太田述正コラム#1742(2007.4.21)
<バージニア工科大学乱射事件(続)(その2)>(2007.5.22公開)
3 米国の特異性の補論
 (1)始めに
 私は以前、「米国とは何か」シリーズ(コラム#304~307)で、米国が「発育不全のアングロサクソン」であり、かつ「博徒たるアングロサクソン」であると論じたところです。
 前者の中で連邦制の弊害や18世紀的政治意識の弊害を指摘したわけですが、今回の銃乱射事件を見ていると、改めてその感を深くします。
 (2)連邦制の弊害
 連邦制の弊害というのはこういうことです。
 連邦法は、非自発的に精神医療施設にかかった人のほか、「裁判所・委員会(board)・専門家会議(commission)等の合法的・・当局によって精神的欠陥があるとされた」者は、銃を購入することはできない、とされています。
 チョは、2005年末にバージニア州の裁判所の特別判事命令によって、彼が精神的病(やまい)に罹っており他人もしくは彼自身に対して危害を及ぼす懼れがあり、外来治療を受けるよう命じられていたのですから、この連邦法に照らせば、銃購入資格を即時剥奪されてしかるべきでした。
 ところが、バージニア州条例は、「非自発的に精神医療施設にかかった者」または「精神的に無能力者である(incapacitated)であると決定された者」は銃を購入することはできない、としており、連邦法よりも緩い規定になっています。
 この規定によって、チョは銃購入資格を剥奪されなかったわけです(注2)。
 (注2)ただし、チョが銃購入資格を剥奪されていたとしても、銃を購入することが可能であったことを忘れてはならない。米国では、銃の40%は、銃販売免許を持たない者から、直接、あるいは新聞等の広告を通じ、もしくは銃見本市で購入されているというのが実態だからだ(
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/04/19/AR2007041902351_pf.html  
。4月21日アクセス)。
 つまり、米国は、連邦法と州条例との間に若干の齟齬があることがあり、それが必ずしも問題視されていないことが分かります。
 (3)18世紀的政治意識の弊害
 18世紀的政治意識の弊害というのはこういうことです。
 上記シリーズ(コラム#305)では、大金持ちの名門出身者が大統領等連邦政府の要職を占めていることを指摘したのですが、後知恵で申し上げれば、米憲法修正第2条の銃保有の権利規定がそのまま現在まで持ち越されてきていることも挙げるべきでした。
 この規定が設けられた当時は、国家権力の濫用から市民が自らを守るという趣旨だったのに、それが最近では、他の市民から自らを守るための規定であるかのような議論がなされている(
http://www.guardian.co.uk/usguns/Story/0,,2062329,00.html
。4月21日アクセス)こと、しかも、いずれにせよ、全米で2億6,000万丁(うち拳銃だけで6,000万丁)が市中に出回っていて毎年30,000人以上が銃で命を落としている(ガーディアン上掲及び
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-wilson20apr20,0,4869512,print.story?coll=la-opinion-center
(4月21日アクセス))(注3)というのに、今なおこんなアナクロな規定を維持すべきだと考えている米国民が四分の三近くを占めている(
http://www.csmonitor.com/2007/0420/p03s02-ussc.htm
。4月20日アクセス)こと、を指して私は18世紀的意識の弊害だと言っているのです。
 (注3)ウィルソン(James Q. Wilson)という犯罪学者とおぼしき大学教授は、一、銃保有を禁止することは憲法に抵触する、二、これだけ多数出回っている銃を全部回収することは事実上不可能である、三、仮に回収できたとしても、海外等からヤミで取得されることを防ぐことは不可能である(現に銃規制が厳しい英国や欧州諸国でも銃の乱射事件は起こっている)、四、銃以外による殺人率が米国は英国の3倍にも達しており、このように暴力的な米国の歴史的文化的風土を前提にすれば、銃だけなくしても殺人率の低下には限界がある、五、米国のこのような暴力的風土の下で銃は自衛のための有効な手段となっている(年間10万~200万回以上、銃は自衛のために用いられている)、として、銃保有の禁止への反対論を展開している(ロサンゼルスタイムス上掲)。
 しかし、幸いなことに、この意識が変わりつつある兆候が見られます。
 米国民の銃保有率は、1970年代半ばに55%という頂点に達した後、2006年にはそれが35%まで低下しています。これは、狩猟を趣味にする人が少なくなったことと、1990年代を通じて米国の犯罪率が低下し続けたために銃で自衛する必要性を感じる人が減ったことによると考えられています。
 銃の購入に当たって警察の許可を要件とすべきだと考える人の割合も79%に達しているという調査結果さえあります。別の調査結果でも、49%が銃規制の強化を求めており、銃規制強化反対は14%しかおらず、35%は現状のままでよいと考えていると、銃規制強化賛成は相対多数を占めています。
 上記世論動向等を踏まえれば、憲法規定の修正を求める意見が遠からず米国で、少なくとも相対多数を占めようになると思いたいところです。
 さしあたりは、銃購入に当たっての警察許可制の導入等、銃規制の強化が課題ですが、上記世論動向等にもかかわらず、銃規制強化が足踏み状態どころか、後退状況にあるのは、銃規制強化賛成派は銃規制強化反対派と違って原理主義的情熱に欠け、圧力団体を構成していないからです。
 (以上、クリスチャンサイエンスモニター上掲、及び
http://www.slate.com/id/2164427/
(4月19日アクセス)による。)
 この分では米国の、国民総健康保険制が導入されていないという先進国としての非常識ととともに、国民への銃保有の憲法上の権利の付与という先進国としての非常識も、容易に改められそうにもありませんね。
(完)