太田述正コラム#1784(2007.5.28)
<Sickoと米国の医療制度>(2007.7.16公開)
1 始めに
 三年前のカンヌ映画祭で’Fahrenheit 9/11’でパルムドールをとったマイケル・ムーア(Michael Moore)監督が、今年のカンヌ映画祭で彼の最新作である’Sicko’を招待作品として上映し、またまた米国の暗部を抉り出したその内容が話題を呼んでいます。
 まだ一般公開されていないこの映画についてご紹介するとともに、米国人の健康、ひいては米国について、改めて考えてみました。
2 Sickoの概要
 ムーアは、この映画でまず、医療保険に入っていない米国人がが5,000万人近くもいて、その多くは馬鹿げたとしか言いようのない理由で保険加入を拒否された人であること、しかも、医療保険に入っていると思っている場合でも、契約条項を持ち出して保険金の支払いを拒まれたりすることがしばしばあること、その結果米国人の平均的医療水準は、スロヴェニアよりちょっぴりマシの世界38位という低さであること、を説明します。
 その上で、実態を検証するとして、2001年の9.11同時多発テロの際、ニューヨークの貿易センターに緊急出動して負傷した消防士等のうち、米国で満足に治療をしてもらえなかった人々を連れて、ムーアが、米国の施政権が及んでいる所で唯一皆保険制が行われているキューバのグアンタナモ米軍基地を訪問し、そこでは治療を拒否され、次いでキューバの首都のハバナの病院を訪問し、ここでは治療がしてもらえたという事実、そして、キューバ人の平均寿命が米国人より長いという事実、を紹介します(注)。
 (注1)この件で、ムーアが米国の対キューバ禁輸政策に違反したのではないか、と米財務省が捜査に乗り出している。
 ここでムーアは、医療費が年間一人当たり230米ドルのキューバでできることが、どうして6,096米ドルの米国でできないのか、と疑問を投げかけるのです。
 またムーアが、カナダ、フランス、及び英国を訪問し、これら諸国の医療制度が米国のそれと比較していかに優れているかに驚いてみせる場面も出てきます(注2)。
 (注2)ただし、ムーアがこれら諸国の制度を過度に礼讃している、という批判が一部から出ている。
3 キューバと米国の比較
 このムーアの問題提起を踏まえ、実際に米国とキューバ(注3)の医療事情を比較してみましょう。 
 (注3)キューバについては、コラム#329、330参照。
 公式統計上は、キューバ人と米国人の返金寿命は77歳前後でほぼ同じです。ちなみに、乳児死亡率は米国よりキューバの方がかなり低いとされています。
 ただし、何事によらず、キューバの数字は額面通り受け取るわけにはいきません。
 百歩譲って、キューバの統計にまやかしがないとしても、なおいくつかの留保が必要です。
 一つには、キューバの妊娠中絶率が高いことが平均寿命を押し上げている、ということがあります。
 キューバから亡命者が継続的に出ていることも、亡命者については、誕生は記録されても死亡は記録されないために、平均寿命を押し上げている可能性があります。
 とはいえ、キューバ人の平均寿命が米国人のそれに比べてそれほど遜色がないことは否定できません。
 その原因としては、第一に、キューバでは米国に比べて病気の初期段階での治療により力を入れていることが挙げられます。これは、キューバでは診察が無料であるからできることです。
 第二に、キューバが発展途上国であることが逆に幸いしている面があります。
 車社会ではないために、歩くことで運動になっているとか、食糧があり余ってはいないので餓死することはないけれど、肥満に悩まされることもないといったことです。
 第三に、既に触れられたように、キューバの医療が無料(注4)なのに対し、米国では4,500万人以上の人が基礎的な医療保険に入っていないことです。これでは、お金のことが心配で、病気の初期で治療を受けることを躊躇せざるをえません。
 (以上、
http://www.nytimes.com/2007/05/27/weekinreview/27depalma.html?ref=world&pagewanted=print
(5月27日アクセス)、及び
http://www.variety.com/index.asp?layout=print_review&reviewid=VE1117933678&categoryid=31
http://en.wikipedia.org/wiki/Sicko
(どちらも5月28日アクセス)による。)
 (注4)ただし、ムーアが米国の消防士等を連れて行ったハバナの病院は党の幹部や外国人向けのものであり、米国並みの技術を持った医師がいて米国並みの機器が完備しており、しかも、文字通りあらゆるものが無料だ。しかし、キューバの1,100万人の一般人が行く病院は、医師の技術も高くなく、機器も整備されておらず、その上、患者が食糧、石鹸、シーツ類を持ち込まなければならない。しかも、現在ベネズエラで(石油の見返りに)2万人のキューバ人医師が働いており、キューバ国内は医師不足に陥っている。
4 感想
 特権階級は存在するものの基本的に乏しきを分かち合うのか、格差を是認しつつ平均的には高い生活水準を享受するのか、民主主義独裁の下で人権抑圧に甘んじるのか、高度な自由民主主義を享受するのか、という点で、キューバと米国は両極端であると思います。 
 その両極端の二つの国の国民の平均寿命がほぼ同じだ、というのは面白いですね。
 いずれにせよ、ムーア監督が2002年の映画’Bowling for Columbine’で糾弾した米国の銃社会ぶりといい、今回糾弾した米国の医療制度の遅れといい、他人事ながら、何とかしてくれ、と言いたくなります。