太田述正コラム#1673(2007.2.25)
<英国のインド統治がもたらしたもの(その1)>(2007.9.20公開)
1 始めに
 このところ、支那とインドが高度経済成長を続けており、21世紀はアジアの世紀になると言われています。
 しかし、1700年の時点を振り返ってみれば、支那とインドは併せて世界のGDPの47%を占めていたと推計される一方で、西欧(含むブリテン諸島)の推計値は26%に過ぎなかったのです。
 1870年には支那とインドを併せたGDPの世界のGDPに占めるシェアは29%にまで落ち込み、その一方で西欧(含む英国)シェアは42%へと上昇した(
http://www.atimes.com/atimes/Global_Economy/IA27Dj01.html
。1月27日アクセス)ものの、現在の支那とインドの高度経済成長は、単に両地域、ひいてはアジアが本来の状態へと復帰しつつあるだけのことであると考えるべきでしょう。
 それでは、この間の支那とインドのGDPシェアの異常な落ち込みはどうして生じたのでしょうか。
 元凶は西欧列強のアジアの植民地化であったのではないか、という疑いを誰でも抱くことでしょう。
 アジアの植民地化の中心となったのは英国です。
 そこで、英国のインド統治の実績を見てこの容疑を裏付けてみましょう。
2 英国のインド統治の実績
 (1)客観的事実
 
 英国統治下のインド亜大陸において、1911年には原住民の識字率は6%に過ぎなかったところ、それが1931年には8%、1947年には11%に上がっただけでした。ところが独立後には、わずか50年でインドの識字率はその5倍に高まっています。また、1935年の段階で、わずかに1万人に4人しか大学以上の高等教育機関に進学していませんでした。
 1757年には、英東インド会社が報告書の中でベンガル地方のムルシダバード(Murshidabad)について、「この都市はロンドンのように広くて人口が多くて豊かだ」と記したというのに、1911年にはボンベイの全住民の69%が一部屋暮らしを余儀なくされるようになっていました。(同じ時期のロンドンでは6%。)1931年には74%にまでこの比率が高まっています。インド亜大陸の他の大都市も皆同じようなものでした。第二次世界大戦直後にはボンベイの全住民の13%は外で寝起きをすることを強いられていました。
 農業人口は1891年には61%だったのが、1921年にはむしろ73%に増えていました。この点でもインド亜大陸では歴史が逆行したのです。
 1938年の国際労働機関(ILO)の報告書によれば、インド人の平均寿命は1921年にわずか25歳であったところ、それが1931年には23歳に短縮しています。また、Mike Davis, Late Victorian Holocausts(コラム#397)によれば、インド人の平均寿命は1872年と1921年の間に20%短縮しました。
 1770のベンガル大飢饉の時には、東アジア会社統治下のベンガル地方の人口の六分の一にあたる120万人が死亡しましたし、この会社統治下のインド全体で19世紀前半には7回の飢饉が起こり、150万人が死亡し、英国の直接統治となった19世紀後半には24回の飢饉が起こり、公式数字ベースでも2,000万人以上が死亡しています。また、Davis上掲によれば、英国がインド亜大陸全体を支配した120年間に31回も大飢饉が起こっているところ、それ以前の2,000年間に大飢饉は17回しか起こっていないとしています。
 以上は、インド亜大陸の人口が爆発的に増えたせいでは決してありません。
 1870年から1910年にかけてインド亜大陸の人口は19%増えましたが、この間、宗主国のイギリス(英国ではない!)の人口の伸びは実にその3倍の58%であり、欧州のそれは45%だったのですから・・。
 (以上、アジアタイムス前掲、
http://india_resource.tripod.com/colonial.html
http://en.wikipedia.org/wiki/British_East_India_Company
(どちらも2月25日アクセス)による。)
 (2)英国がやったこと
 英国は一体インド亜大陸で何をやったのでしょうか。
 それには、まず、英東インド会社がインド亜大陸で何をやったかを振り返らなくてはなりません。
(続く)