太田述正コラム#13062(2022.10.17)
<渡邊裕鴻ら『山本五十六 戦後70年の真実』を読む(その9)>(2023.1.11公開)

 「・・・昭和15年(1940)9月15日、及川海相は三国同盟に対する海軍の意思を統一すべく、軍令部総長の伏見宮博恭王や大角岑生元海相をはじめとする・・・山本<を含む>・・・現役の海軍首脳を集めて意見をまとめ<た。(注12)>・・・

 (注12)「及川は日独伊三国同盟に賛成したため調印されることになった。調印の10日前、米国から帰国する際にドイツの戦況を観て帰るように指示されていた矢牧章少将が欧州周りで帰国し、陸軍が吹聴しているように数か月のうちにドイツ軍が英本土上陸作戦を開始するように欧州戦線が推移してないことを報告した。この時、及川海相から「そうすると何か、これを反故にするようなチャンスはどうかね」と尋ねられ、矢牧は「今大戦は、これまでと違って自動参戦が先立ってないので、この先々ヒトラーと手を切ることがあるだろう」と進言すると「そうかね」と及川は答えて決心を固めたという。他の海軍首脳には伝わっておらず、及川と矢牧のみの間で話し合われた希望的観測による見込みで実行されたもので、海軍部内でも周囲を驚かせた。・・・
 <1941年>10月7日、陸軍大臣・東條英機に「戦争の勝利の自信はどうか」と聞かれた時、「それはない」と答えた。それを聞いた東條は「仮にも海軍に自信がないのならば国策を考え直さなければならない」と述べたが、及川は、あくまで私的な場所での発言としてくれと付け加え、午後の連絡会議では議題に挙がることはなかった。だがこの際も永野修身軍令部総長がすでに日米交渉成立の見込みは無いとしていたものをまだ目途はあると突っぱねている。10月12日の近衛私邸での荻外荘会談では、<米国>の要求を呑んで<支那>から撤兵するか、それとも日米開戦かという基本方針が話し合われたが、その際、及川は和戦どちらかと近衛に尋ねられた際「総理一任」と述べて下駄を近衛に預けた。戦後、海軍反省会で井上成美大将から及川がこの時に海軍は戦えぬとなぜ言わなかったと詰寄ると、及川は「全責任我にある」と答えた。・・・
 及川の海軍大臣の任期中に日独伊三国同盟、仏印進駐、日ソ中立条約締結や帝国国策遂行要領の決定など、後の日本の進路を決めることになる重要な国策が数多く決定された。及川海相のやり方は大事なことは周囲に一切漏らさず、政府内の話し合いで、既成の事実がほぼ決まってから周囲を呼び出し無理矢理因果を含めてしまうというもので、異を唱えても「後の祭り」状態だったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8A%E5%B7%9D%E5%8F%A4%E5%BF%97%E9%83%8E

⇒及川に関しては、「<対英米>戦争を大東亜共栄圏の建設という至上の理想、「近代の超克」のために止むを得ないものと肯定した・・・高山岩男」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%B2%A9%E7%94%B7
との濃厚な交流や、「生家が比較的近い(現在は同じ花巻市内)<日蓮主義者の>宮沢賢治について、宮沢賢治全集を読み「面白い、不思議な人が生まれたものじゃないか」と同級生の野村胡堂に語っていた」」こと、や、「<対英米>戦争<開始>時の東條内閣顧問<務めたところの、当時、>三菱重工業社長<であった>・・・郷古潔<(ごうこきよし。1882~1961年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B7%E5%8F%A4%E6%BD%94 >
と、「盛岡中学の同級生で・・・<及川の>葬儀の際<に>・・・弔辞を読んだ」という間柄だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8A%E5%B7%9D%E5%8F%A4%E5%BF%97%E9%83%8E 前掲
ことから、杉山構想的なものに基づいて陸軍が動いていることを察知し、共感を覚え、この動きに沿った方向に海軍を、その発達障害に付け込んで、秘密裡に巧みに誘導したのではないか、という気がするに至っています。(太田)

 この会議の後、山本は近衛<文麿>の強い要請を受けて<当時第2次近衛内閣の首相であった>近衛<の>邸を訪ねている。
 近衛は陸軍があっさり三国同盟に賛成してしまったので、日米開戦に至った場合の見通しを、直接山本から聞きたかったのだという。・・・
 『近衛文麿手記』によれば、・・・同大将曰く「それは是非やれといはれれば初め半年か1年の間は随分暴れて御覧に入れる。然ながら2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致し方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避するやう極力御努力を願ひたい」とのことであった。・・・
 相澤淳<(注13)>氏は「半年や1年」という山本の返答は、陸海軍全体の共通認識だったと指摘する。・・・

 (注13)上智大院国際関係論専攻博士課程満期退学、防衛研究所助手、同所員、同主任研究官、同第2戦史研究室長、防大教授。
http://www.nda.ac.jp/cc/gsss/faculty/aizawa.html

⇒相澤教授の認識は完全に正しい。
 しかし、そんな、必敗の対英米戦に、どうして、当時の陸軍と海軍は乗り出すことに首をタテにふったのかが問題なのです。
 繰り返しになりますが、私は、陸軍については陸軍中枢が杉山構想を完遂させようとしていたから、また、海軍については組織としての発達障害のため、だと考えているわけです。(太田)

 <1941年>12月2日、出師命令を受けるために極秘に上京した山本は、堀を呼び出している。
 「堀悌吉自伝ノート」は、この最後の別れの場面で締め括られている。<(引用始め)>
 指定の場所に行くと、山本氏は畳の上に横になって居た。・・・
 「どうした」「とうとうきまったよ」「そうか…」「岡田(啓介)さんなんかも、(重臣会議で)ずい分言ったそうだネ」「効果なし…万事休すか」「ウン万事休す…尤も若し(日米)交渉が妥結を見る様なことになれば、出動部隊はすぐ引き返すだけの手筈はしてあるが…どうもネ」<(引用終り)>・・・
 翌3日、山本は参内し昭和天皇に拝謁。
 勅語に対して奉答を行った。
 そして4日、午前9時から海相官邸で極秘に行われた少人数の出陣式に臨んだ。
 山本に招かれた堀は、周囲に怪訝な顔をされつつも近親者代表として参列する。
 その後、堀は暮れに帰る山本を先回りして横浜駅のホームで見送る。・・・<(引用始め)>
 別れにのぞみ握手して「ぢゃ、元気で」というと、山本氏は、「ありがと…もうおれは帰れんだろナ」・・・<(引用終り)>」(134~135、144~145)

⇒山本は、機密事項を非現役軍人で部外者たる堀に明かし、また、機密の会合にこの堀を呼んでいますが、外国のスパイに堀の日記類が読まれたり、陸軍所管の憲兵にこれら事実を掴まれたりする、という大変な危険を伴う違法行為をやらかしており、これだけでも、連合艦隊司令長官失格です。
 そういう甘い防諜感覚だから、海軍暗号が破られている可能性を考えることなく、米軍に待ち伏せ奇襲を受けて命を落とすことになるわけです。
 もっとも、引用最終センテンスは、山本がそんな自分の最期を予見していたような内容であり、呆れると同時に身につまされます。(太田)

(続く)