太田述正コラム#13006(2022.9.19)
<『海軍大将米内光政覚書–太平洋戦争終結の真相』を読む(その4)>(2022.12.13公開)

 「・・・昭和14<1939>年<、>・・・平沼<騏一郎>内閣<下における、>・・・日独伊<防共>協定の強化問題<(注3)>については、五相会議のほか<板垣征四郎>陸相と私的に会談すること数回におよんだ。

(注3)「日独防共協定が締結された後、中華民国を援助する米英を牽制する目的で軍事同盟への発展を唱える動きがあった。特に駐独大使大島浩、駐伊大使白鳥敏夫は熱心で、・・・独伊政府にも・・・内談していた。・・・
 <1939年>5月には独伊軍事同盟条約(鋼鉄協約)<が締結されている。>・・・
 1938年7月に開催された五相会議において<日独伊防共協定>強化の方針が定まり、1939年3月の会議で決定された。この時平沼騏一郎首相が<協定>強化案を昭和天皇に奏上しているが、<同盟にはし>ないこと、大島・白鳥両大使が暴走すれば解任することなどを確認している。
 しかしドイツは<同盟化を>要求。これに陸軍内部からも呼応する声が多く、陸軍大臣の板垣征四郎以下陸軍主流は同盟推進で動いた。一方英米協調派が主流を占めた海軍には反対が多く、海軍大臣の米内光政以下、次官の山本五十六、軍務局長の井上成美は特に「条約反対三羽ガラス」と条約推進派(親独派)から呼ばれていた。また軍令部総長として形の上では海軍の最高権威者だった伏見宮博恭王をはじめ、前海相の永野修身、元首相・海相の岡田啓介、さらに小沢治三郎、鈴木貫太郎など、陸軍でも石原莞爾・辰巳栄一などが条約締結に反対していた。その他内大臣の湯浅倉平、外相の有田八郎、蔵相の石渡荘太郎、元老の西園寺公望も反対派だった。そもそも昭和天皇が参戦条項には反対しており、5月9日に参謀総長の閑院宮載仁親王が参戦条項を認めてもよいという進言を行った際には明確に拒否している。しかし5月に・・・ノモンハン事件が勃発し、その最中の8月27日に独ソ不可侵条約が締結されると平沼内閣は総辞職し、三国同盟論も一時頓挫した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%8B%AC%E4%BC%8A%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%90%8C%E7%9B%9F
 9月1日に第二次世界大戦が始まる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6

⇒板垣は、訳が良く分からないまま、山脇正隆次官経由でなされる、前任陸相の在支那の杉山元からの指示に従って動いていたのではないでしょうか。
 例えばですが、「陸相在任中は宇垣一成外相による日華和平交渉に際しては、「蔣介石の下野」を講和の条件とする強硬論をぶち上げ、結果として交渉不成立の原因を招いた。当時の蔵相であった池田成彬は和平交渉に賛成であったはずの板垣の行動に対して、「<梅津の後任にして山脇の前任たる東條英機>次官以下のところに非常な強硬論者があって、それが板垣君を引きずっていたように自分は思う」と語っている。陸軍の下克上の中で、板垣は宇垣や池田の期待していたほどの役割を果たせなかった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E5%BE%81%E5%9B%9B%E9%83%8E
ことが、そうであったことを示唆しています。(太田)

 しかし、ついに一度といえども、意見の一致をみることがなかった。
 8月21日、<板垣>陸軍大臣の希望により、星ヶ丘茶寮<(注4)>・・・に会合、・・・その会談の要旨を摘録しておこう。・・・

 (注4)「茶寮のあった土地は元々日枝神社の境内に属した小高い丘にあり、夜には星がよく見えたことから「星ヶ岡」と呼ばれていた。ところが、明治維新による江戸から東京への変化の中で周辺の住民構成が大きく変わり、氏子が減少した日枝神社は社域を維持することが出来なくなり、境内の一部を<手放し、>・・・上級階級の社交場として・・・「星岡茶寮」<が>設立<された。>・・・大正に経営不振に陥った後、関東大震災後に当時美食家として知られていた北大路魯山人と便利堂の中村竹四郎に貸し出され・・・1925年(大正14年)3月20日に彼らが主宰する美食倶楽部の会員制料亭となった。ステータスのある料亭として政財界で人気を集めたが、魯山人の横暴さや出費の多さが問題になり、1936年(昭和11年)、中村は魯山人を解雇する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E3%83%B6%E5%B2%A1%E8%8C%B6%E5%AF%AE

⇒私の出身校である日比谷高校の建っている、日枝神社続きの丘を星陵と呼び、同校の文化祭は星陵祭、校内にある同窓会館は星陵会館、と呼ぶところ、不覚にもそのいわれをようやく知りました。
 脱線ついでですが、(前にも書いたと思うけれど、)日枝神社で私は日比谷高校の受験と東大の受験の際に1円の賽銭で合格祈願をしています。(太田)

 <板垣:>・・・日本は中国に権益を持っていない<独伊>と結び、最大の権益を持っている英国を中国から駆逐しようとするようなことは、ひとつの観念論にほかならない。
 また、日本の現状からみても出来ることでもなければ、なすべきことでもない。
 独伊と結んだからといって、中国問題の解決になんの貢献するところがあろうか。
 よろしく英国を利用して中国問題の解決をはかるべきである。
 また米国が、現在のところ中国問題に介入しない態度をとっているのは、中国における列国の機会均等・門戸開放を前提としてのことである。
 もし、<日本が>・・・この原則をやぶるような行動をあえてしたならば、米国は黙視しないであろう。
 この場合、米国は英国と結ぶ公算が大きい。
 中国問題について、日本はたとえ独伊との了解があったとしても、英米を束にしてむこうにまわすこととなり、なんら成功の算を見出しえないだけでなく、この上もなく危険である。
 かりに英米は武力をもってわれに臨まないとしても、その経済圧迫を考えるとき、まことに憂慮にたえないものがある。・・・」(42~45)

⇒この時の懇談相手の板垣征四郎は、米内の、盛岡中学の3年後輩であり、東京の料亭で開かれた謝恩会で盛岡中学時代の1人の恩師を囲む米内海相と板垣陸相の写真が残っているという仲です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E5%BE%81%E5%9B%9B%E9%83%8E
 なお、板垣は、巣鴨プリズンでの獄中「日記の中で「「満洲事変記念日。噫、十七年前ノ今月今日、満州事変ハ成功セリ。其後支那ニ手ヲ出シタノガ誤リ。万死ニ値ス」と記している」(上掲)ことからも、杉山構想は明かされていなかったとの私見を申し上げた(コラム#省略)ことがあります。(太田)

(続く)