太田述正コラム#13064(2022.10.18)
<渡邊裕鴻ら『山本五十六 戦後70年の真実』を読む(その10)>(2023.1.12公開)

 「・・・<真珠湾攻撃>作戦実施にあたった南雲忠一<(注14)(コラム#12790)>中将や草鹿龍之介<(注15)>少将は、あくまでも日米戦争の帰趨は、西太平洋での「戦艦主兵」の艦隊決戦によって雌雄を決するという従来の考えから抜け出てはいなかった。

 (注14)1887~1944年。海兵36期、海大36期(次席)。「1941年(昭和16年)4月10日、南雲は第一航空艦隊司令長官に補職され<た>。この人事は前海軍大臣・吉田善吾と連合艦隊司令長官・山本五十六によって決められた。候補には小沢治三郎もいたが、慣例により、年功序列で南雲に決まった。山本は扱いづらい小沢より航空参謀をつければ制御しやすい南雲を司令官に選んだという意見もある。・・・
 第一航空艦隊は真珠湾攻撃の研究と実行を命じられたが、南雲は懐疑的であり、機動部隊によるハワイ作戦は投機的すぎるとして、南方作戦優先を主張していた。・・・
 南雲ははじめから反復攻撃は行わないと決心しており、攻撃後は三川軍一(第三戦隊司令官)から再攻撃の具申があったが、南雲は草鹿の進言もあり予定通り離脱した。第二航空戦隊司令官山口多聞少将は「第二撃準備完了」と信号を送ったが、意見具申を勧められると山口は「南雲さんはやらないよ」と言って意見申請はしなかった。連合艦隊司令部では、山本五十六大将に参謀の数名が「再度の攻撃を第一航空艦隊司令部に催促するべし」と進言したが、山本は「南雲はやらんだろう」「機動部隊指揮官(南雲)に任せよう」と答え、再度の攻撃命令を発しなかった。山本は空母の喪失を引き換えにしても戦争を終わらせるダメージを与えたかったが、草鹿によれば、南雲にはその真意が知らされていなかったという。
 連合艦隊命令は「在布哇敵艦隊ヲ奇襲撃破ス」であり、再度の攻撃や石油タンク等を攻撃しなかったのは命令通りである。軍令部は開戦と同日に行われるフィリピン、マレー半島、香港などへの上陸作戦を成功裏に終えるための米艦隊主力減殺を本作戦の主目的としていたため、南雲を一撃のみで損害を避けた見事な作戦指導と評価した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%9B%B2%E5%BF%A0%E4%B8%80
 (注15)1892~1971年。海兵41期、海大24期。「1938年(昭和13年)4月25日、軍令部第一部第一課長兼海軍技術会議議員。大本営陸軍参謀兼務。草鹿は広東攻略戦、海南島攻略戦を推進した。「海の満州事変」と言われるこの作戦は陸軍の反対がある中、海軍主導で行われ米国の強い反発を招いた。草鹿は日独伊三国軍事同盟問題に対しては反対の立場をとっていた。大井篤によれば、当時の軍令部の課長で反対だったのは橋本象造と草鹿のみであったという。
 1941年(昭和16年)4月15日、第一航空艦隊参謀長。長官は南雲忠一中将。真珠湾攻撃の準備を命令された。9月24日、軍令部において大西瀧治郎中将が草鹿の真珠湾攻撃悲観論に同調し、10月初旬には二人で連合艦隊司令長官・山本五十六大将に真珠湾攻撃をやめフィリピン作戦に支援すべきと具申した。山本は大西と草鹿に「ハワイ奇襲は断行する。無理もあるが積極的に考えて準備するように。投機的と言わずに君たちにも一理あるが僕のも研究してくれ。」と説得した。大西は「草鹿君、長官がああまで仰るなら、一つまかせてみようじゃないか」と前言を翻し、唖然とする草鹿を横目に、大西と山本はポーカーを始めた。草鹿は「あの時はまいった」という。山本は草鹿を旗艦「長門」の舷門まで見送り、「真珠湾攻撃は、最高指揮官たる私の信念だ。どうか私の信念を実現することに全力を尽くしてくれ」とを草鹿の肩を叩いた。
 草鹿は航空参謀・源田実中佐が案画し飛行隊長・淵田美津雄が実行する好取組みと二人を評価しておりなるべく彼らの献策を入れて静かに見守った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E9%B9%BF%E9%BE%8D%E4%B9%8B%E4%BB%8B

 真珠湾奇襲作戦はは、あくまでもそのための支作戦であり、南方作戦が終わるまでアメリカ海軍を「黙らせて」おけば十分という理解しかなかった。
 南雲機動部隊は、充分な戦果を挙げたと判断し、第二陣の攻撃を検討することもなく、攻撃隊を収容するとただちに北方に引き上げてしまう。
 草鹿は、戦後に出版した自著のなかで、第二陣攻撃をすべきなどというのは「私にいわせれば(…)下司の戦法である」と述べている・・・。
 また、軍令部からは、空母を喪失しないで帰るよう求められていたともいう。
 しかし、<その後、>アメリカ太平洋艦隊司令長官<に任命された>チェスター・ニミッツは次のように捉えていた・・・。
 攻撃目標を艦船に集中した日本軍は、機械工場を無視し、修理施設には事実上手をつけなかった。日本軍は湾内の近くにある燃料タンクに貯蔵されていた450万バレルの重油を見逃した。(…)この燃料がなかったならば、艦隊は数カ月にわたって、真珠湾から作戦することは不可能であったであろう。米国にとってもっとも幸運だったことは、空母が危難をまぬかれたことである。(…)第二次世界大戦のもっとも効果的な海軍兵器である拘束空母攻撃部隊を編成するための艦船は、損害を受けなくてすんだのである。」(154~155)

⇒つめが甘かったことの責めは、邀撃漸減作戦的発想・・「西太平洋での「戦艦主兵」の艦隊決戦によって雌雄を決するという従来の考え」・・に、自身、依然捉われていて、だからこそ、艦隊派の跳ね上がりのような南雲(コラム#12790)を第一航空艦隊司令長官に就け、真珠湾からミッドウェーに至るまで使い続けた、山本、が全面的に負うべきでしょう。
 しかし、そんなことよりも深刻なのは、(開戦に最後まで反対を貫かなかったことは置くとしても、)「空母の喪失を引き換えにしても戦争を終わらせるダメージを与え<る>」、つまりは、真珠湾攻撃の戦果いかんによっては対英米戦争を終戦に導くことができる、と、いう、絶対にありえないことを山本が(一瞬だったかもしれないが)夢想したのではないか、と思われることです。
 そして、蛇足的に付け加えますが、勤務中にまでポーカー(や将棋)をやらせてしまうところの、山本の勝負事好きは、そのおかげで投機的な、結果的に「成功」した真珠湾攻撃を思いつかせ、決行せしめた、一方、重要作戦に継続的注意を払うことを妨げ、その結果、恐らく何か勝負事をしていて真珠湾再攻撃下命を躊躇わせたのではないか、と、私は勘繰っています。(太田)

(続く)