太田述正コラム#1889(2007.8.1)
<奇跡が起こったイラク>(2007.9.3公開)
1 始めに
 悪いニュースばかりだったイラクで二つの奇跡が起こりました。 
 
2 サッカー・アジアカップでのイラク優勝
 7月29日にジャカルタでサッカー・アジアカップの決勝戦が行われ、イラクがサウディアラビアを1対0で破って優勝し、イラク内外のイラク人は驚喜しました。
 決勝ゴールをあげたのは、スンニ派のトルクメン人でアシストしたのはクルド人であり、4試合連続で相手に1点もあげさせなかったゴールキーパーはシーア派、といった具合であり、これは現在不幸にしていがみあっているイラク諸民族・諸派が、結束すればいかなることを成就できるかを象徴する出来事である、ともイラクでは受け止められています。
 イラクチームの24選手中の15人はイラク以外の中東各地のチームに所属していますが、イラク・ナショナルリーグ所属の選手も9名いて彼らは極めて劣悪な環境の下で短期間しかプレーできておらず、にもかかわらず、相手のサウディアラビアは1956年に始まったアジア・カップで3回も優勝した強豪であるところ、6カ国が参加した1976年に4位になったのが最高というイラクが初優勝したのですから、まさに奇跡が起こったとしか見えません。
 この「奇跡」に対し、世界中の人々がイラクの人々に祝福を送りました。
 しかし、こんな日にも政治が影を落としました。
 決勝ゴールをあげた24歳の選手は、自分はイラクに帰るつもりはないとし、「私は米国に出て行って欲しい。今日でも明日でも明後日でも出て行って欲しい」と語りましたし、クルド旗以外の旗を掲げることが禁止されているイラクのクルド人地区や、ヨルダン旗以外の旗を掲げることが禁止されているヨルダンのイラク人達でイラク旗を掲げて勝利を祝った人々は旗を没収されました。
 (以上、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/07/29/AR2007072900269_pf.html
http://goal.blogs.nytimes.com/2007/07/29/the-view-from-amman/#more-138
(どちらも7月31日アクセス)による。)
3 ついに燭光が見えてきたイラク治安情勢
 オハンラン(MICHAEL E. O’HANLON)とポラック(KENNETH M. POLLACK)という、これまでブッシュ政権のイラク政策を厳しく批判してきた米国の2人の国際問題研究者達がイラクを訪問し、少なくとも治安面ではイラク情勢が顕著に好転した、と要旨以下のように報告しました。
 ペトラユース(Petraeus)米イラク派遣軍司令官の下で、3万人増員されたところの米軍兵士達の士気が高揚している。
 そして、イラクの人々のアルカーイダ等のスンニ派のイスラム過激派や(それほどではないものの)シーア派のサドル師のマーディ民兵に対する反感が募っている一方で米軍への期待が高まっていることが見て取れた。
 米国等によるイラク再建事業も軌道に乗り始めており、米軍はここでも積極的に協力している。
 イラク軍は機能するようになり、しかも部隊構成の民族・諸派混成度も高まってきている。
 イラクの国家警察はまだ機能しているとは言えないが、各地で地方警察を設立する動きが出てきている。
 こうしたことの結果、今年5月に米軍の死者が128人と最悪を記録したところ、7月には死者の数が74人まで減った。これは、昨年11月以来の最低の数字だ。
 しかも、米軍の数を増やしたバグダッドだけでなく、アンバール、サラハッディン、ディヤラという、バグダッドと並んで米軍の死者が沢山出てきた州でも軒並み死者の数が減っている。
 イラク人の死者の数も減っている。
 今年5月の死者数は1,980人だったが、7月には1,664人まで減った。(ただし、この数字には米軍の死者の数のような信憑性はないことに注意が必要。)
 (以上、
http://www.nytimes.com/2007/07/30/opinion/30pollack.html?_r=1&oref=slogin&pagewanted=print
(7月31日アクセス)、及び
http://www.csmonitor.com/2007/0801/p01s01-woiq.htm  
(8月1日アクセス)による。)
 これもまた、つい何ヶ月か前のことを思えば奇跡的なことと言えるかもしれません。
4 終わりに
 しかし、以上の2つの「奇跡」は決して奇跡ではないと思います。
 イラクのサッカーチームは準決勝で(後に3位決定戦で日本を破った)韓国を破りましたし、対サウディアラビア戦でもシュートの数で12対4と圧倒的に上回っていました。イラク優勝の事前の掛け率は50対1だったといいます(ワシントンポスト上掲)が、相当実力があったからこそ、優勝できたのだ、と言うべきでしょう。
 同様、3万人の増員で何とかなるという成算があったからこそ、ペトラユースはイラク派遣軍司令官を引き受けたに違いありません。
 ベトナムでも最終的にベトコン/北ベトナム軍平定作戦に成功したように、米軍はついにイラクでもイスラム過激派平定作戦に成功しつつある、と私は確信しているのです。