHSWdAbQQFnoECAIQAQ&url=https%3A%2F%2Fsoka.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D38087%26item_no%3D1%26attribute_id%3D15%26file_no%3D1&usg=AOvVaw0sYjMYYehf2ZYgzmcuUd1s
 その後、池田は、1974年12月、ソ連を訪問した後、中国を初訪中し、周恩来首相と会見を果たし、また、創価大学と北京大学との間の学術交流を推進している。
https://www.sokagakkai.jp/daisakuikeda/honorary-degree/peking-university.html 
 岸の後押しがあったことは想像に難くない。(太田)

 「中華人民共和国の国連加盟が実現して中華民国が国連を脱退した頃に、佐藤内閣でこの年7月まで官房長官を務め、当時自民党幹事長であった保利茂は東京都の美濃部都知事が訪中した際に極秘に周恩来首相宛てに1971年10月25日付けで1.中国は1つである、2.中華人民共和国が中国を代表する政府である、3.台湾は中国国民の領土であるとし保利自身が訪中して両国政府間の話し合いを進めたい旨の親書を渡した。これは直後に明らかになり、キッシンジャーならぬミノベンジャーだと言われた。しかしタイミングが国連総会で日本が逆重要事項案に賛成し、中華人民共和国加盟/中華民国追放のアルバニア案に反対していた時であったため、周恩来首相から「まやかしで信用できない」と一蹴されている。・・・
 1971年には、日本の財界首脳が訪中団を送り込んだ。1971年9月に佐伯勇を中心とした関西財界訪中団が、同年11月には永野重雄日本商工会議所会頭と木川田一隆経済同友会代表幹事を中心とした東京財界訪中団が訪中し、北京の人民大会堂で周恩来総理と会談した。このとき周総理は永野重雄に「これで日中関係、完全に修復しました。我々は今後いかなる日本人も歓迎する」と言ったといわれる。日中国交正常化は、こうした日本財界主流による訪中の成果の上に成ったものという評価もある。
 1972年1月の施政方針演説で佐藤首相は「中国は一つであるという認識のもとに、今後、中華人民共和国政府との関係の正常化のため、政府間の話し合いを始めることが急務である」として中華人民共和国との国交正常化を目指す意向を示した。
 ・・・佐藤は任期中の国交回復を目指して密使を送り込み、中華人民共和国と中華民国との間で連絡を取っており、国連総会での日本の反対があっても交渉は進んでおり、ニクソンに続き国交回復交渉を直接行うため北京を訪問しようとしていた・・・。その後、総理の座を狙う自民党内勢力からの横槍が入り計画が頓挫したこと、総理の座を譲ろうとしていた福田赳夫を中国側関係者に引き合わせていた・・・。・・・
 9月29日に日本国総理大臣田中角栄と外務大臣:大平正芳が、一方中華人民共和国国務院総理周恩来と中華人民共和国外交部部長:姫鵬飛が「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)に署名し、ここに<米中国交正常化に先駆けて>日中国交正常化が成立した。日本が第二次世界大戦後、戦後処理に関する国際文書の中で歴史認識を示し、戦争責任を認めたのはこれが初めてのことであった。・・・
 それから6年後の1978年8月、福田赳夫政権の下で日中平和友好条約が調印された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%A4%E6%AD%A3%E5%B8%B8%E5%8C%96
 「鄧小平<は、>・・・中(共)国内体制の改革および対外開放政策<である>・・・改革開放<を>・・・、1978年12月に開催された中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議で提出、その後開始<する。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E9%9D%A9%E9%96%8B%E6%94%BE
 「1978年10月、日中平和友好条約の批准書交換のため、当時は副総理だったが事実上の中国の首脳として初めて訪日して福田赳夫首相らに歓待され、中国の指導者としては初めて昭和天皇と会見した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%A7%E5%B0%8F%E5%B9%B3 
 
⇒岸は、岸→高崎→佐藤→田中→福田、と、親中共政策を推進させ、自分の目の黒い(~1987年)うちに日中関係を完全に正常化させ、この中共を、貿易、経済援助、投資、によって大国化させる態勢を整え、将来、米国から中共への日本の宗主国移行を行う基盤を確立したと言えよう。
 また、この間、歴史認識において、中共側のそれを認めることを厭わなかったことが、1984年において韓国の歴史認識を認める(前出)ことに繋がったことも忘れてはなるまい。(太田)


[自民党主要派閥の系譜]

一、自民党内「右」(岸カルト・保守傍流)の創造と家業化
 岸派(→清和会(福田赳夫◎→安倍晋太郎→三塚博→森喜朗→町村信孝→細田博之→安倍晋三))

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A%E3%81%AE%E6%B4%BE%E9%96%A5
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%92%8C%E6%94%BF%E7%AD%96%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A

二、自民党内「左」(保守本流)の偽造
 吉田派–隠れ岸派・佐藤派…隠れ岸カルト・福田赳夫◎↑
–無「思想」・田中派(木曜クラブ)→竹下派(経世会→平成研)
    –建前継承・池田派(宏池会:前尾→大平→鈴木→宮澤→加藤→堀内→古賀→岸田
                            |→河野→麻生)                
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E5%B1%B1%E4%BC%9A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8F%E6%B1%A0%E4%BC%9A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9B%9C%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%88%90%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A

◎「通称・・・佐藤派<は、>木曜研究会が母体。のち周山会と改名。佐藤は、旧自由党の吉田茂派を池田勇人の池田派(宏池会)と分ける形で派閥を形成し、佐藤の下には、佐藤派五奉行と言われた田中角栄、保利茂、橋本登美三郎、愛知揆一、松野頼三のほか、木村武雄、二階堂進などの人材が結集した。
 首相の佐藤は後継の総理総裁職に福田派の福田赳夫を希望していたが、これを察知した田中角栄が佐藤の退陣直前に派内派を結成、佐藤派102名のうち81名が参加し、後に七日会(後の木曜クラブ)として独立した。周山会は保利茂が中心となり佐藤派内の福田支持グループをまとめる。残った周山会は周山クラブと名前を変え、少数派閥の保利グループとなる。
 総裁選挙後は保利グループは福田派に合流し、派閥は消滅した。佐藤派の大派閥としての地盤は田中派に引き継がれていった。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E5%B1%B1%E4%BC%9A 前掲

4 岸信介の生涯

 (1)家業としての政治屋業なる発想の淵源

 岸信介は、母親の佐藤家が長州藩の武家(注13)、佐藤家の婿養子たる父親の生家の岸家も長州藩の武家(注14)であり、いずれも、由緒ある家であることから、岸/佐藤家が、没落しつつあった毛利家に代わって、山口県、ひいては日本の最高権力者家に成り上がることを目指した、と、見たらどうだろうか。

 (注13)「佐藤家の祖先については、遠祖は源義経の家臣・佐藤忠信だという口伝がある。・・・もちろん信ずべき証はない。ただ佐藤の本家に生まれ、あとで栄作と縁組することになる寛子は“子どものころから、浄瑠璃狐忠信の忠信は先祖と聞かされて”いる。義経千本桜四段目で狐の化けた忠信が静御前を守護する。この忠信は源氏車の家紋をつけた衣装で舞う。佐藤家の紋所もまた同じ源氏車であるとある。
 山口県史学会の調査によると、確認できる佐藤家の初代は市郎右衛門信久といい、・・・1662年・・・ごろから萩藩の藩士となり、扶持方2人・米2石4斗を受けた。下級武士で、この待遇はそのあともあまり変わらない。役によって4石5斗あるいは6石に加増されたこともある。代々、市郎右衛門あるいは源右衛門を名乗った。
 2代・市郎右衛門信友は妻をめとらず、3安倍代目を継いだ源右衛門信貞は、同藩の福井清兵衛信政の次男である。歴代佐藤家の当主の中で世に出たのは、まず4代目の源右衛門信早である。その功を認められて禄高を6石に加増されている。熊毛郡下田布施村の「宝暦検地絵図」などの文書も残した。
 7代目の佐藤嘉津馬は・・・1779年・・・に12歳で病死する。佐藤家はこの7代目まで大内町御堀(現・山口市南部)の周辺に住んだ。嘉津馬夭折のあと、佐藤家は萩に住む一族吉田八兵衛の三男菊三郎に別の親戚福田某の娘を嫁に迎え、夫婦養子とする。8代目市郎右衛門信孝で、この信孝の時代から、佐藤家は田布施に移った。
 10代目の曽祖父・寛作信寛は長州藩士として御蔵元本締役、大検使役等を歴任、長沼流兵学を修め、幕末期の思想家・吉田松陰に『兵要録』を授けた。明治になり、島根県令、浜田県権知事などの要職に就いた。吉本重義著『岸信介傳』p.21に「この曽祖父は、佐藤家の歴史においては最も傑出した人であった。もっとも、その叔父の九右衛門は坪井家に養われて長井雅楽の一味として当時、藩政の要路にあり、非常な傑物だったといわれる。佐藤家に伝わる政治家的な性格は、この坪井九右衛門や、曾祖父の信寛によって最も顕著にあらわれた」とある。
 11代目の祖父・信彦は山口県議会議員を2期務め、優れた漢学者でもあった。信彦の妻・みねは徳山藩士国広治左衛門の娘である。信彦の弟・鼓包武は、大村益次郎に兵学を学び、西南戦争でも活躍した。日清戦争では留守第六師団参謀長を務めた。最終的には陸軍少将。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%A0%84%E4%BD%9C
 佐藤忠信(1153/1161~1186年)は、「源義経の家臣。・・・父は奥州藤原氏に仕えた佐藤基治、もしくは藤原忠継。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%BF%A0%E4%BF%A1
 (注14)「長州萩藩士族岸氏は、推古天皇在位16年(608)遣隋使小野妹子の小使、難波吉士雄成(おなり)の裔に出づ。 のち吉士を貴志また岸と改め氏と為すと云ふ。」
http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-kika-kishi.html


[毛利家とその戦前・戦後]

一、毛利家のルーツ

 「大江広元<(1148~1225年)>・・・の出自は諸説あり、その詳細は不明。『江氏家譜』では藤原光能の息子で、母の再婚相手である中原広季のもとで養育されたという。しかし『尊卑分脈』所収の「大江氏系図」には大江維光を実父、中原広季を養父とし、逆に『続群書類従』所収の「中原系図」では中原広季を実父、大江維光を養父としている。
 当初は中原姓を称し、中原 広元(なかはら の ひろもと)といった。大江姓に改めたのは晩年の・・・1216年・・・に陸奥守に任官した以後のことである。・・・
 四男・毛利季光は・・・1216年・・・宝治元年(1247年)の宝治合戦で三浦泰村に味方して三浦一族とともに頼朝の持仏堂であった法華堂で自害する。しかし、その四男・経光は越後に居たため巻き込まれず、所領を安堵された。経光の四男・時親は安芸吉田庄を相続し、安芸毛利氏の始祖となって、戦国大名たる元就、輝元らに繋がる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%BA%83%E5%85%83

二、毛利家の戦前・戦後

 (一)毛利宗家

 ・毛利元昭(もとあきら。1865~1938年)

 「29代当主。爵位は公爵。・・・父・元徳は維新後、毛利家の拠点を山口から防府三田尻御茶屋に移した。明治3年(1870年)に多々良山周辺を買収してそこに多々良御殿を建設し、完成後に移住した。天皇に拝謁するために上京する時以外は、その生涯のほとんどをこの御殿で過ごしたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E6%98%AD
 ・毛利元道(1903~1976年)
 「30代当主。・・・陸軍地方幼年学校に進学。・・・陸軍士官学校(37期)を卒業し、・・・陸軍砲兵少尉に任官。陸軍砲工学校、陸軍野戦砲兵学校で学び、1937年(昭和12年)ドイツに留学。陸軍防空学校教官兼同研究部部員などを務め、陸軍砲兵少佐に昇進した。
 父・元昭の死去に伴い、1938年(昭和13年)・・・、公爵を襲爵して貴族院公爵議員に就任し、1946年(昭和21年)・・・に辞職した。
 戦後はユネスコの活動に深く関わり、日本ユネスコ国際委員を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E9%81%93
 ・毛利元敬(もとあき。1930~2020年)
 「成蹊大学政治経済学部卒業。日本長期信用銀行や経済企画庁で勤務。後に第一ホテル取締役や防府毛利報公会会長を歴任。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E6%95%AC

 (二)徳山毛利家

 ・毛利元靖(もとやす。1908~1961年)
 「徳山毛利家第12代当主<。>・・・かつての旧領・徳山に設立された、「徳山ロータリークラブ」第3代、第4代の会長を務めた。
 1957年・・・設立の「防府ロータリークラブ」の特別代表に就任。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E9%9D%96
 ・毛利就擧(なりたか。1939年~)
 「徳山毛利家第13代当主<。>・・・日本大学理工学部を卒業。
 1992年・・・に東京都目黒区で、映像・音楽編集スタジオを運営するモウリアートワークススタジオ株式会社(前身は1960年代に設立のモウリスタジオ)を設立する。
 現在もかつての根拠地の徳山藩に当たる、山口県周南市と東京を毎月往復し、「参勤交代」を江戸時代から約400年近く続けている。また、周南市のゴルフ場「徳山カントリークラブ」の代表取締役も務めている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%B0%B1%E6%93%A7

 (三)長府毛利家

 不詳。

 (四)清末毛利家、〇毛利五郎家、・・省略

 (五)吉川家

 ・吉川経健(つねたけ。1855~1909年)
 「戊辰戦争の東北戦争で功績を挙げたことから、永世5000石を与えられた。同年、版籍奉還により知藩事となる。
 明治3年(1870年)に本家の長州藩で脱隊騒動が起こると、その鎮圧に努めた。明治4年(1871年)に廃藩置県で免官となり、東京へ移る。以後は旧藩士に対して義済堂を創設して、その自立を助けた。明治17年(1884年)に男爵を受爵、明治24年(1891年)4月23日には子爵に陞爵する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E7%B5%8C%E5%81%A5
 ・吉川元光(1894~1953年)
 「岩国藩主吉川家の一族、吉川重吉の子として生まれた。明治42年(1909年)、男子のなかった伯父で吉川男爵家当主の吉川経健の養子となった。大正6年(1917年)に経健の娘芳子と結婚する。大正9年(1920年)に京都帝国大学を卒業した。
 小野田セメント、義済堂、岩国電気軌道の株主であり、また資産家でもあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E5%85%83%E5%85%89
 ・吉川重喜・・不詳
 ・吉川重幹(しげもと。1955年~)
 「学習院高等科、学習院大学を卒業。
 現在はかつての吉川家の旧領・山口県岩国市を中心に林業や不動産事業を手掛けている、吉川林産興業株式会社の代表取締役を務め、2019年からは林業経営者団体の一般社団法人日本林業経営者協会会長に就任している。
 また吉川家としては2017年6月1日に吉川史料館館長に就任している。また公益財団法人吉川報效会理事長も務めている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E9%87%8D%E5%B9%B9

 (六)小早川家

 「毛利宗家の当主毛利元徳は三男三郎を当主にした小早川家を再興し、太政大臣三条実美に「吉川、小早川は毛利の両川と並び称されていた」として小早川家にも吉川家と同じ華族の身分を願い出て認められた。三郎は早世し子がいなかったため、その弟の四郎が養子となって跡を継いだ。1884年(明治17年)に華族令が出て五爵制がスタートすると小早川家には男爵の爵位が与えられた。・・・
 その後、四郎の養子として毛利元昭の次男・元治が跡を継ぐ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E6%B0%8F

 ・小早川元治(もとはる。1907~?年)
 「第29代毛利宗家当主の毛利元昭の次男として生まれる。その後、叔父にあたる男爵・小早川四郎の養子となる。広島の旧制崇徳中学校、日本大学工学部を卒業。・・・大学時代にはディーゼル機関の研究を行っていた。卒業後は日産自動車の技術者となる。また、ジェントルマンドライバー (アマチュアドライバー) としても活動し、イギリスからMG・K3マグネットを入手して多摩川スピードウェイに参戦するなどしたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E5%85%83%E6%B2%BB
 ・小早川隆治(たかはる。1941年~)
 「学習院大学卒業後は、広島県の東洋工業(現:マツダ)に入社。RX-7&モータースポーツ担当主査、北米マツダ副社長などの役職を務める。
 マツダを退職後はモータージャーナリストとしても活動。日本自動車研究者ジャーナリスト会議監事を務める。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E9%9A%86%E6%B2%BB

⇒明治維新後、毛利家は緩やかに没落の道を辿った。
 これは、毛利家の長州における権力継承を担保した藩が解消されたからだ、と、岸信介は考えたはずだ。
 そして、藩に代わるものとして、ヒト・カネ・モノを包摂するところの、政治団体、に、その無税継承可能性ともども、着目したのではないか、と。
 「政治団体は、法的には「権利能力なき社団」と解釈されています。実は、この政治団体を利用し、親の政治団体から子の政治団体へ「寄付」という方法で資産を移動させた場合、法人税・贈与税・相続税のいずれも課税されることがないのです。ただ、政治団体間の寄付は、政治資金規正法によって年間5000万円までとされています。…が、実はこれは「政治団体1つにつき」ですので、政治団体が多ければ多いほど、無税で財産を移動させることのできる金額は増えるんですね。親子の2世議員が多い理由も・・・わかっていただけるかと思います。」

https://www.lawyers-kokoro.com/nagoya/bengoshi-blog/897/ (太田)


[明治維新後の旧長州藩人と政治権力]

〇首相

初代:伊藤博文(1885年~)
 3代:山縣有朋
 5代:伊藤博文
 7代:伊藤博文
 9代:山縣有朋
 10代:伊藤博文
 11代:桂太郎
 13代:桂太郎
 15代:桂太郎
 18代:寺内正穀
 26代:田中義一(~1929年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

〇実質的最高権力者

 山縣有朋(大久保利通暗殺(1878年)~本人の死(1922年))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
 但し、岸信介には、伊藤博文(1878年~1909年(本人の暗殺))~山縣有朋(1909年~1922年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87
という具合に見えていたと思われるが、戦前において旧長州藩人が最高権力者であった期間は、私の説と結果的には同じだ。

⇒長州出身者が明治維新後活躍したのは、維新の功績の賜物であったところ、活躍しなくなったのは、過去の功績の記憶が次第に薄れていったことに加えて、承継制度を欠いたためだ、と、岸信介は受け止めたのではなかろうか。

 承継制度云々部分以外については、岸の誤解だったわけだが・・。(太田)


[林家]

一、林平四郎

 1857~1941年。「大津屋と称し醤油醸造業を営み、また生蝋製造業をも営む。・・・奥小路町会議員、下関市会議員、同市参事会員、山口県会議員を務め、常に地方自治の発達を図った。1915年、衆議院議員に当選した。党籍を無所属団に置いた。・・・1925年・・・貴族院議員に互選された。・・・1939年(昭和14年)・・・9月28日、貴族院議員任期満了。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%B9%B3%E5%9B%9B%E9%83%8E

二、林桂介

 1900~1987年。平四郎の長男の長五郎の養子。東大法卒。「山口県翼賛壮年団理事、同下関団長、下関倉庫、山陽電気、下関瓦斯、下関精密工業、百十銀行など各種会社の重役をつとめた。
 1942年、衆議院議員に当選。臨時召集を受け1944年8月3日に議員を退職し、1945年5月18日に召集が解除され議員に復職した。同年に下関瓦斯社長に就任。翌年、大政翼賛会の推薦議員のため公職追放となる。・・・
 長男・義郎(1927年 – 2017年、通産官僚、政治家)・・・孫・芳正(政治家、1961年 – )」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E4%BD%B3%E4%BB%8B

⇒林平四郎は、岸と同じ山口県人ではあっても、元は衆議院議員だが貴族院議員になり、しかもその議員を辞めてから、5年経ってから養子が衆議院議員になったケースであり、政治屋家業の先例とは言えないが、岸の参考にはなったと考えられる。
 なお、この林家は、しばらくして、今度は、恐らく岸カルトの成立に触発されて、政治屋業化し、岸カルトの山口県内におけるライバルになる。
 現在の当主は、(林桂介の子の林義郎の子の、)御存じ、林芳正
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E8%8A%B3%E6%AD%A3

外相だ。(太田)

 岸家は、佐藤忠信を祖としても、毛利家に匹敵する由緒ある家の出身だということになるし、吉士雄成を祖とすれば、毛利家よりもはるかに由緒ある家の出身だということになる。
 しかも、幸か不幸か、毛利家は、明治維新後、華族であることに満足し、自動的に貴族院議員になることはあっても衆議院議員になろうとはせず、つまりは、権力家/政治家としての毛利家を続ける算段を講じなかった。
 岸自身、政治家になろうと「ぼんやり考えたのは中学時代からです。ずうっと考えとったね。伊藤博文公は私と同じ郡(山口県熊毛郡)の出身ですが、私の郷里から二里くらいの村に、いま伊藤公の気円環(伊藤公資料館)ができています。そういう所だから、子供の時から政治家というものに関心を持っていたのだろうね。・・・山口県<出身の>・・・軍人だった者でも、・・・多くは政治家になっているからね。・・・やはり子供のときから先輩たちのことを学校でも説いてくれるし、親なんかもそういう人たちの名を挙げて見習えというし、子供のときから環境がそうだからね。それから明治維新の事跡を直接みたり体で感ずるということもありますしね。確かに土地柄としてそうした影響はあったと思う。」(★438)と回想しているが、岸信介は、岸/佐藤家をかつての毛利家的なものにする決意を中学時代から固めていた、と、私は見るに至っている。
 なお、(上述したように、)林家の例も岸信介の参考になったのではないか。
 岸が、「由緒ある」岸/佐藤/安倍家にどれほどの思い入れがあったかを、「1959年、日系人として初めて<米>連邦議会の下院議員となったダニエル・イノウエが来日した際、当時の岸首相と面談している。イノウエが、「いつか日系人が米国大使となる日が来るかもしれません」と水を向けると、岸は「日本には、由緒ある武家の末裔、旧華族や皇族の関係者が多くいる。彼らが今、社会や経済のリーダーシップを担っている。あなたがた日系人は、貧しいことなどを理由に、日本を棄てた「出来損ない」ではないか。そんな人を駐日大使として、受けいれるわけにはいかない」と答えた(ETV特集「日系アメリカ人の“日本”」2008年9月28日放送)。」(※)という挿話が物語っている。
 (この発言が大問題にならなかったのは、ダニエル・イノウエがまだ日本人的で人間主義者だったからなのだろうが、こんなトンデモ発言をしたところを見ると、私の理解を絶するけれど、岸は米国のことが何一つ分かっていなかったのではなかろうか。)
 また、1980年に、同年6月に妻が亡くなった直後に、岸は、妻と一緒に般若心経の写経をしてきたところ、自分は世界平和のため、妻は子孫繁栄のためを願って書いてきた、と語っている(*)が、岸が世界平和を祈るなどおこがましいので、実は岸こそ子孫繁栄のためを願っていたのだと私は見ているところ、岸の妻は岸の父方の従姉妹であり(※)、その従兄弟と結婚する形で岸家の婿養子に岸がなった以上、こういう話で岸と妻とを区別する必要などそもそもなかろう。
 なお、岸が旧制中学を卒業した1914年(※)時点で、日本の実質的最高権力者群と見なし得たところの元老は、山縣(1838~1922年)を筆頭に、松方(1835~1924年)・井上(1836~1915年)・大山(1842~1916年)・西園寺(1849~1940年)の5人だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%80%81
が、山縣(やその前の伊藤博文)と井上が長州藩出身者であることから、自分もその驥尾に付したいと彼は考えるとともに、山縣を含む3人が首相経験者であったことから、自分も首相を目指す決意を固めた、と、私は想像している。
 それに加えて、元老を子や兄弟が継いだ事例がそれまでなかったのに対し、自分は実質的な日本の最高権力者たる地位を(断続的に)継承していく態勢作りを行いたいとも考えた、と想像している次第だ。
 そして、岸が旧制高校を卒業した1917年(※)には、元老は山県と西園寺の2人にまで減っており、西園寺より若い元老が補充される様子がないことから、岸は、早晩、憲政の常道が実現し、元老の出番はなくなると判断し、やがて、(統帥権、外交大権に係るものを除き、)首相が名実ともに日本の最高権力者になる、と判断し、一層、首相を目指す決意を強固にしたのではなかろうか。
 以上を踏まえ、岸信介は、戦後、自分は、大功績を上げることを目指さず、戦後において名実共に最高権力者になったところの、首相、に就任した上で一定程度の功績を上げると共に、将来、自分の後継者に大功績を上げるべく努力させるとのスローガン的なもの、と、そのためのインフラたる承継可能な政治団体の確立、との組み合わせ、という新しい権力ビジネスモデル・・私の言うところの岸カルト・・を考え出すに至った、と見る。

(参考)

〇戦後の首相(=実質的最高権力者)

 56・57代:岸信介
 61・62・63代:佐藤榮作
 90代:安倍晋三
 (94代:山口県出身の菅直人!)
 96・97・98代:安倍晋三

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 前掲

[安倍家]

〇安倍家

 「安倍家のルーツについては、共同通信社出身のジャーナリスト古沢襄によれば、安倍晋太郎自身が奥州安倍氏であり、安倍宗任の末裔にあたると語っていたという。安倍宗任は1051年の前九年の役にて源頼義、源義家率いる源氏に破れ、大宰府に配流された陸奥国の豪族である。・・・
 但し、晋太郎にとり宗任は女系の祖先にあたり、父系は平氏の平知貞の系譜をひき、平家滅亡により源氏による迫害を恐れ女系の安倍姓を称したという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%8B%E5%A4%AA%E9%83%8E

〇安倍慎太郎(1850~1882年)

 「安倍家中興の祖と評される。安倍家は江戸時代に大庄屋を務め、酒と醤油の醸造を営む大地主であり、地元の名門として知られた豪家である。慎太郎は明治12年(1879年)の第1回山口県議会議員選挙に当選、中央政界入りを狙うも明治15年(1882年)10月10日に32歳で死去した。
 安倍慎太郎には直系が育たなかったため、妹のタメが郡内で名門として知られる椋木(むくのき)家から彪助を婿養子に迎える。彪助はタメとの間に一人息子・安倍寛を儲けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%85%8E%E5%A4%AA%E9%83%8E

〇安倍寛(1894~1946年)

 「金沢の旧制第四高等学校を経て、1921年(大正10年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。帝大卒業後は東京で自転車製造会社 三平商会を経営していたが、1923年(大正12年)の関東大震災で工場が壊滅し、会社は倒産してしまう。東京に移ったのちに本堂静子と結婚し長男晋太郎を儲けるが、直後に離婚し以降は独身で暮らした。その後は山口県に戻り、「金権腐敗打破」を叫んで第1回普通選挙とされる1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙に立憲政友会公認で山口県一区から立候補するも落選した。
 総選挙後は学生時代に罹患していた結核が再発し、それにより脊椎カリエスを併発し療養していたが、1933年(昭和8年)に地元住民に請われる形で日置村長に就任した。1935年(昭和10年)からは山口県会議員を兼務などを経て、1937年(昭和12年)の第20回総選挙にて「厳正中立」を唱えて山口県一区から無所属で立候補し、衆議院議員に初当選した。
 十五年戦争がはじまっても非戦・平和主義の立場を貫き、1938年(昭和13年)の第一次近衛声明に反対し、1942年(昭和17年)の第21回総選挙(翼賛選挙)に際しても東條英機らの軍閥主義を鋭く批判、大政翼賛会の推薦を受けずに立候補するという不利な立場であったが、最下位ながらも2期連続となる当選を果たした。議員在職中は三木武夫と共同で国政研究会を創設し、塩野季彦を囲む木曜会に参加して東条内閣退陣要求、戦争反対、戦争終結などを主張した。帝国議会では商工省委員や外務省委員などを務めた。戦後は日本進歩党に加入し1946年(昭和21年)4月の第22回総選挙に向けて準備していたが、直前に心臓麻痺で急死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%AF%9B

〇安倍晋太郎(1924~1991年)

 「晋太郎が生まれて80日後に両親が離婚した。・・・
 一年間浪人した後、1943年(昭和18年)に第六高等学校(岡山市)に入学。1944年(昭和19年)9月、1年半で繰り上げ卒業。東京帝国大学法学部に進学するが、同年10月、海軍滋賀航空隊に予備学生として入隊させられた。
 太平洋戦争終結後、改称された東京大学法学部に復学、1949年(昭和24年)に卒業して毎日新聞社に入社。

⇒戦前の東大法卒であり、しかも、新聞社に入社した、ということから、晋太郎の学力、ひいては知的能力の程度が推し量れるというものだ。(太田)

 その間1946年(昭和21年)1月29日父寛が心臓麻痺で倒れ、翌年には“育ての親”ともいえる大伯母ヨシが死去した。
 1951年(昭和26年)5月、岸信介の長女・洋子と結婚。1956年(昭和31年)12月23日、石橋湛山内閣が成立。岸が外相として入閣したのを機に毎日新聞を退職し、外務大臣秘書官となった。岸内閣が成立すると、内閣総理大臣秘書官に就任。外相秘書官になった頃から、総選挙に出馬を考えていたが、岸や岸の実弟の佐藤栄作から時期尚早と反対された。
 1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙に、郷里の旧山口1区(定数4)から自民党公認を得て立候補。安倍が出馬したことにより、地元の旧日置村では、父の安倍寛の地盤を継いだ周東英雄を推す主流派と、安倍派に分裂したが、2位で初当選する・・・。
 1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙では落選。支持母体流動化など選挙区の情勢から政界への復帰が危ぶまれていたが、2回連続落選しては復活の目途が立たなくなるため、義父である岸信介元首相および叔父である佐藤栄作首相二人から異例の仲介が為され、同選挙区選出議員で地盤も重なる、吉田茂直系の周東英雄の後援会長を務めていた山口県水産業会の重鎮、藤本万次郎を後援会長に迎えた。
 1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙で衆議院議員に返り咲く。・・・
 下関市では「異端者」であった安倍は幅広い層からの支持や支援を必要とした。そこで同市に多い在日コリアン系の人々がその一翼を担うこととなった。山口県在日本朝鮮人商工会会長などを務めた朝鮮総聯系の呂成根、パチンコ業界大手の七洋物産創業者の吉本章治などからの支援を受けた[15]。安倍の第六高等学校時代の親しい同級生に、釜山日報、KBSなどの社長を務めた崔世卿がおり、安倍は在日コリアンに対する偏見はなかったと言われている。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%8B%E5%A4%AA%E9%83%8E 前掲


[岸/佐藤体制の岸/安倍/佐藤体制化のヒントとしての毛利両川体制]

 「三子教訓状<は、>・・・1557年・・・11月25日に元就が周防富田(現・山口県周南市)の勝栄寺で書いた書状。60歳を越えていた元就が、3人の息子たちに(他の子どもたちを含めて)一致協力して毛利宗家を末永く盛り立てていくように後述の14条に渡って諭し<たものであり、>・・・戦国大名としては独自の「毛利両川体制」とも呼ぶべき新体制をとることを宣言した政治的性格をおびている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AD%90%E6%95%99%E8%A8%93%E7%8A%B6
 「1600年・・・の関ヶ原の戦いにあたって輝元は西軍の総大将に推されて1万の兵を率いて大阪城に入り、養子の毛利秀元と一族の吉川広家を出陣させたが、広家は黒田長政を通じて決戦への不参加を条件に毛利家の所領の安堵の密約を家康との間に結び、9月15日の決選では動かずに逆に友軍の長宗我部軍や長束軍を牽制して東軍の勝利に貢献した。この密約を輝元や秀元が知らされたのは戦いが終わってのことだった。
 関ヶ原の合戦は東軍の勝利に終わるが、大阪城にはその後も豊臣秀頼を擁する毛利輝元が残っており、毛利秀元や立花宗茂らはこの城に籠城して最後の決戦を挑むことを主張した。これを恐れた家康は福島正則や黒田長政、井伊直政、本多忠勝らを通じ、毛利家の本領安堵を条件に輝元の大阪城退去を広家に要求し、広家は輝元を説得。9月25日に約束を信じた輝元は大阪城を退去し、代って9月27日に家康が大阪城に入城し天下に号令する体制を整えた。途端に家康の態度は一変し、輝元が大阪在城中に徳川家への敵対行為があったとして所領全域を没収してそのうち一カ国か二カ国を広家に与えると通告してきた。これに驚いた広家は改めて毛利家の所領の安堵を懇願し、受け入れられない場合は自害する決意を示した。結局、家康は毛利家の領国のうち防長二国のみを輝元に保証する誓書を与えた。
 家康の欺瞞によって最盛期には中国地方全域を支配し、120万石を領した毛利家は、四分の一でしかない周防国・長門国(長州藩)2か国29万8千石に領地を削られた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%B0%8F

⇒毛利家の結束の強さが毛利本家の存続をもたらしたという史実を念頭に、岸は娘の洋子の婿を安倍家から、後継者にする含みで迎えたのではなかろうか。(太田)


[岸信介の家フェチシズム]

一、婿養子先

 岸は父佐藤秀助の兄の岸信政の養子となり、信政の女子の岸良子と結婚した。
https://enpedia.rxy.jp/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%A7%80%E5%8A%A9

⇒岸家は家フェチ家だったわけだ。(太田)

二、弟栄作の養子先

 「松介と藤枝の間に生まれたのは寛子と妹の正子の娘2人のみだったので、佐藤家分家(松介の姉・茂世と岸家からの婿養子・秀助の夫妻)の三男である栄作を本家の婿養子にすることとなった。・・・
 <寛子の>母・藤枝はのちに外相を務めた松岡洋右の妹である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%AF%9B%E5%AD%90_(%E9%A6%96%E7%9B%B8%E5%A4%AB%E4%BA%BA)

⇒佐藤家もまた、家フェチ家だったわけだ。(太田)

三、本人

 だからこそ、岸信介本人も家フェチになった。
 そのことは、岸の和歌が物語っている。↓(太田)

 岸の獄中日記の最後の3か月分より(☆)
・古里は吾が父母の安らけく遠き祖と眠れるところ
・吾家の祖の詠みし歌なれば撰み集めて代々に伝へむ
・祖らの歌のかずかず撰り集め子らに孫らに伝へまく思ふ
・人麿を神と祭りし家にまれ歌らしき歌詠みえぬ我は
・吾が家の代々の祖のおろがみし人丸様を我も吾が娘も
・今日よりは代々の祖のおろがみし人丸様を我もおろがまむ

四、子孫

 (一)岸家

 しかし、岸信介は子孫への家業継承に成功したとは必ずしも言えない。
 長男信和は京都帝大学生当時に共産党員だった可能性が高いしその信和を父・信介が総理大臣を務めていた一時期に内閣総理大臣秘書官を務めさせたにもかかわらず政治家にさせることに失敗している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E5%92%8C
 長女洋子には政治家業を承継して行かなければならないという意識を植え付けることには成功したけれど洋子はその長男安倍寛人と次男の安倍晋三の教育に「失敗」した挙句、長男を政治家にさせることに失敗し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%AF%9B%E4%BF%A1
次男は政治家にさせることには成功するもが学歴のない昭恵(森永製菓創業家の森永家と繋がりが深く同社の社長を務めた松崎昭雄の娘)と結婚させてしまっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%98%AD%E6%81%B5
 また、生後間もなく洋子の兄、岸信和・仲子夫婦に養子として送り出した三男の信夫は、信和が松濤幼稚園
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%BF%A4%E5%B9%BC%E7%A8%9A%E5%9C%92
に入れたおかげか、慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部、慶應義塾高校を経て、慶應義塾大学経済学部を卒業している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E5%A4%AB
が、寛信も晋三も、成蹊小学校、成蹊中学校・高等学校を経て、成蹊大学卒であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%8B%E4%B8%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%AF%9B%E4%BF%A1
晋三には小学校時代に東大生の家庭教師をつけている(上掲)ので恐らく寛信にもそうしたのだろうが、松濤幼稚園に彼らを入れなかったようであることを含め、彼らの乳幼児期からの養教育が全て著しい手抜きだったのではないか。
 それに、晋三・昭恵夫妻に子供ができなかったにもかかわらず、夫妻に養子を取らせることにも洋子は失敗している。
 そもそも、「晋太郞氏(元自民党幹事長)は、生まれて80日後に両親の離婚で母と離別し、22歳の時に父の寛氏を亡くしていた。寛氏も政治家だったため、晋太郞氏は“家庭の味”を知らなかった。そのためか、子供たちへの愛情表現も苦手だったようだ。
 安倍家の“乳母”として知られ、晋三氏の養育と教育を任せられていた久保ウメ<(注15)>さんは、・・・「パパ(晋太郞氏)が晋ちゃんを抱っこするのをほとんど見たことがない」と語っていた。また、古参秘書も「晋太郞さんが子供たちの授業参観に出たという記憶がない」と振り返っている。晋三<(注16)>氏自身も、「家族への愛情表現も極端に不器用だった」と語っている。」(上掲)という有様であり、晋太郎と洋子は、どちらも親失格に近い。

 (注15)「安倍家の遠縁<の>・・・ウメは安倍晋三首相が2歳5か月「おむつが取れるかどうかという頃」から、小泉政権で官房副長官、幹事長を務めた時代まで40年以上にわたって安倍家に仕え、独身を通した。・・・
  ウメは両親が不在がちだった安倍家の幼い兄弟にとって、母親代わりの存在だった。晋三少年はいつもウメに「おんぶ」をねだり、中学生になっても彼女のふとんに潜り込んできて、「こっちのほうが、あったかいや」と甘えたという。甘えん坊で頑固、自分の思い通りにならないと癇癪を起こした晋三少年は、ウメを手こずらせた。いたずらなら、まだいい。問題は学校の宿題をやらないことだったという。
 「『宿題みんな済んだね?』と聞くと、晋ちゃんは『うん、済んだ』と言う。寝たあとに確かめると、ノートは真っ白。それでも次の日は『行ってきまーす』と元気よく家を出ます。それが安倍晋三でした。たいした度胸だった。
 でも、学校でそれが許されるはずはない。あと1週間でノートを全部埋めてきなさいと罰が出る。ノート1冊を埋めるのは大変です。私がかわりに左手で書いて、疲れるとママに代わった」(ウメ)」
https://www.shogakukan.co.jp/news/136812
 (注16)「両親の愛に飢え、母代りのウメを困らせて寂しさを埋めていた少年は、一方で「優しいおじいちゃん」だった岸 信介・元首相に溺愛され、依存した。東京・渋谷の南平台にあった岸邸で日々、夕食を摂っていた頃、塀の外には日米安保改定に反対するデモ隊が連日押し寄せていた。安倍氏は”おじいちゃんの敵”であるリベラル派を憎悪するようになった。
 長じた安倍氏は、成蹊大学時代にはアルファロメオで通学し、友人と雀荘に通い詰め、学習院大のアーチェリー部との合コンに青春を燃やした。この頃、政治的な言動は鳴りを潜めていたようだが、友人たちは憲法改正について熱弁を振るう姿も覚えている。
 大学卒業後はアメリカに留学。ところが、名門である南カリフォルニア大学での勉強は1年足らずで挫折し、政治学科の単位はゼロ。ホームシックから連日、日本の自宅にコレクトコールをかけ、1か月の電話代が10万円を超えることが続いたため、父・晋太郎氏が「それなら帰国させろ」と激怒したこともあった。」(上掲)

 岸信介は、政治家業を子孫に代々継がせるつもりだったと私は見ているわけだが、岸家に関しては、婿の安倍晋太郎はさておき、孫の安倍晋三が首相に二度もなり、しかも二度目は長期政権になったことと、もう一人の孫の岸信夫が防衛大臣になったことで、一見大成功したように見えるけれど、この二人の、岸信介のレガシーとも言うべき統一教会との濃厚な関係(とそれに由来する晋三非業の死)(典拠省略)だけとっても、客観的には必ずしもそう言えないのではなかろうか。
 もとより、岸信夫の二人の息子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E5%A4%AB 前掲
の今後がどうなるかにもよるが・・。
 いずれにせよ、岸信介自身にとっては予想の範囲内だったことだろうけれど、晋三のような人物が長期にわたって首相を務めることが許されるような日本を、ただただ自家の繁栄のためだけにもたらしたことについて、岸信介はどれほど非難されても致し方あるまい。(太田)

 (二)佐藤家

 岸信介は、実弟の佐藤栄作への家業継承には一応成功した。
 しかし、栄作は、龍太郎、信二の2人兄弟を設けたけれど、龍太郎は、「JR西日本取締役などを務め」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%A0%84%E4%BD%9C
「アジア掘削社長<になった>」
https://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E8%97%A4%20%E6%A0%84%E4%BD%9C-1646002
ということぐらいの情報しか得られず、要は、政治とは無縁の人生を歩んだようだし、信二(1932~2016年)は、「慶應義塾大学法学部卒業後、日本鋼管株式会社(現JFEスチール、JFEエンジニアリング)に入社<、>・・・1974年の第10回参議院議員通常選挙で全国区に出馬し初当選。沖縄開発政務次官を務める。 1979年の第35回衆議院議員総選挙にて旧山口2区へ鞍替え出馬。「(父)栄作11回目の選挙」と位置付けて選挙民にアピールを行い、衆議院議員に初当選した・・・。
 自民党では父が率いた佐藤派の流れを汲む田中派→竹下派→小渕派に属した。竹下改造内閣で運輸大臣として初入閣。1992年の東京佐川急便事件で竹下派が小沢一郎・羽田孜支持グループと小渕恵三支持グループに分裂すると、佐藤は村岡兼造、中村喜四郎、西田司、野中広務らとともに小渕恵三を支持した。第2次橋本内閣では通商産業大臣を務めた。1998年の自由民主党総裁選挙では領袖の小渕を推す派の意向に反して出馬した梶山静六を支持し派を離脱した。
 1994年の公職選挙法改正(小選挙区比例代表並立制施行)以降の選挙では、1996年の第41回衆議院議員総選挙で山口2区に出馬し当選。しかし、2000年と2003年の衆院選では民主党の平岡秀夫に連敗。2003年総選挙では比例中国ブロックで復活当選した。比例名簿では当選最下位であったため、引退した宮澤喜一が終身比例名簿1位のままであれば落選になっていた。
 1997年1月の記者会見で「発電、送電事業の分離はタブーとされてきたが、大いに研究すべき分野だ」と電力業界の競争政策に関して発言したことで、電力の自由化の流れの嚆矢となった。
 2005年7月5日の郵政国会の衆議院本会議の郵政民営化法案の採決では欠席して造反。同年9月11日の第44回衆議院議員総選挙には出馬せず政界を引退した。通算当選8回(参1回)。なお、急な引退表明をする一方で後継者指名をしなかったため、自民党山口県連は早急に山口2区での候補者選定を迫られることになった。自民党の後任候補は公示9日前に福田良彦を擁立することになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BF%A1%E4%BA%8C
というわけで、政治団体の親族への継承を試みないまま死去した。
 その後、信二の娘婿の阿達雅志(注17)が「2000年に・・・佐藤信二衆議院議員の事務所に入所し、2003年<から2004年まで>公設秘書。・・・2007年、第21回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で比例区から出馬したが、次々点で落選した。・・・2010年、第22回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で比例区から出馬したが、再び次々点で落選した。2014年・・・12月、佐藤ゆかり参議院議員が第47回衆議院議員総選挙に大阪11区から出馬するために辞職し、阿達が繰り上げ当選した。2016年、第24回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で比例区から出馬し、再選。同年8月より自民党外交部会長。2018年、第4次安倍改造内閣で内閣府大臣政務官・国土交通大臣政務官に任命された。2020年9月に発足した菅義偉内閣で経済・外交政策担当の内閣総理大臣補佐官に任命された。2022年7月の第26回参議院議員通常選挙で、自民党は比例代表に特定枠2人を含め計33人の候補者を擁立し、18議席を獲得をした。阿達は14番目の得票数で3期目の当選を果たした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%81%94%E9%9B%85%E5%BF%97
と、苦しみながらも政治家としてのキャリアを積み上げてきている。(太田)
 

 (注17)東大法卒、住友商事入社、同社在籍のままニューヨーク大ロースクール留学、同州弁護士資格取得、同社法務部課長の時の2000年に退社。(上掲)

 (2)首相になるまで

 岸は、弟の佐藤を吉田茂の下に送り込むとともに、幸か不幸か、長男の信和が、戦前京大に入り、しかも在学中に当時日本共産党の強い影響下にあった全学連
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%AD%A6%E7%94%9F%E8%87%AA%E6%B2%BB%E4%BC%9A%E7%B7%8F%E9%80%A3%E5%90%88
の委員長をした・・検証しようとしたができなかった・・ことから、後継者にするわけにはいかなかった・・但し、後に長女の洋子の子の信夫を信和の養子にして岸家を継がしている・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E5%92%8C
こともあり、(前述したように、)毛利家が毛利両川体制を確立することで、毛利家が生き延びることができた先例に倣い、これまた由緒ある家の出だったので、あえて「孤児」となっていた安倍晋太郎に長女洋子を娶らせ、自分の後継者にすることによって、毛利両川体制ならぬ、岸/佐藤/安倍体制を構築した、と見たらどうか。
 (佐藤の一人っ子の信二(1932~2016年)も国会議員になって、「佐藤派の流れを汲む田中派→竹下派→小渕派に属した」が、男子がいなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BF%A1%E4%BA%8C
ので、娘婿の阿達雅志が自民党の参院議員(比例区)として、事実上佐藤家を継いだ形になっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%81%94%E9%9B%85%E5%BF%97 )(太田)

 「1533年・・・9月23日付けの『御湯殿上日記』(宮中の日誌)に、大内義隆より「大江のなにがし」を応永の先例に倣って官位を授けるように後奈良天皇に申し出があったという記事がある。これは毛利(大江)元就をその祖先である毛利光房が称光天皇より従五位下右馬頭に任命された故事に倣って同様の任命を行うようにという趣旨であった。元就は義隆を通じて4,000疋を朝廷に献上する事で叙任が実現することになった。これによって推挙者である大内義隆との関係を強めるとともに、当時は形骸化していたとは言え、官位を得ることによって安芸国内の他の領主に対して朝廷・大内氏双方の後ろ盾があることを示す効果があったと考えられている。また、同時期には安芸有力国人である吉川氏当主吉川興経から尼子氏との和睦を斡旋されるが、逆に尼子方に断られてしまっている。また、・・・1537年・・・には、長男の毛利隆元を人質として、大内氏へ差し出して関係を強化した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%B0%B1

⇒この先例に倣い、毛利ならぬ岸は、大内ならぬ吉田/麻生家を、そこに送り込んだ弟の佐藤にその相当部分の乗っ取りを図らせると共に、成立したばかりの自民党において、吉田/麻生家のタテマエに対して同家のホンネをタテマエとして掲げる(同時に同家のタテマエをホンネとする)という、詐欺的な岸派・・私はこれを岸カルトと名づけているわけだ・・を構築する。(太田)

 「自身は「天下を競望せず」と語り、・・・これが元就の『遺訓』として毛利家に浸透していったという。・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%B0%B1

⇒これを、岸は、地域覇権国の保護国になる、と翻案した、と見たらどうか。
 当然、当時の地域覇権国は(冷戦の相手国としてのソ連は存在していたけれど事実上の世界覇権国でもあったところの)米国だったわけだが、それがいずれは中共が取って代わるであろうことも、自分の満州時代の知見や吉田茂とのやり取りを通じて岸は見通していたはずだ。
 安芸出身の毛利家が、防長に追いやられても、また、主君が豊臣家から徳川家に代わっても、地域権力家として存続することで足れりとしたように、岸には岸/佐藤/安倍家の「地域」権力家としての存続こそが至上命題だったから、選挙基盤をどの選挙区に置いても、米国や中共に主権を掌握され続けても、構わなかったからだ、と。(太田) 

 前置きが長くなったが、それでは、時系列的に岸の生涯を振り返ってみよう。
 「岸信介(きしのぶすけ、1896年〈明治29年〉11月13日 – 1987年〈昭和62年〉8月7日)は、日本の政治家、官僚。旧姓佐藤(さとう)。満州国総務庁次長、商工大臣(第24代)、衆議院議員(9期)、自由民主党幹事長(初代)、自由民主党総裁 (第3代) 、外務大臣(第86・87代)、内閣総理大臣臨時代理、内閣総理大臣(第56・57代)、皇學館大学総長 (第2代) などを歴任し、「昭和の妖怪」と呼ばれた。・・・
 位階は正二位、勲等は大勲位。皇學館大学総長(第2代)なども務めた。第61・62・63代内閣総理大臣佐藤栄作は実弟。また長女・洋子は安倍晋太郎に嫁いだ。洋子の次男は第90・96・97・98代内閣総理大臣安倍晋三、三男は防衛大臣の岸信夫。
 山口県吉敷郡山口町八軒家(現山口市)に、山口県庁官吏であった佐藤秀助と茂世(もよ)夫妻の第5子(次男)として生まれる(本籍地は山口県熊毛郡田布施町)。信介が生まれた時、曽祖父の佐藤信寛もちょうど山口に来ており、非常によろこんで、早速“名付親になる”といって自分の名前の1字を取って「信介」という名が付けられた。数え年3歳になった頃、父親の秀助は勤めをやめて、郷里に帰り、酒造業を営むようになった。
 秀助・茂世夫妻は、本家のある田布施町上田布施中西田縫のすぐそばの岸田で造り酒屋を営んだ(佐藤家は酒造の権利を持ち、母が分家するまでは他家に貸していた)。
 岡山市立内山下小学校から岡山中学校に進学したが、学費や生活費の面倒を見ていた叔父の佐藤松介(医師・岡山医学専門学校教授)が肺炎により急逝したため、2年と1ヶ月足らずしかいることが出来なかった。山口に戻り、山口中学校に転校。中学3年生の時、婿養子だった父の実家・岸家の養子となる。
 1914年(大正3年)、山口中学校を卒業する。間もなく上京して高等学校受験準備のため予備校に通ったが、勉強より遊び癖の方がつきやすく、受験勉強そっちのけでしばしば活動写真や芝居を見に行ったりした。

⇒旧制中学は5年制だが、4年を終了すれば、旧制高校の入学資格が与えられたが、岸が四修だったのかどうか、また、上京して一高受験のために通った予備校にどれくらいの期間通ったのか、調べがつかなかった。
 (なお、6年生の小学校についても五修があったはずだが、岸がそうだった気配はない。)
 ちなみに、一高・東大法同期生の我妻栄も岸と同学年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E5%A6%BB%E6%A0%84
なので、一高・東大でトップクラスの成績だったこの2人はどちらも四修だったと思いたいのだが・・。
 とまれ、重要なことは、どうして、岸が陸士や海兵ではなく、一高を目指したのか、だ。
 結論から先に言えば、兄の佐藤市郎の方が頭が良く(後出)、彼は海兵に行ったけれど、一般に最も頭が良い者は陸士に行くものだったところ、自分が陸士や海兵に行っても、その中で必ず頭角を現すことができる、という自信がなかったからにほぼ間違いあるまい。
 岸自身、「上杉慎吉先生<に>・・・岸君、山口県じゃね、一流の人物は中学校を卒業すると、みんな軍人を目指してるんだ。大学へ来るのは、二流、三流でだな…そうだろう、と。君ら偉そうな顔をしていても、山口に帰れば二流、三流だろうなどと、・・・いわれましてね」(★427)と白状しつつ、「当時軍人志望の多かった山口中学で、・・・また当初軍人志望であったが、次第に「軍人志望熱がさめていったのは、別に軍人に反抗する気分からではなく、体が丈夫でなかったことと、器械体操が下手だったためかもしれない」と・・・<言い訳を>している」(☆)けれど、「かもしれない」という言い方が、これが嘘であることを物語っている。
 なお、ここで、重要なのは、「中学進学率は年々高まっていたものの、同一世代男子の人口に占める中学卒業者の比率は 1908年で3%、1925年でもわずか6%に過ぎず、戦前の中学卒業者は知識階層に相当して<おり、>その中からさらに官立高校(三年制)に進学する者は一割程度で、同一世代男子の人口に占める官立高校入学者は1%に満たなかった。」
https://www.esri.cao.go.jp/jp/esri/archive/bun/bun203/bun203h.pdf
という事実だ。
 もう一つ重要なのは、家出身や援助が得られなければ学費を負担できないところの中学(ないし陸軍幼年学校)
https://www.wikiwand.com/ja/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%B9%BC%E5%B9%B4%E5%AD%A6%E6%A0%A1
を卒業しなければ受験資格がなかったけれど、陸士・海兵は旧制高校と違って学費がかからなかったこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A3%AB%E5%AE%98%E5%AD%A6%E6%A0%A1_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
であり、陸士・海兵の方が旧制高校よりも、国民のより幅広い層の子弟を集めていたという事実だ。
 そういうこともあって、陸士・海兵の学生に比して旧制高校生の平均的学業成績は低かったのであり、東大と京大・一橋くらいの差はあったと思えばよい。
 よって、岸の学業成績抜群という伝説は、大幅に割り引いて受け止める必要がある。(太田)


[東大法出身首相群]

○戦前

加藤高明(24代):首席卒業。、三菱本社副支配人、外務官僚、外務大臣(4回)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E9%AB%98%E6%98%8E
若槻禮次郎(25・28代):首席卒業。大蔵官僚、大蔵次官、大蔵大臣(2階)、内務大臣。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%A7%BB%E7%A6%AE%E6%AC%A1%E9%83%8E
濱口雄幸(27代):成績優秀、大蔵官僚、逓信次官、大蔵次官、大蔵大臣、内務大臣。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%B1%E5%8F%A3%E9%9B%84%E5%B9%B8
廣田弘毅(32代):外務官僚、外務省欧米局長、外務大臣。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85
平沼騏一郎(35代):司法官僚、検事総長、大審院長、司法大臣、枢密院副議長、枢密院議長。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B2%BC%E9%A8%8F%E4%B8%80%E9%83%8E

⇒岸信介が旧制中学を卒業したのは1914年(※)だが、加藤高明は1900年に外相に、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E9%AB%98%E6%98%8E 前掲
若槻禮次郎は1912年に蔵相に、就任しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%A7%BB%E7%A6%AE%E6%AC%A1%E9%83%8E
将来、首相になる、と当時既に予想できた。
 その上で、岸は、首相になることを目論み、そのために、広義の官庁に入って、次官、大臣になることを目指すことにしたと見る。
 そして、陸相、陸軍次官、や、海相、海軍次官、になれる可能性は、兄の佐藤市郎より学業成績が悪い自分にはない、と見極め、非軍事官庁の官僚になることにし、司法省は試験区分が異なりしかも司法省にしか行けないので選択肢から落とし、外務省はやはり試験区分が異なりしかも外務省にしか行けないのでやはり選択肢から落とし、残りの各省中、一流官庁の大蔵省や内務省・・その典拠を探したがまだ見つけていない・・は競争相手が多いので、自分が大学時代の成績や高文の成績がどれだけよくても確実にその省で次官以上にになれる保証がないので、自分が確実に次官以上になれそうな二流官庁群中では、最右翼の農商務省を目指すことにし、自分の成績が思わしくなければ、更に志望官庁のレベルを下げることにした、とも見る。
 (そして、この発想の延長線上で、自分より更に学業成績が劣る弟の佐藤榮作には、彼が次官になる可能性がなきにしもあらずの、三流官庁の鉄道省を勧めた、と見る。)
 こうして、岸は、陸士や海兵ではなく、一高・東大法を目指すことにした、と。
 その後、岸は、憲政の常道時代を経験したことで、次官を辞めてからしかるべき時に衆議院議員になることも目指すことにした、と思われる。(太田)

○戦後(岸が首相になるまで)

幣原喜重郎(44代):成績優秀、外務官僚、外務次官、外務大臣(2回)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A3%E5%8E%9F%E5%96%9C%E9%87%8D%E9%83%8E
吉田茂(45・48・49・50・51代):外務官僚、外務次官、外務大臣。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82
片山哲(46代):弁護士、衆議院議員。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%B1%B1%E5%93%B2
芦田均(47代):外務官僚、法学博士、衆議院議員、厚生大臣、外務大臣、副総理。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A6%E7%94%B0%E5%9D%87
鳩山一郎(52・53・54代):弁護士、衆議院議員、内閣書記官長、文部大臣。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A9%E5%B1%B1%E4%B8%80%E9%83%8E

⇒これらの(東久邇稔彦首相は戦後の首相に入れなくてよいとして、)戦後首相群を見て、次官経験者が2人、大臣経験者が3人で、5人全員が(東大法出であることもさることながら、)衆議院議員になっていることから、岸は、自分が選択したそれまでの歩みに間違いはなかったと思ったのではないか。
 こうして、岸は、目論見通りに首相に就任する。

 そこで、岸の次の目論見は、これらの要件を必ずしも満たさないであろうところの、自分の係累ないし子孫に首相の座を断続的にであれ、継承させていくためのビジネスモデルを構築することへと変化することになる。(太田)


[兄 佐藤市郎]

 1889~1958年。「海兵36期首席・海大18期首席。・・・1920年よりフランス駐在、1923年軍令部参謀、1927年のジュネーブ海軍軍縮会議には日本海軍を代表して参加する。同年には連合艦隊首席参謀、翌年には「長良」艦長、翌年再び軍令部参謀、1929年国際連盟常設軍事諮問委員会に帝国海軍代表、ロンドン軍縮会議全権委員随員、1932年海軍省教育局第一課長と順調に昇進、国際派で、軍令部勤務が長かった。
 海軍大学校教頭を経て、1938年には海軍中将・旅順要港部司令官(同年11月15日 – 翌1939年11月15日)となるが、翌年軍令部出仕の後、身体が弱かったこともあり、1940年に予備役に編入された。
 上述のように稀に見る秀才だったとされるが、後に政界で活躍する弟2人と比較して政治との関わりは薄く、海軍では軍令畑を長く務め、中将で現役を去った。自身が東大の優等生であった岸信介は、「頭の良さから言うと兄の市郎、私、弟の栄作の順だが、政治力から言うと栄作、私、市郎と逆になる」と述べている。

⇒岸は、「<市郎>兄貴<は、>・・・恐らく海軍兵学校が創立されてから、閉鎖される間においての、一番の秀才じゃないかとおもいます」(*85)と回顧しているところ、「海軍兵学校の同期生たちをして「神様の傑作の一つ堀の頭脳」と畏敬せしめる程の、桁外れの英才であった・・・堀悌吉」は、海大(16期)次席だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%82%8C%E5%90%89
のに対し、市郎は、両方とも首席だったのだから、一見、岸の言っていることは正しいように見えるけれど、堀の場合、戦争は悪という持論(上掲)が海大での成績に影響した可能性があるので、やはり、身内の贔屓目だと言うべきだろう。
 井上成美(兵37期クラスヘッド)は、兵36期クラスヘッドである佐藤について聞かれ「つまらん」と一言で評したという。
 ・・・予備役編入後の1943年に『海軍五十年史』を執筆した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%B8%82%E9%83%8E

⇒理系人間で政治音痴の井上成美(コラム#12790)なる目糞、もっとひどい、理系人間にして政治音痴の佐藤市郎なる鼻糞、をディスるというわけだが、そういう「無能な」人物を兵学校でも海大でも首席にする、という教育制度をとっていた帝国海軍のあり方を、井上が批判した形跡がないことは、目も当てられない。
 佐藤市郎に関して言えば、海軍を首になってから書いた『海軍五十年史』もどうやら愚著だったらしく、言及された話などついぞ聞かないが、彼は、一高、東大に進んで、理系の学者としてのキャリアを歩むべきだったのであり、その判断ができなかった彼自身ももちろんだが、岸信介と佐藤栄作の両親でもあるところの、彼の両親の佐藤秀助(1865~1938年)
https://enpedia.rxy.jp/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%A7%80%E5%8A%A9
や茂世、の責任も大きい。

 それだけ、当時の人々にとって、陸士や海兵は憧れの的だったということなのだろうし、それはまた、入学者の学力が、陸士>海兵>一高、であったことを意味していたということでもあるが・・。(太田)       


[弟 佐藤栄作]

 1901~1975年。「地元の人たちは佐藤家の市郎・信介・栄作の兄弟について「頭は上から、度胸は下から」と評している。・・・
 1924年5月、鉄道省に入省(門司駅助役)。主に鉄道畑を歩いたが、地方勤務が長かったり、左遷を経験したりと、革新官僚として早くから注目された兄・信介と比較すると曲折ある前半生だった。・・・
 五高・・・東京帝国大学法学部法律学科(独法)<。>・・・

⇒池田隼人が五高・東大法の同期生だが、佐藤が、どうして、兄とは違って五高(注18)に行ったのか、よく分からなかったが、恐らくは、一高に比し、入学難度からして、学力の割に東大法に進学し易い、と計算したのだろう。(太田)

 (注18)「入学者は九州出身者が多く、卒業後の進学先は地元の九州帝国大学よりも東京帝国大学が多かった。関東の旧制一高、関西の旧制三高、長州(山口)の旧制山口高と並んで、肥後(九州)の旧制五高は、政治家志向、中央官僚志向が強かった。そのため、内閣総理大臣経験者をはじめ、多くの政治家や官僚を輩出した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1_(%E6%97%A7%E5%88%B6)

 1947年運輸次官に就任、同年社会党首班政権の片山内閣が誕生した際、西尾末広に内閣官房次長に起用される案があったが、辞退している。1948年退官し、民主自由党に入党した。

⇒西尾は、翼賛選挙で非推薦で当選していた当時だったが、東條英機内閣の倒閣運動に加わっており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B0%BE%E6%9C%AB%E5%BA%83
その折に岸との接点ができたと思われ、佐藤に西尾が声かけをしたのは、岸が手を回したのではなかろうか。
 なお、西尾も「CIAから資金提供を受けていた」(上掲)ところ、これも、岸の「斡旋」によるものではないか。(太田)

 遠縁に当たる吉田茂<(注19)>とは早くから親交があり、1948年第2次吉田内閣で非議員ながら内閣官房長官として入閣。

 (注19)吉田の娘と岸/佐藤の従兄弟が夫婦になっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B

⇒同じ伝で、吉田茂は、佐藤よりも年齢が近い岸の方とより深い親交があったはずであり、これは、まだ巣鴨に入っていた岸が、佐藤を自分の一種の代理として吉田の下に送り込んだのだろう。
 岸は、放免された1948年12月24日、まず、内閣官房長官公邸の佐藤のところを訪問している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B

 池田勇人とともに「吉田学校」の代表格となる。翌1949年、総選挙に当選してキャリアを重ねるも、自由党幹事長時代に造船疑獄が発覚して逮捕寸前になった際に、法務大臣・犬養健に指揮権の発動をさせようとしたが、犬養は動かず、吉田に犬養を罷免させ、新法相に指揮権を発動させようとした。結局、犬養が指揮権発動したことにより逮捕を免れた。その後、政治資金規正法違反で在宅起訴されるが、「国連加盟恩赦」で免訴となる。

⇒佐藤は、岸自身や、岸のお友達の児玉誉士夫から、非合法のカネの集め方を指南されてさっそく実行したものの、ヘタクソだったために、足がつきかけたのを、再び岸や児玉の入れ知恵や尽力のおかげで首の皮一枚で助かったといったところだろう。(太田)

 保守合同による自由民主党結成では、自民党参加を拒否した吉田に橋本登美三郎<(注20)>とともに従った。

 (注20)1901~1990年。「早稲田大学政治経済学部に入学。在学中は雄弁会に所属し、闘将と称された。1927年に大学卒業後、朝日新聞社に入社する。満州に特派員として派遣されたのを皮切りに中華民国で活動する。・・・
 1949年の第24回衆議院議員総選挙で旧茨城1区から立候補し、三度目の正直で最高点を得票し、初当選。以後連続当選12回。
 当選後、主に郵政関係、特に電気通信関係の族議員となる。だが、1955年の保守合同に際しては、橋本の恩師である吉田茂が自由民主党への参加を拒否してその側近の佐藤栄作もこれに従う。橋本は佐藤への恩義を理由に2人が参加しない限り、新党参加を拒否することを表明したため、結果的に3人は無所属となった。1957年に佐藤の実兄である岸信介が自民党総裁に就任すると、岸や池田勇人の説得によって吉田が自民党に入党したため、佐藤・橋本もこれに従った。・・・
 1960年、・・・右翼の支援団体と警察だけではデモ隊を抑えられないと判断した自民党のアイク歓迎実行委員会により、橋本は暗黒街(=暴力団)の親分衆の会合に派遣され、闇勢力の力を借りる形を取った。・・・
 岸内閣の後の第1次池田内閣の建設大臣兼首都圏整備委員会委員長として初入閣。佐藤栄作の側近として、田中角栄、保利茂、愛知揆一、松野頼三とともに「佐藤派五奉行」の一翼を占める。1964年に佐藤内閣が発足し、内閣官房長官、建設大臣、党総務会長、運輸大臣を歴任。佐藤退陣を受けての角福戦争では田中派の大幹部として、総裁選挙で田中角栄を擁立、田中内閣成立をうけて、自民党幹事長に就任した。政権の大番頭として田中を支える。・・・
 ロッキード事件では一審・二審で懲役2年6ヶ月執行猶予3年、追徴金500万円を受けた。上告中の1990年・・・死去。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E7%99%BB%E7%BE%8E%E4%B8%89%E9%83%8E

⇒佐藤は、岸の「指示」を受け、吉田の政治資産をできるだけ引き継がせてもらうことを期待して、吉田と行動を共にしたのだろう。
 こうして、佐藤は、目出度く、「旧自由党の吉田茂派を池田勇人の池田派(宏池会)と分ける形で・・・木曜研究会<(後の周山会)なる>・・・派閥を形成<することができた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E5%B1%B1%E4%BC%9A 
 なお、「注20」から分かるように、暴力団との関りといい、ロッキード事件といい、自民党内の「左」に広範に見られるダーティな属性を、既に橋本登美三郎はしっかりと帯びていたわけだ。(太田)

 鳩山一郎引退後に自民党へ入党。兄の岸信介の片腕として党総務会長に就任、政務調査会長・三木武夫とともに岸政権を支えた。
 続く池田内閣でも要職を務めたが、池田の高度成長路線に批判的な立場を取り、その歪みを是正すべく、「社会開発」「安定成長」「人間尊重」といったスローガンのもと、ブレーンらとともに自らの政権構想を練り上げていった。

⇒岸が、首相の座を、事実上池田に禅譲したものだ。(注21)

 (注21)「岸<は、>・・・池田総裁を望んだ<。>・・・
 大野伴睦<は、>・・・岸内閣時代、岸信介首相から大野派(白政会)を主流派として内閣に協力させることの見返りに後継総裁の念書を手に入れるが、これを反古にされ<たもの>。一説にはこの事について岸は「床の間に肥溜めをおけるわけがない」と言い放ったという。また渡邉恒雄によるとこの一件は昭和31年(1956年)の総裁選における意趣返しであるという。この出来事をきっかけとして、大野は終生岸を憎むこととなる。岸が首相正式辞任直前に右翼(大野を支持する院外団にいた男)に刺され負傷した際には「ざまあみやがれあの法螺吹きが」と発言したという説もある。・・・
 総裁密約に立ち会った岸の実弟佐藤栄作に強い反感を抱くようになり、「俺の目が黒いうちは佐藤は総裁にさせない」とうそぶくほどであった(ただし佐藤に対しては、もともと佐藤が当選前に官房長官についたころから態度がでかい官僚だとして毛嫌いしていた)。一方の佐藤も大野を評価しておらず、大野が死んだ際には大野の庶民性を称え「“伴ちゃん”とみんなから愛された故人にならい、私も“栄ちゃん”と呼ばれたい」とコメントしたが、後に「他に褒めようがなかったからだ」と酷評している。・・・
 この密約自体は孫である安倍晋三が「祖父から直接聞いた」とテレビ等で発言しており、その際に岸は「政治家は目的のためになら嘘をついてもかまわない」と語ったという。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E4%BC%B4%E7%9D%A6

 兄弟での首相の座のたらい回しという批判を避けると同時に、自民党の「左」がダーティだけのイメージで染め上げられないように、クリーンなイメージの「左」もでっちあげようと、岸は池田(注22)をあえて盛り立てたのだろう。(太田)

 (注22)「1958年、話し合い解散による同年5月の総選挙では、岸派、佐藤派、河野派、大野派の主流4派から外された池田派は、自民党から公認が得られず、大半が非公認のまま選挙を戦った・・・結果50名が当選、岸派57名に次ぐ第2派閥に躍り出る。しかし選挙後の第2次岸内閣では、主流四派で組閣が進み、池田には最後に防衛庁長官を提示された。しかし岸政権への協力が政権獲得の近道と見て、無任所の国務大臣を引き受ける。・・・反岸を鮮明にし同年12月31日、岸の警職法改正案の審議をめぐる国会混乱の責任を迫り、池田、三木武夫、灘尾弘吉の三閣僚で申し合わせ、揃って辞表を叩きつける前例のない閣僚辞任を画策。岸が辞任を認めないため、今度は反主流派三派、池田、三木、石井らで刷新懇談会を作るなどして岸と主流四派を揺さぶり、また行政協定についても、三木や河野一郎らと謀り、そろって改訂を主張して岸に圧力をかけた。保守合同以来、はじめての自民党分裂の危機だった。
 1959年2月22日、郷里の広島に戻り、広島市立袋町小学校の講堂で行われた時局演説会にて、後に歴史的キャッチコピーとも評される「所得倍増計画」「月給倍増論」を初めて口にした。同年6月18日の第2次岸内閣改造内閣では、「悪魔の政治家の下にはつかん」と断言していたが、岸が「陛下が、政局の安定、ひいては内閣の統一を希望している」と持ちかけ、池田を感動させた、岸と佐藤の使い・田中角栄から「政局の安危は貴方の閣内協力にかかっております。天下のため入閣に踏み切って下さい。そうすれば次の政権は貴方のものです」と口説かれて、あるいは影のブレーン・賀屋興宣が「内閣に入って首相を狙え」と口説かれたともいわれるが、大平は「あの時は、1日に株が30円も下がって、内閣改造がもう1日のびたら岸さんは、これを投げ出すという段階に来ていたから、再入閣は私がすすめた」と話している。大平以外の側近は「たった半年で変節したら世間から何と言われるか」などと猛反対していたが、池田<は>・・・通産大臣に就任した。・・・ここで岸内閣の閣内にいたことは大きな意味を持った。安保闘争が激化した同年6月には、自衛隊の治安出動を強く主張した。治安出動に強硬だったのは、池田と川島正次郎幹事長だった。
 安保闘争と差し違えで倒れた岸内閣の後継として、池田は1960年7月19日に内閣総理大臣に就任、第1次池田内閣が発足する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%8B%87%E4%BA%BA

 <佐藤が>大蔵大臣を務めていたときには共産主義と戦うため、日本共産党、日本労働組合総評議会の高野実派、日本教職員組合などに対抗し、実業界、財界トップからなる非政府グループを設立するなどした。しかし、資金面で非常に難しいとダグラス・マッカーサー2世大使と協議を交わし、東京グランドホテルでS.S. カーペンター大使館一等書記官にアメリカからの財政援助を願い出、資金工作の受取人としては当時自民党幹事長だった川島正次郎<(注23)>を挙げた。

 (注23)1890~1970年。「神田中学校の夜間学校と正則英語学校を経て、内務省の筆生として働きながら旧制専修大学経済学科に学んだ。専修大学卒業後に内務省警保局に属官として入省<。>・・・
 1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙で晴れて初当選。立憲政友会に属し、まもなく院内幹事に抜擢される。・・・
 1955年(昭和30年)、第2次鳩山内閣で自治庁長官と行政管理庁長官に任命され、当選9回目にしてようやく初入閣を果たす。鳩山内閣では保守合同を推進し、自民党の創設にも大きく関わった。・・・
 鳩山内閣退陣後は岸信介政権の樹立に動き、岸内閣の下で自民党幹事長に就いている。川島は1960年(昭和35年)安保闘争を前にして動揺する党内の混乱をよく押さえつつ、小沢佐重喜を安保特別委員会委員長に起用して強行採決の段取りを進め、とにかく新安保条約の成立まで岸政権を守り抜いた。なお、川島はこのとき自衛隊の治安出動を検討していたという。安保条約に調印した岸は解散をもくろむが、これに猛反対し解散を断念させる。解散できなかった岸はそのまま総辞職に追い込まれた[要出典]。
 岸内閣総辞職後、党人派から大野伴睦と石井光次郎が自由民主党総裁選挙に名乗りを上げ、官僚派からは池田勇人が名乗りをあげていた。その頃、川島は岸派内で一定の勢力を有し、川島系といわれる川島に同調する議員10人ほどを連れて、大野支持に向かう様子をにおわせていた。川島は大野に対して「党人派が二分されると官僚派の池田に勝てないので、党人派は石井一本にまとめたほうがいい」と進言して、大野に総裁選を辞退させた。すると、手のひらを返したように川島は「大野を支援しようと思ったが、大野が辞退したので池田を支持する」と表明して池田支持に乗り換え、池田の総裁選出に寄与した。
 1962年(昭和37年)10月岸派が解散すると、岸が派閥を福田赳夫に譲ることに反発し、翌11月川島派「交友クラブ」として分派した。
 1964年(昭和39年)の自民党総裁選で池田の3選に貢献したことから、病死した大野の後任として自民党副総裁に就任した。池田が病いで退陣する際には、後継者に佐藤栄作を指名させるのに功績があり、佐藤政権でも自民党副総裁に任命された、佐藤政権の下で川島は終生自民党副総裁の地位を維持し、常に与党ナンバー2の地位を保ち続けた。・・・
 (川島は)党人派政治家として田中に総理総裁への道を開いた。・・・
 佐々淳行は、フィリピンへの「紐付き援助」からのキックバックが、川島の資金源であったとしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B3%B6%E6%AD%A3%E6%AC%A1%E9%83%8E

⇒どうせこれも岸の入れ知恵なのだろうが、党人派としては「比較的」クリーンだった川島に、佐藤は、米国政府からの資金受け取りという汚れ役を押しつけた、というわけだ。
 なお、ヤミ資金提供元がCIAでなかったのは、既に、岸ないし、岸経由での野党への資金供与がCIAの「予算」枠一杯になっており、CIAから、米国政府の「正規」資金の獲得方法を岸が指南され、それを佐藤に伝えたということだったのではないか。(太田)

 1964年7月、佐藤は池田勇人の3選阻止を掲げ自由民主党総裁選挙に出馬した。池田、佐藤に藤山愛一郎を加えた三つ巴選挙戦は熾烈を極め、各陣営からは一本釣りの現金が飛び交い、「ニッカ、サントリー、オールドパー」という隠語が流布するまでとなったが、党人派の支持を固めた池田が過半数をわずかに超え辛勝した。佐藤は「暫しの冷や飯食い」を覚悟したというが、総裁選挙から3ヶ月後、病に倒れた池田の退陣に伴い、実力者による党内調整会談を経て11月9日の池田裁定により後継者に指名され、同日の自由民主党両院議員総会で首班指名候補として承認された後、同日召集の第47回国会での首班指名を経て内閣総理大臣に就任した。・・・
 1965年8月19日、那覇空港で「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」との声明を発し、沖縄返還への意志を明確に表明した。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%A0%84%E4%BD%9C
 「佐藤の沖縄返還交渉は沖縄の米軍基地から爆撃機が飛び立つベトナム戦争のさなかに行なわれた。
 国民の反戦運動が高まり、国会では自民党と社会党の左右対立が激化する中、ベトナム戦争を支持して“タカ派”と見られていた佐藤は、批判をかわすために「武器輸出三原則」や「非核三原則」を打ち出し、沖縄返還交渉でも「核抜き、本土並み」という条件を掲げて平和路線を鮮明にする。
 1970年の最初の防衛白書には「わが国の防衛は専守防衛を本旨とする」と盛り込まれた。」
https://www.news-postseven.com/archives/20200901_1591210.html/5 

⇒佐藤は、憲法第9条の政府解釈を事実上更に狭めると共に、米軍の手は事実上少しも縛っていない、ところの非核三原則、及び、武器輸出三原則を打ち出したわけだが、武器輸出三原則は、日本の再軍備の際にその基盤となる防衛産業の整備・発展を不可能にしただけではなく、日本の技術開発全体に悪影響を及ぼすこととなり、野田内閣の時に緩和され、第2次安倍内閣の時の2014年4月に防衛装備移転三原則への移行が行われた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%99%A8%E8%BC%B8%E5%87%BA%E4%B8%89%E5%8E%9F%E5%89%87
ものの、日本は、いまだに、まともな武器輸出一つ成就できていない有様だ。(太田)

 「1967年(昭和42年)11月16日 – 南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(米国との小笠原返還協定)により、小笠原諸島の日本への返還が決まる。・・・
 1968年(昭和43年)・・・6月26日 – 協定が発効し、日本に返還される。東京都小笠原支庁設置。小笠原諸島全域を領域とする小笠原村が設置される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E8%AB%B8%E5%B3%B6 
 「1969年(昭和44年)に行われた日米首脳会談で、ベトナム戦争終結と<米>軍のベトナムからの撤退を公約に掲げ前年の大統領選挙に当選したリチャード・ニクソン大統領が、ベトナム戦争の近年中の終結を考えて、繊維製品の輸出自主規制と引き換えに沖縄返還を約束したが、公選の行政主席である屋良朝苗や復帰賛成派の県民の期待とは裏腹に、<米>軍基地を県内に維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還が決定し、1971年(昭和46年)沖縄返還協定調印、その後1972年(昭和47年)5月15日に日本へ復帰した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E8%BF%94%E9%82%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%96%BD%E6%94%BF%E6%A8%A9%E4%B8%8B%E3%81%AE%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E8%AB%B8%E5%B3%B6 (参考)
 「交渉の過程でアメリカ側の要請により「有事の沖縄への核持ち込みおよび通過」を事前協議のうえで認める密約を結んだ<。>・・・
 <しかも、>佐藤内閣下で<は>、極秘に核保有は可能か検討が行われていた<。>・・・
 在任中の支持率は決して高くなかったが、5度の国政選挙と3度の総裁選を乗り越え、日本政治史にもまれな長期連続政権となった。
 この背景には、何といっても好調な経済が第一に挙げられる。佐藤政権期、世は高度経済成長に邁進し続け、「昭和元禄」(福田赳夫が命名)を謳歌していた。かつて池田の経済優先の姿勢を批判し続けた佐藤だが、就任直後の証券不況を乗り越えて以降は空前の好景気となり(いざなぎ景気)、皮肉にも池田時代以上に経済は拡大した。・・・
 <また、>非核三原則<(注24)>の制定などが評価されて・・・1974年<に>ノーベル平和賞<を>受賞<した。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%A0%84%E4%BD%9C 前掲

 (注24)「「核の持たず、つくらず」は堅持した上で「核の持ち込み」については日本の領土に配置を認めないが、日本の領海において寄港や通航を認めることを「非核二・五原則」と表現させることがある。・・・
 1967年に非核三原則を表明した佐藤栄作は、1969年(昭和44年)1月14日付で米国政府に送った公電で「非核三原則はナンセンスだ」と発言した<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E6%A0%B8%E4%B8%89%E5%8E%9F%E5%89%87

⇒ベトナム戦争の終了(見込み)と沖縄の人々の反基地/本土復帰のおかげで、(カネこそ米国に払ったけれど)いわば徒手空拳で・・いや一層徒手空拳に自分でしたと言うべきか・・領土の「拡張」に成功し佐藤は、「「平和憲法さえ守れば国は安全」という思想を国民の間に定着させ」、
https://www.news-postseven.com/archives/20200901_1591210.html/5
日本の再武装を求める勢力を大幅に弱体化させることに成功しただけでなく、厚かましくもノーベル賞を詐取し、岸/佐藤家の名声を確立し、ここに岸カルトは完成を見た、と言えよう。

 この際付言すれば、佐藤はもちろんだが、池田以降の日本の歴代首相は、自民党が政権を手放した時期の諸首相を含め、基本的に、日本の再軍備に向けての努力を放棄し、ひたすら、杉山構想の遺産を食いつぶす形で首相の座に漫然と座っていただけであって、その結果、日本の脳死がもたらされ、(一旦脳死すればもはや回復させられないのだから当たり前だが)その脳死状態を維持させた者ばかりで現在に至っていると言えよう。(太田)

 <岸は、>第一高等学校の入学試験の成績は最下位から2、3番目だったが、高等学校から大学にかけての秀才ぶりは様々に語り継がれ、同窓で親友であった我妻栄<(注25)>、三輪寿壮<(注26)>[、蝋山政道(注27)]とは常に成績を争った。

 (注25)わがつまさかえ(1897(4.1)~1973年)。「一高は入学・卒業とも一番だった(在学中は必ずしも首席ではなく、例えば1年次は大熊興吉が首席である。)。・・・
 岸信介とは一高、東京帝大時代における同級生で、首席を争った。一高入試では岸の成績はあまり芳しくなかったが、入学直後の試験で一挙に頭角を現し、我妻とも親しくなり、以後、2人は優等生として過ごした。帝大時代、岸と我妻は冬休みになると一緒に伊豆・土肥温泉の旅館「明治館」に籠もって勉強した。ある年、到着早々に我妻が重い風邪をひき、高熱を出した折には、岸が必死になって看病を続けた。明治館の人たちの記憶に、この2人の東大生は長く記憶に残った。
 東京裁判が終わり、まだ、岸が巣鴨拘置所に幽閉されていたとき嘉治隆一や三輪寿壮の肝いりで、数名の友人が釈放嘆願書をGHQに提出するが、この際当時東大法学部長であった我妻も、一高以来の友人の一人として署名した。岸は釈放されると、直ちに政界に返り咲き、アッというまに首相の地位に就く。そして、第二次岸内閣は新日米安全保障条約のため、衆議院の会期延長と条約批准案の単独採決を行う。安保闘争が激しさを増す中、1960年6月5日付『朝日新聞』政治面に我妻は、「岸信介君に与える」と題し
 今日、君の残された道はだた一つ。それは直ちに政界を退いて、魚釣りに日を送ることです。…静かな山川の中で、ただ一人無心にウキをながめていたら、巣鴨のときとはまた別な心境の変化を君に与えるだろうと存じます。
との手記を寄稿。岸に即時退陣を訴え、条約批准書交換日である、6月23日、岸内閣は総辞職した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E5%A6%BB%E6%A0%84
 (注26)みわじゅそう(1894(12.15)~1956年)。「一高・東大の同期であり、首席を争った岸信介、我妻栄、蠟山政道とは生涯の親友であった。東大在学中に吉野作造の民本主義の影響を受け、大正8年(1919年)には、麻生久・赤松克麿らと新人会の創設期に参加している。
 東京帝大卒業後、弁護士となり、細野三千雄らとともに、日本労働総同盟や日本農民組合の法律顧問として、労働争議や小作争議で闘い、その過程で賀川豊彦や松岡駒吉と出会う。大正10年(1921年)、ナプボルツ時計工場同盟罷業の前後より社会主義に強く傾倒し、日本社会主義同盟に加盟。これにより、内務省警保局は大正11年(1922年)頃に三輪を「思想要注意人」に指定している。
 大正15年(1926年)労働農民党書記長となり、同年末、同党中間派が集まった日本労農党が発足するとその書記長に就任。中間派無産政党の離合集散の後、昭和7年(1932年)、無産政党の統一体である社会大衆党の創設に参加する。弁護士・法律家の立場を生かして労働組合法案、小作法案・小作組合法案、健康保険法案の策定、工場法の改正などに尽力。昭和12年(1937年)、第20回衆議院議員総選挙に東京で社会大衆党から立候補し、反ファッショと社会民主主義的公約をかかげ、衆議院議員に初当選。その後は広義国防を中心とする政治活動に加え、河合栄治郎の公判の弁護を側面から支援し、ゾルゲ事件では尾崎秀実の親族の依頼を受け、官選弁護人の選任を務めている。
 昭和15年(1940年)、日中戦争の激化で社会大衆党が解体後、近衛文麿の新体制運動に協力し、太平洋戦争中は大政翼賛会連絡部長、大日本産業報国会厚生部長を歴任する。後に政治的転向と批判されるが、国民生活の安定と労働者擁護の姿勢は貫いていた。
 戦後は公職追放となり弁護士業に専念。極東国際軍事裁判に備えて、岸信介の家族と、実弟の佐藤栄作からの依頼により、岸信介の弁護を担当している。追放解除後、昭和26年(1951年)、第二東京弁護士会会長および日本弁護士連合会副会長に就任し、東大病院輸血梅毒事件の弁護、昭和電工事件では西尾末広の弁護などを行う。
 昭和27年(1952年)、第25回衆議院議員総選挙において旧東京3区(目黒・世田谷が地域であった)から衆議院議員に返り咲くと、社会党右派の重鎮として活躍。昭和30年(1955年)、鈴木茂三郎、河上丈太郎らと左右社会党の統一を成し遂げる。「寝業師」と揶揄されながらも左派党員と誠実に交渉を重ね、悲願の統一実現を陰で支えた。・・・
 岸信介は、親友である三輪と連絡を取り合って二大政党制を目指し1955年、三輪は社会党再統一、岸は保守合同(自由民主党結成)を成し遂げた(55年体制)。しかしその翌年、三輪は世を去った。岸は三輪の葬儀において自ら買って出て弔辞を読み、「本当に残念だ。これで政権を渡す相手がいなくなった」と嘆いた。孫の安倍晋三も『美しい国へ』(文藝春秋、2006年)の中で、岸政権下で初めて成立した国民年金法の背後に、社会保障政策に尽力したライバル・親友の三輪の存在があったのではと指摘する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BC%AA%E5%AF%BF%E5%A3%AE
 (注27)ろうやままさみち(1895(11.21)~1980年)。「第一高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部政治学科に進学。在学中に吉野作造の影響を受け東大新人会に参加、政治学の研究を志す。特に雑誌『社会思想』の同人であった河合栄治郎[要出典]のすすめから、イギリス社会主義の研究をはじめ、その後の民主社会主義理論家としての素地を作る。
 1920年7月大学を卒業と同時に法学部助手に採用、1922年同助教授を経て、1928年教授に任官。1927年からは新設された行政学講座を担当する。1939年4月に行なわれた東大経済学部の人事処分(平賀粛学)をめぐり、親交のあった河合栄治郎が休職処分とされたことに殉ずる形で抗議の辞任を行い、大学在職時から続けていた雑誌等での言論活動に主軸を移す。
 政治的には二・二六事件に際して『帝国大学新聞』に軍部批判の論説を掲載するなど、軍部に対して批判的な姿勢を見せたが、一方で社会大衆党などの右派無産政党や近衛文麿に接近し、1934年5月、当時貴族院議長の近衛が親善特使として米国に派遣された際にも同行している。また、1930年代の政党政治の行き詰まりや軍部台頭のなかで国内政治体制の刷新のため「立憲独裁」を提唱して近衛のブレーン組織である昭和研究会設立構想に参加、日中戦争下の1938年には『改造』に掲載した論説により「東亜協同体」をめぐる論争の口火を切った。
 1942年4月の翼賛選挙では近衛や井上房一郎の勧めを受けて推薦候補として群馬二区に立候補、衆議院議員に当選する(任期途中で翼賛政治会を脱会し、翼壮議員同志会に参加)。また、戦時期にはフィリピンの軍政監部顧問であった村田省蔵の指名により、大学以来の旧友・東畑精一とともに占領地の調査に参加した。
 終戦後の1945年12月1日に議員を辞任し、中央公論社副社長・『中央公論』編集主任に就任するが、1946年11月には言論活動に専念するため辞職している。また、1947年には公職追放を受けたが、翌年には追放を解除された。この追放にあたっては木村健康・丸山真男・辻清明らが追放解除の嘆願書を占領軍に送っている。1948年に日本政治学会理事に就任したのちは要職を歴任し、1949年に公益事業学会理事長に就任、1950年には自らが主導して日本行政学会を設立、初代理事長になった。
 大学教育にも復帰し、1950年1月にはお茶の水女子大学学長に就任、1959年12月まで務めた後、1962年4月から国際基督教大学教授に就任、同大の大学院行政学研究科設置に協力した。
 お茶の水大学学長当時、「チェーホフの会」という愛好会の立ち上げを発案。学長退任まで定期的に読書会などを開いていた。・・・
 この間も学外の要職を歴任し、民主教育協会会長(1954-1962年)、東京都教育委員長(1968-1979年)のほか、中央教育審議会委員(1969年就任)・NHK番組審議会委員(1959年就任)・憲法調査会委員(1957年就任)・第一次臨時行政調査会(第一次臨調)委員(1962-1964年)をはじめとする各種委員を務めた。
 また1951年からは民主社会主義連盟理事長として社会党右派の政策路線を学問的・理論的にサポートしており、1960年の民主社会党結成時には執行委員長への就任も取りざたされたが、蝋山はこれは辞退した。しかし、民社党結成と同時に発足した同党の政策を理論的に補完する民主社会主義研究会議の議長に就任し、理論的イデオローグとして特に日米安保肯定論で民社党の外交・防衛政策を理論づけたことは有名である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A0%9F%E5%B1%B1%E6%94%BF%E9%81%93

⇒岸と我妻は修学年次が同じだが、三輪は2年次遅れ、蝋山は1年次遅れ(以上、それぞれのウィキペディアによる)だ。
 なお、岸が予備校時代に遊び回って一高にはぎりぎりで入学した、というのは伝説だろう。
 ところで、岸と我妻が成績を争ったとして、その根拠はと言えば、一高の「独法<(注28)は>40人おりましたが、・・・我妻栄っていうのが、1番で入った」(*79)ところ、東京「大学1年の時、<その>我妻栄と同点で独法のトップとなった」(☆)ことらしい。

 (注28)当時、一高等の旧制高校には、独法、英法、仏法、文科、工科、医科、理科があり(*80)、東大等の帝大法学部の学生は、独法、英法、仏法、政治に分かれていた。現在の東大の法学部の学生は、私法、公法、政治に分かれている。

 なお、自分に言及することなく、岸が、一高の独法を「2番で卒業した・・・三輪寿壮」(*80)と言っていることからすると、1番で卒業したのは我妻栄で、岸は恐らく3番ですらなかったのではないか。
 大学の時の独法の卒業順位も似たようなものだったと想像される。
 (ちなみに、弟の佐藤栄作・・五高の時も東大法の時も独法で、同期の池田隼人は、それぞれ、文科、独法だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%A0%84%E4%BD%9C
・・については、岸は、「大学の成績は、僕のほうが非常に優秀だった。」(★441)と回想しているので、一貫してビリに近い成績だったのではないか。)
 だからこそ、(何度も恐縮だが、)岸は、大蔵省や内務省を諦め、商工省に入省することにしたのだろう。
 とにかく、これからは産業の時代(後出)、などという、高尚な理由で商工省を選んだのではなかったことだけは間違いあるまい。(太田)

 1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部に入学。法学部の入学試験はドイツ語の筆記試験だけで、難なく合格した。大学時代は精力を法律の勉強に集中し、ノートと参考書のほか一般の読書は雑誌や小説を読む程度で、一高時代のように旺盛な多読濫読主義ではなく、遊びまわることもほとんどなかった。我妻栄と2人で法律学の勉強に精を出し、昼食後や休講時などに、大学の運動場の片すみや大学御殿下の池の木などで、最近聞いた講義の内容や、2人が読んだ参考書などについて議論を戦わせた。
 このころの岸は社会主義に関心を寄せてカール・マルクスの資本論やフリードリヒ・エンゲルスとの往復書簡などを読んだものの、国粋主義的な北一輝と大川周明の思想の方に魅了され、上海で大川に説得されて帰国していた牛込の北を訪ねている。後の満州国への関与などに対する大川の影響を岸は認めており、北も「大学時代に私に最も深い印象を与えた一人」として「おそらくは、のちに輩出した右翼の連中とはその人物識見においてとうてい同日に論じることはできない」と岸は語っている。

⇒この大川が、岸をまともな秀吉流日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス信奉者と誤認定し、その縁で、後に商工省の工務局長の時に満州国政府に派遣されることとなり、また、商工次官の時に近衛文麿から第二次近衛内閣の商工大臣への就任要請(辞退)を受け、東條内閣で商工大臣として入閣する運びになった、と見る。
 (岸自身、「私の満州行きの基礎には、大川さんの考えがあったことは否めんね。」(★446)と回想している。)
 なお、吉田茂に対してと同様、岸にも杉山構想は開示されなかったわけだが、その結果、岸は戦後の公的生命を絶たれるところを、たまたま、反東條活動に関与したことで、助かることになる。
 なお、岸は、「その頃、・・・人生観というか人生のいろいろな問題について・・・一番影響を受けたと思われるのは、鹿子木員信<(注29)>(かのこぎかずのぶ)・・・)という人です。鹿子木さんが鎌倉の建長寺で座禅しておられるんで、そこへ訪ねていって一緒に座禅をしたこともあるんです。それから・・・目白の・・・<ご自宅>へ伺ったりした。先生は非常に山登りが好きでね。」(★441~442)と回想しているが、私見では、鹿子木から受けた影響も薄っぺらいものであり、強いて言えば、晩年の岸が直面させられるところの、自利のための岸カルト創始への疚しさ(後述)、を軽減してくれそうな仏教、の存在を認識させてくれたくらいだろう。(太田)

 (注29)1884~1949年。海軍機関学校卒。「「八雲」乗組みとして日本海海戦を戦った。海軍機関中尉で病を得て予備役を経て退役。・・・日本海海戦中、非戦闘員のロシア人従軍牧師が海上を漂っているのを見て軍艦を止め救助したこと・・・で上官の叱責を受けたことも海軍を退いた理由の一つである。・・・
 哲学研究に入り、1906年(明治39年)9月 京都帝国大学文科大学哲学科選科入学にしたが、この時代に近衛文麿を知り関係を深める。慶應義塾大学教授を経て、1907年より米独に留学。米国ではニューイングランド州のユニオン神学校で学ぶ。アルプス旅行中に知り合ったポーランド系ドイツ人のコルネリアと1917年9月に東京三田の統一教会で結婚。興国同志会に属していたが、1920年の森戸事件をきっかけに岸信介らとともに脱会。1926年に九州帝国大学教授・同法文学部長、1927年にはベルリン大学客員教授となる。・・・
 1939年(昭和14年)、対支同志会が日比谷公会堂で主催した「英国排撃市民大会」では、<英国>の東洋政策を厳しく批判する演説を行ったほか、第二次世界大戦中は徳富蘇峰が会長を勤める大日本言論報国会の専務理事、事務局長を務め、国粋主義思想を広めた。・・・
 「プラトン哲学の研究」で文学博士(東・・・大)。・・・
 鹿子木は慶應義塾大学山岳部の初代部長で、1918年日本人で初めてヒマラヤに入<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%AD%90%E6%9C%A8%E5%93%A1%E4%BF%A1

 1920年(大正9年)7月に東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業する。

⇒どうして、3月卒ではなく7月卒なのかも分からなかった。(太田)

 国粋主義者の上杉慎吉の木曜会<(注30)>と興国同志会<(注31)>に属し、上杉から大学に残ることを強く求められ、我妻もそれを勧めたが、岸は官界を選んだ。

 (注30)「大正5年ごろ上杉慎吉を中心として同士学生が愛国修養の団体「木曜会」を結成、それが発展し、大正8年に興国同志会となり、会員は400-500名を有した。同志会の機関誌『戦士日本』1号の鹿子木員信の巻頭辞が問題となって発売禁止となったため、経済的打撃などから同志会内で分裂が起こり、一部が脱会して国本社を作り、残留組は大正10年ごろに自然解体した。この間も木曜会会員として上杉のもとで修養していた40名ほどが大正13年に上杉宅に集い、七生社を結成した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%A4%A7%E4%B8%83%E7%94%9F%E7%A4%BE
 上杉慎吉(1878~1929年)は、「1910年代に入ると「天皇即国家」「神とすべきは唯一天皇」「天皇は絶対無限」「現人神」とする立場から同じく東京帝国大学の美濃部達吉が打ち出した天皇機関説を批判するようになる(天皇機関説論争)。陸軍元帥山縣有朋と接触し、1913年には上杉を発起人兼幹事に大島健一、江木千之、杉浦重剛、筧克彦と桐花学会を創設。1916年に吉野作造の民本主義を批判、1920年には森戸辰男の発表した論文「クロポトキンの社会思想の研究」を「学術の研究に非ず、純然たる無政府主義の宣伝」と排撃して森戸事件を起こす一方、1923年から後に「資本論の会」や葬儀に参加するほど高畠素之と親交を深めて高畠一派と経綸学盟を設立するなど国家社会主義運動を進め、1926年には建国会の会長に就任(顧問は平沼騏一郎や頭山満と荒木貞夫、理事長は赤尾敏、書記長は高畠門下の津久井竜雄)。甘粕事件の甘粕正彦の擁護から軍部の石光真臣、福田雅太郎、山縣有朋とも結びついた。・・・
 長男は上杉正一郎(統計学、東京経済大学教授)、次男は上杉重二郎(労働運動史、北海道大学教授)<で、どちらも、>・・・日本共産党員である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%85%8E%E5%90%89
 (注31)「上杉慎吉<は、>・・・山県有朋の知遇を得て13年山県系官僚を中心に思想団体桐花学会を組織。19年新人会に触発されて,国家主義的学生団体興国同志会を組織。20年の森戸事件では主謀者といわれる。」
https://kotobank.jp/word/%E8%88%88%E5%9B%BD%E5%90%8C%E5%BF%97%E4%BC%9A-1313568

⇒東大法学部では、少なくとも私の学生時代までは、「学問」において、法学>政治学、法学の中では、私法>公法、公法の中では、刑法>行政法>憲法、という「序列」があり、岸は政治専攻ではなかった以上は、法学の中で、最も「序列」の低い学問分野で声を掛けられたわけであり、岸の成績が(恐らく全優ではあったのだろうが、)トップではなかったことは間違いなかろう。
 ちなみに、年齢的には岸より2学年上だが、一高から岸と同期生だった平岡梓・・三島由紀夫の父親・・が高文一番で、平岡は大蔵省の面接で落ちた結果、農商務省に岸と同期入省している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B2%A1%E6%A2%93
 なお、岸は、大学時代に興国同志会を脱会しているが、岸は、「助教授だった森戸辰男さん・・・が・・・「クロポトキンの社会思想の研究」・・・を経済学部の『経済学研究』という雑誌(創刊号)に載せましてね。それが・・・朝憲紊乱の科で罪に問われ・・・たんです。とくに興国同志会の連中が・・・自分たちとは違う思想を頭から一切理解せず否定してしま<い>・・・、森戸さんを激しく攻撃した<ので>・・・脱会したわけです。・・・私は上杉先生に・・・「あんなの抑えてください」といったのだが、なかなかそうされないんだ。そういうところに私は不満だった。」(★428)と回想しているところ、私は、岸は、思想、宗教、イデオロギー類には何の関心もない人間だったところ、高文を受けて次官/大臣を目指すためには軍部、就中陸軍に気に入られなければならないこと、そのためには自分がどういう思想/宗教/イデオロギー傾向を持っている印象を世間に与えるか、を基準に、大学時代に何の勉強をするのか、誰と付き合い、いかなる団体に所属するか、を計算し尽くして自分の言動を律した、と見ている。
 その証拠に、岸は、「上杉先生・・・には・・・人柄の点で敬服していた<ものの、そ>・・・の憲法論に・・・一から十まで賛同していたわけではな<く、むしろ、>・・・美濃部達吉さんの憲法論に・・・非常に共鳴しておった<。>・・・美濃部さんの天皇機関説には賛成しなかったが、他の行政理論の説明は非常に理論的でしたよ。一般の行政法、憲法の講義の時なんかは、大いに勉強になった。」(★427、430)と回想しているところ、岸は、大学時代に一新会に反対していたという実績を残すために興国同志会に一時在籍すると共に、軍部が掲げているアジア主義の当時の旗手であった大川周明及び北一輝とそれぞれ接点を作り、軍部もホンネでは認めていた当時の通説である美濃部憲法論に賛成だが軍部がタテマエでは否定的だった美濃部の憲法論中の天皇機関説には反対を標榜していた、わけだ。(太田)

 しかも、卒業後の進路としては、官界>学界、という序列が、少なくとも私の学生時代まではトップクラスの学生の間ではあり、岸が声掛けに心を動かされなかったのは当然と言うべきか。
 それに、岸の場合は、目標は首相になることだった、と私は見ているのだから・・。(太田)

 「これからは産業」とあえて農商務省に入る。優等生であった岸が内務省ではなく二流官庁と思われていた農商務省に入ったことは意外の念をもって受け止められた。同郷の政治家で両省に在職経験のある上山満之進はこの選択を叱責したという。

⇒上山は、「政治というものには権力が必要であり、人心を把握するということからすれば、内務省でなければ駄目だ」(★440)と岸を叱咤した・・この上山の論理からすれば、「政治というものには利益誘導が必要であり、人心を把握するということからすれば、大蔵省でなければ駄目だ」も成り立つことになる・・ところ、私に言わせれば、上山も岸もどちらも正しいのであって、岸自身も回想しているように、「農商務行政<・・農林省/農水省と商工省/通産省/経産省、の行政、と言い換えてよかろう(太田)・・>から出て総理になったのは僕一人だ」(★440)し、そのことは現在も変っていないわけで、上山にとっては想像を絶したであろうところの、岸カルト、を岸は創始し、ヤミ金と詐術を駆使することによって、不可能を可能としたわけだ。
 なお、岸の弟の佐藤栄作は、岸カルトのおかげで、運輸行政・・国土交通省の行政、と言い換えてよいかどうかはともかく・・から出た唯一の総理たりえたわけだ。(太田)

 農商務省へ入ると、当時商務局商事課長だった同郷の先輩、伊藤文吉(首相伊藤博文の養子)から「外国貿易に関する調査の事務を嘱託し月手当四十五円を給す」という辞令をもらった。

⇒この「異常な」辞令の何たるかも分からなかった。(太田)

 同期には平岡梓(三島由紀夫の父)、三浦一雄、吉田清二などがいたが、入って間もなく、岸は同期生およそ20名のリーダー格となった。

⇒平岡は変わり者だった(上掲)ので岸は助かった形だ。(太田)

 1925年(大正14年)に農商務省が商工省と農林省に分割されると商工省に配属された。

⇒どういう振り分け方がなされたのか、興味あるところだ。
 平岡は、農林省に配属されている(上掲)。(太田)

 その当時の上司が、吉野作造の弟で、のちに商工省の次官・大臣となった吉野信次<(注32)>であり、当時文書課長だった吉野と岸と臨時産業合理局の木戸幸一が重要産業統制法を起案実施したとされる。

 (注32)1888~1971年。一高、東大法(首席卒業で銀時計受領)して農商務省入省。次官。第一次近衛内閣の商工大臣。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E4%BF%A1%E6%AC%A1

⇒この時の岸の様子を伺うことができるのが、「浜口内閣時代(1929~31)に僕が事務官の筆頭として、つまり職員組合の委員長のような職責にあったとき、・・・減俸問題で管理職をやり込めたことがあったんです(1929年浜口内閣による管理給与の「平均1割切り下げ」に対して、商工省の岸氏は減俸撤回運動の先頭に立ってこれを実現させた)。官吏というのは陛下の官吏でしたから、それが徒党を組んで、上司に対して自分たちの待遇問題をだな、五分五分の立場で交渉するなんていうのは、当時としてははなはだ怪しからんということですよ。」(★462)という岸の回想だ。
 ところで、吉野の高文順位が分からないが、それこそ、どうして吉野が、農商務省に入ったのかを知りたいところだ。
 なお、岸は、産業合理化の言い出しっぺであることを自認しているようだが、矢次一夫が、岸の面前で「商工省で産業合理化の問題に終始とりくんでいたのは吉野さんの先輩か同輩ぐらいの竹内可吉(注33)でしょう」(☆20)と言っていることからも、それはウソだと思う。(下の囲み記事参照。)(太田)

 (注33)かきち(1889~1948年)。三高、東大法科大学経済科卒、農商務省に入り、「商工省工務局長、特許局長官、燃料局長官を経て、1936年(昭和11年)に商工次官に就任した。その後、臨時物資調整局次長、物価局次長を歴任して1939年(昭和14年)に退官した。
 1940年(昭和15年)に企画院総裁に就任。同年に退任した後は、7月16日に貴族院勅選議員に任じられた。その後、1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)まで軍需次官を務めた。1946年(昭和21年)5月14日、貴族院議員を辞職した。その後公職追放となった。
 戦後は、日本能率協会会長に就いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%86%85%E5%8F%AF%E5%90%89


[岸と産業合理化]

一、背景

 「重要産業統制法<は、>・・・1929年恐慌に端を発する世界的不況のなかで重要産業部門におけるカルテル結成を強力に推進することを目的に・・・浜口雄幸内閣<によって>[1930年に臨時産業審議会が発足して首相が会長に就任、同年、商工省に臨時産業合理局が設けられ<、>]・・・制定された法律。31年4月1日公布,8月11日施行。産業合理化政策推進をになった商工省の方針と,政府の介入により競争を制限し価格低下に歯止めをかけようとする企業の利害が一致して成立したが,独占資本の市場支配力を強化しようとするものではなく,企業に適正利潤の確保を認め,低廉かつ豊富な供給を実現しようとするものであった。・・・
 戦時統制経済への下敷の意味をもち,国家総動員法による戦時体制の進展に伴い,1941年失効。・・・
 類似の立法はイタリアやドイツにもみられたが,日本はむしろその先駆をなし,このような企業統制の強化は,やがて半官半民の形態をとる多くの国策会社の設立にもつながる。」
https://kotobank.jp/word/%E9%87%8D%E8%A6%81%E7%94%A3%E6%A5%AD%E7%B5%B1%E5%88%B6%E6%B3%95-170497
https://ameblo.jp/igirisusochan/entry-12667948670.html ([]内)
 「産業合理化<は、>・・・新たな機械技術・労働組織(スピードアップ、テーラーシステム、フォードシステムなど)によって、生産性の向上、生産費の低下を図る経済政策。一九二五年ドイツで唱えられ、日本では昭和五年(一九三〇)浜口内閣によって推進され、・・・第2次大戦後の生産性向上運動はこの戦後版といえ<、>・・・第二次世界大戦後の高度経済成長の基盤ともなった。」
https://kotobank.jp/word/%E7%94%A3%E6%A5%AD%E5%90%88%E7%90%86%E5%8C%96-513171
 ドイツでいかなることが唱えられたかは、下掲参照。↓
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jyu/13/2/13_KJ00000195056/_pdf

二、岸の関わり

 「私は実は大正15年(1926)に、<米国>独立150年の記念世界博覧会に、博覧会事務官として初めて渡米し、イギリスとドイツを経由して半年ぐらい後に帰国したのですが、その時印象深かったのは、ドイツで盛んだったナツィオナリジィールンク(Nationalisierung)の運動だった。私はこの運動に興味をもって研究し、その結果を時の商工大臣にくわしく史料も入れて報告したのです。しかしその時には私の報告は問題にされなかった。その後浜口内閣になって、昭和5年に金解禁が実施されると、日本の国民経済を立て直さなければならないということになったが、私のかつての報告書が注目され、岸をもう一度ドイツへやって研究させろということで、私は同じ年にヨーロッパに行って研究したのです。・・・ドイツの産業合理化運動というものには、いろんな項目があったけれど、技術的には規格統一の問題がやかましく叫ばれ、また過度の競争を制限するカルテルの問題、クルップを中心とする製鉄業、自動車のベンツといった重要産業に対する政府の保護および干渉の問題があった。そういうことを調べた結果を日本にもってかえってきたわけで、そうすると軍のほうが私の報告にくいついてきました。」(☆17~18)

⇒岸は、その昭和5年の7月6日に「研究」派遣されたはずのベルリンから商工省「産業合理局」第一部長の木戸幸一宛に書簡を出していることで、岸が話を盛っていることがバレバレだ。
 つまり、局は既にできているのであって、局設置を企画し推進した者も、その局で最初に手掛けるべきこと・・重要産業統制法案の策定・・を企画した者も、岸ではなく、岸は、局立ち上げに係る、大蔵省主計局や内閣法制局との実務的折衝を中心になって行っただけだったのだけれど、それを労うために商工省上層部がドイツへ慰労出張させてくれたのではないかと思われるのであって、そのことは、この長文書簡の中身の空疎さが物語っている。
 (同書簡中の一番気の利いた箇所で、「合理化の真精神は国民的共働に在り・・・。此の点が米国の合理化と独乙の夫れとの最大の相違なり。一個の企業、一部門の産業と云ふ様なケチの問題に非ずして国民経済全体の問題なり。従て生産者、販売業者、消費者、学者、官吏–苟も産業に関係を有する者の全体が渾一したる共働的精神の下に協力するに非ざれば合理化は行はれず。トラスト、カルテルの結成にしても国家は素よりRKW<・・ドイツでの推進部局名だと思われるが不詳(太田)・・>と雖も何等促進の方策は採らず。而かも著々として其の結成を見る。」(☆346)程度だ。
 こんな調子だから、大正15年の報告書なんてものは存在しない、と、私はふんでいる。)
 だから、「軍のほうが私の報告にくいついてきました」というのもウソで、産業合理化局の設置・運営に係る陸軍との調整窓口が岸だった、というだけのことだったはずだ。
 ちなみに、矢次一夫によれば、「永田鉄山が第一次世界大戦の観戦武官の任務を終えて帰国し、『国家総力戦論』を書いたのが大正15年。その本がもとになって内閣に資源局ができ、それが大きくなって内閣調査室、さらに内閣調査局、企画院になるという歴史が一方で進んでいる」(☆20)ところ、陸軍が国家総力戦体制整備の一環として商工省に産業合理化局を設置させた、と思ってよかろう。
 私が何が言いたいかというと、岸という人物は、秀才ではあっても、学問的素養が必要であるところの、国策の企画能力など持ち合わせていない、ということだ。
 (岸が、1950年3月に出版された、三田村武夫の陸軍統制派アカ論を紹介した本を読んでその内容を信じ込んでしまった理由として、私は既にそのことを指摘している(コラム#12833)。)

 (累次私が批判してきたところの)東大法での教育が、岸のこの欠陥を矯正するものでは全くなかったことは、言うまでもない。(太田)

 
 1933年(昭和8年)2月に商工大臣官房文書課長、1935年(昭和10年)4月には商工省工務局長に就任。自動車製造事業法の立法に貢献。

⇒岸自身が、「軍部が・・・いざという場合に合弁ではいかんということで、ずいぶん議論して、自動車事業法(昭和13年)を作り、結局、機械・設備を外国から買って、自動車製造を許可事業にして、トヨタと日産を保護したわけですね」(☆20)と言っているように、これも陸軍のいわば、下請け作業をやらされたわけだ。(太田)

 1936年(昭和11年)10月に満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満。

⇒岸は「昭和11年の二・二六事件のあとに学者出身の小川郷太郎<(注34)>という人が商工大臣になった時、自分が大臣になっても、商工省に吉野・岸というのが巣食っておって、あれらをやめさせない限り、大臣としての抱負経綸は行なえないと言った。結局、小川さんが来ると同時に、吉野さんは辞めて東北振興会社の総裁に、私は満州に行くということになり、同じ日に2人で辞表を書いた覚えがあります」(☆22)と言っている。

 (注34)1876~1945年。一高、東大法(政治学科・首席卒業)、大蔵省に入省するも、「翌1904年(明治37年)、新設されたばかりの京大経済学部に迎えられた。財政学研究のため<欧州>に6年間に渡り、ドイツ、オーストリアなどで学んだ。帰朝後は京都帝国大学経済学部教授、同大経済学部長を歴任。1917年(大正6年)には法学博士号を授与された。
 1917年(大正6年)に京都帝大在職のまま、京都市から第13回衆議院議員総選挙に立候補し、当選する(のちに岡山県に移る)。以後、当選8回。1924年(大正13年)には京都帝大を辞して、拓殖大学の学監に就任。また拓殖大学で教鞭も執った。
 政治家としては当初は新政会に所属し、のちに政友本党の結党に参加した。政友本党では政務調査会長を務める。政友本党と憲政会が合同して立憲民政党が結党されたのに伴い民政党に入党し、民政党岡山県支部長、民政党政務調査会長。1929年(昭和4年)成立の濱口内閣で大蔵政務次官に任命される。
 1936年(昭和11年)廣田内閣の商工大臣、1940年(昭和15年)第2次近衛内閣の鉄道大臣を歴任した。第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)大政翼賛会の総務、ビルマのバー・モウ政権の最高顧問として同国に赴任し、財政再建にあたった。
 1945年(昭和20年)4月1日、帰国途上、乗船していた貨客船・阿波丸が、東シナ海で<米>海軍の潜水艦によって撃沈(阿波丸事件)されて死去・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E9%83%B7%E5%A4%AA%E9%83%8E

 しかし、吉野信嗣は、1931年から5年近くも商工次官をやっており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E5%8B%99%E6%AC%A1%E5%AE%98%E7%AD%89%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
当然代わるべき時が来ていたけれど、岸はまだ局長になってから1年半でしかなく、小川が岸を省外に出向させようとしたとは考えにくい。
 岸は死人に口なしでウソを言っており、陸軍からの誘いがあり、満州に行けば陸軍との関係が深まり、それが、総動員体制構築に動いていた陸軍の推しで商工次官、更には商工大臣に確実になるレールを敷くことになる、と計算し、積極的に満州に赴いたのだろう。
 いずれにせよ、下掲のような背景の下、経済に関して企画・計画面では既にお膳立てが全てできていた満州に、その企画・計画の実行役として満州国に迎えられた、というわけだ。
 岸自身でさえも、「私が満州に行ったのは昭和11年の11月で、その時には五か年計画はすでにできていた。計画の立案については先に渡満していた椎名悦三郎君などが中心になってやったわけです。・・・ですから私は計画そのものについての責任<は>もたなかった」(☆28)と言っており、矢次に至っては、「計画の計数的なもの・・・<の>下書きは宮崎機関でやったのだろうが、具体的には陸軍省軍事課の満州班の片倉衷、秋永月三(つきぞう)君らが中心でしょう」(☆31)と喝破している。↓(太田)

 「<加賀>藩の下級士族で明治維新以後は米穀商を営んでいた宮崎正行・・・の三男・・・として、石川県金沢市材木町に生まれ<、ロシアに留学した>・・・宮崎正義<(1893~1954年)>・・・は、満鉄調査部きってのロシア通<であり、>・・・1930年秋、石原莞爾と出会い、石原の経済面のブレーンとなり、・・・1932年(昭和7年)、関東軍の経済政策実現のための機関である満鉄経済調査会の設立に尽力し、第一部主査兼幹事に就任した。「満洲経済統制策」「満洲国経済建設綱要」を立案した。
 1933年(昭和8年)5月、関東軍の嘱託を受けて、日満経済ブロックにおける経済統制方策の研究立案のため、東京に転勤。1935年(昭和10年)秋、<参謀次長杉山元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
の下で>参謀本部作戦課長に就任していた石原莞爾と相談して松岡洋右と板垣の許可を得て、満鉄の調査員と嘱託で日満財政経済研究会(宮崎機関)を組織した。参謀本部から10万円、満鉄から10万円、合計20万円が当座の運営資金として宮崎に渡された。当時の参謀本部の機密費の半分は宮崎機関が使っていたという。主なメンバーは東京帝国大学の土方成美から紹介され、有力なパートナーとなる同学部助手の古賀英正、河上肇の有名な弟子で京都帝国大学の谷口吉彦、のちの大蔵大臣泉山三六などであった。
 1936年(昭和11年)に「満洲産業開発5カ年計画」、1937年(昭和12年)5月に内地用の「重要産業5カ年計画要綱」を作成する。前者は1936年10月の湯崗子会議で決定された。1936年秋に宮崎機関は近衛文麿、池田成彬、結城豊太郎、鮎川義介、木戸幸一、林銑十郎など政財界の有力者に計画を説明している。1937年6月15日の近衛内閣の「我国経済力ノ充実発展ニ関スル件」で重要産業5カ年計画要綱は閣議決定される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E6%AD%A3%E7%BE%A9

 1937年(昭和12年)7月には産業部次長、1939年(昭和14年)3月には総務庁次長に就任。この間に計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満州「産業開発5ヶ年計画」を実施。大蔵省出身で、満州国財政部次長や国務院総務長官を歴任し経済財政政策を統轄した星野直樹らとともに、満州経営に辣腕を振るう。同時に、関東軍参謀長であった東條英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、里見機関の里見甫<(注35)>の他、椎名悦三郎、大平正芳、伊東正義、十河信二らの知己を得て、軍・財・官界に跨る広範な人脈を築き、満州国の5人の大物「弐キ参スケ」の1人に数えられた。また、山口県出身の同郷人、鮎川義介・松岡洋右と共に「満州三角同盟」とも呼ばれた。

 (注35)はじめ(1896~1965年)。「旧加賀藩の上級家臣である平士で、安房里見氏の末裔の元海軍軍医で退役後に日本各地の無医村をまわっていた里見乙三郎とスミの長男として、赴任地の秋田県山本郡能代町(現・能代市)に生まれる・・・。1913年、福岡県立中学修猷館を卒業し、同年9月、玄洋社第二代社長進藤喜平太の助力により、福岡市からの留学生として上海の東亜同文書院に入学する。
 1916年5月、東亜同文書院を卒業後、青島の貿易会社に一時期勤務するが退社し、帰国して東京で日雇い労働者となる。1919年8月、同文書院の後輩である朝日新聞北京支局の記者であった中山優の計らいで、橘樸が主筆を務める天津の邦字紙である京津日日新聞の記者となる。1922年5月には第一次奉直戦争に際して張作霖との単独会見を行っている。1923年6月、京津日日新聞の北京版として北京新聞が創刊されるとその主幹兼編集長に就任する。ここでの新聞記者活動を通じて、関東軍の参謀であった板垣征四郎や石原莞爾と知己となり、国民党の郭沫若と親交を結び、蔣介石との会見を行うなどして、国民党との人脈も形成された。1928年5月の済南事件では、日本軍の建川美次少将、原田熊吉少佐、田中隆吉大尉から国民党との調停を依頼され、2ヶ月に亙る秘密工作の末、国民党側との協定文書の調印を取り付けている。
 1928年8月、南満州鉄道(以下「満鉄」)南京事務所の嘱託となり南京に移る。ここで、国民政府に対し満鉄の機関車売り込みに成功するなど華々しい業績をあげている。
 1931年9月に満州事変が勃発すると、翌10月に関東軍で対満政策を担当する司令部第4課の嘱託辞令を受けて奉天に移り、奉天特務機関長土肥原賢二大佐の指揮下で、甘粕正彦と共に諜報、宣伝、宣撫の活動を担当する。これらの活動を通じ、中国の地下組織との人脈が形成された。また司令部第4課課長松井太久郎の指示により、満州におけるナショナル・ニュース・エージェンシー(国家代表通信社)設立工作に務め、陸軍省軍務局課長鈴木貞一の協力のもと、新聞聯合社(以下「聯合」)の創設者岩永裕吉や総支配人古野伊之助、電通の創業者光永星郎との交渉を行い、1932年12月、満州における聯合と電通の通信網を統合した国策会社である満州国通信社(以下「国通」)が設立され、初代主幹(事実上の社長)兼主筆に就任する。 1933年5月には、聯合上海支局長であった松本重治に、ロイター通信社極東支配人であり、後に同社総支配人(社長)となるクリストファー・チャンセラー(Christopher Chancellor)との交渉の斡旋を依頼して、交渉の末ロイターとの通信提携契約を結び、国通の名を国際的に印象付けている。1935年10月国通を退社し、同年12月、関東軍の意向により、天津の華字紙「庸報」の社長に就任する。1936年9月、5年住んだ満洲を去る。
 1937年11月、上海に移り、参謀本部第8課(謀略課)課長影佐禎昭に、中国の地下組織や関東軍との太い人脈と、抜群の中国語力を見込まれ、陸軍特務部の楠本実隆大佐を通じて特務資金調達のための阿片売買を依頼される。1938年3月、阿片売買のために三井物産および興亜院主導で設置された宏済善堂の副董事長(事実上の社長)に就任する。ここで、三井物産、三菱商事、大倉商事が共同出資して設立された商社であり実態は陸軍の特務機関であった昭和通商や、中国の地下組織青幇や紅幇などとも連携し、1939年、上海でのアヘン密売を取り仕切る里見機関を設立。ペルシャ産や蒙古産の阿片の売買によって得た莫大な利益を関東軍の戦費に充て、一部は日本の傀儡であった汪兆銘の南京国民政府にも回した。また、里見機関は、関東軍が極秘に生産していた満州産阿片や、日本軍が生産していた海南島産阿片も取り扱っている。この活動を通じて、青幇の杜月笙、盛文頤や、笹川良一、児玉誉士夫、吉田裕彦、岩田幸雄、許斐氏利、阪田誠盛、清水行之助らとの地下人脈が形成された。
 1943年12月、宏済善堂を辞し、満鉄と中華航空の顧問となる。1945年9月に帰国し京都や東京に潜伏するが、1946年3月に民間人第一号のA級戦犯容疑者としてGHQにより逮捕され、巣鴨プリズンに入所する。1946年9月、極東国際軍事裁判に出廷して証言を行い、同月不起訴となり無条件で釈放される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E7%94%AB

⇒秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス完遂戦争において、満州を中心として極めて重要な役割を果たした、宮崎正義と里見甫、が、どちらも幕末・維新期に右往左往したところの、加賀藩、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E6%85%B6%E5%AF%A7
の藩士の子であることは興味深い。(太田)


[近衛文麿の母]

 完全な脱線だが、ここで、加賀藩つながりで、近衛文麿(1891~1945年)の実母衍子(さわこ)と継母貞子(たけこ)・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%AF%A4%E9%BA%BF
同藩最後の藩主、前田慶寧(よしやす)の側室のそれぞれ扶伝と宇路の女子・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E6%85%B6%E5%AF%A7
について調べてみた。
 近衛文麿の父の篤麿(1863~1904年)のこの二度の結婚については、篤麿の祖父で養父の忠煕(1808~1898年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E7%85%95
が決めたに相違ない・・衍子の第一子たる秀麿は1898年に生まれている・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%A7%80%E9%BA%BF
が、どうして、忠煕が前田慶寧の女子達に目をつけたのか、だ。
 「日蓮宗信徒の系譜は、お美代→家斉→広大院、というのが私のかつての説であった(コラム#省略)ところ、そうではなく、天英院(前出)→浄岸院(非信徒日蓮主義者)→島津継豊/重豪(どちらも非信徒日蓮主義者)→広大院→家斉、だったのではないか、というのが私の新説だ。」(コラム#12455)と記したことがあるが、どちらの説であれ、忠煕から見て、前田慶寧の祖母のお美代は、自分の義理の大叔母の「同僚」で信徒仲間でもあったことから、お美代の子の溶姫
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%82%E8%A1%8C%E9%99%A2
も、そして溶姫の子の慶寧も、更には慶寧の女子達も、日蓮宗信徒ではなくても、日蓮主義者ではあるはずだ、と思ったのだろう。
 そして、慶寧が、尊皇派として親幕派の父親、斉泰と対立し(上掲)、最後の最後で「加賀藩<を>勤王で藩論を統一し、北越戦争にも新政府側で参戦している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E6%85%B6%E5%AF%A7
ということも考慮したのだろう。

 しかし、どうやら、この思いは勘違いだったようなのだが、さすがの忠煕も、篤麿の嫁選びの頃には耄碌していた、ということかも。(太田)

 で、繰り返しになるが、満州における産業開発5カ年計画を企画し策定したたキーパーソンは、杉山元の委嘱を受けた宮崎正義とその宮崎と協働した陸軍の官僚達なのであり、結局のところ、岸は、人の褌をあてがわれて相撲をとらされてきた、調整型の能吏でしかなかった、ということだ。
 しかし、満州国で勤務したおかげで、岸は、後に岸カルトを創設する時に役立つ人脈とノウハウを手に入れることになる。↓(太田)

 原彬久は、岸を「政治家」として「成長」させた最大の要因は、関東軍という最高権力者をあるいは懐柔し、あるいは説得しつつ、絶大な権力をわがものにする術を身につけさせた、満州の権力機構そのものにある、と指摘している。
 この頃から、岸はどこからともなく政治資金を調達するようになった。

⇒岸は、回想で、「満州ではアヘンを禁止し、生産もさせないし、吸飲もさせなかった。しかしアヘンを扱ったものとして里見という男のことは知っています。ただ私が満州にいた頃は里見は上海で相当アヘンの問題にタッチしていて、金も手に入れたのでしょうが、満州には来ていないから私は知らない。里見を知ったのは帰国後で、満映にいた茂木久平の紹介です。里見が死んで墓碑に字を書いたことがあるけれど、これも茂木に頼まれたからですね。」(☆42)と弁解めいた言辞を弄していることから、逆に、岸がアヘンで里見機関が儲けたカネの一部の御相伴に与かっていた、と見てよさそうだ。(太田)

 その後、満州から去る際に「政治資金は濾過機を通ったきれいなものを受け取らなければいけない。問題が起こったときは、その濾過機が事件となるのであって、受け取った政治家はきれいな水を飲んでいるのだから関わり合いにならない。政治資金で汚職問題を起こすのは濾過が不十分だからです」という言葉を残している。

⇒岸が、戦後、例えば、CIAから提供されたカネをどのように「濾過」したのか、知りたいところだ。(太田)

 伍堂卓雄<(注36)>商工大臣が当時の商工次官だった村瀬直養<(注37)>の反対を押し切って岸の次官起用を決定し、1939年(昭和14年)10月に帰国して商工次官に就任する。

 (注36)1877~1956年。二高、東大工(造兵学科)。「海軍造兵中技師や海軍大学校教官などを経て、1924年(大正13年)に呉海軍工廠長となり、同年海軍造兵中将進級。
 1928年(昭和3年)、南満州鉄道(満鉄)によって朝鮮に設立が予定されていた昭和製鋼所の準備のため満鉄顧問となり、ドイツに派遣され、研究や設備の調達に当たった。 翌年、京城府に設立された昭和製鋼所の社長、ならびに満鉄理事となる。1937年(昭和12年)には林内閣で商工大臣兼鉄道大臣となり、同年5月31日、貴族院勅選議員に勅任される。
 1938年(昭和13年)には日本商工会議所会頭と東京商工会議所第7代会頭に就任。翌年、多くの同郷出身で構成されたため「石川内閣」「阿部一族」などと皮肉られた阿部内閣でも商工大臣兼農林大臣に就任した。・・・<(伍堂家は、>石川県金沢市<出身。)>・・・
 当時まだ満州にあった岸信介の商工次官への起用を、前任次官の村瀬直養の強い反対を押し切って決定した。1942年(昭和17年)には日本能率協会会長、1945年(昭和20年)には軍需省顧問に就任している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8D%E5%A0%82%E5%8D%93%E9%9B%84
 (注37)なおかい(1890~1968年)。五高、東大法(独法・優等(銀時計))。「農商務省に入り農商務属・大臣官房文書課に配属された。
 その後、鉱業監督官、兼工場監督官、兼農商務参事官、法制局参事官、内閣書記官・内閣官房会計課長、法制局第二部長、商工省商務局長などを歴任。1936年10月、特許局長官、同年12月、商工次官に就任。1939年10月、物価局次長となり同月に退官した。
 1940年7月、第2次近衛内閣の法制局長官となり、次の第3次近衛内閣でも留任し1941年10月まで在任。退任後すぐに貴族院勅選議員に任命され、研究会に属し1946年5月18日まで在任した。1945年4月、鈴木貫太郎内閣で再び法制局長官となり、次の東久邇宮内閣でも留任し綜合計画局長官を兼務し1945年10月まで務めた。その他、高等捕獲審検所評定官、商工省顧問などを歴任。
 1946年7月に弁護士登録を行い、同年から1950年10月まで公職追放となった。その後、商工組合中央金庫理事長、日本電子計算機株式会社社長を歴任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E7%80%AC%E7%9B%B4%E9%A4%8A

⇒村瀬は、岸の企画能力の欠如やダークさを見抜いていたのではないかと思われ、ここで、村瀬が岸を満州国に塩漬けにできておれば、戦後日本の脳死を食い止められた可能性が高かっただけに、岸を村瀬の後任の次官に強引にした伍堂は万死に値する。
 岸は、満州時代に伍堂を籠絡していたのだろう。
 想像を逞しくすれば、満州時代に伍堂の弱みを握るに至っていたのかも。(太田)

 「<矢次いわく、昭和>14年の秋に岸さん<もそうだが、>・・・陸軍の武藤章が北支参謀復調から軍務局長になって帰国している。そこで岸さんを中心に何かやろうではないかというので、私もその一人だったけれど、秋永とか、陸軍省の軍事課長・岩畔豪雄、大蔵省の谷口恒二、農林省の重政誠之、鉄道省の柏原兵太郎といった連中が十数人集まって月曜会という革新官僚の会をつくった。ここで月曜会の政策議論がたたかわされ、翌火曜日が閣議の日なのです。ですから月曜会の議論が、あるものはストレートに閣議の席で出て、だいぶ問題を起したことがある。」(☆50)

 近衛文麿から第2次近衛内閣の商工大臣への就任要請された際は財界の人間にすべきとして断り、企画院総裁に星野を推薦した。その後、商工大臣となった小林一三と対立、直後に発生した企画院<(注38)>事件<(注39)>の責任を取り辞任する。

 (注38)「企画院の前身の1つは内閣調査局である。内閣調査局は、1935年(昭和10年)5月10日に設置された内閣総理大臣直属の国策調査機関である。各省の革新官僚や陸軍の鈴木貞一、海軍の阿部嘉輔が参加、電力国家管理案の具体化、産業合理化政策の各方面に渡る業務を担当した。
 「重要産業統制法」(1931年(昭和6年)7月公布)から始まり、五・一五事件を経て二・二六事件以後の陸軍内での統制派の勃興以後、所謂「新々官僚(新官僚)」の牙城・内閣調査局の権限は強まっていった。林内閣時代になると内閣調査局は、より強力な重要政策を立案する組織として、1937年(昭和12年)5月14日に企画庁に再編強化された(勅令第一九二号)。更に、支那事変勃発後の同年10月25日に内閣資源局と統合し企画院が発足した[3]。ここに誕生した企画院は、国家総動員機関と総合国策企画官庁としての機能を併せ持った強大な機関だった。企画院は、重要政策の企画立案と物資動員の企画立案を統合し、以後、戦時下の統制経済諸策を一本化・各省庁に実施させる機関となり、国家総動員法(1938年(昭和13年)5月5日施行)制定以来その無謬性を強めていくこととなる。
 特に素人の軍部よりも予算や法に通じ・駆使する専門家たる官僚の力が強まり、実際の主導権は官僚側にあったとされる。岸信介と、財界・財閥を代表する小林一三との対立は、小林により岸が商工次官を更迭され、1941年(昭和16年)の企画院事件として和田博雄(農林省出身)らが共産主義者として検挙される事件にまでつながる。1943年(昭和18年)の「軍需会社法」により企業の利益追求が事実上否定され、1940年(昭和15年)12月に閣議決定された「経済新体制確立要綱」中の「資本と経営の分離(所有と経営の分離)を推し進め、企業目的を利潤から生産目的に転換すべき」とする政策の中心にいた商工省派遣・美濃部洋次、陸軍派遣・秋永月三(のち中将)らの念願は達成されたと、評論家・谷沢永一は書いている 。
 ・・・戦後、経済官僚は公職追放に対してもほぼ生き残り、戦前の強力な統制から一歩引き行政指導や許認可制度、予算手当てや優遇税制(政策減税)、補助金などを主たるパワーとして、大蔵省や通産省または経済企画庁を主たる拠点として戦後の国家を担うプロデューサー・エージェントとして稼動した。
 陸軍・大蔵・商工各省の影響下にあり、各省は優秀な者らを送り、彼らは所謂「革新官僚」として、日中戦争前後の戦時統制計画の立案を担ったが、「統制経済」の牙城として、初期には、<内務官僚の>吉田茂、奥村喜和男、松井春生らが参画、その後は、初代総裁に後藤新平を頂いていた南満州鉄道傘下満鉄調査部を経由した官僚として、経済将校として鳴らした石原莞爾と組んだ宮崎正義、佐々木義武、満州国の経済体制造りに関わった者の中からは、岸信介(商工省)、椎名悦三郎(商工省)、美濃部洋次(商工省)、毛里英於菟(大蔵省)、星野直樹(大蔵省)らがいる。他に、迫水久常(大蔵省)、植村甲午郎(逓信省)、黒田鴻伍(商工省)、橋井真(商工省)、周東英雄(農林省)、竹本孫一(内閣)らが、民間からは企画院参与(勅任官)として高橋亀吉、調査官として美濃口時次郎らがいた。更に東條英機、武藤章、鈴木貞一、板垣征四郎らの軍人の関わりも指摘されている。
 1943年(昭和18年)10月31日に企画院は廃止され、翌11月1日、企画院の業務は、総合国策及び行政考査、重要予算の統制権については内閣に、国家総動員については軍需省に、国土計画については内務省にそれぞれ移管された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%81%E7%94%BB%E9%99%A2
 (注39)「企画院事件(きかくいんじけん)は、1939年から1941年にかけて、多数の企画院職員・調査官および関係者が左翼活動の嫌疑により治安維持法違反として検挙・起訴された事件。企画院事件は、1939年以降の「判任官グループ」事件、および1940年以降の「高等官グループ」事件の複合体である。
 1938年10月の京浜工業地帯の労働者による研究会に対する一斉検挙(「京浜グループ」事件)において、同研究会で講師を務めていた企画院属の芝寛(戦後、日本共産党東京都書記)が逮捕された。芝による自供をもとに、企画院内若手判任官による研究会(これ自体は同院内部で認可された小規模な勉強会であった)の存在が警察の認識するところとなり、これが「官庁人民戦線」の活動として扱われ、1939年11月から翌1940年までに岡倉古志郎・玉城肇ら4名が検挙された(「判任官グループ」事件)。
 さらに1940年10月に企画院が発表した「経済新体制確立要綱」が財界などから赤化思想の産物として攻撃され、翌1941年1月~4月にかけて、原案作成にあたった稲葉秀三・正木千冬・佐多忠隆・和田博雄・勝間田清一・和田耕作ら中心的な企画院調査官および元調査官(高等官)が治安維持法違反容疑で逮捕され、検挙者は合計17名となった(「高等官グループ」事件)。
 判任官グループのうち、芝は「京浜グループ」と企画院内研究会の双方に関与していたことから1940年実刑判決が下されたが、それ以外の被告には執行猶予つきの有罪判決が下された。高等官グループは検挙後約3年間拘禁されたのち保釈、敗戦後の1945年9月、佐多を除き全員に無罪判決が下された。
 また、高等官グループ(元職員)として満鉄調査部員の川崎巳三郎が検挙されたことから、影響は同調査部にも波及することになった(満鉄調査部事件)。
 この事件の背景として、1940年第2次近衛内閣に提出された「経済新体制確立要綱に関する企画院案」に対し、小林一三商工大臣らの財界人らが「赤化思想の産物」と非難したことがあげられる。この結果原案は骨ぬきにされ、さらに平沼内務大臣の方針によって企画院調査官・職員が検挙されることとなった。
 被検挙者の多く(特に高等官)はかつて左翼運動に参加し、治安維持法違反によって検挙された経験を持つ「思想的前歴者」であるとともに、近衛文麿のブレイン集団である昭和研究会のメンバーとも重なっていた。彼らの政策提言は陸軍省軍務局からも支持を得ており、反対派はこうした動きを「国体と相容れないもの」として激しく排撃していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%81%E7%94%BB%E9%99%A2%E4%BA%8B%E4%BB%B6

⇒岸は、1978~1981年に行われたインタビューの中で、「第二次近衛内閣ができる時に、・・・松岡洋右が・・・近衛さんはお前を商工大臣にすると言っているという。私は・・・自分がいま商工大臣になると、まるで抜き身をひっさげて登場したような感じを財界はもつだろう。その当時はまだ本当の軍事態勢ではなく、準軍事体制のような状況だから、まだ抜身を突きつけるのは早過ぎる。だから商工大臣は財界の人にして、自分は次官にとどまりたい、と<断った>」(☆53~54)としている。
 で、岸の小林大臣との喧嘩についてだが、帝国陸軍が推進していた総動員体制構築を小林が妨害しようとしたことに岸は派手に抵抗の姿勢を見せることで、自分を陸軍推しの官僚達中の最右翼官僚として最終的かつ決定的なアピールをするのが目的だったと見ればよかろう。(太田)

 1941年(昭和16年)10月に発足した東條内閣に商工大臣として入閣。『米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書』に署名。太平洋戦争中の物資動員の全てを扱った。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙で当選し、政治家としての一歩を踏み出した。

⇒この時点で、岸は、次官を経て、大臣、衆議院議員、になる、という、岸カルト創始への地ならしに、見事に成功したことになる。
 その岸は、「私が懇意だった三好英之君は米子の大金持で、一里くらいの道を他人の土地に踏み込まずに中学校へ行ったという。その彼が死んだときは井戸塀になってしまって全部財産をつびしてしまった。それが政治と言うものだった。最近は若いのが二回くらい代議士をやると、大きな家をつくったりするが、昔はまるで違うんだ。いまは国会対策や選挙で、金が要りますが、そういう金はあの当時はほとんど必要なかったですよ。いろんな人と会合したり、その人と同志として一緒にやるという場合特に金が必要ということはなかたね。」(☆82)と語っているところ、これ、校正不十分な非論理的な文章になってしまっているが、要は、戦前は政治家が使うカネは少なかったがそれでも身代がつぶれ、戦後は(贈賄目的で)使うカネが多くなった一方で(収賄による)実入りがそれよりも遥かに多くなり身代が作れるようになった、と、岸は言っているわけであり、だからこそ、政治屋家業を岸は創始できたところ、そのためのシステムを構築し、その結果として戦後日本の反社的政治文化を醸成した元凶が岸だ、と私は見ている。(太田)

 1943年(昭和18年)、商工大臣として経団連の前身となる商工経済会設置法を成立させた。10月8日、東條首相兼陸軍大臣が商工大臣をも兼任し、岸は無任所相となり兼ねて再び商工次官に任命。このため衆議院議員も退職となった。11月1日には戦局激化への対応として商工省が廃止され軍需省へと改組、軍需大臣は引き続き東條首相兼陸相の兼任、岸は無任所相兼軍需次官と、半ば降格に近い処遇により、東條との関係に溝が生じた。

⇒そうは思わない。(太田)

 1944年(昭和19年)7月9日にはサイパン島が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となった。宮中の重臣間では、・・・東條内閣の倒閣工作が密かに進められた。<(注40)>

 (注40)「行政権の責任者である首相、陸軍軍政の長である陸軍大臣、軍令の長である参謀総長の三職を兼任したこと(および嶋田の海軍大臣と軍令部総長の兼任)は、天皇の統帥権に抵触するおそれがあるとして厳しい批判を受けた。統帥権独立のロジックによりその政治的影響力を昭和初期から拡大してきた陸海軍からの批判はもとより、右翼勢力までもが「天皇の権限を侵す東條幕府」として東條を激しく敵視するようになり、東條内閣に対しての評判はさらに低下した。この兼任問題を機に皇族も東條に批判的になり、例えば秩父宮雍仁親王は、「軍令、軍政混淆、全くの幕府だ」として武官を遣わして批判している。東條はこれらの批判に対し「非常時における指導力強化のために必要であり責任は戦争終結後に明らかにする」と弁明した。
 このころから、東條内閣打倒運動が水面下で活発になっていく。前年の中野正剛たちによる倒閣運動は中野への弾圧と自殺によって失敗したが、この時期になると岡田啓介、若槻礼次郎、近衛文麿、平沼騏一郎たち重臣グループが反東條で連携し始める。しかしその倒閣運動はまだ本格的なものとなるきっかけがなく、たとえば1944年(昭和19年)4月12日の「細川日記」によれば、近衛は「このまま東条にやらせる方がよいと思ふ」「せっかく東条がヒットラーと共に世界の憎まれ者になってゐるのだから、彼に全責任を負はしめる方がよいと思ふ」と東久邇宮に具申していたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F

 同年7月13日には、難局打開のため内閣改造の意向を示した東條に対し木戸は、東條自身の陸軍大臣と参謀総長の兼任を解くこと、嶋田繁太郎海軍大臣の更迭と重臣の入閣を求めた。東條は木戸の要求を受け入れ、内閣改造に着手しようとしたが、その矢先に岸が「サイパン陥落に伴って今後本土空襲が繰り返されるであろうから軍需次官としての責任が果たせない」として講和を要求し、ならば辞職せよと東條に迫られるも拒否して閣内不一致を現出させた。岸の更迭は重臣入閣枠を空けるための既定路線であり、内閣改造を頓挫させるために岡田と申し合わせて辞職を拒否したともされる。これを受けて東條側近の四方諒二東京憲兵隊長が岸宅に押しかけ恫喝するも、「黙れ、兵隊」と逆に四方を一喝して追い返した。この動きと並行して木戸と申し合わせていた重臣らも入閣要請を拒否。東條は内閣改造を断念し、7月18日に内閣総辞職となった。総辞職後も岸への怒りが収まらない東條は、新たに組閣の大命を受けた小磯国昭との会談で、暗に岸を指して一部の前閣僚には前官礼遇を与えないことを要請した。

⇒岸は、日本の敗戦必至と見て、敗戦後の自分の政治生命を維持させることを狙って、一世一代の大博打を打った、ということだろう。
 れっきとした反社ですら、たまには命を張ることを想起せよ。(太田)

 1945年(昭和20年)3月11日、岸は翼賛政治会から衣替えした親東條の大日本政治会には加わらず、反東條の護国同志会を結成した。
 1945年(昭和20年)8月15日に戦争が終結した後故郷の山口市に帰郷するが、軍需次官などを勤めた経歴が祟り、日本を占領下に置いた連合国軍からA級戦犯被疑者として9月15日に逮捕され、東京の巣鴨拘置所へ拘置された。
 自殺する政治家や軍人もいたなか、岸は「名にかへて このみいくさの 正しさを 来世までも 語り残さむ」と裁判で堂々と主張するつもりで、「われわれは戦争に負けたことに対して日本国民と天皇陛下に責任はあっても、アメリカに対しては責任はない。しかし勝者が敗者を罰するのだし、どんな法律のもとにわれわれを罰するか、負けたからには仕方がない。」「侵略戦争というものもいるだろうけれど、われわれとしては追い詰められて戦わざるを得なかったという考え方をはっきり後世に残しておく必要がある」として臨んだ。
 また、「今次戦争の起こらざるを得なかった理由、換言すれば此の戦は飽く迄吾等の生存の戦であって、侵略を目的とする一部の者の恣意から起こったものではなくして、日本としては誠に止むを得なかったものであることを千載迄闡明することが、開戦当初の閣僚の責任である」「終戦後各方面に起こりつつある戦争を起こした事が怪しからぬ事であるとの考へ方に対して、飽く迄聖戦の意義を明確ならしめねばならぬと信じた」とも述べている。

⇒「先進国の二世紀に亘る世界侵略に依る既得権益の確保を目指す世界政策が後進の興隆民族に課したる桎梏、之れを打破せんとする後進興隆民族の台頭、之れ其の遠因たり。日米交渉に於ける日本の動きの取れぬ窮境、之れ其の近因なり」(岸の巣鴨プリズンでの「断想録」より)(★46~47)から、岸には、先の大戦での日本の戦争目的として、徹頭徹尾、遠因、近因の自存自衛、のみがあって、アジア主義についても(日本が積極的に対ソ開戦をしたわけではない以上、岸の論理からして)対ソ抑止も眼中になかった、というわけだ。
 およそ「自存自衛」に思想などないのであって、ここからも、岸が思想を持ち合わせていないことが分かる。
 岸に企画能力がないことについては、科学的思惟力のなさに加えて、思想を持ち合わせていないことも、理由として挙げられるのではないか。
 ここで、岸の先の大戦観について補足しておくが、岸は「もう一か八かやる以外にないというのが、あの時の戦争の基本観念だった。だから、まず朝鮮<(「緒戦」の誤植だろう(太田))において必要なものを押えてしまえば、あとは手を上げて戦争を早くやめるべきだ<った>・・・。・・・<それなのに、>インパールまで攻めていったなんていのは、無謀・・・ですよ。」(★48~49)と言ってるけれど、これは、当時の日本政府の公式見解である一撃和平論
https://president.jp/articles/-/52095?page=1
・・実際は、陸軍は杉山構想完遂による勝利、海軍は開戦時の軍令部総長の永野修身で代表させれば戦った上での敗北、を目指していた・・を岸が戦後もずっと信じ込んでいたことを示している。(太田)

 他にも獄中で書いた『断想録』で新日本は海国として再出発すべきで、「吾等は曾て世界に比類のない国民的結束と世界を驚倒する進歩発展を遂げた。仮令一敗地に塗れたとは云へ、此の国民的優秀性は依然として吾等の血に流れて居るのである。(中略)国民的矜持も国民の内省による国民的自覚の上に立つものである」と書いた。さらに獄中では「日本をこんなに混乱に追いやった責任者の一人として、やはりもう一度政治家として日本の政治を立て直し、残りの生涯をかけてもどれくらいのことができるかわからないけれど、せめてこれならと見極めがつくようなことをやるのは務めではないか」と戦後の政治復帰を戦争の贖罪として考えるようになった。

⇒岸は、「巣鴨では・・・われわれの一生涯をかけてもこれほどまでの破壊と打撃は回復できないのではないかと思ったよ。少なくとも松の木の芽が伸びて、これなら将来この木は大丈夫、育つぞという見通しがつくぐらいの苗木には全力をあげて育てなければならな、という程度の気持ちでした。・・・<その>松の木が十年も経たないうちにこんなに大きくなるとはね…。」(★60~61)と回想しているが、(特需が起こったということはあったけれど、)私は、杉山らは、戦後の経済高度成長を予想していて、だからこそ、産めよ増やせよ運動も推進した、と見ているところ、産業・経済の専門家であるはずの岸の目がいかに昏かったかが分かろうというものだ。
 なお、岸自身が執筆した、商工省内文書、以外の、唯一のものが獄中日記であるところの、『断想録』、であり、それは、岸が、自分が行った公的言動の一切を主体的には残さないことを、商工省入省以来心掛けて来たことを意味する。
 どうしてそうしたかは明白であり、自分のダークな部分がうっかり滲み出て、それが知られてしまい、それが自分自身が書いたものである以上否定できなくなる、というリスクを回避するためだろう。(太田)

 極東国際軍事裁判(以下東京裁判)については「絶対権力を用いたショーだったのである」と述べている。また<支那>の内戦については、「支那が中共の天下となれば朝鮮は素より東亜全体の赤化である。米国の極東政策は完全にソ連に屈服することになる」と米ソ対立が深まるのを見極めつつ、反共のためなら<米国>とも協力するようになっていったといわれ、大アジア主義者である他方現実主義者でもあった。

⇒岸のウィキペディア執筆陣は、恐らく、岸が追放解除1952年に、岸新党の母胎とみられた日本再建連盟を作った際の、同連盟の五大政策中の、「共産主義の侵略を排除し」と「アジア諸国との通商を密にして」に拠っているのだろうが、後に、岸自身が、「ロシアに対しては一種の恐露、あるいは反露感情が・・・子供のときからしみこんでい<るけれど>、・・・中国に対してはそういう・・・感情は・・・はないんですよ。<ですから、>共産主義そのものに対してはソ連も中国もなく、私は反対だが、国として、<ソ連ないしロシアとは違って、>中国は日本に脅威を与えるとは感じない。」(☆24)と言っているのだから、岸は反共主義者とは到底言えないし、アジア主義者であるとも言えなさそうだ。
 (なお、池田大作の中共観(前出)は、岸のこのような中共観を忠実にコピーしたものだろう。)
 繰り返すが、岸は、思想的なものなど、およそ持ち合わせてはいない、単なる反社的人間なのだ。(太田)

 東京裁判では開戦を実質的に決めた1941年(昭和16年)11月29日の大本営政府連絡会議の共同謀議には参加していなかったこと、東条英機首相に即時停戦講和を求めて東条側からの恫喝にも怯(ひる)まず東条内閣を閣内不一致で倒閣させた最大の功労者であること、元米国駐日大使ジョセフ・グルーらから人間として絶対的な信頼を得ていたことなどの事情が考慮されたため、東條ら7名のA級戦犯が処刑された翌日の1948年(昭和23年)12月24日、不起訴となり放免された。ただし、多くの戦争指導者同様、公職追放の身のままであり、表立って政治活動をすることは不可能なままであった。
 巣鴨監獄出所後の翌日には、岸の親友で財界の重鎮であった藤山愛一郎から彼が経営する日東化学の監査役を依頼され、彼から豊富な活動資金を供給されることになる。そして、年が明けた1949年には銀座の交詢社ビル別館の7階に「箕山社(きざんしゃ)」と名乗る岸信介事務所を構え、その年の暮れから「箕山社」を株式会社として正式活動させ始める。
 公職追放処分中の岸は、更に東洋パルプの会長などを務めていた。この会社は永野護がプロモートして広島県呉市に工場を建設した会社で、岸が会長、社長が足立正、取締役が永野、藤山愛一郎、津島寿一、三好英之、監査役瀬越憲作であった。しかし、経営がうまくいかず後に王子製紙に売却した。
 この間、日本国憲法が発効した1947年には、日本を占領下に置いた連合国の主要国であるアメリカ合衆国の対日政策は、当時はじまっていた東西冷戦の中で日本を「反共の砦」とする方向に大きく舵が切られ始めていた。そこへ日本周辺での冷戦の激化、すなわち、1949年10月1日に蔣介石の国民党政府を台湾島へ逃亡させた、ソ連の後押しを受けた中国共産党による中華人民共和国の成立・台頭、1950年6月25日の朝鮮戦争の勃発と北朝鮮優位の攻勢により、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーを含めて<米国>の対日政策が大きく転換されることになる(逆コース)。

⇒「岸さんの獄中日記では<米国>への強い不信感を一方でお持ちになりながら、同時に中国共産党の大陸支配にかなり強い危機感を抱かれています。<米国>こそその軍隊を使って中国共産党を征圧すべきだとその日記には書かれてありますが…。・・・巣鴨プリズンをお出になったあと、専制の滞米観というのは、やはり徐々に修正されていったんじゃございませんか。岸<:><米国>に対する反発よりも、やはり・・・ソ連に対する反感が強くなっていったんでしょうね。」(★69)からも滲み出てくるのは、岸の思想性の希薄さだ。
 だからこそ、岸の米ソ中・観が、極端に言えば、自分個人的利害だけで揺れ動くわけだ。
 例えば、岸の当時の反米意識は、自分を収監し、プリズンでの処遇も悪かったことに由来するものだし、反ソ意識は、「ソ連は・・・われわれが知っている満州の役人連中を全部捕まえてシベリアへ連行し・・・暴虐<行為を行ったことで>・・・反感が非情に強くなった」(★70)ものだ。(太田)

 このため、岸信介はじめ公職追放されていた旧体制側の人物たちが1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効を機に公職追放を解除され復権していくことになる。

⇒これは、当時の考えなのか、回想当時の考えなのかは定かではないが、岸は、「マッカーサーが・・・持ってきたといえるかもしれ<ない、>・・・日本国憲法の基本となった平和主義、戦争をしないという平和主義、それから民主主義、そして個人の自由、この三つの原則というものはね、日本が新しい時代に踏み出すところの基本であって、正し<く、>・・・堅持していくものだ、というのが私の大体の考えです。」(★74~75)と言っているところ、これは占領軍史観そのものであり、ある意味、衝撃的ですらある。(太田)

 サンフランシスコ講和条約の発効にともない公職追放解除となるやいなや、その1952年4月に「自主憲法制定」、「自主軍備確立」、「自主外交展開」をスローガンに掲げた日本再建連盟を設立し、会長に就任した。

⇒だから、こんなもの、岸の真意とは異なる見せ金的スローガンだ、ということになる。
 その年の9月末に書かれたと思われる『中央公論』11月号に、「岸は政党政派をはなれて約百名の候補者に政治投資をおこなっているが、その総額は億をもって数えるほどだという。そういう金はいったいどこから出るかというに、それの背後には、製鉄、製鋼、造船その他の日本の全重工業がひかえている。・・・というの<も、>今の日本の財界は特需によってやっと息をついているけれど、それも朝鮮に停戦協定が成立するまでで、その先は全く予想がつかぬから、安心して事業や施設の拡充もできないし、新しい工員を正式に雇うわけにも行かない。それには一日も早く再軍備して、武器弾薬の国内消費が最小限でも保証されるということが先決問題である。こういった要求を岸が代弁している・・・とすれば、かれの手<に>相当の政治資金が流れる<ということではないか。>」(☆114~115)とあり、日本再建連盟のスローガンは、岸がカネを集めるための単なるキャッチコピーとして掲げたものに過ぎず、本気で日本の再軍備/独立を達成しようなどと考えたわけではない、というのが私の見方だ。(太田)

 1953年(昭和28年)、日本再建連盟の選挙大敗により日本社会党に入党しようと三輪寿壮に働きかけるも党内の反対が激しく入党はでき<なかった。>

⇒「首相<になった岸>は安保条約を改定して、アイゼンハワー大統領の訪日を成功させたうえで、憲法改正への道筋をつけることを、目論んでいた。
 岸・・・は引退後に、「吉田氏の役割は、サンフランシスコ講和条約を締結したところで、終わるべきだった」と、述懐している。
 <ところが、>岸内閣が退陣した後は、池田勇人首相をはじめとする、いわゆる”吉田学校”によって政治が支配され、”吉田ドクトリン”のものとで、日本の迷走が続いた。
 <結局、>日本の戦後は、”吉田ドクトリン”によって、律せられてきた。・・・加瀬英明・・・」(*14~15)
 ということになっているが、これは(前述したことから分かるように)真っ赤なウソだ。
 ところで、岸が、公職追放解除後、1853年に、一時、日本社会党に入党しようとしたことは看過できない。
 1951年(昭和26年)、サンフランシスコ講和条約および(旧)日米安全保障条約の賛否をめぐり、社会党は分裂し、両条約反対派は便宜的に「左派社会党」と呼ばれた(略して“左社”)。左右両派ともに、「日本社会党」と名乗ったためである。また、国会では、控室の番号で区別した(分裂当初は右派は単に「日本社会党」、左派は「日本社会党第二十三控室」)。・・・日本労働組合総評議会(総評)の支援を受けたために、当時としては組織的な選挙を展開し、「組織の左社」と呼ばれた。非武装中立論を主張して再軍備に反対し、さらに逆コースに反対して護憲を主張し、女性やホワイトカラー層を中心に支持を集めた。分裂直後の左派社会党は16議席であったが、1952年の総選挙で54議席に増え<◎>、1953年の総選挙ではさらに72議席に増えて右派社会党を追い抜いた。1955年の総選挙では89議席となり、左派優位体制を確立した。1955年(昭和30年)10月13日、左右社会党は再統一した(社会党再統一)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%85%9A%E5%B7%A6%E6%B4%BE
という時系列における、◎の時点で、岸は、「講和条約賛成・安保条約反対派」である右派社会党
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%85%9A%E5%8F%B3%E6%B4%BE
・・河上丈太郎が委員長・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E4%B8%8A%E4%B8%88%E5%A4%AA%E9%83%8E
に入党しようとしたわけだが、「安保条約反対」は「反軍備」の立場からのものであり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%85%9A%E5%8F%B3%E6%B4%BE 前掲
岸は唱えたばかりの再軍備の旗印を、一瞬とはいえ、捨て去ったに等しい変節を遂げたばかりか、右派社会党といえども、容共の左派社会党との再統合を諦めていなかったことから、岸の反共の旗印もまた、一瞬とはいえ、捨て去ったに等しい変節を遂げた、と見られても仕方なかっただろう。
 実は、それらは変節でもなんでもなかったわけだが・・。
 岸の衆議院議員への復帰に伴う自由党への入党、そして自由党除名については、後述する。(太田)

 1月13日自由党入党の意向を表明し、首相吉田は了承し、3月18日に正式入党、4月公認候補として衆議院選挙に当選して吉田から憲法調査会会長に任じられて自主憲法制定を目指すも、1954年(昭和29年)に吉田の「軽武装、対米協調」路線に反発したため自由党を除名された。
 岸は「真の日本独立を実現するためには、先ず保守合同で政局を安定させて、その勢いで政治的には「民族の魂が表現された憲法」を造って、自主防衛すべく、経済的にはこの狭いところに八千五百万人という人口を如何に養っていくために自立せねばいけないのである。経済自立とは、特需は外国からの援助によるものではなく、輸出産業を振興して国際収支が均衡を得るようにならねばらならない」と日本再建について述べた。

⇒それに加えて、岸は、「正常な議会政治を運営するには、保守、・・・共産党<を除く>・・・革新の二つの政党がなければならない」(☆128)とも主張したところ、岸の右派社会党入党打診は、(左派社会党だけではなく、)右派社会党の反軍備志向も将来にわたって揺るがないことを確かめるためだった、と、私は見るに至っている。
 岸の二大政党論は、日本には二大政党制成立の余地が基本的にはないことは自覚しつつも、再軍備志向政党と再軍備反対志向政党からなる二大政党制を確立しようとするものであり、その狙いは、再軍備反対志向政党に衆参合わせて3分の1以上の議席を確保させることで、憲法改正による再軍備を阻止し続けると共に、再軍備志向政党を、自分が創始するところの、再軍備を看板として掲げる家業たる岸カルトをして牛耳り続けさせることだった、とも。(太田)

 1954年11月に鳩山一郎と共に日本民主党を結成し幹事長に就任。かねて二大政党制を標榜していた岸は、鳩山一郎や三木武吉らと共に、自由党と民主党の保守合同を主導した。
 1955年(昭和30年)10月には左右両派に分裂していた日本社会党が再び合同したため、これに対抗して11月に新たに結成された、自由民主党の初代幹事長に就任した。かくして「55年体制」が始まる。

⇒岸は、早くも、所期の目的を達成したわけだ。(太田)

 なお岸は、1955年8月に鳩山政権の幹事長として重光葵外相の訪米に随行し、29日-31日のジョン・フォスター・ダレス国務長官と重光の会談にも同席している。ここで重光は安保条約の対等化を提起し、米軍を撤退させることや、日本のアメリカ防衛などについて提案したが、ダレスは日本国憲法の存在や防衛力の脆弱性を理由に非現実的と強い調子で拒絶、岸はこのことに大きな衝撃を受け、以後安保条約の改正を政権獲得時の重要課題として意識し、そのための準備を練り上げていくことになる。

⇒岸は、国内の「右」からの再軍備要求に加えて、米国からの再軍備要求、の双方にどう対処するかの戦略をこれを契機に練り直し、旧安保を改正し、前者の圧力を軽減するために米国に日本防衛義務を(表見的にであれ)課す内容を盛り込むこと、そして、後者の圧力を軽減するために日本の防衛努力を明記すること、とすることにした、と見る。
 もとより、後者は、対米向け見せ金として・・(注41)。(太田)

 (注41)前者は、新安保条約第五条第一項「各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。」、後者は、同条約第三条「締約国は、個別的に及び相互に協力して、継続的かつ効果的な自助及び相互援助により、武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力を、憲法上の規定に従うことを条件として、維持し発展させる。」として結実し、
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/hosho/jyoyaku.html
岸の狙いは達成されることになる。
 前者は客観的には改善だが、岸カルトに塩を送ったという意味では改悪だ。
 但し、旧安保にあった米国の内乱介入条項が新安保で廃止されたこと、及び、旧安保に条約終了規定がなきに等しかったのが新安保で同規定が導入されたこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%96%93%E3%81%AE%E5%AE%89%E5%85%A8%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E6%9D%A1%E7%B4%84
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/hosho/jyoyaku.html
は、文字通りの改善だった。

 1956年(昭和31年)12月14日、自民党総裁に立候補するが7票差で石橋湛山に敗れた(岸251票、石橋258票)が、外務大臣として石橋内閣に入閣した。「自由主義国としての立場の堅持」「対米外交の強化」「経済外交の推進」「国内政治に根差す外交」「貿易中心の対中国関係」の外交五原則を発表した。

⇒岸は、「中国に対する私の基本的な考え方は、「政経分離」です。経済的な分野、例えば貿易関係は積み重ねていくけれども、政治的な関係は持たないというものでした。しかし、経済関係を重ねていくうちに世の中が変わってきて、政治的な関係が生まれてくるかもしれない。しかし、当時としては政経分離の形にしておこうというのが私の考えでした。」(★200)と回想しているが、この「政治的な関係」には、理の当然として、その後そうなったところの、国交回復、だけでなく、米国から中共への宗主国移行も含まれていた、というのが私の見方です。
 ちなみに、当時は、岸自身が指摘しているように、「<1980年に失効したけれど、>中ソ同盟条約(「中ソ友好同盟相互援助条約」。1950年2月調印)というものが安保条約より先にあったんです。あのじょうやくははっきり日米を仮想敵としてノミネートしてい<た>・・・(同条約は、例えば前文で「日本帝国主義の復活(中略)について何らかの形式で日本国と聯合する他の国の侵略の繰り返しを(ソ連と中国は)共同で防止する決意にみたされ」と規定してい<た>)<。>」(★204)。(太田)

 (3)首相時代

 2か月後に石橋が病に倒れ、首相臨時代理を務め、石橋総理の代役で施政方針演説を行った。石橋により後継首班に指名され、国会の首班指名時において自民党総裁以外の自民党議員が指名された形となった(首相就任の1ヵ月後の3月21日に自民党総裁に就任)。
 1957年2月25日、石橋内閣を引き継ぐ形の「居抜き内閣」で前内閣の全閣僚を留任、外相兼任のまま第56代内閣総理大臣に就任した。就任記者会見では「汚職、貧乏、暴力の三悪を追放したい」と抱負を述べ、「三悪追放」が流行語にまでなった。また石橋内閣が提唱していた1千億円減税も就任直後に実施している。・・・

⇒岸は、「私が総理になったときに、・・・早々の国会で、野党である社会党は私に対する質問において、日米安保条約が非情に不平等であり、行政協定は日本がまるでアメリカの属国であるかのごとき内容であると主張していました。さらに社会党の人々は、総理はアメリカを説得して安保条約を対等なものに改める努力をする考えがあるかどうか、というような質問もしていたんです。」(★158)と指摘しており、まさに、岸は、社会党のこの要望に、岸カルトとしてはともかく、自分個人の政治生命をかけて(後に社会党が掌返しを行うけれど)応えたことになるわけだ。(太田)


[岸とCIA]

 「CIA内部では、各国の諜報エージェントや諜報対象者について暗号名で呼び合う。日本関係には「PO」を頭につける。解明されているものの一部を挙げると、自由党総裁だった緒方竹虎はPOCAPON、読売新聞社社主で原子力委員会委員長などを務めた正力松太郎はPODAM、あるいはPOJACKPOT‐1、などだ。

 しかし、岸については暗号名すらわかっていない。

 加藤は、緒方や正カの分厚いCIA関係資料を手に取って見せた。緒方は1千枚近く、正力は500枚ほどもある。戦後の日本政界とCIAとの関係を追究してきた加藤は、岸のCIA関係資料はまだ、ほとんどが機密指定を解除されていないとみている。「岸資料の5枚目のあとには、『not declassified』、まだ公開されない、という紙が1枚だけ挟まっている。この1枚の紙の後ろには、何百枚もの秘密資料があるかもしれないのです」。・・・
 「当時、CIAから経済団体や企業を通じて岸のほうに資金が流れたという記述を米国側の書類で私は目にしたことがある」
――経済団体とは経済団体連合会のことですか?
 「それも一つだと思う。それから個々の企業と何かしらの契約を結んで資金を流していくということがあったと思う」・・・
 のちに岸内閣の蔵相になる岸の実弟、佐藤栄作は1957年、米国に対し何度も秘密の資金提供を要請していた。
 このため、CIAから自民党にカネが流れ、「CIAによる資金は、1958年5月の衆議院選挙運動をはじめ、さまざまな方面に使われた」」
https://dot.asahi.com/wa/2013051700001.html?page=1

⇒言語道断だ。
 これがいつまで続いたのか、安倍晋太郎や晋三にも引き継がれたのか、知りたいところだ。
比較対象として、(前述した)CIAと西独(の情報機関)との「健全」な関係を紹介しておく。↓(太田)

 ・・・The predecessor of the BND was the German eastern military intelligence agency during World War II, the Abteilung Fremde Heere Ost or FHO Section in the General Staff, led by Wehrmacht Major General Reinhard Gehlen.
 Its main purpose was to collect information on the Red Army.
 After the war Gehlen worked with the U.S. occupation forces in West Germany.
 In 1946 he set up an intelligence agency informally known as the Gehlen Organization or simply “The Org” and recruited some of his former co-workers.
 Many had been operatives of Admiral Wilhelm Canaris’ wartime Abwehr (counter-intelligence) organization, but Gehlen also recruited people from the former Sicherheitsdienst (SD), SS and Gestapo, after their release by the Allies.
 The latter recruits were later controversial because the SS and its associated groups were notoriously the perpetrators of many Nazi atrocities during the war. 
 The organization worked at first almost exclusively for the CIA, which contributed funding, equipment, cars, gasoline and other materials.
 On 1 April 1956 the Bundesnachrichtendienst was created from the Gehlen Organization, and was transferred to the West German government, with all staff.
 Reinhard Gehlen became President of the BND and remained its head until 1968・・・
 Gehlen himself was cleared by James H. Critchfield of the Central Intelligence Agency who worked with the Gehlen Organization from 1949 to 1956.
 In 2001, he said that “almost everything negative that has been written about Gehlen, [as an] ardent ex-Nazi, one of Hitler’s war criminals … is all far from the fact,” as quoted in the Washington Post.
 Critchfield added that Gehlen hired former Sicherheitsdienst (Security Service of the Reichsführer-SS) men “reluctantly, under pressure from German Chancellor Konrad Adenauer to deal with ‘the avalanche of subversion hitting them from East Germany'”・・・

https://en.wikipedia.org/wiki/Federal_Intelligence_Service


[岸信介とフィクサー達]

一、児玉誉士夫

⇒児玉の、戦前、戦中の事績は省略する。(太田)

 「児玉誉士夫<(1911~1984年)は、>・・・1954年には、鳩山一郎を総理大臣にするために三木武吉の画策に力を貸した。1955年には自由党(緒方自由党)と合併して自民党になった。誠心誠意嘘をつくなど名言を残した三木武吉は病の床で「こだまをよろしく」との言葉を残した。
 その後も自民党と緊密な関係を保ち、長らく最も大きな影響力を行使できるフィクサー(黒幕)として君臨した。岸信介が首相になる際にもその力を行使した。・・・
 日米安保条約改定のため党内協力が必要となった岸信介は1959年1月16日、次期総理大臣を党人派の大野伴睦に譲り渡す誓約をした。その立会人が児玉であり、河野一郎や佐藤栄作も署名した誓約書が残されている。改定に反対する安保闘争を阻止するため、岸信介首相は自民党の木村篤太郎らにヤクザ・右翼を動員させたが、児玉はその世話役も務めた。
 1962年(昭和37年)の夏頃から、「(安保闘争のような)一朝有事に備えて、全国博徒の親睦と大同団結のもとに、反共の防波堤となる強固な組織を作る」という構想のもと、児玉誉士夫は東亜同友会の結成を試みた。結局、同会は結成されなかった。しかし、錦政会・稲川裕芳会長、北星会・岡村吾一会長、東声会・町井久之会長らの同意を取り付けていた。昭和38年(1963年)には、関東と関西の暴力団の手打ちを進め、三代目山口組・田岡一雄組長と町井会長との「兄弟盃」を実現させた。・・・
  1967年7月、笹川良一の肝煎りで、「第一回アジア反共連盟結成準備会」が開催された。この時、市倉徳三郎、統一教会の劉孝之らが集まったが、児玉も自分の代理として白井為雄を参加させた。・・・
 1969年、青思研より独立した右翼団体日本青年社が結成。これが任侠右翼の始まりであった。
 児玉は1965年の日韓国交回復にも積極的な役割を果たした。国交回復が実現し、5億ドルの対日賠償資金が供与されると、韓国には日本企業が進出し、利権が渦巻いていた。児玉誉士夫もこの頃からしばしば訪韓して朴政権要人と会い、日本企業やヤクザのフィクサーとして利益を得た。児玉だけではない。元満州国軍将校、のちに韓国大統領となる朴正煕とは満州人脈が形成され、岸信介、椎名悦三郎らの政治家や元大本営参謀で商社役員の瀬島龍三が日韓協力委員会まで作って、韓国利権に走った。
 日本国内では企業間の紛争にしばしば介入した。1972年河本敏夫率いる三光汽船はジャパンラインの乗っ取りを計画して同社株の買占めを進めた。困惑したジャパンラインの土屋研一は児玉に事件の解決を依頼した。しかし、児玉が圧力をかけても、河本はなかなかいうことを聞かなかった。そこで、児玉はそごう会長の水島廣雄に調停を依頼。水島の協力により、河本は買い占めた株の売却に同意する。児玉は水島に謝礼として1億円相当のダイヤモンドを贈った。こうして児玉の支配下に収まったジャパンラインは、昭和石油の子会社だった日本精蠟を1974年夏に買収した。
 児玉が圧力をかける時は今澄のときのように傘下のメディアを駆使した。利用された大手メディアに博報堂がある。その中に児玉は次の二つの目的を持ったセクションを作った。一つは、博報堂の取引先を児玉系列に組み込む。もう一つは、その系列化された企業に持ち込まれるクレームを利用してマスコミを操作し、なびかないメディアには広告依頼を回さない。このセクションは広告会社として品位に欠けた。そこで、当時の博報堂の持ち株会社であった伸和の商号を、1975年に博報堂コンサルタントへ変えて、また、定款にも「企業経営ならびに人事に関するコンサルタント業務」の項目を加えて、この元親会社に業務を請け負わせた。役員は、広田隆一郎社長の他に、町田欣一、山本弁介、太刀川恒夫が重役として名を連ねた。広田は、福井純一博報堂社長の大学時代ラグビー関係者で、警視庁が関西系暴力団の準構成員としてマークしていた人物。町田は、元警察庁刑事部主幹。山本は元NHK政治部記者。太刀川は塚本素山ビルの等々力産業社長で児玉側近の第一人者であった。・・・
 児玉はすでに1958年(昭和33年)からロッキード社の秘密代理人となり、日本政府に同社のF-104“スターファイター”戦闘機を選定させる工作をしていた。児玉が働きかけた政府側の人間は自民党の大野伴睦、河野一郎、岸信介らであった。1960年代末の契約が更新され、韓国も含まれるようになった。児玉は親しい仲にあった韓国の朴政権にロッキード社のジェット戦闘機を選定するよう働きかけていたのである。韓国に対する影響力の大きさが窺える。しかし、この頃、大野も河野も死亡しており、新しい総理大臣の佐藤栄作や田中角栄にはあまり影響力をもっていなかった。
 そこで児玉は田中との共通の友人、小佐野賢治に頼るようになった。小佐野は日本航空や全日本空輸の大株主でもあり、ロッキード社製のジェット旅客機の売り込みでも影響力を発揮したが、すでに日本航空はマクドネル・ダグラス社製のDC-10型機の購入を決定していたこともあり、その矛先を全日空に向けた。
 この頃深い関係を作り上げていた田中角栄が1972年(昭和47年)に首相になると児玉の工作は功を奏し、その後全日空は同機種を21機購入し、この結果ロッキード社の日本での売上は拡大した。さらに全日空は、ロッキードから得た資金を自社の権益の拡大を図るべく航空族議員や運輸官僚への賄賂として使い、その後このことはロッキード事件に付随する全日空ルートとして追及されることとなった。
 ロッキード社社長のアーチボルド・コーチャンが「児玉の役割はP-3C導入を政府関係者に働きかけることだった。児玉は次の大臣に誰がなりそうか教えてくれた。日本では大臣はすぐに代わるから特定の大臣と仲良くなっても無駄である。彼は私の国務省だった。」と調書で語っている。
 しかし1976年(昭和51年)、<米>上院で行われた公聴会で、「ロッキード社が日本の超国家主義者を秘密代理人として雇い、多額の現金を支払っている」事実が明らかにされ、日本は大騒ぎとなった。その後、三木武夫首相によってこの事件の捜査が開始され、すでにこの事件の中心人物と目されていた65歳の児玉は衆議院での証人喚問が行われる直前に「発作」を起こし、床についた。
 しかし、間もなく児玉は脱税と外為法違反で在宅起訴され、裁判に臨むことになった。1977年(昭和52年)6月に一度公判に出廷した後は脳梗塞と後遺症を理由に自宅を離れなかった。 1979年(昭和54年)10月11日には3人の裁判官、検察官、弁護士が自宅を訪問して臨床尋問が行われた。「臨床」とはされたが尋問は自宅の洋間で行われ、児玉は和服を着て椅子に座って応答している。検察は小佐野との関係、ロッキード社のコンサルタントになった経緯を尋問したが、1時間ほどで児玉が喉の苦痛を訴えて取りやめとなった。
 元総理の田中角栄は収賄容疑で逮捕され、1983年(昭和58年)10月に有罪判決が出された。児玉は死期が近づいた時、「自分はCIAの対日工作員であった」と告白している。72歳の児玉は判決が出る直前の1984年(昭和59年)1月に再び発作を起こして没し、裁判は打ち切りとなった。なお、児玉の死亡後の遺産相続では闇で収受した21億円が個人財産として認定された上で相続税が計算されている。
 当時、児玉が経営する企業の役員を務めていた日吉修二(2016年7月11日に死去。『NHKスペシャル』『未解決事件』File.5 「ロッキード事件」でのインタビューが生涯で最後のインタビューとなった)によると、事件発覚直後、児玉の秘書から急遽呼ばれ、段ボール5箱分の書類をすぐに焼却するよう指示されたという。日吉はインタビューの中で「これが天下の児玉だと思ってますよ。それはやっぱり日本の為の国士ですから、何か事を起こすのにはやっぱ資金がないとね。(資金の)必要があったんじゃないかなと思う。これやっぱりロッキード事件に絡んだ書類くらい思ってますよ。伝票みたいなものもあったし、色んな綴じてある書類もあったし、そんないちいちね見ながらこれは焼いていいか、それはやらない。私、意外と忠実だから言われたらピッと焼いちゃう。ただ燃やしているチラチラ見える中には、英語の物もあったと思います。」と述べている。
 児玉の通訳の福田太郎も死ぬ直前、次のような供述をしている。
 福田「<米国>の公聴会で領収書の一部が公表されることになりました。ロッキード社から児玉さんに謝っておいてくれと電話がありました。」
 児玉「それは話が違う。私に迷惑をかけないようにすると言っていたではないか。」
 秘書「それを否定しなければなりません。先生は知らないと言えばいい。判子と書類は燃やしてしまいます。」
 2016年に放送されたNHKスペシャル・未解決事件のインタビューに応じた堀田力元検事は「核心はP3Cではないか。P3Cで色々あるはずなんだけど。(児玉誉士夫がロッキード社から)金を上手に取る巧妙な手口は証言で取れている。(そこから先の)金の使い方とか、こっちで解明しなきゃいけないけど、そこができていない。それはもう深い物凄い深い闇がまだまだあって、日本の大きな政治経済の背後で動く闇の部分に一本光が入ったことは間違いないんだけど、国民の目から見れば検察、もっともっと彼らがどういう所でどんな金を貰ってどうしているのか、暗闇の部分を全部照らしてくれって。悔しいというか申し訳ない」と語っている。・・・
 墓所は東京都大田区の池上本門寺。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E8%AA%89%E5%A3%AB%E5%A4%AB

⇒児玉は、戦後は、もっぱら、岸カルトの汚れ仕事役を演じつつ、それを自分個人のための金儲けに利用するという、ゴキブリ的人生を歩んだ、と言えるのではなかろうか。
 岸カルトの総帥の岸の弟の佐藤の子分だった田中は、岸や佐藤の縁で児玉との付き合いが始まり、カネの受け取り方が岸や佐藤ほど「洗練」されていなかったために御用になってしまったわけだ。
 但し、児玉が、自分がCIAの対日工作員だと告白したことだけは褒めておこう。
 ついでに、自分の対日工作員としての「上司」は岸だった、とまで言ってくれればなおよかったのだが・・。
 その児玉も墓所は池上本門寺だ。
 ウチの近所に、太田コラムに登場する、大小、善悪様々な故人がなんと大勢眠っていることか。(太田)

二、笹川良一

 「笹川良一<(1899~1995年)は、>・・・、大阪府三島郡豊川村小野原(のちの箕面市小野原)に、造り酒屋の長男として生まれる。笹川家は代々庄屋を務めた旧家で苗字帯刀を許されており、父:笹川鶴吉は笹川家10代目当主。笹川家の菩提寺は1579年(天正7年)に笹川市兵衞が創建したと伝えられる浄土宗理照寺。1914年(大正3年)3月、豊川村尋常高等小学校(のちの茨木市立豊川小学校)高等科卒業。作家の川端康成とは小学校の同級で、祖父同士が囲碁仲間であった。飛行機乗りを志し、大日本帝国陸軍の岐阜県各務原飛行第二連隊に入隊する。
 1925年(大正14年)、父の遺産を元手に豊川村の村会議員に立候補し、当選して政治活動を始める。芸能事務所経営を経る傍ら株式相場にも手を広げて一財産を作り、飛行機や飛行場を軍に献納して軍人に知己を得た。  
 その一方で弟を通じて関西浪人会で活動していた藤吉男を支援、1931年(昭和6年)には右翼団体・国粋大衆党を結成し総裁に就任する。部下に児玉誉士夫がいたこともある。イタリアの指導者であるベニート・ムッソリーニの崇拝者であり、ムッソリーニ率いるファシスト党の制服を似せて私兵に黒シャツを着せていた。
 1932年(昭和7年)に満州国が建国されると、同国の皇帝の愛新覚羅溥儀との会見に成功し知名度を高めた。なおこの頃、「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれ一世を風靡した関東軍のスパイ・川島芳子との交際があったと噂されている。本人は川島と親密であることは認めているものの、交際については否定も肯定もしていない。のちに、多田駿の指示があってか、暗殺の危険を感じた川島が里見甫などに相談した結果、笹川の元に身を寄せたこともあり、一方で、党総裁の笹川も、そんな川島の国民的知名度や人気にあやかろうとしていたともされている。
 1935年(昭和10年)に大阪鉄道の買占めの際に、国粋大衆党の他の幹部とともに恐喝容疑で逮捕された。大阪刑務所に約4年間収監されたが最終的には無罪となり、釈放されている。その後、1939年(昭和14年)には飛行機で単身イタリアに渡ってムッソリーニと会見した。この訪欧飛行の実現については、大日本帝国海軍山本五十六の後援があった。
 第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)に行われた翼賛選挙では、戦争に対して慎重であり東條内閣の政策に反対の姿勢のため非推薦の立場で立候補、当選して衆議院議員を一期務めた。この頃には既に重光葵や岸信介、安岡正篤とも親交があったとされる。
 1945年(昭和20年)12月2日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し笹川を逮捕するよう命令(第三次逮捕者59名中の1人)。A級戦犯容疑者として12月11日に巣鴨プリズンに入獄したが、実際に東京裁判の法廷に立つことはなかった(翌年には公職追放を受ける)。・・・
 1948年(昭和23年)12月24日に不起訴により釈放。釈放後、1942年(昭和17年)に国粋同盟に改称されていた国粋大衆党を、さらに全国勤労者同盟に衣替えし、右翼的な政治活動を再開した。・・・
 酒も煙草も断って戦犯者やその家族らへの支援および刑死者の慰霊に奔走した。世界各国で収監されていた戦犯者や「三国人」の戦犯者の救援にも力を注いでいる。・・・
 モーターボート競走に関心を持つきっかけとなったのは、巣鴨プリズンで手にした<米国>の情報誌『ライフ』にモーターボートの写真が載っているのを見たことであったという。
 出所から2ヶ月も経たない1949年(昭和24年)2月頃から旧知の矢次一夫や岸信介に協力を仰ぎ、モーターボート競走法制定について主要政党や関係各省庁、有識者などに働きかけを開始した。
 モーターボート競走法は1951年(昭和26年)3月29日に衆議院本会議で可決されたが、衆議院側で賛成に回っていた日本社会党が、参議院への法案上程後に反対に回ったため、6月2日に参議院本会議で否決された。このため笹川は広川弘禅ら与党の要人を説得して再提案を迫った。6月5日、衆議院本会議で出席議員の3分の2以上の賛成で衆議院の再議決がなされ、成立した。
 競艇の主宰をめぐって笹川らの一派と大野伴睦・福島世根らの一派で分裂状態になるが、最終的に笹川らが競艇主宰の主導権を握ることになった。なお、笹川のモーターボート競走創設の栄誉をたたえ、SG競走の「笹川賞競走」が1974年(昭和49年)から毎年5月に行われている。
 1952年(昭和27年)に社団法人全国モーターボート競走会連合会(全モ連)の設立に関与、1955年(昭和30年)には同連合会の会長に就任した。当初は赤字続きだったために廃止論が出されたが、笹川は赤字が続いていた地方公共団体には私財を投じる一方で「競艇はやがて収益が出て、社会に大きく貢献する」と反論していた。
 1960年代に競艇で収益が出るようになると、管轄官庁の運輸省が全モ連を特殊法人化して、日本国政府の監督権限を強めて、人事任命権や収入の国庫納入化を模索するが、笹川は「自分が私財を投じたから競艇が成長した」と反論。更に競艇の収益を活用する受け皿組織として、1962年(昭和37年)に日本船舶振興会(のちに正式名称は日本財団に)を創設し、会長などを務めた。そして、特殊法人化に距離を置く運輸官僚に要職を用意したり、運輸省関連団体に寄付行為を行うなどして、運輸省による監督権限強化論を押さえることで、競艇ビジネスが笹川一族の同族経営の色が深まることになった。・・・
 笹川は、巣鴨プリズン時代から<米国>に対しては好意的見方をとっていたが、終戦直前に参戦して日本人捕虜をシベリアに連行して使役したソ連には強い批判を隠さなかった。
 1954年(昭和29年)に韓国で発足したアジア人民反共同盟(APACL、のちのアジア・太平洋反共同盟)と、その発展組織であり、1966年(昭和41年)に発足した世界反共連盟(WACL)を中華民国の蔣介石総統や谷正綱、元部下の児玉誉士夫らと共に設立した。
 統一教会とはある時期まで協力関係にあり、1963年(昭和38年)には、統一教会の日本支部顧問を引き受けたり、同年6月4日の72双合同結婚式にも夫妻で参列もした。統一教会が1968年(昭和43年)に結成した反共の政治団体国際勝共連合では、結成時から名誉会長を務めたりもしていたが、統一教会の活動が問題視されてきた上、文鮮明との関係が悪化したためか、1972年(昭和47年)には「反共運動から手を引く」と名誉会長を辞任した。・・・
 1972年(昭和47年)9月の日中国交正常化以後は競艇で得た収益金の一部を、中国国民党と対立する中国共産党が支配する中華人民共和国への支援に回すなどして中国共産党の指導者である鄧小平とも親交を結んだ。
 1987年(昭和62年)から始まった中華人民共和国の医学研修生を日本の大学で受け入れるプロジェクトで来日した中華人民共和国の医学生は、延べ二千人を超える。1989年(昭和64年)には笹川日中友好基金を設立した。また、同時に中<共>の宗教団体である世界紅卍字会を支援した。・・・
 税務署査定による遺産総額は約53億4千万円、ただしほとんどが自宅、山林、非上場会社の株など、換金しづらいものばかりであり、換金できそうな美術品などの類は偽物が多かったと言われている。これに対して借入金は約37億5千万円、差し引きすると遺産は約15億9千万円。その相続税は約7億5千万円にのぼり、長男と次男は相続を放棄。唯一財産を相続した三男の笹川陽平は莫大な負債も同時に相続した為、その返済に苦労することになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%B9%E5%B7%9D%E8%89%AF%E4%B8%80 
 「・・・良一はむしろ軍部支配政権に牙をむき、翼賛選挙を批判し、朝鮮人差別撤廃要求や言論統制反対、戦後はマッカーサーへ意見書を出す、衆議院議員総辞職を呼びかけるなど、まっとうな持論で活動した。旧戦犯とその家族・遺族を援助し、後にハンセン病患者の支援に力を注ぎました。
 なのに、ここまでダークなイメージがしみ付いたのは、元軍人やジャーナリズム、知識人の人身御供にされたから。彼らの密告や証言はほとんどが根も葉もないデマ。戦時中は軍に協力してあおりまくり、戦後知らん顔を決め込むために、誰かを血祭りに上げる必要があったんでしょう。その生け贄が笹川良一だった。・・・髙山文彦・・・」
https://toyokeizai.net/articles/-/62072

⇒罪のみの岸カルトに比べれば、岸カルトとつかず離れずだった笹川は、(統一教会との絶縁一つとっても、)功が罪をかなり上回った人物だったと言えそうだ。(太田)

三、矢次一夫

 1899~1983年。無学。「1933年(昭和8年)、陸軍省から依頼され、統制派の幕僚・池田純久少佐と結んで、国策の立案に着手。総合的な政策研究組織の必要を感じ、同年10月に、官僚、学者、社会運動家、政治家などを集めて国策研究同志会を組織。
 1936年(昭和11年)の二・二六事件の後に一時解散するが、1937年(昭和12年)に再組織。1938年(昭和13年)に国策研究会に改称。戦時国策の立案に従事。組織の拡大を図る。
 戦時中は、福家俊一と共同で上海で「大陸新報」の発行に関与(当時、国策研究会常任幹事)する傍ら企画院委員、大政翼賛会参与、翼賛政治会理事などを歴任、戦時内閣の組閣や倒閣にも深く関与した。田中隆吉によれば、矢次は大政翼賛会を操っていた人物として名指しされている。
 終戦後は公職追放されたが、1951年(昭和26年)、追放解除となる。・・・
 1956年(昭和31年)、矢次は台湾を訪問して蔣介石総統と会談。日台韓の反共連盟の強化を目指していたことで蒋と意見が一致し、以降日韓関係の改善を求める様になる。1957年(昭和32年)に日韓会談再開のため、矢次は柳泰夏駐日韓国代表部参事官と李ライン抑留問題に関する秘密交渉を行う。同年、矢次の仲介で金東祚韓国外務部長官・駐日韓国大使が岸信介首相と接触。1958年(昭和33年)5月に岸信介の個人特使として韓国を訪問して李承晩韓国大統領と会談。日韓併合について謝罪し、国交回復を打診している。・・・
 その一方で1972年(昭和47年)には福家の仲介で矢次と金炳植朝鮮総連副議長が会談。日朝経済関係の促進に乗り出し、自ら日朝貿易を取りまとめる協和物産を設立している。金大中事件で日韓関係が拗れた際にも1973年(昭和48年)9月に岸と共に訪韓し、事件処理と経済関係を切り離すことで朴大統領と合意を取りつけた。1980年(昭和55年)5月には岸の個人特使として訪中し、中華人民共和国の最高指導者である鄧小平と会談。中台統一に向けた台湾の蔣経国総統との仲介役を鄧から要請を受けると共に、中韓経済交流についても交渉した。岸も廖承志によって訪中の打診を1970年代から受けていたとされる。同年9月には岸の訪韓に同道して全斗煥韓国大統領と金大中問題について会談するが目立った進展はなかった。旧朴正煕政権の対日人脈に不信感を持っていたとされる。・・・
 橋本文男(元読売新聞記者)は・・・矢次をこう評している。
 『黒幕<(フィクサー)>と言われる他の人々、例えば児玉誉士夫や小佐野賢治らは利害関係にある人達としか交際はなく、彼等の知り得る情報は彼らの企業の利益に必要なものに限られている。小林中・荻原朔太郎・笹川良一にして然りである。一方、矢次の持つ情報は多方面にわたり、かつ正確なのだ。会った人が必要とする情報を常に持っている。彼は偉大なる情報屋であり、それが怪物の本質である。』」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E6%AC%A1%E4%B8%80%E5%A4%AB
 「国策研究会<の>・・・前身となった国策研究同志会は、大蔵公望(男爵、貴族院議員)、小野塚喜平次(東京帝国大学総長)、美濃部達吉(東京帝国大学教授)、矢次一夫(労働事情調査所主幹)らが参加して1933年10月に結成された。1937年の二・二六事件を契機に戦時体制への傾斜が進む中で、1938年に国策研究会と改称し、「実践的研究団体」として拡大改組され、以降、多数の調査研究報告書等を作成し「民間企画院」とも評された。特に、第1次近衛内閣(1937年 – 1939年)から小磯内閣(1944年 – 1945年)に至る各内閣には、国策研究会の関係者多数が入閣をしていた。また、電力国家管理法の成立過程(1937-38年)、国民健康保険法の成立過程(1937-38年)、総合国策10ヶ年計画の作成課程(1940年)において、重要な働きをしたことから、軍国主義的体制に貢献したともいえる。昭和研究会と対比的に国研を分析した伊藤智央によれば、こうした政治的関与の背景には、実用主義があったとされる。
 1942年には、高橋亀吉が常任理事調査局長となり、大東亜共栄圏の具体的構想に取り組んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AD%96%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A

⇒矢次は、岸の友人であるところの、岸の悪事には殆ど関わらなかった、在野の政治家だったと言えそうだ。

 矢次は、岸が岸カルト創始者たる極悪人であることについに気付くことがなかったと思われる。(太田)

 1957年(昭和32年)1月、米兵ジラードが農婦を射殺するジラード事件<(注42)>が発生し、裁判管轄権が日本側にないということが明らかになると世論は激昂し、日米安保は危機に瀕した。

 (注42)「当時の在日米軍群馬県相馬が原演習地(現・相馬原駐屯地)では、実弾射撃訓練が行われていた。演習地は立ち入り禁止措置がなされていたが、近隣住民は薬莢や発射された後の弾頭など金属類を拾って換金することを目的として、しばしば演習地内に立ち入っていた。
 1957年(昭和32年)1月30日、薬莢を拾う事を目的に演習地内へ立ち入った日本人主婦(当時46歳)に対して、主婦の背後から第1騎兵師団第8連隊第2大隊のウィリアム・S・ジラード三等特技兵(当時21歳、イリノイ州オタワ・・・出身)がM1ガーランド装着のM7グレネードランチャーで空薬莢を発射し、主婦が即死する事件が発生した。目撃者の証言から、ジラードが主婦に「ママサンダイジョウビ タクサン ブラス ステイ」と声をかけて、近寄らせてから銃を向け発砲した可能性があることがわかると、<米国>への批判の声が高まり社会現象となった。ジラードが主婦を射殺した時は休憩時間であったことから日本の裁判を受けるべきであると日本側が主張し、<米>陸軍が職務中の事件だとして<米>軍事法廷での裁判を主張するなど、<米>側からは強い反発もあったが日本の裁判に服することで決着した。・・・
 なお、ジラードへの処罰を最大限軽く(殺人罪でなく傷害致死罪で処断)することを条件に、身柄を日本へ移すという内容の密約が日米間で結ばれていた・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 この事件によって、1951年の旧日米安保条約下では、日本が<米国>に基地を提供する一方でアメリカ側には日本を防衛する義務はなく、また日本は<米国>の基地使用に対する発言権もないという不平等性が国民に対しても明らかになった。

⇒後者は旧安保における行政協定の中身の問題であり、旧安保それ自体の問題ではない。(太田)

 政治生命をかけた大事業」と安保改定に意気込む岸は、首相に就任した直後から駐日米国大使ダグラス・マッカーサー2世と内密に協議を重ねた。その中で岸は、「安保条約は、日本国民の多数によって日本の対米従属的地位の象徴として見られている。知らざる間に自動的に戦争に巻き込まれてしまう危惧を抱くこととなり、日本国民の戦争嫌悪感情と相まって安保条約反対の空気を強める結果となっている」と揺さぶりをかけつつも、沖縄等の返還合意・5年後を目処とした日本国憲法(9条)の改正・安保改定と「相互防衛」が可能な体制構築といったビジョンを示し、マッカーサー大使からも好意的に評価された。
 1957年5月20日、「国防基本方針」を閣議決定し、<米国>の懸念を払拭するために、日米協力による日本の安全保障、国力に応じて防衛力を漸増することなどを明記した。
 1957年(昭和32年)1月24日、岸はセイロン(スリランカ)で開催予定であったアジア太平洋地域公館長会議を東京に変更させ、日本外交の方針として共産圏対策、アジア・アフリカ諸国との友好関係、アジア太平洋地域での通商促進の三点を訓示し、これは9月の外交三原則に反映された。また「アジア太平洋地域は日本外交の中心地」と宣言した。
 4月からは<英国>に松下正寿特使を派遣し、核実験禁止をアピールし、また国連でも積極的に核実験問題を喚起し、<米英>の反発を買った。4月20日にはインドのネルー首相が「諸大国に原水爆実験を行って他国の上空を汚染させる法的権利があるだろうか」と非難し、5月9日にはセイロンのコロンボ市議会がインドのネール首相と岸に向かってクリスマス島でのイギリスの水爆実験阻止を要請した。
 5月20日、岸はアジア歴訪に出て、インド、パキスタン、セイロン、タイ、台湾(中華民国)等六カ国を訪問した。5月23日にはインドのネルー首相と核実験禁止問題を討議した。
 6月には米国へ渡り、アイゼンハワー大統領と首脳会談、安保改定の検討を約束させた。

⇒「吉田元首相は岸首相の<この>滞米中に、毎日新聞に「訪米の岸首相に望む」と題して、寄稿している。
 「安保条約、行政協定の改正などについて意見が出ているようだ。しかし、私はこれに手を振れる必要はぜんぜんないと信ずる。今までのとおりで一向差支えない。条約を結んだ以上は互いに信義をもって守ってこそ国際条約といえる。(中略)条約というものは、対等のものもあるが、不対等の条約もあって、それを結ぶことによって、国の利益になるなら私は喜んでその条約を結ぶ。下宿屋の二階で法律論をたたかわしているようなことで政治はやれない」(<1957>年6月14日朝刊)」(*14~15)

⇒これは、一見、まさに、いわゆる吉田ドクトリンの吉田がそう言っているように読めるが、吉田は、憲法に手を触れずに、安保条約を、より日本に有利な、文字通り日本の安全を保障するものにしてしまえば、日本において再軍備の機運の醸成を永久に阻害してしまいかねないと見ていた、ということなのだ。
 そして、この吉田の危惧があたったことを我々は知っている。(太田)

 「岸氏は巣鴨刑務所から釈放されると、同志とともに、「憲法を改正して独立国にふさわしい体制をつくる」という旗印を掲げて、日本再建連盟を結成した。」
 1953年に、吉田首相の自由党から衆議院議員選挙に当選すると、<吉田は同党の>憲法調査会の初代会長に就<け>ている。・・・
 岸首相は安保条約を改定して、アイゼンハワー大統領の訪日を成功させたうえで、憲法改正への道筋をつけることを、目論んでいた。
 岸首相は引退後に、「吉田氏の役割は、サンフランシスコ講和条約を締結したところで、終わるべきだった」と、述懐している。
 <ところが、>岸内閣が退陣した後は、池田勇人首相をはじめとする、いわゆる”吉田学校”によって政治が支配され、”吉田ドクトリン”のものとで、日本の迷走が続いた。
 <結局、>日本の戦後は、”吉田ドクトリン”によって、律せられてきた。・・・加瀬英明・・・」(*14~15)

⇒こんな言い方をしたくないのはやまやまだが、加瀬英明は存命で、日本会議代表委員でもあるが、岸の真っ赤なウソを真に受けたままで・・吉田を貶め岸をヨイショしたままで・・生涯を終えるつもりのようだ。(太田)

 6月20日の<米>議会での演説では国際共産主義の脅威を唱え、翌日の記者会見では「日本は絶対に共産主義や中立主義に走らない」と述べた。国賓としての訪米であり、<米>国内の移動には大統領専用機(Columbine III)が貸与される厚遇ぶりであったが、ダレス国務長官や制服組のトップであるラドフォード統合参謀本部議長との会談は厳しいものであった。この席で岸は「秘密保護法についてはいずれ立法措置を講じたいと思っている」とラドフォードの求めに応じている。
 9月、外務省は外交三原則として、「国連中心主義」「アジアの一員としての立場の堅持」「自由主義諸国との協調」を掲げた。疑問や批判に答えるため翌年に外務省は、日本の国是は 「自由と正義に基づく平和の確立と維持にあり、この国是に則って、平和外交を推進し、国際正義を実現し、国際社会におけるデモクラシーを確立することが、わが国外交の根本精神である」として、外交三原則はこの根本精神の外交活動の現れ方を示すと答弁した。また、岸が携行した外交資料ではアジアのナショナリズムの理解、東南アジア開発基金構想、将来中国共産党を承認する必要性が出てくるため台湾と「2つの中国」双方への考慮が必要であること、核実験禁止のアピールなどが書かれており、「パワー・ポリティクスとしての国際政治に道義の要素を入れることこそ、我々アジア諸国に課せられた使命」と書かれていた。岸は内閣改造で外務大臣に藤山愛一郎を抜擢し、「アジア外交のなかでも中共の問題を」やってもらうと岸は述べた。藤山外相は9月10日の参議院外務委員会で「<米国>と協調するというよりは、日本は自由主義陣営の立場をとる」と明言した。9月28日に藤山外相は当時自由陣営の中で珍しく中華人民共和国と国交を持っていた<英国>のロイド外相と会談し、中<共>問題で密接に連絡を取り合うことを約束した。
 10月、国連安保理非常任理事国に当選した。1956年12月に国連に加盟してからは、核兵器廃絶決議を提出して成立、イギリスの核実験への抗議、レバノン紛争ではアメリカと異なる決議案を出し採決され、米国からも感謝された。またレバノン紛争では翌年の1958年に国際連合平和維持活動(PKO)を求められたが自衛隊の海外派遣は難しかったので拒絶した。
 12月には二度目のアジア歴訪に出て、オーストラリア、フィリピン、インドネシアを周り、反日感情の強いオーストラリアでは戦争について率直に謝罪し、戦争賠償問題に積極的に取り組むとした。12月24日、日豪首脳会談で岸は「日豪両国は過去を忘れ、大きな筋において将来強い協力関係に入るべきだ」と訴えた。
 このようなアジア重視の政策の背景には、当時、欧州共同体体制の誕生によって世界経済がブロック化する情勢からも日本が東南アジアに進出する必要が藤山から要求されたこと、また、バンドン会議でのインドや中国の躍進、周恩来のアジア歴訪による影響力拡大への対抗、そして<米国>に対しては日米関係がうまく調整できなければ「アジアへの回帰」を選択するという、アジアをカードとして揺さぶりをかけるという外交上の側面があった。また第二次東南アジア歴訪は、日本の向米一辺倒、大東亜共栄圏の再来といった懸念に対して、英連邦への配慮とコロンボ・プランを重視することで乗り切ろうとするものであった。
 1958年(昭和33年)4月25日、衆議院を解散した。5月22日の総選挙で勝利し(自民党は絶対安定多数となる287議席を獲得)、6月12日に第57代内閣総理大臣に就任し、第2次岸内閣が発足した。一方で、憲法改正に必要な3分の2の議席獲得には至らなかった。

⇒CIAから受け取ったカネ(前出)も投入して総選挙を戦いつつも、議席の3分の2を占めることのないよう調整した結果、岸の所期通りの結果が得られた、といったところか。(太田)

 同年、日米安全保障条約改定にあたり、米側は「在日米軍裁判権放棄密約事件」<(注43)>で露見した裁判権放棄を公式に表明するよう要求したが、岸は国内の反発を恐れ、これを拒否した。

 (注43)「1953年に日本政府は在日米軍将兵の関与する刑事事件について、「重要な案件以外、また日本有事に際しては全面的に、日本側は裁判権を放棄する」とする密約に合意した。正式には『行政協定第一七条を改正する一九五三年九月二十九日の議定書第三項・第五項に関連した、合同委員会裁判権分科委員会刑事部会日本側部会長の声明』である。<米>側代表は軍法務官事務所のアラン・トッド中佐、日本の部会長は津田實・法務省総務課長。
 その後5年間に起きた、約13000件の在日米軍関連事件の97%について、裁判権を放棄。実際に裁判が行われたのは約400件だけだった。また、新原と共同通信社が入手した『合衆国軍隊構成員等に対する刑事裁判権関係実務資料』(法務省刑事局と警察庁刑事局が1954年から1972年にかけて作成。法務省刑事局発行の「検察資料」第158号にも収録され、一部の大学図書館でも購入されている)などによると、法務省は全国の地方検察庁に「実質的に重要と認められる事件のみ裁判権を行使する」よう通達を出した。また、批判を受ける恐れのある裁判権不行使ではなく、公訴権の自主規制といえる起訴猶予処分にするよう勧めていた。これらのことが裁判権放棄密約の傍証として挙げられている。
 1958年、<米>国務長官ジョン・フォスター・ダレスは、新日米安保条約及び日米地位協定締結にあたり、裁判権放棄を密約ではなく、日本政府に公に認めさせようとしたが、当時の首相・岸信介は国内での反発を恐れ、この要求を拒んだとしている(10月4日のこと。当時会談に参加したのは岸の他に外務大臣藤山愛一郎、駐日<米国>大使ダグラス・マッカーサー2世)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E8%A3%81%E5%88%A4%E6%A8%A9%E6%94%BE%E6%A3%84%E5%AF%86%E7%B4%84%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 当時の岸内閣は、警察官職務執行法(警職法)の改正案を出したが、社会党や総評を初めとして反対運動が高まり、「デートもできない警職法(デートも邪魔する警職法)」「『オイコラ警官』の再来」などとネガティブ・キャンペーンにさらされ、撤回に追い込まれた。<(注44)>

 (注44)「警察行政の組織形態と責務を規定した警察法は、すでに三回改正されて占領色を払拭していた。だが警察官の職務権限を扱う警職法は一度も変更されず、依然占領時代のそれであった。岸氏にとって安保改定が「独立の完成」のための外交的課題であるとするなら、警職法改正は教育諸制度の改革と同様、「独立の完成」のための国内的課題の一つでもあった。しかし、警職法改正案のなかに「政治的集団犯罪の予防と制止」をみてとった社会党を中心とする野党勢力の反対運動は、すぐさま国会内外を大きく揺るがした。院内痘瘡と連動して急速に盛り上がった大衆運動の参加者は、労組のストライキや職場大会などへのそれを含めておよそ400万人に達し、ほとんどゼネストの様相を呈した(11月5日)。岸政権はみるみるうちに窮地に立つ。国会審議は難航を極め、同改正案は11月22日審議未了・廃案に追い込まれた。岸政権の全面敗北であった。」(★207~208)
 「現行の警職法では、・・・何か犯罪が起こらなければ警察官は動くことはできないようになっている。・・・この予防的措置を警察官が行なえるようにすることが改正の主たる理由であった。」(岸。★233)

⇒憲法改正はもとより、安保改正にも、警察力の強化は不可欠であるにもかかわらず、岸は、あえて手抜きをした、と見る。(太田)

 また、日本教職員組合(日教組)との政治闘争においては、封じ込め策として教職員への勤務評定の導入を強行した(これに反発する教職員により「勤評闘争」が起こった)。
 2月に、警職法改正以外に防諜法(秘密保護法)の成立に意欲を見せていたほか、防衛庁の国防省への昇格、内政省の設置と地方制による官選知事制度(地方長官任命制度)の復活、独占禁止法改正、小選挙区法などの成立を目指していたとされる。内政省設置法案は、同年に、第1次岸内閣 (改造)により廃案となっている。

⇒岸は、これも警察力の強化につながるところの、事実上の内務省復活、についても簡単に断念している。(太田)

 代わりに、1960年(昭和35年)7月1日に、自治省が設立されている。
 内政省設置に関連して検討された「地方制」は、第四次地方制度調査会で検討されたもので、従来の都道府県を廃止して、新たにブロック制の「地方」を全国に7~9ヶ所程度設け、そこに官選の地方長官(キャリア官僚)を配置するというものだった。
 このほか、鳩山が施政方針演説で打ち出して石橋が閣議決定していた国民皆保険を確立、最低賃金制・国民皆年金など社会保障制度を導入し、後の高度経済成長の礎を構築した。また、<1959年に亡くなっていた>鳩山とともに憲法改正を主張した。

⇒「吉田さんは、とにかくアメリカと日本が一体になっていかなきゃいかんということを盛んに主張していました。対米一辺倒なんていうことがいわれているが、実際は一辺倒になっておらん、というのが吉田さんの意見でした。中国やソ連にいまだ気を遣いすぎているが、アメリカ一辺倒に徹すべきだ、という議論でした。」(★278)と岸は回想しているが、吉田が岸に対して憲法第9条の政府解釈変更による再軍備を強く求めたのを、岸がオブラートに包んで表現しているのだろう。(太田)

 1960年(昭和35年)1月に全権団を率いて訪米した岸は、アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意した。


[旧安保と新安保の比較]

     旧安保              新安保

1条  内乱条項             削除 

  米軍の日本防衛義務なし   5条   明記「日本国の施政権下に…対処することを宣言
  「日本の安全に寄与するこ
  とができする」・・・しなく
  ても条約違反ではない,
  と言うこともでき,困った
                     
    極東条項         6条   存続

  「極東の安全のために」       「極東の国際の・・・・ために,日本の基地を使用する」
   
2条 第一条にかかげる権利を
  第三国に与えない         削除

3条  行政協定         6条   地位協定「別個の協定及び合意される他の取極」

4条 失効にあたっては,両国が 10条   10年の効力存続。その後は一方の申し出があればよい
  認めなければいけない

   純軍事的内容                     包括的な内容
 かつて欧米諸国が植民地に           国連との関係もより明確化
おしつけたような内容であっ          独立国としての体裁を確保した
た

                                    事前協議制

                    交換公文により,6条「極東条項」による在日米軍の
                    行動を日本側が制限できるようにしたが,現実に協
                    議を持たれることは現在までない。

●留意点

新5条
日本の制約(憲法9条)を配慮した共同防衛範囲を規定

新6条
<米国>からみた駐留軍の行動範囲として規定。
しかし,「極東とはどこまでか」という野党の攻勢にあう。在日米軍は日本の基地から出撃するわけで問題となったわけである。そこで,条約付属文書である交換公文によって「事前協議」をする約束を交わしてあることをあげ,政府は「日本は米軍の行動を制限できる歯止め」がある,として攻勢をかわす。

条文ではふれない
<米国>は「条約に書き込む」ことをおそれた部分は別の文書として体裁を整える形を好んだ。
旧安保における「行政協定」,新安保における「条約付属文書」である。
とくに後者は日本の岸首相が米国務長官ハーターに「事前協議してくれますね」と伝え,返事として「確認しました」としただけの「交換公文」である。よって条約より重みは低く,そのこともあり事前協議は一度も日本になされることはなかった。

旧安保における行政協定の不平等な点 ⇒新安保では「地位協定」として改善ははかられたが
 第1条 「全土基地方式」平時,有事を問わず日本のどこにでも米軍基地を置けるというもの。もちろん土地貸借の交渉は必要だが,潜在的に基地をおけることが述べられている。
 第3条-1 基地以外への出入り自由。日本側はチェックできない。
 第9条 軍人,軍属,家族の出入国自由。在日米軍という身分を失わないかぎり,日本側は退去命令を出せない。パスポート携行は必要だが,日本政府のチェックまでは規定していない。
 第11条 税制規定「日本政府に従う。ただし・・・」とし,ほとんどを免除するようなもの。関税なし,税関検査なし,私有品なし。
 第14条 特殊契約者=米国の業者(米軍との関係で来日する者)も特権。仕事がすんでも日本にいすわるという問題
 第17条 NATO諸国と交わした刑事裁判権協定が発効したら,日本も同様のものを求めていい⇒発効までは<米国>に領事裁判権がある。⇒しかし,日本はその後も求めなかった。(米側の公開文書では)だが,あまりよくないとして改められる。現在の地位協定では裁判権は日本にあるが,「逮捕」に至るまでに制限がある(米側が容疑者をひきわたしてくれるまで待つしかない)。米側が基地内で事情聴取して認めるに及ばなければ引き渡してくれないわけだ。米側が日本の取調べ方法(弁護士をつけないこと,しばかれるイメージ)に不信を抱いていることも一因。
http://kemmeous.web.fc2.com/hall/theme/anpooldnew.html ←新旧条約の全文も掲載

⇒ほぼ全文を転載したので心苦しいのだけれど、不詳の筆者の方、御理解いただければ幸いだ。
 で、新旧安保を比較すれば、日本は、内覧条項を削除し、日本側が失効させることができるようにしたこと等によって独立国としての体裁を確保すると共に、米国に日本防衛義務を課したのだから、米国が少なくとも極東の覇権国である間は、日本の安全は(米軍に基地を提供する義務を負うだけで、)再軍備することなしに、しかも、米国防衛義務を負うことなくして、確保されることになったわけだ。

 吉田茂は、新安保条約が成立した時、もはや、日本の再軍備は不可能になった、と、天を仰いで嘆き悲しんだことだろう。(太田)

 マッカーサー駐日米大使、藤山愛一郎の3人間で協議し核持ち込みの密約をしたが記録も作られなかった。
 新条約の承認をめぐる国会審議は、安保廃棄を掲げる社会党の抵抗により紛糾。5月19日には日本社会党議員を国会会議場に入れないようにして新条約案を強行採決したが、国会外での安保闘争も次第に激化した。

⇒「強行採決の本会議には三木武夫、河野一郎、石橋湛山の各氏が欠席し・・・た」(★344)が、三木の「反逆」は、「第2次岸内閣<が>同年秋の臨時国会で警察官職務執行法の改正案を提出した。<ところ、>この法案は野党の激しい反発を招き、自民党内の反主流派も岸の強権的な手法に対する批判を強め、三木も岸に対して改正案の廃案を申し入れ<、>結局、警察官職務執行法の改正案の成立は断念されたが、12月27日、岸の政治姿勢を批判した三木、池田、灘尾弘吉の三閣僚が揃って辞表を提出した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E6%AD%A6%E5%A4%AB
のに続く二度目だった。
 理由として、「三木は強行採決について事前に知らされておらず、河野、石橋らとともに強行採決への抗議のため議場から退席し棄権した。三木は退席後の記者会見の席で、自分は条約改正に際し、極東の範囲、事前協議について審議を尽くすよう要求してきた・・1959年2月、三木は池田、河野一郎とともに、条約と密接な関係にある行政協定の大幅見直しを主張し、当初米国側の反発を受けたものの6月末に見直し交渉がまとまった<、また、>・・・三木は在日米軍の極東への出動に日本側の事前同意を義務化するよう主張し、極東の範囲についても金門島、馬祖島の除外を主張するなど、改定交渉に注文をつけた。1960年(昭和35年)5月12日に国会の質疑に立った三木・松村派の古井喜実が、新安全保障条約は防衛的なものであり仮想敵国は想定しない<、>事前協議での日本側の拒否が米国側の行動を制約する旨明記すべき<、>そして極東についての統一解釈は地域を指定しないものとする<、>という3点について岸に要求した。岸はいずれの点についても了解ないし理解すると答弁したため、三木らは日米安全保障条約改正への批判をいったん抑えることとした<、という経緯がある>・・ことと、安保条約にあくまで反対する人々は説得できないが、賛成しながらも内容に不安を持つ人も多いのに、そのような人々への説明、説得を十分に行わずして強行採決を行うことは議会制民主主義の冒涜であり許せないことを主張し<、>日米安全保障条約のような重要な案件は、民主主義の根底である国民の理解、納得を得る努力を惜しむべきではないとしたのである。なお、岸は三木が採決時に退席したことについて激しく怒り、後継候補として池田を推薦する条件として、三木と河野を党から除名することを挙げた。その後も三木と岸との間の確執は続くことになった」(上掲)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E6%AD%A6%E5%A4%AB
ところ、私は、三木は、岸のカルト性とこの岸カルトのアキレス腱にうすうすながらも最初に気づいた人物だったと思うに至っている。
 岸は、「三木が総理になってから、政治資金規正法改正案(1975年7月成立。政治活動に対する献金額の制限と政党・政治資金団体の収支公開を義務づけたもの)などというものをつくって財界もこまっているんですよ。」(★357)と回想しているのは、岸自身が、そのことを感じ取っていて、ついに、岸カルトのマネーロンダリング妨害に出て来た、と、三木を目の敵にしていたことが露呈してしまっており、語るに落ちたと言うべきか。(太田)

 当時、東大に在学し、反対運動も活発な駒場寮に在住していた田中秀征は「反対運動をしていた多くの学生たちが『岸は敵ながらあっぱれ』と言っていた」と回想している。
 警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、自民党内の「アイク歓迎実行委員会」委員長の橋本登美三郎を使者に立て暴力団組長の会合に派遣。錦政会会長稲川角二、住吉会会長磧上義光やテキヤ大連合のリーダーで関東尾津組組長・尾津喜之助ら全員が手を貸すことに合意。さらに3つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請。ひとつは岸自身が1958年(昭和33年)に組織した木村篤太郎率いる新日本協議会、右翼の連合体である全日本愛国者団体会議、戦時中の超国家主義者も入った日本郷友会(旧軍の在郷軍人の集まり)である。「博徒、暴力団、恐喝屋、テキヤ、暗黒街のリーダー達を説得し、アイゼンハワーの安全を守るため『効果的な反対勢力』を組織した。最終計画によると1万8千人の博徒、1万人のテキヤ、1万人の旧軍人と右翼宗教団体会員の動員が必要であった。彼らは政府提供のヘリコプター、軽飛行機、トラック、車両、食料、司令部や救急隊の支援を受け、さらに約8億円の『活動資金』が支給されていた」[出典無効]。ただし岸は「動員を検討していたのは消防団や青年団、代議士の地元支持者らである」と述べている。

⇒「<1959年>10月9日に政府は安保改定についての世論調査をやっていて、その結果は、賛成が15パーセント、反対が10パーセント、賛否いずれとも意見を表明しない者が25パーセントで、残りの50パーセントが安保改定はなんのことかわからないというものだ<った。>」(☆283)ところ、反対の少なさに岸はショックを受けたのではなかろうか。
 私は、だからこそ、岸は、警察力の強化を行わず、自衛隊への治安出動用の装備支給も行なわず、あえて反社勢力の烏合の衆で対処しようとしたわけであり、そのココロは、超少数の安保反対闘争を挑発し、過激化させ、状況を表見的に泥沼化させ、反岸機運、ひいては反再軍備機運を高めると共に、この世論調査で25%を占めたところの、再軍備賛成者と大幅に重なり合う層の安保改正後の再軍備機運に水を差すことだった、と見る。
 もとより、これは、米国からの再軍備要求に対する防波堤の構築にも資するわけだ。(太田)

 政府の強硬な姿勢を受けて、反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。国会周辺は連日デモ隊に包囲され、6月10日には大統領来日の準備をするために来日した特使、ジェイムズ・ハガティ新聞係秘書(ホワイトハウス報道官)の乗ったキャデラックが東京国際空港の入り口でデモ隊に包囲されて車を壊され、ヘリコプターで救出される騒ぎになった。
 岸は「デモの参加者は限られている。都内の野球場や映画館は満員だし、銀座通りも平常と変わりない」「私は『声なき声』に耳を傾ける」と沈静化を図るが(いわゆるサイレント・マジョリティ発言)、東久邇・片山・石橋の3人の元首相が岸に退陣勧告をするに及んで事態は更に深刻化し、さらにアイゼンハワーの暗殺まで噂されたことでアイゼンハワーの訪日は中止となった。

⇒「「警職法や・・・ベトナム賠償協定<や>・・・安保の国民運動では、・・・デモ<参加者に>・・・一日300円(現在–2003年–の約2000円に相当する)前後<が支払われる>動員日当性があ<り、>・・・動員予算がなくなったときは、動員自体の息切れとなり、単組から動員割当て返上ということになる。なお、国民運動の財政負担比率は、慣例的に決って<おり、>・・・社会党10、総評15、全労5、中立3、新産別1の割合で、安保国民運動では共産党は5の比率となっている」(松下圭一)」(★363~364)というのが実態であり、学生には日当は支払われなかったと想像されるけれど、この社会党に対しては、ソ連からカネが流れていたと思われる。
 だから、安保闘争もまた、社共によるやらせであり、一般国民からは浮き上がった一種のお祭りであったところ、このお祭りを、岸は(国内外、とりわけ米国への見せ金として)・・彼自身もCIAからカネをもらっていた!・・利用して岸カルトの立ち上げに漕ぎつけた、ということになろう。(太田)

 さらに6月15日には、自由民主党からの支援を受けたヤクザと右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、国会構内では警官隊とデモ隊の衝突により、学生で共産活動家の樺美智子が圧死する事故が発生。
 6月15日と6月18日には、岸から自衛隊の治安出動を打診された防衛庁長官・赤城宗徳が「自衛隊に同胞を傷つける命令は出せない」と拒否。

⇒という次第で、岸は、社会党の「協力」も得て、見事に目的を達成したわけだ。(太田)

 安保反対デモは最高潮に達し警察からの退避要請を受けるが、「ここが危ないというならどこが安全だというのか。官邸は首相の本丸だ。本丸で討ち死にするなら男子の本懐じゃないか」「俺は殺されようが動かない。覚悟はできている」と拒絶して、群衆に囲まれた総理大臣官邸に実弟の佐藤栄作と共に留まった。19日午前0時をもって条約は自然承認され、6月23日の批准書交換をもって発効した。同日、混乱の責任を取る形で岸は閣議にて辞意を表明する。」(※)

 (5)首相引退後

 「辞意表明後の1960年7月14日、後継首班に池田勇人が指名された直後、岸は暴漢に刺されて重傷を負った。犯人は戦前に右翼団体大化会に属していた荒牧退助<(注45)>で、その後は大野伴睦の院外団にいた。

 (注45)「岸首相の長女・洋子さんは「あの手口は、殺人罪に問われないで、出血多量で死に至らしめるというプロのやり方。父を恨みに思う人の差し向けた刺客だということを聞いたことがございます」と婉曲な言い回しだが、総裁選がらみの右翼の仕業だと指摘している。」
http://kajikablog.jugem.jp/?eid=338491

 岸側近の小川半次は、岸が大野への禅譲を匂わせながら池田が後継となったこと<(注46)>への憤激が動機であるとする<(注46)>。

 (注46)「<1959年6月18日の第2次岸内閣改造内閣>で池田が<通産相として>入閣することについては、池田派、特に側近はみな反対であった。半年前<警職法での混乱の責任を岸に迫って、蔵相を>辞めたのに『また入った』といわれたくなかったの<だが、>・・・『岸は”自分の後すぐ弟(佐藤栄作)にというわけにはいかないからなあ”といった』、と池田派私<(宮澤喜一)>に話していた。こういう形で岸さんにいわれたので、池田派入閣を決めたのだと思う」(★259~260)
 (注47)「岸内閣時代、岸信介首相から大野派(白政会)を主流派として内閣に協力させることの見返りに後継総裁の念書を手に入れるが、これを反古にされる。一説にはこの事について岸は「床の間に肥溜めをおけるわけがない」と言い放ったという。また渡邉恒雄によるとこの一件は昭和31年(1956年)の総裁選における意趣返しであるという。この出来事をきっかけとして、大野は終生岸を憎むこととなる。岸が首相正式辞任直前に右翼(大野を支持する院外団にいた男)に刺され負傷した際には「ざまあみやがれあの法螺吹きが」と発言したという説もある。
 大野は首相就任に強い意欲を燃やしており、1960年7月に行なわれた岸辞任後の自民党総裁選では、池田勇人に対抗し、石井光次郎とともに党人派から出馬に名乗りを上げた。しかし、大野支持で岸派の一部・十数名を束ねていた川島正次郎から「党人派が分裂すると池田に勝てないので、石井一本にまとめたほうがいい」との進言を受け、大野は泣く泣く出馬を辞退する。ところが川島は「大野を支援しようと思ったが、辞退したのでわが派は池田を支持する」と表明し、池田当選に一役買うこととなる。この時大野は「川島にだまされたんだ」と再度号泣したといわれる。・・・
 <ちなみに、彼の>墓所は池上本門寺。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E4%BC%B4%E7%9D%A6

⇒「注46」は、岸カルトにおける最初の岸家内での間歇的首相継承を実現するために、池田を手なづけたことを示している。
 なお、岸はこの時の思惑について、表向きには、「私の最後の内閣で結局河野が閣僚として入らないということで、池田君に入ってもらったわけです。しかし池田君は初めから安保条約の改定にあまり積極的ではなかったんだ。しかし彼がこの人事で入閣してくれれば、背後における吉田さんの影響力をもって池田君が安保改定に協力してくれると踏んでいた。あの人事はそういう意味において非常に成功だった。」(★265)と回想している。
 しかし、吉田は安保改定に反対なのであり(前述)、池田の反対論も吉田に従ったもの考えられることから、岸はウソをついている。
 また、「注47」は、岸がいかに約束や義理人情など屁とも思わない酷薄な人物であるかが良く分かる挿話だ。
 岸にも(、そして川島にも)コケにされた大野だが、岸カルトの政治屋家業化ビジネスモデルを忠実に模倣することを遺言したか、本人⇒息子の大野明⇒その妻の大野つやこ⇒その両者の次男の大野泰正(但し参院議員)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E6%98%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E6%B3%B0%E6%AD%A3
という家業承継に成功している。
 なお、岸襲撃は、大野伴睦が直接は関わっていないと見る。
 また、岸洋子の言は行き過ぎであり、荒巻に殺意がなかったのも事実だろう。(太田)

 荒牧は、樺美智子とその父親樺俊雄への同情が動機であり、美智子の死亡後に俊雄と面会したことがあったという。しかし、「岸に反省をうながす意味でやった」と供述して岸への殺意や大野との背後関係は否定している。荒牧には懲役3年の実刑が2年後、5月24日に確定した。
 翌7月15日、岸内閣は総辞職した。岸は「私のやったことは歴史が判断してくれる」「安保改定が国民にきちんと理解されるには50年はかかるだろう」という言葉を残している。

⇒岸は私のような人物がいずれは出現するであろうことを予期していたのではなかろうか。
 但し、私・・小学6年生の時に安保闘争を目撃し、(今にして思えば岸としては恐らく気が気ではなかったところの)デモ隊の楽し気な様子に引いてしまった記憶がある(コラム#省略)・・をしても、「きちんと理解」するのに、実に62年もかかってしまった。
 デモに参加した学生等は、物の見事に岸に利用されてしまったわけだ。(太田)

 政財界に幅広い人脈を持ち、後継者の福田赳夫と田中角栄による自民党内の主導権争い(角福戦争)が勃発した際も、福田の後見人として存在感を示した。また、御殿場の別邸で悠々自適の生活を送る一方、保守論壇の大立者として、「自主憲法制定国民会議」を立ち上げる(1969年、現「新しい憲法をつくる国民会議」)など自主憲法論に関し積極的な発言を続けた。

⇒壮大な対「右」及び対米見せ金活動を岸は続けたということ。(太田)

 1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙で長女洋子の娘婿であり後年岸派を福田赳夫から継承する安倍晋太郎が山口1区(当時)で落選。地元山口県での影響力低下が取りざたされる。岸は同選挙区選出の自民党議員・周東英雄<(注48)>の後援会長を務めていた藤本万次郎<(注49)>・・公職追放後、岸は一時行方不明との報道がされた<が、>その間、藤本万次郎の出身地である、祝島の藤本家で体力と英気を養い、この際に藤本との盟友関係は更に深くなった。・・の自宅を現職総理大臣である佐藤栄作と二人で訪れ、安倍後援会会長への就任を要請する。藤本を後援会長として迎えた安倍は1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙で復活を果たし、岸の影響力も復した。

 (注48)すとうひでお(1898~1981年)。三高、東大法、農商務省入省。「農林省米穀局長、農務局長、総務局長の要職を務める。その後企画院第四部長、商工省物価局長官を経て、1942年、帝国油糧統制会社初代社長となる。戦後の1946年、第1次吉田内閣にて内閣副書記官長に就任し、書記官長林譲治のお株を奪う八面六臂の活躍ぶりを見せ、吉田茂に引き立てられた。1947年、前年の総選挙に出馬予定だった安倍寛(1946年死去)の後継役として出馬し当選しながら公職追放された木村義雄の後継役として、第23回衆議院議員総選挙に自由党から旧山口1区にて立候補し当選する。・・・
 以後当選を重ね、通算9回。吉田政権下で重用され、1948年、第2次吉田内閣で農林大臣、1950年、第3次吉田内閣第1次改造内閣で国務大臣(経済安定本部総務長官、賠償庁長官)として入閣する。
 保守合同後は宏池会に所属し、1960年、浅沼稲次郎暗殺事件のため引責辞任した山崎巌の後任として自治大臣となり、続く第2次池田内閣では2度目の農林大臣に就任する。この他自民党政調会長も務めた。1969年、政界を引退(地盤は林義郎が引き継いだ)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%9D%B1%E8%8B%B1%E9%9B%84
 (注49)1898~1984年。「有力政治家の後援会長を歴任しているが、献金を殆んどしていない。公職にはついているものの、利益配分に関与するような職は全て辞退し、また、何度も参議院議員への立候補を要請されており、市長候補にも推された経歴を持つが、これにも応えていない。委託された委員や公職の日当や報酬は、すべて社会福祉活動に寄付している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9C%AC%E4%B8%87%E6%AC%A1%E9%83%8E

⇒藤本は、聖人のような人物であり、彼が岸カルトの存続に結果として尽力してしまったことは、彼が人生で犯した唯一の、しかし、客観的には取り返しの利かない巨大な過失だった。(太田)

 岸は首相退陣後も政界に強い影響力を保持し、日韓国交回復にも強く関与した。時の韓国大統領朴正煕もまた満州国軍将校として満州国と関わりを持ったことがあり、岸は椎名悦三郎・瀬島龍三・笹川良一・児玉誉士夫ら満州人脈を形成し、日韓国交回復後には日韓協力委員会を組織した。
 1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙では、側近の1人今松治郎の秘書だった森喜朗が自民党の公認得られず無所属新人として旧石川1区で出馬する際、岸の秘書中村長芳に岸の応援を懇願してきた森の要望を快諾し、岸の応援で陣営に勢いがつき初当選を果たした。
といった活動が見受けられる。
 なお、佐藤政権が憲法改正などの問題に取り組まないことに苛立ち、首相再登板を模索したこともあったとされる。しかしそのために具体的な行動を起こした形跡はなく、後継者たる福田赳夫の首相就任を悲願としていた。1972年(昭和47年)の自民党総裁選挙で福田が田中角栄に完敗したときは、気の毒なほどに落胆していたという。
 1974年(昭和49年)にはシンクタンクである協和協会を設立。また、1976年(昭和51年)10月には“民主主義・自由主義体制を尊重しつつ、政党・派閥を超えて、国家的課題を検討・推進する”政治団体「時代を刷新する会」を設立している。
 1979年(昭和54年)10月7日の衆議院解散を機に、岸は地盤を吹田愰に譲り、政界を引退した。
 1987年(昭和62年)8月7日、岸は入院先の東京医大病院で死去。享年92(満90歳没)。墓は山口県田布施町および静岡県駿東郡小山町の冨士霊園にある。・・・
 岸は細い顔に出っ歯の顔立ちで、縁戚の松岡洋右から「へちまに歯が生えた顔」と言われたこともあり、「それでですよ」や「ナンだな」が口癖であった。満州時代には料亭で酒や芸者遊びにも通じ、軍部やアヘン業者とも付き合える豪胆さがあったという。明るい感じがして人付き合いの良い岸であるが、怖さを感じた人物もいたという。
 三島由紀夫は、『一つの政治的意見』と題する評論の中で、自らが安保闘争の部外者と認めた上で、「自分の政治的信条を素朴に信じることのできない性格」をもって「小さな小さなニヒリスト」と岸を評した。しかしながら、安保闘争の混乱の責任は岸のような政治家を選んだ国民にあるとも指摘する。そして「大きなニヒリスト」たるヒトラーのような政治家が現れる危険についても述べる。

⇒この三島の岸評はかなりイイ線をいっている。(太田)

 中曽根康弘は岸を「直入正直型の長州人」と評し、岸の実弟である佐藤栄作とともに宰相学を身に付けていた総理経験者と評価していた。また、福家俊一<(注50)>は「岸は高杉晋作に知性を足した人物」と評している。・・・

 (注50)ふけとしいち(1912~1987年)。「早稲田大学専門部中退。少年時代に東京憲兵隊本部で甘粕正彦の給仕を務めたことを機に、満州に渡って満州国の機関紙「斯民」の記者となる。満州人脈のメンバーとなり、岸信介と深い仲を築く。軍部と外務省興亜院の肝いりによって上海に国策新聞「大陸新報」が創設され、1937年その社長に25歳の若さで就任。白根松介男爵や美濃部達吉の嘆願を受け、同社では美濃部亮吉(達吉の長男で、後の東京都知事)や向坂逸郎、高橋正雄など人民戦線事件で検挙された左派知識人たちを積極的に雇い入れた。
 「大陸新報」は本土とは違った自由な雰囲気を持っており、日本の知識人や文学者が多く執筆した。朝日新聞上海特派員であった須田禎一も、変名で「大陸新報」に執筆していた。・・・
 「大陸新報」で生まれた人脈は、国政では対立する立場であった保守政治家と革新政治家が、裏で繋がっているという状況を作った。・・・
 1942年の第21回衆議院議員総選挙に、旧東京1区から立候補し初当選。当時最年少国会議員であった。・・・
 戦後は公職追放となる。・・・日本再建連盟の結成にあたっては、河上丈太郎や三輪寿壮といった右派社会党の面々に接触し、参加を打診した。
 1958年の総選挙で政界復帰し、以後当選5回(1958年、1960年、1967年、1979年、1983年)。成田知巳、木村武千代、藤本孝雄と有力候補がひしめく選挙区であったため、落選も多かった。自民党公認候補として6回の落選は、史上最多記録である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%AE%B6%E4%BF%8A%E4%B8%80 

⇒中曽根康弘論は他日を期したいが、私の取敢えずの中曽根評は、岸信介のエピゴーネンであり、ミニ岸カルトの創始者だった、というものだ。
 そんな中曽根からすれば、自分の「師範」であるところの、岸や佐藤を褒めるのは当たり前だ。
 福家俊一に関しては、岸も高杉も知性も、全て分かっていなかった、と言わざるを得ない。(太田)

 岸は3度死を覚悟をしたことがあると語っている[要出典]。1度目は東条内閣時代に閣僚として東条首相と対立して閣僚辞表提出を拒否した時、2度目はA級戦犯被疑で捕まった時、3度目は安保改定の際に首相官邸でデモに取り囲まれた時の3度である。
 戦時中の1945年(昭和20年)、座骨神経痛を病み、郷里山口で保養中だった。ところが同年鈴木貫太郎内閣で内務大臣になった同郷の安倍源基から「非常時だから何かやってくれ」「新設された(全国8ヵ所に置かれた)地方総監府の長官を引き受けてくれ」と言われた。岸は「分かった。しかし場所は山口から近い広島にして欲しい」と答えると「広島は昨夜内務省の先輩の大塚惟精を決めたばかりなので、他はどこでもいいけれど広島は困る」と言われ、この話は流れた。大塚はこの数ヶ月後広島市への原子爆弾投下で被爆死した。
 被爆を免れたことや東京裁判で不起訴となったことについて運が良いと言われた際、岸は「悪運が強くないと政治家はダメ、運が7割」「悪運は強いほどいい」と語っている。
 岸は安全保障論議で吉田茂とは鋭く対立したが、親戚関係にあり、安保改定に当たっては同条約締結時に首相の任にあった吉田に敬意を表した。神奈川県大磯町の別荘に隠棲していた吉田の許にたびたび足を運び、吉田もその都度丁重な礼状をしたため、家人をもって岸邸に届けさせたという。また、皇學館大学では吉田の後任の総長を務めている。
 総理大臣として岸が渡米した際には、大統領のドワイト・D・アイゼンハワーとゴルフを楽しんだ。直後の取材でアイゼンハワーが「大統領や総理大臣になると、嫌な奴と思っていても笑いながらテーブルを挟まなければならないことがある。しかし、ゴルフだけは好きな相手とでなければできないものだよ」と語ったり、大使館まで岸を自分の車で送るなど、岸との関係は非常に良好であった。また、2010年(平成22年)6月23日に日本郵便が発行する「日米安全保障条約改定50周年」記念切手の一種に署名式の岸とアイゼンハワーの姿が描かれている。
 岸は中国国民党の蔣介石総統とは勝共連合の設立(1954年)を通じて親密であり、1957年(昭和32年)首相就任3ヵ月後には台湾を訪問、蔣介石と会談し日華協力委員会を作った。また日本で活動する反蔣介石・台湾独立運動家の強制送還も、胸三寸で決められるほどの影響力を行使した。その蔣介石死後も岸は「蔣介石総統遺徳顕彰会」の中心として日本各地に蔣介石を讃える石碑を建立する活動を行った。古沢襄は、岸の名刺を示すだけで蔣介石や息子の蔣経国に面会できたと語っている。親台派(親華派)の重鎮だったために中華人民共和国の鄧小平から特使の矢次一夫を通じて中台の仲介役を要請されたこともあった。・・・

⇒蒋介石は岸のことが全く分かっていなかったとしか思えない。
 これほど人を見る目がない人物が、支那で、長期にわたって権勢を誇ることができたことが不思議だ。(太田)

 岡潔<(注51)>の哲学に賛同し福田赳夫と共に葦牙会<(注52)>に所属した。

 (注51)1901~1978年。「<京大理学部卒の>数学者。理学博士(京都帝国大学、・論文博士・1940年)。奈良女子大学名誉教授。・・・
 人智の進歩の中で一つのキーワードとなるのが仏教用語でいう「我」で、氏を表す悪習により日本民族は自他弁別本能に取り憑かれ「小我」になってしまったという。
 これに対し日本民族の「準中核」に当たるのが「武士道」や「大和魂」に相当する人物で、こうした人物は小我から脱しつつあるため、旧制中学などを利用してこのような人材をまず日本は育てなさいと提言している。
 それより上の次元に進むと、日本民族の「中核」である「真我」や「大我」に繋がり、この次元にまで達すると決して自他対立せず衆善奉行できるという。・・・
 生涯を日本に捧げた昭和天皇は典型例であろうと語っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%BD%94
 (注52)岡の著書、『日本民族の危機 : 葦牙よ萌えあがれ!』に由来する会か。
 この著書は、「今日の国の乱れ、政治、経済、社会のどれをとっても実にひどい。原因は戦後教育の間違いにあった。このままでは国が滅びるぞ、という神々の啓示である。いまこそ、本来の日本にかえろう。日本を救う「情の哲学」。」を説いたもの。
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784817407276

⇒岡の言う、「小我」=非人間主義、「準中核」=縄文的弥生性、「中核」=縄文性、と、捉えられそうだが、福田赳夫や岸信介は、岡の言う「情」=「中核」=縄文性、への回帰、に共感したのではなかろうか。
 ここからも、彼らが日本の、縄文的弥生性の回復/再軍備、など志向していなかったことが透けて見えてくる。
 で、彼らはそんな自分達に対して忸怩たる思いを抱いていたところ、岡にそれでいいのだよ、昭和天皇の御心を体しているのだよ、と慰められた思いがしたのではなかろうか。(太田)

 岸は三木武夫について「世の中で一番嫌いな奴」「陰険だよ」と語っており、自身が病床の折には「三木の見舞いだけは追い返せ」とまで言っていた。しかし、護国同志会の後身である国民協同党の影響による腐れ縁の存在や、三角代理戦争の影響による福田派と三木派の接近もあり、1986年(昭和61年)に三木が入院した際には岸は見舞いに訪れており、励ましの言葉をかけている。

⇒不思議なことに国民協同党のウィキペディアには出てこないのだが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%8D%94%E5%90%8C%E5%85%9A
岸が中心となって戦争末期に結成した護国同志会のウィキペディアには、確かに、「戦後、護国同志会の会員が中心となり日本協同党が結成された。」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E5%90%8C%E5%BF%97%E4%BC%9A
 ちなみに、三木は護国同志会のメンバーではなかった。(上掲)
 いずれにせよ、そういったことよりは、岸としては、ダーティな自分の弱点を責め立ててくる三木を敵ながらあっぱれだと思っていたことから、見舞いに行ったのではなかろうか。(太田)

 国際勝共連合を通じて統一教会教祖文鮮明との交遊は晩年まで続いた。1974年(昭和49年)5月7日、東京の帝国ホテルで開催された文鮮明の講演会「希望の日晩餐会」では、岸が名誉実行委員長となっている。1984年(昭和59年)に関連団体「世界言論人会議」開催の議長を務めた際、米国で脱税被疑により投獄されていた教祖文鮮明の釈放を求める意見書をレーガン大統領(当時)に連名で送った。東京都渋谷区南平台(地区は松涛)の岸邸隣に世界基督教統一神霊協会(統一教会)があり、岸も、統一教会本部やその関連団体「国際勝共連合」本部に足を運んだ。

⇒既に説明したことからお分かりのように、統一教会と岸カルトは、互いに双方の恥部を握り合った切るに切れないずぶずぶの関係に陥ってしまっていた、ということだろう。(太田)

 公開されたCIA文書では、辻正信が石橋湛山を支持しており、彼が自民党の会合で「石橋内閣が岸内閣にとってかえられたことは残念だ」という旨の発言をしていることから、岸は辻を高く評価しておらず、辻の意見や報告が政策に反映される可能性は低いだろうと報告されている。

⇒CIAは、こういったどうでもいい話が載っている岸がらみの文書しか公開していない、ということだろう。(太田)

 岸が巣鴨プリズンへ留置される前に、天照皇大神宮教の教祖・北村サヨ<(注53)>は「心配せんでもええ。岸はいずれ首相になる。」と予言していったという。その後も岸を訪れており、北村の葬儀には岸も駆けつけている。

 (注53)1900~1967年。「「踊る宗教」こと天照皇大神宮教の教祖。・・・太平洋戦争のことを本当の戦争とは認めず、神の国建国のための戦争はこれから始まるとしていた。・・・サヨは「宗教で生活するな」「わしが金を持ってこいと言ったら離れろ」 と戒めていたといい、天照皇大神宮教も教えを伝える職業宗教家、即ち教団活動を生業(なりわい)とすることを禁止している。サヨも普段は北村家の田畑で野良仕事を行い、農婦として生活していたという。長男の義人([若神様]、宗教法人天照皇大神宮教の元代表役員)も山口県ふるさとづくり県民会議会長、山口県公安委員会委員、同委員長など公職を歴任していた。・・・
 自民党参議院議員の北村経夫は孫。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%91%E3%82%B5%E3%83%A8
 「天照皇大神宮教の神とは、仏教でいう本仏やキリスト教でいう天なる神と同じ、宇宙絶対神であるとしている。・・・天照皇大神宮教の特徴の一つは、他の宗教団体と一切連携しない点である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E7%9A%87%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E6%95%99

⇒晩年の写経の挿話からも分かるように、岸は、罪の意識を抱き続けたところの、結構、迷信深い人間なので、北村サヨは、同郷の誼もあり、大切にしたのだろうが、その関係を孫の安倍晋三も引きずっていて、サヨの孫の経夫の世話にこれ努め、統一教会票を割り当てていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%91%E7%B5%8C%E5%A4%AB
のだから、彼、まことにもって教祖たる祖父に律儀なことだ。(太田)

 創価学会第2代会長である戸田城聖とは個人的な付き合いがあり、1958年3月16日に大石寺大講堂で行われた広宣流布の記念式典に出席することになっていた。しかし、直前になって横やりが入ったため出席を断念。代理として、安倍晋太郎・洋子夫妻、南条徳男・前建設大臣を出席させた。
 岸は首相在任中ノーベル平和賞候補に推され、有賀長雄、渋沢栄一、賀川豊彦に続いて4人目のノーベル平和賞日本人候補者となった(母親が日本人のクーデンホーフ=カレルギー伯爵は除く)。岸を推したのは<米>上院議員スペサード・L・ホランド(Spessard Lindsey Holland)。理由は「世界平和の唱道者、使徒」。「堅実に世界中で軍縮と平和を強く唱道し」、「核兵器禁止の実現のために弾みをつけようと努力した」というものである。
 ホランドは、ノーベル平和賞推薦締め切り日の2月1日を過ぎた1959年2月13日付けで推薦状を提出し、1959年の選考への追加希望を書き添え、ノーベル委員会は3月5日に受理した。この推薦は、翌年扱いになっている。
 1960年の選考においてノーベル委員会委員は31候補中、8候補に関して報告書を作成し、岸の報告書は作成されなかった。選考は翌年に持ち越され、1960年分の受賞者は、8候補に含まれていない黒人解放運動家アルバート・ルツーリに決定した。
 また、岸はその後ノーベル平和賞推薦人も務めており、1961年には神学者フランク・ブッシュマンを推薦している。
 プロ野球では巨人ファンであり、球場で観戦したこともある。
 1957年3月30日、セントラル・リーグ開幕戦の一つである巨人対国鉄戦では始球式をおこなっている。現職の内閣総理大臣でプロ野球公式戦の始球式をおこなったのは2021年現在岸のみである。
 1969年、大映社長の永田雅一から当時経営難に陥っていたプロ野球球団・東京オリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)の支援を要請され、岸は親交があったロッテ社長の重光武雄に依頼。ロッテはオリオンズ球団と業務提携を結び、球団名を「ロッテオリオンズ」に改称。ロッテの球界参入への後押しに貢献した。」

⇒重光武雄は在日朝鮮人であり、案外、この話も統一教会が関与していたのかもしれない。
 この後のことになるが、 岸は、「自叙伝とか、メモアールというようなものを読んでみますとね、・・・自分の通って来た道、自分のしたことを、回想してみるとね、自分に都合の悪いことは、忘れちまうんですよね(笑)。」(*36)と述べているところ、それでも、というか、だからこそ、岸による回想は「自分に都合の悪いこと」を突き止める手がかりを与えてくれる。
 1980年のインタビューで、岸は、「私は・・・次官で大臣と喧嘩をした。それから、東条内閣で大臣として総理と喧嘩をしたし、第三番目は、代議士になってね、吉田(茂)さんと喧嘩をして、吉田さんを辞めさして、谷戸山(一郎)さんをもってきたんですよ。それ、日本民主党を作り、今の自民党を作った。しかし、そのいずれも、私心とか、あるいは私事で、喧嘩したわけじゃありませんから。」(*133)と回想している。(A)
 同じインタビューで、岸はまた、「私は今から2年前に・・・高野山<の>・・・弘法大師様の1150年の御遠忌・・・の報賛会の会長にさせられたんです。・・・それを機会に、ひとつ1150年だから、1150部・・・般若心経<の>・・・写経をして、高野山に納める心願を立てたわけですよ。・・・おととし(昭和)53年あたりは、家内もわりあい元気だったから、一緒にしましてね。私は「世界平和」のため、家内は「子孫繁栄」のためを願って書きました。・・・1部書くのに、1時間20分かかるんですよ。」(*26~28)とも回想している。(B)
 同じインタビューで、岸は更に、「今の日本憲法はですよ。アメリカが日本に押しつけた憲法であって、その内容は、日本に不適当な条項がたくさんある。一つの問題として、靖国神社<を>国家護持・・・する法律を作れば、政府は特殊の宗教団体に対して保護できないという、憲法の規定がある。・・・それから・・・今の自衛隊は、憲法違反ですよ。・・・<しかし、>都合の悪いところは、憲法違反でも、仕方がないから、政府の解釈として押し通すようなことになりますと・・・憲法そのものの権威がなくなる。やっぱり、憲法を改正し・・・なきゃいかん。・・・私は総理になる前から・・・憲法改正をやるつもりだったんですよ。」(*154~156)とも回想している。(C)
 上掲のAとBとCから読み取れる岸に「都合の悪いこと」は、Aについては、岸が直属の上司と喧嘩したのは、常に「私心とか、あるいは私事」としてであったことであり、Bについては、岸が晩年にこんな「苦行」を妻まで巻き込んで行ったのは、「子孫繁栄」なるほぼ額面通りの岸カルト承継者達の繫栄の祈願、と、政治的詐欺集団以外の何物でもないところの、岸カルト、の創始者として罪悪感に駆られ続けている「自分の心の平和」回復を「世界平和」へと歪曲的言い換えをしたところの祈願、という切実なものだったことであり、Cについては、(靖国問題には立ち入らないことにするが、)岸が自衛隊が憲法違反である、・・政府の公式の立場で言えば、日本が軍隊を保持できない、という「日本に不適当な条項」である憲法第9条については、政府解釈を変更して軍隊を保持できるようにすべきではなく、あくまでも憲法改正、換言すれば、岸自身がその抵抗勢力として養成し続けるところの、自民党内の「左」、及び、社会党等の野党、並びに、世論、(更には後に岸カルト後継者達が与党に取り込んだ公明党、)によって永遠に実現することのない方法、で対処すべきだということだ。(太田)

5 エピローグ

 岸カルトの雑商品だが、私が、今回、取敢えず気が付き、ご紹介したもののほかにも、拉致問題等、数多くありそうだ。
 日本の「右」である同カルトが、日本の「左」の意識的・無意識的な全面的協力を得ながら、もたらしたところの、素晴らしい新世界である、脳死国家日本・・プロト日本文明社会・・、をぬるーく享受しながら、ぜひぜひ、皆さん、これもそうかも、というものを探し出してご披露していただければ幸いだ。

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太田述正コラム#13030(2022.10.1)
<2022.10.1オフ会次第>

→非公開