太田述正コラム#1618(2007.1.15)
<日本の科学技術の源も江戸時代?(その2)>(2007.7.15公開)
3 科学
 (1)天文方
 日本の科学の源の源は、1684年に改暦を機会として設けられ、天文観測を本務とし測量、地図作成、暦書和解などを行った天文方を徳川幕府が設置した時に求めることができるのかもしれません。
 1795年に天文方に任じられた高橋至時(よしとき。1764~1804年)の手によって日本で初めて西洋の天文学を取り入れた寛政暦が1797年に作成され(注1)、高橋はそれ以降も、宇宙の成り立ちや天体の運動原理そのものを知りたくて、オランダ語の本で勉強を続けます。
 (以上、特に断っていない限り
http://uenishi01k.at.infoseek.co.jp/s046-51edotenmon.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E8%87%B3%E6%99%82
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%94%BF%E6%9A%A6
http://www.d2.dion.ne.jp/~narumifu/
(1月15日アクセス)
 (注1)前野良沢(1723~1803年)、杉田玄白(1733~1817年)らによる1771年の腑分けの実見と1774年の翻訳書、解体新書の出版(
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/yogaku/kaitai/head.htm
。1月15日アクセス)を、日本における西洋科学の導入、発展のエポックとする見方が有力だ。しかし、西洋の天文学は寛政暦の形で現実に日本の暦の発展をもたらしたが、西洋の解剖学は必ずしも江戸時代の日本の医療の発展をもたらしたわけではないことから、寛政暦の作成の方をより重要視したい。
     江戸時代の日本の外科医は、解剖学の知識こそほとんどなかったが傷口を焼酎で洗うと治りやすいことくらいは常識的に知っていたのに、19世紀中頃までの西洋の外科医は、手術をする時に手や危惧を洗う習慣さえほとんどなかった。だから手術を受けた患者の半分近くは敗血症で死亡していたという。西洋の内科医もひどいものであり、モーツアルト(1756~91年)の死因ははっきりしないが、ベートーベン(1770~1827年)は肝硬変が原因で死亡したと考えられているところ、いずれも、モーツアルトは瀉血、ベートーベンは、腹水を抜く目的で腹に穴を開けた状態で蒸し風呂による発汗療法を行う、という内科医の誤った処方のために死期が早まった可能性が高いが、彼らが当時の日本の内科医に漢方薬を処方してもらっておれば、と悔やまれるという。(石川英輔『大江戸庶民事情』講談社文庫1998年 168、170、171、176、178頁)
 こういうこともあって、天文方は、幕末期には天文や暦学に直接関係のないことも引き受けるようになり、次第に西洋科学全般を担当し、ついには外国事情の調査まで行うようになりました。
 そして、ついに調査部門が独立して洋学所となり、更に蕃書調所となって、西洋の学術の教育と西洋書の翻訳を担当することとなります。江戸時代の末期には開成学校となって明治新政府に引き継がれ、大学南校を経て東京帝国大学へと発展していくことになるのです。
 (以上、石川『大江戸テクノロジー事情』前掲 214~215頁)。
 (2)日本の大学の前身である蕃書調所
 
 古賀謹一郎(1816~84年)は、祖父以来の三代目の幕府御儒者でしたが、1853年に洋学所の必要性を献言し、1854年に洋学所の責任者に任命されるや、今度はそのあるべき姿について案を提出し、この案を幕府が採択して1857年に蕃書調所が創設され、その責任者に任命されるに至ります。
 彼の案の骨子は次のようなものでした。
・武備、航海など緊急の書物は勿論だが、手隙の者にはそれ以外の書物例えば天文方書物中の有益なものの翻訳も行わせたい。(応用研究を重視しつつ理論研究も実施)
・諸芸事は書物ばかり調べるのでは国益にならないから、実地経験ができるよう役所内に設備を整えたい。武器製造、分析術などはせめて現物モデルだけは揃えなければ諸芸事が粗略になる。(実験・実証を重視)
・新役所取立ての趣意は、海内万民のため有益な科学技術の発展であるから、それらが早く世間に広まるよう、幕臣の外、陪臣、浪人の入学も認めたい。(学生・研究員を公募)
・邪教の書以外なら、西洋の書物、図面類、また実物の器械、兵器類を諸向きから問合せがあれば、貸して模造させ、世間一般に通用するようにしたい。(研究手段・成果を公開)
 興味深いのは、古賀が次のように、大変なキリスト教嫌いであるとともに、西洋の戦争狂ぶりに嫌悪感を抱いていた人物であったことです。
 「聖書を読むとその浅陋は甚だしい。西洋哲学の孟浪杜撰さを西洋技術の精巧さと比較すれば雲泥の差である。」
 「<クリミア戦争の惨禍に触れた上で、>人・・・まさに協力して治平を謀るべし。何ぞ彼我の有を恩怨し(=互いに嫉みあって)渓叡(の下に「土」)を厭わず(=貪欲に)両剛相傷み、血を玄黄(=天地)に流すに至や。蓋し小黒(につくりは「吉」)(=小猾い)にして大痴なり」
 (以上、古賀謹一郎の随筆より。小野寺龍太「日本の大学の父・古賀謹一郎の生涯」学士会会報2007-Ⅰ No.862 54~59頁)
 ここから、古賀が、やや応用研究(実学)に偏りつつも、当時の「西洋」諸国に比肩しうる高等教育・研究の理念を持っていたこと、しかし、人文・社会科学的知見は浅く歪んでいたことが分かります。
 特筆すべきことは、古賀は、私が言うところの横井小楠コンセンサスを共有していないという意味で、当時の有識者としてはめずらしい人物であるように見受けられることです。
 日本の大学における、(法「学」を除いた)人文・社会科学の弱体、自然科学における実学志向、そして没世間性、といった属性はことごとく古賀に由来するのではないか、という気がしてきますね。
(続く)