太田述正コラム#13122(2022.11.16)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その25)>(2023.2.11公開)

 「・・・昭和14年(1939年)9月1日、ドイツ軍のポーランド侵略によって第二次欧州大戦が開始された。
 このため米海軍は「第三次ビンソン案<(注41)>」を成立させるとともに、さらなる増強を目指した「スターク案<(注42)>」も策定した。・・・

 (注41)「ヴィンソン案は、<米>海軍の建艦計画。建造予算成立を推進した<米>下院議員のカール・ヴィンソンの名前からこう呼ばれる。三度にわたり提出され、<米>海軍の軍備拡張に大いに貢献した。
 第一次ヴィンソン案<は、>軍縮条約下での建艦計画。1934年のヴィンソン・トランメル法によって予算成立。条約に規定された保有量を満たすための計画。
 第一次ヴィンソン案で計画された艦 航空母艦ワスプ 軽巡洋艦2隻 駆逐艦14隻 潜水艦6隻
 第二次ヴィンソン案<は、>事実上の無条約期になってから最初の計画。1938年の海軍拡張法によって予算成立。海軍力25%増強を図る。
 第二次ヴィンソン案で計画された艦 サウスダコタ級戦艦3隻 エセックス級航空母艦1隻:エセックス 巡洋艦 駆逐艦 潜水艦
第三次ヴィンソン案<は、>大日本帝国海軍の<マル4>計画に対応して策定。1940年の海軍拡張法によって海軍力25%増強を図るが、査定により11%増強にて成立。同年、ナチスドイツのパリ占領を受けて成立したスターク案(同70%増強)と合わせて二大洋海軍の実現に貢献。
 第三次ヴィンソン案で計画された艦 アイオワ級戦艦2隻 エセックス級航空母艦3隻 巡洋艦 駆逐艦 潜水艦」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3%E6%A1%88
 (注42)「<米>海軍作戦部長ハロルド・スタークが提案した<米>海軍の建艦計画。スタークスプラン(Stark’s plan)とも。第二次世界大戦の欧州でのドイツの快進撃により、太平洋、大西洋の両方面に同時に対応可能な戦力を保持することを目的として提案。1940年7月に成立した両洋艦隊法によって予算成立。
 この計画は、アイオワ級戦艦、エセックス級航空母艦など合計135万トンの艦艇建造が計画された。この数字は、大日本帝国海軍の当時の連合艦隊の総戦力147万トンに匹敵する数字であり、圧倒的な計画であった。
 スターク案で計画された艦 アイオワ級戦艦2隻 : イリノイ(起工後建造中止)、ケンタッキー(起工後建造中止) モンタナ級戦艦5隻 : 航空母艦の建造を優先したためすべて未成 エセックス級航空母艦7隻 重巡洋艦 軽巡洋艦 駆逐艦 潜水艦」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%AF%E6%A1%88

 一方、日本海軍では、「第三次ビンソン案」についての情報が入り始めた昭和14年頃からその対応策を検討し始め、・・・主務担当の軍令部第二部(軍備)長の高木武雄<(注42)>少将・・・の下<で>軍令部第二部第三課長<の>柳本柳作<(注43)>・・・大佐<によって、>・・・昭和16<(1941)>年初めになって「第五次海軍軍備充実計画案・<マル5>計画」を策定した。

 (注42)1892~1944年。海兵39期、海大23期。「太平洋戦争開戦時には重巡洋艦「妙高」、「那智」、「羽黒」からなる第五戦隊の司令官として南方攻略作戦に参加。1942年(昭和17年)2月[2月27日から3月1日]にかけての>スラバヤ沖海戦における日本側艦隊指揮官。・・・
 乗艦を沈められて漂流していた米兵多数に対し、救助命令を出し大勢の米兵を救助した事から、米国スミソニアン博物館にて功績を紹介されている日本人唯一の提督でもある。・・・
 1942年・・・5月7日、史上初の航空母艦同士の海戦である珊瑚海海戦において第四艦隊司令長官井上成美中将のもと、第五戦隊、原忠一少将率いる第五航空戦隊などからなる機動部隊を指揮した。 高木中将は味方戦力の消耗激しく第2次攻撃の命令を独断で黙殺した。当時、内地にあって戦闘経過を見守っていた連合艦隊司令部では「コノ際極力敵ノ殲滅ニ努ムベシ」と叱咤した。<米国>の戦史家ジョン・トーランドは珊瑚海海戦のとき、高木提督が空母同士の交戦を一時中止して北上し、索敵機を飛ばす海域を絞り込んで、翌日再攻撃に移った戦術を「日本海軍には珍しく合理主義的な提督だ」と評している。・・・
 1943年(昭和18年)6月、潜水艦が主体の第六艦隊司令長官に親補され、翌1944年(昭和19年)6月6日、サイパン島に進出、マリアナ沖海戦に挑む。・・・
 1944年(昭和19年)7月6日、サイパン島の戦いで戦死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E6%AD%A6%E9%9B%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%90%E3%83%A4%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6 ([]内)
 (注43)やなぎもとりゅうさく(1894~1942年)。海兵44期、海大25期。「実家が富裕ではなかった為に旧制中学校卒業と同時に母校の尋常小学校で代用教員を務め、貯財した上で翌年改めて海軍兵学校に入校するという苦労を強いられている。・・・
 軍令部第二部第三課長在任中、日独伊三國間同盟條約締結に軍令部在勤課長職の大多数が賛成だったなか、橋本象造第二部第四課長と共に締結に反対した。海軍軍備計画を所轄する軍令部第三課長時代、レーダーに関心をもつなど先進的・合理的な頭脳の持ち主だった。ただしレーダーの開発を推進することは無く、その点を惜しむ声がある。・・・太平洋戦争勃発直前の1941年(昭和16年)10月6日に空母「蒼龍」艦長を拝命しハワイ作戦、ウェーク島攻略作戦、インド洋作戦等の一連の作戦に参加する。しかしミッドウェー海戦で米軍急降下爆撃機から投下された爆弾三発が「蒼龍」に命中し大破炎上、沈没直前に総員退艦命令を発令するが、柳本自身は退艦を潔しとせず艦橋に残り、運命を共にした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%9C%AC%E6%9F%B3%E4%BD%9C

 この「<マル5>計画」は、戦艦3隻、超巡洋艦2隻、空母3隻、潜水艦45隻などを含む158隻、65万トン、航空兵力は160隊の増強という厖大なものであった。
 ところが、「<マル5>計画」をもってしても、艦船では米国の6割、航空兵力では2割5分にしかならなかったのである。

⇒その前年の1940年の9月27日に日独伊三国同盟が締結されている以上、工藤は、(既に大戦に突入していた)独伊海軍(の増強ペース)、逆から言えば、米国の(計画を含めた)大西洋配備海軍兵力、を勘案した数字も示すべきでした。
 なお、杉山らとしては、三国同盟締結によって、1941年末~42年初時点においては、日本の海軍力が米国の対日志向可能海軍力を上回ることが確実になったことで、海軍に対英米戦開始を反対させにくくした、という捉え方もできるでしょうね。(太田)

 日米間の兵力差を埋めることは、当時の日本の工業力では到底不可能だった。
 さらに資材、人員、生産設備の面でも、陸軍の協力は得られなかった。
 こうした中で、「<マル5>計画」の予算的措置を求めるための省部首脳会議が、開催され・・・た。・・・
 この会議には、井上も航空本部長として列席していた。・・・
 井上は、・・・「この計画は、明治大正時代の軍備計画である。・・・アメリカの軍備に追従して各種の艦艇をその何割に持って行くだけの誠に月並みの計画で、…どんな戦は何で勝つのか、それが何程必要なのかというような説明もなければ計画にも表れていない。…軍令部はこの案を引っ込めて、篤と御研究になったらよいと思います!」と厳しく批判した。・・・
 <そして、>それから一週間ばかりかけて、年来の持論である「戦艦不要論」と「海軍の空軍化」を骨子とした次の「新軍備計画論」と名付けた意見書を、<1941年>1月30日付で及川海相に提出した。」(212~214)

(続く)