太田述正コラム#12934(2022.8.14)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その63)>(2022.11.6公開)

 「1918年(大正7)7月中旬、寺内内閣がシベリア出兵の方針を固めていったことで、米の買いだめがどんどんひどくなり、米価は暴騰していく。
 すでに第一次世界大戦中の後継機と急速な工業発展によって、国内に激しいインフレーションが起きていて、中でも米価は買占めの影響もあって高騰していたが、寺内内閣は有効な対策をとれないままだった。
 この結果、1918年1月の米価に対して、8月10日には1.93倍にもなった。
 これに怒り、・・・米騒動<が>・・・各地で起きた。<(注104)>・・・

 (注104)「7月23日,富山県魚津市で漁民婦人たちが同県産米の県外移出阻止運動を起したのを皮切りに,同県各地で大衆行動が続発し米騒動は急速な勢いで全国各地に波及していった。米屋に米の安売りを要求し,米の投機商人,米穀取引所をはじめ,高利貸や地主なども群衆の襲撃の対象とな<った。>」
https://kotobank.jp/word/%E7%B1%B3%E9%A8%92%E5%8B%95-66267
 「約50日間にわたる一連の騒動は、最終的に1道3府37県の計369か所に上り、参加者の規模は数百万人を数え、出動した軍隊は3府23県にわたり、10万人以上が投入された。呉市では海軍陸戦隊が出動し、民衆と対峙するなか、銃剣で刺されたことによる死者が少なくとも2名出たことが報告されている。検挙された人員は2万5,000人を超え、8,253名が検事処分を受けた。また7,786名が起訴され、第一審での無期懲役が12名、10年以上の有期刑が59名を数えた。米騒動には統一的な指導者は存在しなかった・・・。・・・
 被差別部落からは<全体>の1割を超える処分者が出た。1割は人口比率に対して格別に多かった。部落の多い京都府、大阪府、兵庫県、奈良県では3割から4割が被差別部落民であり、女性の検挙者35人のうち34人が部落民であった。これは被差別部落民が米商の投機買いによる最大の被害者層であったためである。・・・処分は死刑をも含む重いものであった。死刑判決を受けた和歌山県伊都郡岸上村(現・橋本市)の2人の男性、すなわち中西岩四郎(当時19歳)ならびに同村の堂浦岩松(堂浦松吉とする資料もある。当時45歳)も被差別部落民であった。事態を重視した原内閣は1920年(大正9年)、部落改善費5万円を計上し、部落改善のための最初の国庫支出を行った。同年、内務省は省内に社会局を設置し、府県などの地方庁にも社会課を設けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/1918%E5%B9%B4%E7%B1%B3%E9%A8%92%E5%8B%95
 「部落の貧困化は差別問題とはまったく別のところからやってきたことにある。それが、松方デフレ政策にほかならない。
 1877年(明治10年)に勃発した西南戦争で・・・多額の軍費を使い、不換紙幣を乱発したために、悪性のインフレに見舞われた。その解決のために、松方正義大蔵卿が急激な紙幣整理というハードランディング方式をとったために、一挙にデフレになり、部落の製造業が壊滅的打撃を受けたのである。
 決して、部落が狙い撃ちされて被害をこうむったわけではなく、また差別されて貧乏になったわけでもない。解放令は、江戸時代の解放論が抜擢解放(行ないが良かったり、社会に功績のあった者から順に身分を引き上げる)とい漸進的方式であったのに対して、・・・1871年(明治4年)<に>・・・明治政府の出した解放令は即時無条件全面解放という画期的なものであり、明治政府が青臭いまでに革命的であったことを物語っている。
 部落の貧困化は、そうした解放令とはまったく時期も原因もことなることにより引き起こされたのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A8%E8%90%BD%E5%95%8F%E9%A1%8C

⇒部落とも後の朝鮮人地区ともほぼ無縁の人生を歩んできた点が、日本論や戦後日本論を展開するにあたっての私の弱点かもしれません。(太田)

 山県は、8月11日に私設秘書の松本剛吉(ごうきち)に、寺内首相の「失政」や勝田主計(しょうだかずえ)蔵相の「無能」を批判し、寺内にやらせておくわけにはいかぬ、と述べるまでになり、政友会側にも伝わった・・・。・・・
 寺内内閣<が>総辞職した・・・9月21日に・・・山県は・・・西園寺に組閣を命じる覚書を大正天皇に差し出し<、>・・・天皇から<この>覚書を下付され<た>・・・西園寺<は、>・・・9月25日、・・・組閣を辞退した。
 天皇からの後任首相についての下問に対し、西園寺は原を推薦し、山県<がこれに同意して、>・・・9月27日、原敬は天皇から組閣の命を受ける。
 29日、政友会を与党とし、初めての本格的政党内閣が誕生した。
 当時の慣例に従い、陸・海軍大臣と外務大臣は政党員でなかったが、それ以外の閣僚は政友会員で、外相を含めて原が主導権を握って選定した。

⇒この「慣例」は、陸・海軍大臣が統帥権、外務大臣が外交大権、のそれぞれ所轄大臣であったことに由来するものでしょうね。(太田)

 山県は「今度の原の遣り口は能く出来た」と機嫌が良かった・・・。<(注105)>」(426~428)

 (注105)「後継首相奏薦にあたる山縣に、側近の清浦奎吾は衆議院・貴族院・枢密院と良好な関係にある原しかいないと強く勧めた。山縣は諦めきれずに西園寺に首相就任を要請したが、西園寺も原を推薦した。ここに至って山縣も観念し原を後継首相として奏薦した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

⇒それにしても、この時点では80歳になっていたというのに、事実上の最高権力者たる山縣の健在ぶりには驚嘆するほかありません。(太田)

(完)