太田述正コラム#12876(2022.7.16)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その34)>(2022.10.8公開)

 「・・・山県は、<1894年>12月20日に2回目の「元勲優遇」の詔勅を下された。
 1回目は首相を辞任した時だった。
 この時までに、伊藤博文と黒田清隆がそれぞれ1回受けていたのみであるので(2人とも1889年11月1日)、山県に対する破格の対応である。
 <第一軍司令官を病で辞めざるをえなかった>山県の失意をすこしでも癒やそうという行為といえよう。・・・

⇒内大臣兼侍従長の徳大寺実則が、山縣が事実上の最高権力者であることを対世間的にもはっきりさせるために、そのように計らったのでしょうね。(太田)

 日本は1895年(明治28)3月から清国と講和交渉に入ると、その情報が列強に伝わり、山県は、ロシア政府が日本に好意を持っていないとみた。
 また、ロシアもイギリスもこの機会に乗じて連携し、利益獲得のため謀略を行うと予想した。
 そこで4月5日、山県は陸奥宗光外相に手紙を書き、日露同盟を勧めた。
 山県はロシアとシベリア政策について談合し、日本の朝鮮支配の了解を取り付けることを考え、また日本と「結合」すべきものは、イギリスではなくロシアである、と断言した・・・。
 山県はロシアと利益で提携しようとしたのである。
 ところが、4月8日にロシアがドイツ・フランスと共に、日本が領有するという遼東半島を清国に返すように提案してきた。

⇒4月23日の間違いです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%B9%B2%E6%B8%89 (太田)

 イギリスはロシアからこの干渉に誘われたが参加せず、これは三国干渉となった。
 ロシアが三国干渉の中心であり、イギリスがこれに加わらなかったことで、山県は外交上の提言が現実から遊離したものであることがわかってしまった。
 現実を冷静に判断できる伊藤首相や陸奥外相に比べ、山県は列強認識の点で劣っていたのである。

⇒いやいや、駐メキシコ公使だった陸奥宗光を、山縣は、第一次山縣内閣の農商務相として起用する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E5%A5%A5%E5%AE%97%E5%85%89
ことで、手懐けたと私は見ており、その「陸奥<が、>・・・中塚明<(注48)>による分析<によれば、>・・・ロシアからの外圧をあらかじめ読んでおり、それを織り込み済みの上で敢えて下関条約で遼東半島を清に要求していた<のであって、>・・・ロシアは不凍港を中央ヨーロッパに求めることを諦め、アジアに注目している・・・折にアジアで清国と日本が戦争をし<、遼東半島領有の可能性が出てきたら、それ>に対して必ずなんらかの形で口出しをしてくるはずだと予見していた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%B9%B2%E6%B8%89 前掲
という説は、中塚の全般的史観の偏向性にもかかわらず、本件に関する限り私は説得力があると思うところ、事実上の最高権力者でもあった山縣の指示に、陸奥が共鳴し、従ったと見てよいのではないでしょうか。

 (注48)1929年~。京大文(国史)卒、奈良女子大文学部付属高校教諭等を経て、奈良女子大文学部教授。「慰安婦問題や竹島問題でも韓国政府の主張を支持しており、韓国の歴史観に従わなければ、日本は世界から孤立すると主張している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%A1%9A%E6%98%8E
http://www.9-jo-kagaku.jp/event/message.html

 ロシアはユーラシアにおいて英国とグレートゲームを戦ってきており、山縣としては、欧米勢力をアジア等から駆逐するためには、日本が英国とロシアのどちらかと提携して片方をまずアジアから駆逐し、その後、もう片方を駆逐する、という戦略を思い描くのは当然であり、ロシアが危機意識を抱いて日本に干渉してきた時に日本から提携を切り出せば乗って来ると踏んだのでしょうが、ロシアが第三国たる2国を巻き込んだ形で干渉してきたために、この策略は失敗に終わった、と、私は解している次第です。
 伊藤に本件で識見があったなどとは私は毛頭考えていません。(太田)

 山県は政党政治の発達したイギリスが嫌いだった。
 イギリスの内政に関するその個人的感情が、東アジアにおける列強の利害をめぐる動向判断を曇らせた。」(280、283~284)

⇒基本的に典拠を付ける伊藤が、この個所には全く付していないのは、この個所が伊藤の一方的想像であることを物語っているのでは?(太田)

(続く)