太田述正コラム#13138(2022.11.24)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その33)>(2023.2.19公開)

 「その決行日は7月20日と決まった。
 ところがテロ決行の前日、東条内閣が突如総辞職したため、未遂に終わることになった。<(注59)>

 (注59)「陸軍内部に東條暗殺計画があったように、海軍内部にも、そして民間側にも同様の計画があった。具体的な内容を伴っていたかとなると、すでに紹介したように陸軍の参謀と石原莞爾系の東亜連盟の会員による計画がより精密に出来上がっていた。7月18日(昭和19年)に行動を起こすことになっていて、手榴弾を使い、場所も国会沿いの道でと決まっていた。しかしこの日、東條は退陣して計画は中止になった。」
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/300694
 津野田知重(1917~1987年)。陸士50期(11番)、陸大56期。
 「日露戦争で第三軍指揮官乃木希典の参謀を務めた津野田是重・・・の三男として誕生。・・・
 父親の後を継いで陸軍に入ることを決めた際に母親から反対されたが、父の部下であった山下奉文の後押しもあり、軍人となる。・・・
 1943年(昭和18年)2月 – 第36師団参謀<、>1944年(昭和19年)3月 – 陸軍少佐
 1944年(昭和19年)5月 – 参謀本部第1部第3課付<。>・・・
 津野田は親交のあった柔道家の牛島辰熊と木村政彦と共に自らが計画した東條英機暗殺、東條内閣打倒計画を行おうとした。これには山形県で隠棲していた石原莞爾も大いに賛同する。 計画は、東條が乗っているオープンカーに向けて、皇居二重橋前の松の樹上から青酸ガス爆弾を投げ付けて東條を暗殺するというものであったが、内閣打倒までは賛同していた三笠宮崇仁親王に対して津野田が計画の細部を打ち明けたところ、東條の暗殺までは容認できなかった三笠宮が憲兵隊に通報した為に津野田と牛島は逮捕された。両名は軍法会議によって裁かれたが、結審が東條内閣崩壊後である1945年(昭和20年)3月であった為、津野田は陸軍から免官のうえ、禁固5年、執行猶予2年で釈放。牛島は不起訴。・・・
 戦後は実業界で活動。特に日本科学技術振興財団専務理事時代にはテレビ局「東京12チャンネル」(現在のテレビ東京)の設立に尽力した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E9%87%8E%E7%94%B0%E7%9F%A5%E9%87%8D
 津野田是重(これしげ。1873~1930年)。幼年学校、陸士6期(首席)、陸大14期(優等)。
 「1901年(明治34年)6月、参謀本部出仕となり、参謀本部部員、フランス駐在、参謀本部付を経て、1904年(明治37年)5月、第3軍参謀に発令され日露戦争に出征。旅順攻囲戦から奉天会戦まで戦った。1905年(明治38年)5月、陸軍歩兵少佐に進級。
 1906年(明治39年)2月、フランス駐在となり、参謀本部付(フランス出張)、陸大教官、近衛歩兵第3連隊大隊長を歴任し、1911年(明治44年)1月、陸軍歩兵中佐に進級。1913年(大正2年)1月、奈良連隊区司令官に補され、1915年(大正4年)4月、陸軍歩兵大佐に進級。同年8月、歩兵第11連隊長に転じた。1919年(大正8年)4月、陸軍少将に進級すると同時に待命、同年8月、予備役に編入される。
 予備役編入後、衆議院議員に政友会から立候補し当選、1920年(大正9年)から1924年(大正13年)まで勤めている。
 「津野田少佐から暗殺計画書を受け取っ<た>・・・三笠宮<は、>・・・母貞明皇太后に厳しく叱責されたため主導者の津野田少佐を裏切る形になった<。>」
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E7%AC%A0%E5%AE%AE%E3%81%A8%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F%E6%9A%97%E6%AE%BA%E8%A8%88%E7%94%BB-%E6%A5%B5%E7%A7%98%E8%A8%BC%E8%A8%80%E3%81%8B%E3%82%89%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%8F%B2%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%81%AB%E8%BF%AB%E3%82%8B-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%8A%A0%E8%97%A4-%E5%BA%B7%E7%94%B7/dp/4569832725

⇒工藤は、少なくとも津野田事件にも触れて欲しかったところです。
 陸軍では、海軍のように、少将レベルまで、東條暗殺に同意するような者が出現しなかっただけまともです。
 (いずれにせよ、高木も含め、東條内閣打倒に賛成した者達全員が、軍事的には既に敗北が明白となった戦争を東條らが続けようとしているのはどうしてなのかについての想像力を持ち合わせず、またその疑問を解明する努力もした形跡がないのは困ったことですが・・。)
 津野田については、自分の超優秀な父親が陸軍で営門少将にしかなれなかったことへのわだかまり、や、ニューギニアに第36師団
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC36%E5%B8%AB%E5%9B%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)
の戦友達を残して自分が東京に戻れたことへの罪悪感、が東條暗殺を決意した背景にあるように思います。
 なお、三笠宮が、津野田の企みを貞明皇后に打ち明けたのは、決してマザコンによるものではなく、やはり、当時、同皇后が天皇家を引き続き牛耳っていたからでしょうし、同皇后が三笠宮を厳しく叱責したのは、(三笠宮の想像を絶することだったでしょうが、)彼女自身が、先の大戦の日本における事実上の最高司令官であって、東條どころか、杉山元でさえ、彼女の統率に従って動いていたに過ぎない以上、当たり前です。(太田)

(続く)