太田述正コラム#12874(2022.7.15)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その33)>(2022.10.7公開)

 「・・・日本は朝鮮に出兵した部隊を統率する最高作戦会議として、6月5日に大本営<(注46)>を初めて設定した。

 (注46)「1893年制定の海軍軍令部条例により平時においてのみ陸海軍の軍令が対等となったばかりであったが、戦時となったため戦時大本営条例により陸軍の参謀総長のみが幕僚長となった。同年9月15日、戦争指導の拠点を広島に置くために天皇が移り、大本営も広島に移った(広島大本営)。1896年4月1日大本営解散の詔勅によって解散した。
 1903年(明治36年)12月、戦時大本営条例は改正された。改正の主眼は第3条で「参謀総長及海軍軍令部長ハ各其ノ幕僚ニ長トシテ帷幄ノ機務ニ奉仕シ作戦ヲ参画シ終局ノ目的ニ稽ヘ陸海両軍ノ策応共同ヲ図ルヲ任トス」となり、陸軍の参謀総長、海軍の海軍軍令部長の両名ともに幕僚長とされた。これにより戦時においても軍令機関は対等となった。
 日露戦争における大本営は1904年2月11日に設置された。この大本営は1905年12月20日解散した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9C%AC%E5%96%B6

⇒豊島沖海戦が行われるのは7月25日、日清両国が宣戦布告をするのは8月1日であり、随分手回しのよいことです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89 ←事実関係
 「一連の開戦工作について明治天皇は、「朕の戦争に非ず」と漏らしたと伝えられている」(上掲)ところです。(太田) 

 その最初の会議は7月17日である。
 出席者は陸海軍全体の参謀総長である有栖川宮や陸相・海相など陸海軍当局者だった。
 この他、山県有朋大将(枢密院議長)も明治天皇の特命で出席した。
 また、27日の会議からは、伊藤首相も特命で出席した。

⇒山縣や伊藤が、会議に常に出席したのかどうかが問題であり、仮にそうではなかったとすると、1937年の11月に日華事変の大本営設置と共に設置された大本営政府連絡会議
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9C%AC%E5%96%B6%E6%94%BF%E5%BA%9C%E9%80%A3%E7%B5%A1%E4%BC%9A%E8%AD%B0
のような、大本営会議の名前の付けられなかった拡大会議に出席しただけだった可能性があります。
 また、彼らに発言権はあったのかどうか、発言権があったとして、質問するだけではなく意見表明もできたのか、も、念のため、知りたかったところです。
 なお、陸奥宗光外相も特旨(特命)で会議に列席していた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89 前掲
ことも、伊藤之雄は記述すべきでした。(太田)

 このことから、戦争指導について山県や伊藤が天皇から信頼されていることがわかる。

⇒列席者拡大は、山縣が決めたのでしょう。(太田)

 またこれまで同様に、文官であっても陸・海軍の重要事項に関与できる体制が続いている。

⇒山縣も含めての記述のようですが、山縣は現役の陸軍大将なのですから文官とは言えません。(太田)

 山県は8月8日に第一軍司令官の内命を得て、30日に正式に任命された。・・・
 人生50年と言われた当時、老境に入っていたにもかかわらず、山県があえて出征することに伊藤は感動した。
 感情のもつれていた2人の心が、再び通いあうようになったのである。
 伊藤は9月4日に山県が第一軍司令部を率いて東京から広島まで向かう時、神奈川県国府津まで見送った。<(注47)>」(271、273)

 (注47)「8月8日に第一軍司令官の内命を受け、9月8日に宇品港を出向して朝鮮半島に向かった。配下の野津道貫が率いる第5師団が9月の平壌の戦いで平壌を陥落させるなど戦果はあげていたものの山縣自身は9月20日頃から体調を崩し、11月初め頃には胃病に悩まされるようになった。山縣の病気は日本国内にも伝えられ、11月29日に天皇は「病気にかかったと聞いて心配に耐えない」「戦地の様子を聞かせるように」という勅語で帰国を命じた。病状は回復しつつあると伝えていた山縣は不満であったが、12月8日に帰国している。
 無念の帰国を余儀なくされた山縣であったが、天皇・伊藤・井上らは山縣の今後について打ち合わせ、山縣の体面が守られるよう配慮した。山縣は第一軍司令官と枢密院議長を免じる代わりに監軍となり、2回目の元勲優遇の詔勅を受けている。山縣の体調も回復した明治28年(1895年)3月7日には海軍大臣西郷従道が兼務していた陸軍大臣に・・・復職し<ている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B

⇒単に、伊藤が、事実上の最高権力者の山縣に取り入ろうとしただけのことでしょう。(太田)

(続く)