太田述正コラム#12946(2022.8.20)     
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その6)>(2022.11.13公開)

 「・・・宇垣への大命降下を知ったあと、寺内陸相、梅津次官、磯谷廉介軍務局長、中島今朝吾<(注10)>憲兵司令官、阿南惟幾兵務局長、石原作戦課長らが陸相官邸に集まった。

 (注10)「1936年・・・3月7日、中将に昇進する. 3月23日には憲兵司令官を命じられる。以後、皇道派の放逐、粛軍に加担する。憲兵司令官就任、これには同郷であり、陸軍幼年学校、陸軍士官学校の同期であり、親友である、新陸軍次官梅津美治郎中将の引き立てがあった。・・・
 宇垣に対して自主的に大命を拝辞させるように「説得」する命令を寺内大臣<は>憲兵司令官であった今朝吾に出<し>た。
 <1937年1月>24日夜、憲兵によって宇垣の動きを掴んでいた今朝吾は、宇垣が組閣の大命を受けようと皇居に参内する途中、宇垣の車を多摩川の六郷橋で止めその車に乗り込んで、寺内大臣からの命令であると言い、今回の大命を拝辞するようにと宇垣を「説得」した。だが、宇垣はこれを無視して参内し、大命を受けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E4%BB%8A%E6%9C%9D%E5%90%BE

 ここで、石原は・・・派閥感の強い旧将軍の出現は穏当でない。とくに三月事件の嫌疑は粛軍工作上大いに考慮する必要あり、また国防充実をはからんとする際、軍縮の前歴を持つ宇垣を首相に迎えることは大きな問題である。・・・
 こうして、陸軍は宇垣を排斥することに決定した。・・・

⇒この時の会議の参集者中、異例だと思われるのが、石原莞爾と中島今朝吾です。
 石原莞爾については、当時、参謀本部第一部長(作戦部長)心得でしたが、参謀総長が閑院宮、参謀本部次長が西尾寿造であったところ、西尾の前任者の杉山元
http://kitabatake.world.coocan.jp/rikukaigun7.html
・・当時教育総監・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E7%B7%8F%E7%9B%A3
が、内々、石原に何をすべきかを言い含めた上で、石原の上司の西尾に、石原の陸軍省での会議への出席を命じさせたのではないでしょうか。
 他方、これまた杉山元が、自分以降の歴代次官の一人として杉山構想を知らされているところの、梅津美治郎に、内々、石原の会議への出席を認め、石原に会議で口火を切らせ、そのラインで結論を導いた上で、直ちに宇垣にその結論を伝えるために、梅津が親しい中島も会議に招致するよう、かつ、その中島に上京する宇垣を部下に尾行させてその所在場所を常続的に把握していつでも接触できるようにしておくよう伝えるよう、言い含めた、とも。
 当然、宇垣が首相就任辞退を肯んじなかった場合の次の手・・陸相を出さない・・も杉山は最初から考えていた、とも。(太田)

 新陸相となった中村<(注11)>は胸部疾患が発覚し、わずか一週間で辞職するはめになった。・・・
 梅津<は、>・・・三長官会議を開かせると、あっというまに後任陸相を杉山元に決定してしまった・・・。・・・
 その後も支持基盤が安定しない林内閣<(注12)>は同年6月、わずか4カ月の短命内閣に終わってしまう。
 大命はついに公爵近衛文麿に下った。」(62~63、82)

 (注11)「中村孝太郎<は、>・・・林銑十郎内閣で2月2日に陸軍大臣を務めたが、2月6日に発熱、2月9日に腸チフスと診断され辞任(「身内に結核患者がおり参内の多い大臣の任をはばかったため」という説もあるが、当時国民病とまでいわれた結核患者が身内に一人もいない人間などあまりいなかったであろうということから中公新書ラクレの「歴代陸軍大将全覧」では疑問視されている)。在任期間は8日間のみであった。専任の陸軍大臣としては最短記録。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%AD%9D%E5%A4%AA%E9%83%8E
 (注12)「林銑十郎・・・内閣は財界と軍部の調整を図って大蔵大臣に財界出身の結城豊太郎・日本商工会議所会頭を充て、その財政は「軍財抱合」と評された。綱領において祭政一致を表明する。また、少数の閣僚による実力内閣を標榜した林は多くの国務大臣を閣僚の兼任としたため、発足当初は「二人三脚内閣」と呼ばれた。
 林内閣は貴族院ではかろうじて研究会の支持を取り付けたものの、結局衆議院で与党に回ったのは昭和会と国民同盟の閣外協力のみで、両党あわせても衆議院466議席中35議席を占めるに過ぎなかった。少数閣僚内閣による実力内閣を標榜した林は政務官への批判を絶好の機会と捉え、政務官の弊害を過剰に問題視してその任用を一切とりやめてしまったのである。政務官という議会との連絡役を自ら断ち切ってしまった林内閣は、その当然の帰結として衆議院で民政党と政友会の双方からそっぽを向かれることになってしまった。
 昭和12年2月2日に圧倒的少数与党で発足した林内閣は、再開された第70回帝国議会において重要法案の審議引き延ばし戦術に出た民政・政友の両野党に散々にてこずらされる。妥協を重ねて年度末ぎりぎりにやっと昭和12年度予算が可決されると、林は直ちに二大政党への懲罰的な意図を込めて衆議院を解散した(「食い逃げ解散」)。こうして4月20日行われた第20回総選挙では与党勢力の躍進を期待した林の思惑とは裏腹に昭和会・国民同盟はいずれも議席を減らす結果となった。それでも林は強気の姿勢を崩さず、再度の解散をちらつかせながら政権維持を明言したが、これが倒閣運動の火に油を注ぐこととなり、結局四面楚歌となるなか、5月31日林はついに全閣僚の辞表をとりまとめて奉呈した。
 在任123日。これは当時としては歴代で最短の記録となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%86%85%E9%96%A3

⇒岩井は、林銑十郎については石原の推し(73)、かつまた、中村幸太郎については林が板垣征四郎を希望したのを寺内がはねつけた(75)、としていますが、林銑十郎が首相に据えられたのは、西園寺から、今度こそ近衛文麿を首相に引っ張り出すので、短期間で内閣を瓦解させてしまうであろう首相を陸軍から出し、国民の間に大人気があり軍人でもない近衛待望論を掻き立てるようにせよとの指示を受けた杉山が、梅津と相談して林に白羽の矢を立てたのでしょうし、中村孝太郎が陸相に据えられたのは、1937年に対支戦争開始を予定していた杉山が、自分は教育総監になったばかりで、すぐに陸相に就任するわけにもいかないので、1年以内に何か理由を探して必ず辞任して陸相の座を自分に譲って欲しいという条件を中村に飲ませた上で、三長官の一人たる教育総監として、寺内陸相と閑院宮参謀総長と話を付けて、中村を陸相に就けたのでしょう。
 中村は、ふてくされつつ陸相に就任はしたけれど、すぐに腸チフスになったことを幸いと、話に尾ひれをつけてすぐ辞任してしまったのに対し、林内閣の方は、想定よりも若干だけ早く破綻してくれた、ということではないでしょうか。(太田)

(続く)