太田述正コラム#12870(2022.7.13)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その31)>(2022.10.5公開)

 「第一議会後に山県は首相を辞任することを決意した。
 首相になってから1年3ヵ月に過ぎないが、最初の議会を無事終了するなど、やるべき事をやったというのが実感だった。
 山県首相や明治天皇は、伊藤博文が後継首相になることを期待したが、伊藤は受けなかった。
 伊藤は井上馨とともに大隈条約改正案を批判して黒田内閣を倒したので、薩摩系からの反発を考慮し、次期は薩摩系にやらせようと思ったのだろう。
 そこで1891年(明治24)5月6日、薩摩出身の松方正義を首相とする第一次松方内閣が成立した。

⇒山縣が、伊藤とつるむ天皇の意向に逆らって、首相の後継に松方を据えた、ということでしょうね。(太田)

 組閣後まもない5月11日、・・・大津・・・事件があり、西郷従道内相らが辞任した<(注43)>ので、この内閣は6月にようやく陣容を整えた。・・・

 (注43)「大津事件に際しては犯人の津田三蔵の死刑を強硬に主張し、大審院長の児島惟謙を恫喝するなど大変な圧力をかけた。これは津田を死刑にしなかった場合必ずロシア帝国による日本本土攻撃を招き、その結果日本の敗北・滅亡となる事を危惧した西郷の強い憂国ゆえの勇み足であったといわれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E5%BE%93%E9%81%93

⇒従道は、兄隆盛の七光りで元勲に押し上げられただけの人物、ということでしょう。(太田)

 第二議会は1891年(明治24)11月21日に召集された。
 松方内閣は民党と正面から対決する覚悟で、政治参加の拡大や経費節減などで民党に対する妥協はせず、前議会での予算削減の結果、歳計上余っていた650万円の大部分を軍事費に充てる予算を議会に提出する。・・・
 12月25日、衆議院が予算を大幅に削減すると、松方内閣は直ちに議会を解散した。・・・
 品川<(注44)>内相は1892年2月15日の総選挙に向けて流血の事態を覚悟し、厳しい選挙干渉を行い、死者25名、負傷者388名を出すに至った。

 (注44)品川弥二郎(1843~1900年)。「長州藩の足軽・・・の長男として生まれた。・・・1858年・・・、松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受けるが、・・・1859年・・・に安政の大獄で松陰が刑死すると、高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、英国公使館焼き討ちなどを実行している。・・・1864年・・・の禁門の変では八幡隊長として参戦し、のちに太田市之進、山田顕義らと御楯隊を組織した。・・・1865年・・・、木戸孝允と共に上京して情報収集と連絡係として薩長同盟の成立に尽力した。戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍する。
 明治維新後の明治3年(1870年)、渡欧して普仏戦争を視察するなどドイツやイギリスに6年間留学する。内務大書記官や内務少輔、農商務大輔、駐独公使、宮内省御料局長、枢密顧問官などを歴任する。明治17年(1884年)、維新の功により子爵を授けられる。
 明治24年(1891年)に第1次松方内閣の内務大臣に就任するが、明治25年(1892年)の第2回衆議院議員総選挙において次官の白根専一とともに警察を動員して強力な選挙干渉を行なって死者25人を出してしまった経緯を非難され、引責辞職を余儀なくされた(ただし、実際の経緯については諸説存在する)。その後は西郷従道と協力して政治団体・国民協会を組織する。
 民間にあっては、獨逸学協会学校(現在の獨協大学)や旧制京華中学校(現在の京華学園)を創立し、また信用組合や産業組合の設立にも貢献している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%81%E5%B7%9D%E5%BC%A5%E4%BA%8C%E9%83%8E
 白根専一(1850~1898年)。「長州藩士・白根多助(のちの埼玉県令)の次男に生まれる。長州藩校・明倫館に学び、次いで上京し、明治1年(1868年)慶應義塾に入学。1872年(明治5年)司法省に出仕、以後内務省及び大蔵省に勤務。1888年2月から愛媛県知事。1888年12月から愛知県知事。1890年5月、第1次山縣内閣の内閣改造時に西郷従道内務大臣のもとで内務次官となった。・・・元老山縣有朋ともつながりが深く、山県系と見なされる。・・・職務に精通し、内務次官時代には実質的には内務大臣をしのぐ影響力を省内に及ぼしていた。・・・
 1891年~1892年の第1次松方内閣では、内務大臣品川弥二郎の下で、引き続き内務次官を務めた。1892年の第2回衆議院議員総選挙において、品川と白根は、つながりの深い「古参地方官」(地方の有力知事)や警察を動かして大規模な選挙干渉を行い、民党側を圧迫。後日、品川は選挙干渉の責任を追及され、これに関する松方内閣の対応に辟易して辞任。白根は後任の内務大臣副島種臣が選挙干渉の責任者の処分を断行しようとしたことに反発して、これを辞任に追い込むが、松方は最終的に白根を罷免し、動揺した第1次松方内閣は閣内意見の対立から8月に崩壊した。
 1892年10月から、宮内省内蔵頭。明治28年(1895年)10月、第2次伊藤内閣の改造時に、逓信大臣となった(1895年10月9日~1896年9月26日)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%A0%B9%E5%B0%82%E4%B8%80
 
 これは山県の意向の反映といえ<る。>・・・

⇒まさに、山縣の指示の下、白根・・慶應義塾での教育と山縣の薫陶により、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者になっていた・・が、上司の品川を巻き込んで選挙干渉を断行したのでしょう。
 山縣は、既に日清戦争を予期しており、軍拡をとにかくやりたかったということです。(太田)

 選挙が終わると、伊藤博文は品川内相の選挙干渉を支持する勢力に対し、公然と反発を示した。
 23日、松方首相と伊藤・山県・井上馨・大山巌・黒田清隆・西郷従道ら薩長の最有力者である「元勲」が集まって会議が開かれたが、西郷の他には伊藤への支持はなかった。
 そこで同日、伊藤は病気と称して枢密院議長の辞表を提出した。」(259~261)

⇒当時の事実上の最高権力者が山縣であったのに対し、伊藤がいかに孤立していたか、が分かります。
 西郷だけが伊藤の肩を持ったのは、西郷は、当時無官ながら、海軍の事実上のトップであるところ、そんな彼を、事実上の最高権力者で陸軍を掌握していた山縣が、まともに相手にせず、ホンネの話をしてくれないことに拗ねていた、ということだったのではないかと私は想像しています。(太田)

(続く)