太田述正コラム#13052(2022.10.12)
<渡邊裕鴻ら『山本五十六 戦後70年の真実』を読む(その4)>(2023.1.6公開)

 「・・・日米両国は、第一次世界大戦ではともに連合国側であった。
 しかし、大正5年(1916)にはアメリカが海軍の軍拡を目指したダニエルズ・プラン<(注4)>を打ち出し、日本海軍も、海軍力整備目標として戦艦8隻、巡洋戦艦8隻の、いわゆる「八八艦隊<(注5)>」を計画するなど、建艦競争が激化していた。」(75)

 (注4)「当時の<米>海軍長官ジョセファス・ダニエルズの名前から日本ではこう呼ばれている一方で、海外においては計画が立案された年度に因んだ1916年度海軍法 (Naval Act of 1916)、或いは大海軍法 (Big Navy Act)の呼称が用いられている。・・・
 <米>海軍は建国当初は欧州から隔絶した地理的条件その他の理由により、特に大海軍を必要としない戦略環境にあった。しかしながらプエルトリコ、キューバ、フィリピン諸島、グァム島、さらにはハワイ諸島と領土や保護領を獲得していくにつれ、次第に海軍力整備の機運が高まっていった。
 1903年、海軍軍備に関する諮問機関として将官会議が発足し、以後<米>軍の整備方針は海主・陸従を基本としていく。折からの、激化する一方の英独建艦競争に対応し、当会議は「1919年までに戦艦8隻基幹の6個艦隊を整備し、ドイツ海軍を凌いで世界第二位の海軍力を獲得する」基本方針を策定した。以後この方針に従い艦艇整備計画は進捗していくが、大戦参戦までに議会の協賛を得たのは目標48隻(既成艦含む)に対して37隻に留まっていた。・・・
 1914年、世界大戦が勃発すると<米>国は当初中立を保ったが、ドイツが展開した通商破壊戦により自国の海外貿易が重大な脅威に晒される現実を目の当たりにし、海軍力整備の機運はより一層高まった。
 1915年、将官会議は従来の整備方針を発展させ、1924年までに世界第一位のイギリス海軍に匹敵する大海軍を整備するため、下記の建艦計画を時の大統領ウッドロウ・ウィルソンに提出した。
 提出された計画は1916年度議会にて審議にかけられた。この中で下院海軍委員会は5カ年計画を承認せず、単年度計画FY1917として巡洋戦艦5隻等39隻、2億4千万ドルにて査定。下院本会議においてはさらに潜水艦30隻、3千万ドルを追加して可決された。
 しかし政府は上院に働きかけて計画を復活・拡大し、5カ年計画を3カ年に短縮した上で要求ほぼ全艦を可決せしめた。
 157隻81万余トン、建造費5億8800万ドルの大建艦計画がここに成立したのである。・・・
 本計画成立の翌1917年、<米国>は世界大戦に参戦した。このため、各種小型艦艇の急造が必要となり、臨時軍事費によって駆逐艦229隻、潜水艦26隻他の戦時計画を成立させた。一方で大型艦の建造にはブレーキがかかり、起工済の艦を除いて建造は繰り延べとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%B3
 「フランクリン・ルーズベルト<は、>・・・1913年、当時の大統領ウッドロウ・ウィルソンによって海軍次官に任命された。海軍長官のジョセファス・ダニエルズの下で同職を務め、海軍の拡張に尽力し、海軍予備役部隊を設立した。中米およびカリブ海諸国への干渉のために海軍と海兵隊を派遣した。・・・
 ルーズベルトは生涯を通じて海軍への愛情を育んだ。彼は海軍予算を承認させるため議会のリーダーとその他の政府の各省と交渉した。潜水艦の導入と、ドイツ潜水艦による連合国船団への脅威に対抗する戦力導入の熱心な支持者であった。そして、ノルウェーからスコットランドまでの北海に機雷を敷設し、機雷原を作り上げるよう提案した。1918年には<英仏>を訪問し、<米>海軍の施設を視察した。この訪問で彼は初めてウィンストン・チャーチルと面会した。1918年11月に第一次世界大戦が終了すると、ルーズベルトは復員業務を担当し、一方海軍の完全解体計画に反対した。1920年7月、・・・海軍次官を辞職」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88
 (注5)「基本構想は「艦齢8年未満(0~7年)の戦艦8隻と巡洋戦艦8隻」を主力とするものである。これは、8年ごとに新型戦艦を建造することを意味する。
 日本海軍は主軸となる戦艦と前衛・遊撃隊となる巡洋戦艦(装甲巡洋艦)を相互連携させることで艦隊決戦を有利に進める基本思想を持っており、八八艦隊もその想定に基づくものである。8隻という数字の根拠には諸説あるが、一つには「艦隊運用時に指揮統制可能な限界が8隻」というものがある。
 なお艦齢8年未満の艦を第一線に、ということは、裏返せば8年を超えた艦も第二線級として保有し続けるということであり、当時想定されていた主力艦運用年数は24年であることから、帝国海軍は最終的に48隻の主力艦を整備・運用し、毎年2隻の新造艦を起工し続けることとなる。これが八八八艦隊となれば毎年3隻、総数72隻の戦艦・巡洋戦艦となり、当時の日本の国力限界を遙かに超えるものであった<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%85%AB%E8%89%A6%E9%9A%8A
 「巡洋戦艦(・・・Battlecruiser・・・)は、強力な攻撃力と高速性能を持つ大型の戦闘艦を指す。 巡洋艦の特徴である高速性能と運動性能、戦艦に匹敵する大口径砲による攻撃力を合わせもち、代償として防御力を若干犠牲にしている。 装甲巡洋艦(Armored cruiser)を発展させた艦種であり、第二次世界大戦までは戦艦とともに主力艦の扱いを受けた。 戦艦よりも長大な艦形かつ大出力機関を搭載するため同排水量の戦艦よりも建造費は嵩んだ。後期の艦では同期に建造された戦艦よりも排水量が大きくなり、その傾向は一層強くなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E6%88%A6%E8%89%A6

⇒ほぼ繰り返しで、まことに恐縮ですが、マハンの米海外基地網構築構想を完遂する機会を伺い続けた米国の上澄み(就中ローズベルト)、マハンを単に海軍の陸軍に比しての重要性を訴えるネタとして用いた帝国海軍、米国の上澄みのかかる悲願への想いに火をくべて利用することにした帝国陸軍、という構図ですね。(太田)

(続く)