太田述正コラム#12958(2022.8.26)     
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その12)>(2022.11.19公開)

 「・・・昭和13(1938)年・・・10月には武漢三鎮(武昌・漢口・漢陽)を占領し、翌々年3月には・・・汪兆銘政権(南京国民政府)が南京に誕生した。・・・
 <汪は、>蒋と袂を分かち、日本の支援を受け、政権を樹立したのである。

⇒私見では、杉山らが汪兆銘政権を誕生させたのは、蒋介石を弱気にさせて和平に持ち込んだり、況や将来汪兆銘に(満州以外の)支那統一政府を作らせたり、することを意図していたのではなく、あくまでも、中国国民党を弱体化させ、終戦後に中国共産党に支那を統一させるための布石の一つだったわけです。(太田)

 国内では昭和14(1939)年1月に近衛文麿内閣が総辞職、枢密院議長の平沼騏一郎が新たに組閣する。
 平沼は日独伊防共協定の強化を推し進めたものの、8月にドイツとソ連が不可侵条約を締結。
 同月、総辞職した。
 梅津はこの間、第一軍司令官として軍を指揮していたが、配下の参謀に竹田宮恒徳(つねよし)王<(注24)>大尉がいた。

 (注24)1909~1992年。「母は常宮昌子内親王。・・・父・恒久王が帝国陸軍の騎兵将校であったことから陸軍軍人を志し、学習院から陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科へと進み、1930年(昭和5年)7月に陸軍士官学校本科(42期・・・)を卒業。・・・
 馬術を得意とし、陸軍騎兵学校教官を務めた他、1938年(昭和13年)5月30日には陸軍大学校(50期)を卒業。前年に勃発していた日中戦争(支那事変)の前線行きを志願したが実現せず、満州ハイラルの騎兵第14連隊第3中隊長を拝命。その後、14Kが戦地へ動員される際、皇族である恒徳王を内地へ戻そうとする動きがあったが、王は陸軍省人事局長に電話で直談判した末、ようやく念願の戦地行きが叶った。この時初めて戦場に立った<。>・・・
 太平洋戦争(大東亜戦争)には大本営参謀として、フィリピン攻略戦、ガダルカナルの戦いに参画する。参謀としての秘匿名は「宮田参謀」であった。しばしば前線視察を希望し、危険が多いラバウル視察を強行するなど、周囲をはらはらさせていた。1943年(昭和18年)3月、陸軍中佐に昇進、8月に関東軍731部隊の担当参謀となった[信頼性要検証]。新京では満州国皇帝溥儀と交流を持ち、親しくしていたという。1945年(昭和20年)7月、第1総軍参謀として内地に戻った。間もなく終戦を迎えた。後任として入れ替わりに関東軍参謀となったのが瀬島龍三陸軍中佐である。終戦時には天皇特使として再び満州に赴き、関東軍に停戦の大命を伝えて武装解除を厳命した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E7%94%B0%E6%81%92%E5%BE%B3
 妃は、三条実美の三男で三条家の家督を相続した三条公輝(きんてる。1882~1945年。東大法卒)公爵の女子の光子。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%85%AC%E8%BC%9D
 父である恒久王の父親、すなわち恒徳王の父方の祖父は、最後の輪王寺宮だったあの北白川宮能久親王(コラム#省略)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%99%BD%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E8%83%BD%E4%B9%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 この北白川宮能久親王の父、すなわち恒徳王の父方の曽祖父は、(明治以降の全ての宮家の祖とも言うべき(コラム#省略)))伏見宮邦家親王で、北白川宮能久親王の母、すなわち恒徳王の父方の曽祖母は堀内光子(上掲)。
 この堀内光子は、堀内(ほりのうち)家の出身ではなかろうか。
 「堀内家の家祖は国学者と伝えられる堀内浄佐(1612~1699)であり、茶の湯を山田宗徧に学んだと伝えられる。初代、堀内仙鶴は浄佐の養子で、はじめ水間沾徳の門で俳諧を学び、のちに江戸を去り表千家6代覚々斎の門下に入った。俳人としても著名であり、同時代の茶人たちに大きな影響を与えたと伝えられる。
 [<やがて、>表千家に入門する者は、久田(ひさだ)家、堀内家の取次ぎを経る習わしとなった。]・・・
 12代兼中斎は茶家には珍しい京都帝国大学理学部の出身で独特の茶風で知られる(当代分明斎も京都大学理学部卒)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%86%85%E5%AE%B6
https://kotobank.jp/word/%E5%A0%80%E5%86%85%E5%AE%B6-1592824 ([]内)
 母の常宮昌子内親王(1888~1940年)は、明治天皇の第六皇女。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%92%E4%B9%85%E7%8E%8B%E5%A6%83%E6%98%8C%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 この常宮昌子内親王の母は、「女官一の頓才(気が利く)」で「歌道に秀で」、「明治天皇の崩御後は貞明皇后の女官長とな」った園祥子(そのさちこ。1867~1947年)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%92%E7%A5%A5%E5%AD%90

 恒徳王が戦後残した自叙伝に、・・・14年の新春には、「大掃討作戦」が発動された。この作戦計画は私が立案したが、何回も書き直した末、大晦日の真夜中になり、やっと梅津美治郎司令官の決済を得ることができた。・・・<という>記述がある。・・・
 梅津は、たとえ皇族であっても甘く見るようなことはなかった。
 立案した計画に瑕疵があれば書き直させた。
 敬意は保ちつつ、きちんと部下として接したのだろう。」(100~101)

⇒恒徳王が大本営参謀だったことは知っていたけれど、軍規模の部隊に勤務していた当時に実際に作戦計画の起案をしていたことまでは知りませんでした。
 となると、大本営参謀も単にひな壇に座っていただけではありますまい。
 ひょっとして陸大での成績、ネットで調べても出てきませんでしたが、かなり上位だった可能性が大ですね。
 (陸大で成績優秀だった皇族として挙げられるのは、通例、秩父宮雍仁親王だけです
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E6%97%8F%E8%BB%8D%E4%BA%BA 
が・・。)
 恐らく、恒徳王の母方の祖母の園祥子が抜群の才媛だった上、父方の曾祖母の堀内光子も相当の才媛だったのでしょう。
 で、本題ですが、梅津が何度も書き直させたのは、恒徳王の作戦計画案の出来が悪かったためではなく、「大掃討作戦」が八路軍(華北における中共軍)
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E8%B7%AF%E8%BB%8D-114875
に対するものであって、「大」と名づけつつ、実際には形だけでお茶を濁すものにしなければならなかったからではないでしょうか。(太田)
 
(続く)