太田述正コラム#12864(2022.7.10)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その28)>(2022.10.2公開)

 「・・・ところで、三条の首相兼任の最期の日、1889年12月24日に内閣官制の改正が明治天皇に上奏され、承認された。
 これは内閣制度ができた時に制定された内閣職権では、首相が各大臣を「統督」し、法律・勅令一切の文書に主任(担当)大臣と共に副署(天皇のサインの左にサインすること)するとなっていた。
 それではあまりにも首相の権力が強すぎると見られたからである。
 この結果、首相は各大臣の「首班」であるが、内閣職権のような強い権限を法令上持たなくなった。
 たとえば、各省専任の事務については主任各省大臣の副署で良いとされ、首相が副署を拒否すると脅すことで各省に影響力を振るうことはできなっくなった。<(注39)>

 (注39)「1885年(明治18年)12月22日に、「太政官達第六十九号」が発せられ、「太政官制」「太政大臣」に代わって「内閣」と「内閣総理大臣」が設置され、ここに内閣制度が始まった。「内閣」の組織には宮内大臣は含まれないことが明記され、「宮中(宮廷)」と「府中(政府)」の別が明定され、行政責任を各省大臣が個別に負う体制の基礎が生まれた。このとき同時に制定された内閣職権においては、「内閣総理大臣」には「各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承テ大政ノ方向ヲ指示シ行政各部ヲ統督ス」(二條)と、最初は強力な権限を与えられていた。
 1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が発布されるが、同法においては「内閣」や「内閣総理大臣」について直接の規定は明記されず、同第55条において「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」と明記されたのみであった。また、同時に「内閣職権」を改正する形で制定された「内閣官制」において「内閣総理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス」(2条)と、その権限は弱められた。
 権限としては、「内閣総理大臣」は「同輩中の首席大臣」として天皇を輔弼する存在とされ、「内閣」は各大臣の協議と意思統一のための組織体と位置づけられた。内閣総理大臣は各部総督権を有して大政の方向を指示するために機務奏請権(天皇に裁可を求める奏請権と天皇の裁可を宣下する権限)と国務大臣の奏薦権(天皇に任命を奏請する権限)を有したものの、いったん閣内に意見の不一致が起こると、内閣総理大臣は各大臣の罷免権がなく大臣を罷免することはできず、説得や辞任を促すことくらいで、これが失敗すれば内閣総辞職するしかなかったのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3

 特に「軍機・軍令」に関わることを奏上した場合には、天皇が特に内閣におろすことを命じたもの以外は、陸海軍大臣が首相に報告することになった・・・。
 このような改正が行われたのは、条約改正をめぐって、首相として強い権限を持つ黒田が大隈外相を支援して、他の閣員の意見を聞かなかったために、大きな混乱が生じたからであろう。
 この改正は、明治憲法の精神との矛盾をなくすためのものでもあった。
 次に首相となる山県内相と大山陸相の陸軍主流コンビは、これまでも陸相による陸軍統制と陸軍の政府からの自立をめざしてきた。
 二人は今回の内閣官制の改正を推進したと思われる。
 また伊藤や井上は、条約改正による混乱に注意を奪われて、この官制改正の影響による軍の自立の意味を深刻にとらえなかったようである。・・・
 <ちなみに、>条約改正の混乱が大きくなる前ですら、1889年6月14日、井上農商相は内閣職権を廃止し、首相は内閣の議長程度の地位であるという内閣制度を作るように提案している・・・。

⇒「井上馨<(注40)は、>・・・伊藤博文、山県有朋<(1838~1922年)>とともに明治の三元老の一人として政界に君臨した」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E9%A6%A8-15456
ともされる人物ですが、「<1863>年のイギリス旅行の途中に停泊した上海で、外国艦隊を目にして攘夷を捨てて開国論に転向したり(伊藤に話したが相手にされなかった)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E9%A6%A8
という、恐るべき勘の良さを持っていたことから、(ついに、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者にはならなかったというか、なれなかったけれど、)大久保が次の事実上の最高権力者の地位を山縣に譲るつもりであったことに気付いており、また、山縣の偉大さも見抜いていたことから、大久保の死後は、一貫して、山縣の考えを忖度して自分の言動を律した、と、私は見ています。(太田)

(注40)1836~1915年。「実業界の発展にも力を尽くし、紡績業・鉄道事業などを興して殖産興業に努めた。日本郵船・藤田組、小野田セメント、筑豊御三家、特に三井財閥においては最高顧問になるほど密接な関係をもった。これを快く思わなかった西郷隆盛は、岩倉使節団出発前夜の明治4年11月11日、送別会の席で井上のことを「三井の番頭さん」と皮肉っている<。>・・・
 外相時代の明治18年と翌19年(1886年)<の>キリスト教推進、外山正一創立のローマ字会加入<等>・・・欧化主義と非難されたが、条約改正に取り組む井上としては近代化した日本を列強に見せる狙いがあり、合理的な姿勢、新しいものに対する理解の速さから取得の必要性を感じたため、一直線に欧米文化流入に尽力した経過であ<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E9%A6%A8

 それは、陸軍は山県・大山・海軍は西郷従道という、それぞれの長老を通してコントロールすれば良いし、陸・海相の人事にもこれまで通り関与できる、と考えたからであろう。」(245~246)

⇒そうではなく、常に物事は山縣を中心に動いていったと見なければならないのです。
 通常、人は、自分が座る予定のポストの権限がより強いものになればよいと思うものだけれど、山縣は、そのポストの権限を小さくした上で首相に就任したわけであり、かねてから首相の権限が大き過ぎて、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス完遂戦争実行時の首相の権限としては過剰であると考えていたので、この機会を捉えてその権限縮小を試み、それに成功した、というわけです。(太田)

(続く)