太田述正コラム#2082(2007.9.24)
<福田康夫体制を点検する(その1)>
1 始めに
 福田康夫氏が自民党総裁・首相に就任する運びになりましたが、彼の率いる体制の布陣を点検してみましょう。
2 総裁・首相
 既に私の福田評は以前(コラム#2064と2076で)申し上げたところですが、それに付け加えておきましょう。
 福田氏の出身校である麻布中学・高校の同級生の声優、柴田秀勝氏が、実に興味深い福田評を語っています。
 「福田には友達がいなかった。部活もやっていなかったし、いつも一人でいたね」
 「もちろん女の子には見向きもしなかった」
 「福田を見た記憶はあるけど… いつも勉強しているか、本を読んでいるか。笑顔も見たことがない。」
 それでいて、「成績は中の上かな。周りからは『東大に行けたのに何で早稲田?』と思われるくらい・・だった」。
 「福田はリーダーシップを取ったことがない。子供のころから自分の殻に閉じこもって頑張ってたから。こんな大変なときに総理になって…。同期も『長続きするかねえ』って言ってるよ」
 「他の同級生仲間も『俺、福田と同じクラスになったことあったっけ?』と首をかしげ合っている」
 (以上、
http://news.livedoor.com/article/detail/3317935/
(9月23日アクセス)による。)
 中高時代の話ではあっても、これでは福田氏は、並の政治家ならともかく、総裁・首相に求められる知的能力と資質に欠ける人物であると言われても仕方ありませんね。
 また、福田氏は、「政治家になりたくてなったわけではない」と言われています(
http://72.14.235.104/search?q=cache:7Jmh81AYr_MJ:news.livedoor.com/article/detail/3307830/+%E7%A6%8F%E7%94%B0%E5%BA%B7%E5%A4%AB%3B%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%8F%E3%81%A6%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%82%8F%E3%81%91%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84&hl=ja&ct=clnk&cd=5&gl=jp
。9月24日アクセス)。
 自らの政治資金集めにも、首相候補と目されてきたにしては、不熱心であるようです(
http://www.asahi.com/politics/update/0923/TKY200709230151.html
。9月24日アクセス)。
 
 これでは、政治家としての意欲にも疑問符がつかざるをえませんね。
3 自民党
 伊吹文明幹事長、二階俊博総務会長、谷垣禎一政調会長、細田博之幹事長代理、古賀誠選挙対策総局長、という自民党執行部の布陣を見ると、いずれも福田氏の総裁当選に貢献した人々ばかりであり、4人は派閥の領袖であり、1人(細田氏)(注1)は、恐らく福田氏意中の将来の総裁・首相候補であると考えられます。
 (注1)細田氏は、旧通産省出身の2世義員だが、文系なのに科学技術に通暁するとともに、自民党随一の選挙通とされている。私は官僚時代に、政治家になったばかりの細田氏と会合で一緒したくらいの関係しかないが、その時、細田氏をよく知る、氏とそれほど年次の違わない官僚達が恭しく彼に接する態度を見て、細田氏は相当の識見を備えた辣腕官僚であったに違いないと思ったものだ。
 このうち、伊吹、二階の両名にはカネをめぐる不祥事疑惑が囁かれており、これらの人々を内閣から敬して遠ざけた、という見方もできます。
 ただし、敬して遠ざけようと、ここから、前任者の安倍氏同様、福田氏のカネをめぐる不祥事への鈍感さ(朝日前掲)が透けて見えてきます。
 ちなみに古賀氏は、総務会長を打診されたところ、どちらも宏池会の系譜に属する、古賀派と谷垣派同士での合併が取り沙汰されているため、一方の谷垣氏が政調会長になった以上自分は辞退することとし、選挙対策総局長というより軽いポスト回ったとされています。
 どうして、選挙の顔として必ずしもふさわしくない伊吹氏を幹事長に据えたのかについて、種々憶測が飛んでいますが、私は、福田氏の旧大蔵官僚への謝意とコンプレックス(コラム#2064)の表れであると見ています(注2)。
 (注2)私が防衛庁に入ったばかりの頃、当時大蔵省で防衛担当の主査の1人であった伊吹氏のもとに防衛庁の資料を届けさせられたことがある。その時、その資料の内容を既に知っていた伊吹氏が、私に向かって防衛庁はけしからんと怒鳴りつけた。カネを握っているというだけで、他省の、しかも単なる走り使いにこういう態度で接する伊吹氏に呆れたものだ。
 この幹事長人事は福田氏の大いなるチョンボであると言うべきでしょう。
 はっきりしているのは、福田氏が、政治家としての資質と意欲において、この5人のいずれと比べても大いに遜色があることと、知的能力において、伊吹、谷垣、細田各氏に到底及ばないことです。
 ということは、福田内閣は、党務も政策立案も、完全に党まかせになる可能性が高いということであり、実際の政策立案は財務省を中心とした官僚機構主導にならざるをえないということです。
 福田氏はそれでかまわないし、むしろそうあるべきだと思っているということでしょう。 
 やはり、福田体制においても、政官業の癒着体制は、引き続き堅持されることになりそうです。
 (以上、私の見聞を除き、事実関係は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%90%B9%E6%96%87%E6%98%8E
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E4%BF%8A%E5%8D%9A
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%9E%A3%E7%A6%8E%E4%B8%80
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E7%94%B0%E5%8D%9A%E4%B9%8B
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%B3%80%E8%AA%A0
(9月24日アクセス)による。)
(続く)
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 コラム#2083(2007.9.24)「ミャンマー動く(続)(その2)」のさわりの部分をご紹介しておきます。
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 スーチー女史の父親のアウンサン(Aung San。1915~47年)はミャンマー独立の父とも言うべき人物です・・。
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 その女史に決定的な転機が訪れたのは1988年です。
 ネウィンの26年間にわたる社会主義的独裁によってミャンマーが世界の最貧国の一つに転落していたところへ、1987年の9月に政府が紙幣のほとんどを無効化したため、タンス預金が無価値になったことに怒った人々がデモを始め、それが次第に民主化運動に発展していき、1988年7月にネウィンが引退を声明したにもかかわらず、8月8日にはミャンマー全体が騒擾状態に陥ったのです・・。
 病に斃れた母の看病のためにミャンマーに戻っていた女史は、アウンサン将軍の再来として、急速に民主化運動の象徴へと祭り上げられていくのです。
 事態は、軍部による大弾圧と全権掌握、・・スーチー女史を書記長とする政党・国家民主化同盟(NLD)・・の結成へと動き、1990年の総選挙における民主化同盟の大勝利、その軍事政権による無効化、1991年の女史へのノーベル平和賞の授与、と続き、女史は1989年以降断続的に軟禁状態に置かれつつ、現在に至っているわけです。
 この間、女史は一貫して敬虔な仏教徒であり続けるとともに、非暴力主義を訴えてきました。
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 ネウィン独裁政権にせよ、現在の軍事政権にせよ、彼らなりの大義名分は、軍部支配の終焉は、少数民族の独立によるミャンマー・・現在人口5,500万人・・の崩壊をもたらす、というものです。
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 その軍事政権は、1989年に国名をビルマからミャンマーに、ラングーンをヤンゴンに改め、1990年代初頭から、従来の社会主義的経済運営を止め、外国からの投資と観光客を呼び込むねらいで経済開放政策をとっています。
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 しかし、・・NLD弾圧を軍事政権に翻意させるべく1990年から欧米諸国によって経済制裁が行われている<こともあって>、ミャンマーは、中共で起きたような経済的離陸を果たせないでいます。
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 ここで、諸外国の動きを見てみましょう。
(続く)