太田述正コラム#12962(2022.8.28)     
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その14)>(2022.11.21公開)

 「・・・<ノモンハン事件では、>ソ連軍は2万4000人近い損害(戦死約8000人)、日本軍も2万人近い損害(戦死約7300人)という膨大なものだった。<(注26)>

 (注26)日本軍:戦死7696~8109、生死不明1021(うち捕虜交換で生還した者160)、ソ連軍:戦死9703、モンゴル軍280
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
となっており、岩井の数字が何に拠っているのか不明。

 かつて言われていた「日本軍の一方的な惨敗」ではないものの、大きな打撃を受けたことはまちがいない。
 停戦協定は<1939年>9月15日、モスクワで締結された。
 この戦いの責任者として関東軍司令官植田謙吉、参謀長磯谷廉介<(注27)>、第六軍司令官荻洲立兵(おぎすりゅうへい)、他にも服部卓四郎や辻政信など、主に強硬だった作戦参謀たちが更迭された。

 (注27)1886~1967年。幼年学校、陸士(16期)、陸大(27期)。「教育総監部第2課長、陸軍省人事局補任課長、兼陸軍兵器本廠付(欧米出張)を歴任し、1933年(昭和8年)3月、陸軍少将に進級した。同年8月、参謀本部第2部長に発令。
 陸軍の中では中国通を自認し[要出典]、中国公使館付武官、大使館付武官を歴任した後、1936年(昭和11年)3月23日に軍務局長となり、二・二六事件の収拾に尽力。同年12月、陸軍中将に進んだ。1937年(昭和12年)3月、第10師団長に親補され日中戦争に出征し、徐州会戦などに参加。1938年(昭和13年)6月には関東軍参謀長に栄転するが、翌1939年(昭和14年)9月にノモンハン事件の敗北の責任を取り参謀長を辞任し参謀本部付となり、同年11月に待命、翌月、予備役に編入された。
 太平洋戦争が始まり、日本が香港を占領すると召集を受け香港総督に就任<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E8%B0%B7%E5%BB%89%E4%BB%8B

 中央でも参謀次長中島鉄蔵<(注28)>、第一部長橋本群<(注29)>、第二課長稲田正純<(注30)>(まさずみ)といった統帥部の主要なポストの更迭も行なわれた。

 (注28)1886~1949年。陸士(18期)、陸大(30期)。「1933年・・・8月侍従武官。1935年3月陸軍少将に昇進。
 1937年3月参謀本部総務部長、同年11月参謀本部総務部長兼第四部長事務取扱。同年開始の支那事変については、上司である多田駿参謀次長とともに不拡大路線で、陸軍次官東條英機(陸軍大臣は板垣征四郎)と対立した。
 1938年3月陸軍中将に昇進。多田と東條の両者が更迭され、同年12月多田の後任として参謀次長に就任(総長は閑院宮載仁親王)。1939年ノモンハン事件が発生すると、これを解決すべく、新京に2度渡り事件拡大を中止するよう関東軍を説得し、事態の収拾に努めた。事態収拾後責任を取って、関東軍司令官植田謙吉大将、参謀長磯谷廉介中将とともに1939年12月予備役編入となり、第一線を退いた。
 1942年7月陸軍司政長官として、ジャカルタに赴任。温厚な性格で地方藩侯を始め民衆に慕われたが、1945年終戦後戦犯として現地にて収監され、1949年7月25日、ジャカルタ刑務所にて病没した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E9%89%84%E8%94%B5
 (注29)ぐん(1886~1963年)。幼年学校、陸士(20期・次席卒)、陸大(28期・優等)。「陸軍省軍務局軍事課長<等を経て、>・・・1936年(昭和11年)3月、陸軍少将に進級した。
 1936年8月、支那駐屯軍参謀長に就任。在任中に盧溝橋事件が発生し日中戦争が勃発・・・。第1軍参謀長を経て、参謀本部第1部長に就任。1939年(昭和14年)3月、陸軍中将に昇進した。同年5月にノモンハン事件が発生し、停戦後の同年9月に引責辞任し・・・同年11月に待命、翌月予備役に編入された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E7%BE%A4
 (注30)1896~1986年。幼年学校、陸士(29期)、陸大(37期・優等(3席))、仏陸大卒。「参謀本部第2課長(作戦課長)(1938年(昭和13年)3月1日 – 1939年(昭和14年)10月12日、ノモンハン事件当時)、・・・1943年(昭和18年)2月に南方軍総参謀副長に補されるが、南方軍隷下の緬甸方面軍・第15軍の立案したインパール作戦の無謀を繰り返し指摘し、強硬な反対を続けたため、同年10月15日付で南方軍総参謀副長を更迭され<た。>・・・1945年(昭和20年)4月に陸軍中将に進級<し、>・・・同年5月に第16方面軍参謀長に補され、九州で本土決戦に備えていたが終戦を迎え<た。>・・・
 第六飛行師団長心得として・・・1944年<に>・・・ニューギニア島のホーランディアに駐屯していた時に、米軍の奇襲上陸を受け、這う這うの体で、師団は西方に230キロ離れたサルミに撤退した。師団の兵員も含めて,14,500名のホーランディア守備隊のうち,二か月後にサルミにたどりついた将兵はわずか1,500名に過ぎなかった。米軍がサルミに侵攻する兆しが見えると、稲田は空中勤務者13名と司令部要員だけを連れ、大部分の部下を見捨てて後方に脱出した。独りよがりな稲田の行動は陸軍部内でも問題となり、のちに停職二か月の処分に付され<てい>る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E7%94%B0%E6%AD%A3%E7%B4%94

 そして植田に代わり、関東軍司令官兼満州国駐箚特命全権大使に就任したのが梅津である。
 昭和14(1939)年9月7日のことだ。」(105)

⇒それこそ、稲田は、ノモンハン事件の後、予備役編入されていてしかるべきだったのに、その上、その後、不祥事めいたものを繰り返したというのに、陸軍当局が、彼を中将にまで昇任させたのは理解に苦しみます。
 なお、ノモンハン事件では、関東軍は、「兵力、武器、補給の面で圧倒的優位に立っていたソ連軍に対して、ねばり強く勇敢に戦った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6 前掲
というのに、当時はソ連軍側の損害を的確に把握できなかったことから、そのことが分からず、結果、とんだ割を食った人々が続出した、というわけです。(太田)

(続く)