太田述正コラム#12868(2022.7.12)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その30)>(2022.10.4公開)

 「・・・首相として第一回総選挙<(注42)>と第一議会<(注43)>を乗り切り、教育勅語の公布にまで成功したことで、山県は伊藤に次ぐ藩閥第二の実力者としての地位を確立した。

 (注42)「1889年(明治22年)2月11日に公布された大日本帝国憲法及び衆議院議員選挙法に基づいて、・・・1890年(明治23年)7月1日に・・・日本で初めて行われた民選選挙である。・・・
改選数 300
 1人区:214
 2人区:43
選挙制度 小選挙区制(一部2人区制)
投票方法 記名投票(選挙人は氏名と住所の記載、および、印鑑による押印が必要)、単記投票(2人区は連記投票)、1票制
実施地域 45府県(北海道、沖縄県、小笠原諸島を除く)
選挙権 直接国税15円以上納税の満25歳以上の日本国民男性
 下記の者は権利の適用除外とされた。
  華族・軍人の当主
被選挙権 直接国税15円以上納税の満30歳以上の日本国民男性
 下記の者は権利の適用除外とされた。
  皇族・華族の当主
  軍人、裁判官、検査官、収税官、警察官、道府県郡役人、各選挙区の選挙管理担当役人、神官、僧侶、教師
  精神障害者、身代限(破産者)、禁錮刑・賭博犯で満期または赦免後3年以内の者、選挙犯罪をし、公民権が停止されている者、刑事事件で逮捕・拘留された者
有権者数 450,872(全人口39,933,478人の約1.13%)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E5%9B%9E%E8%A1%86%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B7%8F%E9%81%B8%E6%8C%99
 (注43)「日本最初の議会は,1890年11月25日に召集され,29日貴族院で天皇親臨の下に開院式が挙行された。この第1議会では,自由党,改進党を中心とする民党が衆議院で多数を占め,政府提出の予算案を大幅に削減しようとしたため紛糾した。結局,政府による政党工作が効を奏して自由党土佐派の同調を得ることができ,一部手直しによって予算案は成立した。」
https://kotobank.jp/word/%E7%AC%AC1%E8%AD%B0%E4%BC%9A-1357508
 「土佐派<とは、>・・・1890年に結成された自由党の中に存在した、旧土佐藩出身者による派閥。<吉田茂の実父の>竹内綱や植木枝盛らがメンバーとして知られる。1891年の第1回帝国議会で党の方針に反して政府提出の予算案を支持した一件は「土佐派の裏切り」と呼ばれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E6%B4%BE

 山県は幕末期の「狂介」から約20年を経て、円熟した政治家になっていた。」(258)

⇒山縣は、当時の日本の事実上の最高権力者だったからこそ、第一回総選挙と第一議会という大きな節目の時期に首相を務めたのです。その時、伊藤博文は、初代貴族院議長の座にありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87
 ところで、この伊藤のウィキペディア↑には、様々な人々による伊藤評が掲載されているけれど、山縣によるものはありません。
 しかし、山縣から事実上の最高権力者の座を引き継ぐ西園寺公望が長々と伊藤評を展開しており、その中には、山縣による伊藤評の引用もあります。↓
 「・・・要するに<、伊藤は、>何うも人を使う事を知らぬのです。山縣の評に伊藤は善い人だが自分の補佐の人を得なかったと今でも言うが兎に角、自分が聡明過ぎて居った為めに人を使ってはもどかしいのであったろうと思われる。それで子分と云う者がなかったようです。この点に於いては井上程人を世話すると云う事が出来なかったようです。・・・<また、>伊藤は勉強家ではなかったようです。・・・一方から見ると甚だ愚のような、目から鼻に抜けるような才ではないようでした。鈍なような人で所謂明ばかりでなく暗の方が沢山ありはすまいかと思うような事がありました。国家の政治の才<は>・・・ありますが、個人としてつきあって見ますと明も沢山あるが暗の方も沢山あったようです。正直で一寸見ると鈍根ですナア」(上掲)
 なお、「自分が聡明過ぎて居った」は額面通り受け取ってはいけないのであって、渋沢栄一が「伊藤公の如きは何事にも自分が一番豪いと思ふ慢心があつて。下問を恥ぢぬといふ徳はなかつたやうに思はる」(上掲)と言っていることを踏まえれば、伊藤は、「自分が聡明すぎると思い込んで居った」ということのようです。
 また、伊藤には、「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、到るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」(上掲)という発言もあり、彼が天皇など歯牙にもかけていなかったことは明白です。
 もっとも、この点では、山縣も同様ですが・・。(太田)

(続く)