太田述正コラム#13026(2022.9.29)
<『海軍大将米内光政覚書–太平洋戦争終結の真相』を読む(その14)>(2022.12.23公開)

 「四、スイス電<(注21)>にたいする大臣の考

 「藤村義朗<(1907~1992年)。海兵(55期)、海大(37期・首席)は、>1940年5月、ドイツ駐在(マクデブルク大学)となり、同年11月、ドイツ大使館付武官補佐官に就任。藤村が補佐官に着任した当時の駐在武官は横井忠雄で、任期中に小島秀雄に交代している。1943年(昭和18年)11月、海軍中佐に進級。1944年(昭和19年)6月、フランス大使館付武官補佐官に転じ、同年10月、ドイツ大使館付武官補佐官を兼務。1945年(昭和20年)3月、連合国軍侵攻によるベルリンの戦いを前にしてスイスへ移駐。このときの藤村の肩書きはスイス公使館の海軍顧問だった西原市郎大佐の輔佐官という立場であった。・・・
 藤村が最初に海軍大臣と軍令部総長に送った電報は概ね以下のような内容であった。
・トルーマン大統領は人気・才覚・能力の面で劣っており、表面上の無条件降伏を求める主張とは別に、人気や評価を高めるためひそかに戦争の早期終結を望んでいる。
・ソ連が対日参戦することをアメリカは望んでいない。
・5月23日と25日にダレスが信頼すべき第三者・・・を通じて、ソ連の干渉も受けないスイスは日米が交渉・会談する場所として適していること、ダレスがワシントンと直接接触し、トルーマン大統領やステティニアス国務大臣、ジョセフ・グルー代理に近いこと、日本が対話を希望するならそれをワシントンに伝え、日本側が海軍の提督級将官をスイスに派遣するのに賛成すればスイスまでの飛行機などのあらゆる便宜を責任を持って準備し、その人物は二、三週間以内に到着するのが望ましいことを極秘裏に提案した。ダレスは同趣旨の電報をワシントンにも送っている。・・・
 部下2人に和平の研究を密かに命じていたという軍務局長の保科善四郎<(注21)>は、6月に藤村の電報を持参した部下が「大変喜んで」おり、保科自身が米内光政に電報を見せると米内も「嬉しそうであった」が、軍令部次長の大西瀧治郎が「陸海軍離反策の謀略」として反対したという。軍令部第一部長の富岡定俊は、直属上司の大西が継戦派であることを意識して、その上位である軍令部総長の豊田副武から大西を説得させるべく豊田に相談すると、(富岡は)作戦に心血を注ぐべきで、和平の問題は考えるべきではないと返答され、以降富岡は和平に関する話題に関わらなかったという。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9D%91%E7%BE%A9%E6%9C%97_(%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E4%BA%BA)

 (注21)1891~1991年。海兵(41期)、海大(2位)。「<米国>駐在<経験があり>、海軍きっての<米国>通として鳴らし<た。>・・・第三艦隊先任参謀として上海に<勤務した時に>、そこで後に大きな影響を受ける米内光政[・・当時、第三艦隊司令長官・・]と出会う。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E7%A7%91%E5%96%84%E5%9B%9B%E9%83%8E
※([]内)

 これは謀略の疑いがある。
 ダレスが本国(アメリカ)に打電したらしいということだから、その返事が来るのを待っても遅くはない。
 〔<実松>注〕当時、海軍省軍務局長であった保科善四郎は『大東亜戦争秘史』のなかで、この失われた和平工作について書いている。
 「・・・私はまず米内海軍大臣にたいして、『私はこれを全面的に受入れた方がよいと考えます。かりに先方から欺かれるようなことになっても、実情を明かにすればかえって士気は昂揚し、決してマイナスにはならないと思います』と私の判断を申したところ大臣は賛成され、ついで豊田軍令部総長も同意された。
 そこで最後に陸軍の吉積軍務局長に連絡したところ、陸軍側の意向は、『どうせイタリアのバドリオ政権がやられたと同じ目にあわされるのが関の山だから、同意できない』ということだった。
 私はなんとか陸軍の同意をとりつけるため奔走したが、遂に翻意させることができなかった。…
 私はこれこそ最後の好機であると確信し、米内大臣の命を受けて自ら外務省に東郷外相を訪ね…『海軍が全面的に支持するから、外務省が主体となって進めなさい』と強く進言した。…しかし外務省も、どうしてもこの工作の見透しをたてるのに熱が入らない。…ついに6月22日、大臣の名で親展電報が藤村のもとに到着し、藤村の和平工作は不成功のうちに幕をとじた。・・・」(147~149)

⇒本件の中心的関係者達3人・・海大首席、元首相の海相、海軍軍務局長!・・が、こんなヨタ話に入れ込んでしまったというお粗末さも目も当てられないけれど、揃いも揃ってウソをついていることは衝撃的です。
 まず、藤村ですが、彼がダレスの提案としている事柄を本当にダレスが言ったのか、しかも、それがダレスだったのかが疑わしい。
 「1970年代以降、<米国>が傍受・解読していた日本の外交電報(パープル暗号)・海軍電報(オレンジ暗号・コーラル暗号)やOSS関連の資料が公開されるようになると、それらとの比較照合により信憑性に疑いが持たれる点が出てきた。まず、藤村は最初の和平工作の電報送信を「5月8日」(ドイツ降伏の日)としているが、<米>側の解読記録である「マジック・サマリー」に残る電報は6月5日付であり、藤村は事実より1ヶ月話を前倒ししたのではないかとみられている。前倒しした理由について有馬哲夫は、ダレスが5月28日付でOSSスイス支局長を辞して諜報・工作と関係しない「占領地高等弁務官」に就任してベルンを去っていた点に着目し、「ダレス機関」を相手に和平交渉をしていたという藤村のストーリーと辻褄を合わせるために前倒しをしたのではないかと推論している。さらに、藤村は当時の電報で「ダレスの側から自らに接触してきた」と記したが、戦後のインタビューでその点について「せっぱつまってウソをついた」と証言している。」(上掲)からです。
 次に、保科善四郎ですが、「豊田軍令部総長も同意された」はウソでしょう。
 「軍令部次長の大西瀧治郎が「陸海軍離反策の謀略」として反対したという。軍令部第一部長の富岡定俊は、直属上司の大西が継戦派であることを意識して、その上位である軍令部総長の豊田副武から大西を説得させるべく豊田に相談すると、(富岡は)作戦に心血を注ぐべきで、和平の問題は考えるべきではないと返答され、以降富岡は和平に関する話題に関わらなかったという。豊田自身は戦後の著書『最後の帝国海軍』(世界の日本社、1950年)で「こんな大きな問題を中佐ぐらいに言うのはおかしい」と海軍省も軍令部も危険視し、謀略か「観測気球」という見方だったと述べている。」(上掲)からです。
 また、米内ですが、自分の覚書に、「謀略の疑いがある」とだけ記していて、その前に、肯定的反応をしたことに口を拭っているか、その部分を削除しているからです。
 恐らく、こういう、ウソやウソのつき合いは、海軍内部で相当前から横行していたと想像されるのであって、こんな有様では、仕事など危なくてできず、様々な機会に既に指摘してきたように、海軍はこの頃までに組織の体をなさなくなっていた、と断定していいでしょう。(太田)

(続く)