太田述正コラム#1730(2007.4.12)
<宗教を信じるメリット?(その4)>(2007.10.11公開)
 宗教・適応説の代表格は、米国の生物学者・社会学者・人類学者・宗教学者のウィルソン(David Sloan Wilson)です。
 (以下、追加的に、
http://www.amazon.com/gp/product/product-description/0226901351/ref=dp_proddesc_0/104-8066334-0411969?ie=UTF8&n=283155&s=books
http://www.randomhouse.com/catalog/display.pperl?isbn=9780385340212&view=excerpt
http://www.csulb.edu/~kmacd/books-dswrev.html
http://theoccidentalquarterly.com/vol3no2/rf-wilsona.html
(いずれも4月11日アクセス)も参照した。)
 ウィルソンは、淘汰(natural selection)はもっぱら個体レベルで生じるのであって、集団の間で生じる淘汰など無視してもよい、という米国の学者の間の常識に真っ向から挑戦している学者です。
 つまり彼は、淘汰は個体レベルのみならず、個体が寄せ集まった集団レベルでも起きるとし、人間の場合、宗教やイデオロギーは、人間集団が、一つの単位ないし有機体として、環境に生物学的かつ文化的に進化的に適応できるようにするために不可欠なものである、と主張するのです。
 実際、様々な文明の核心的性格は宗教やイデオロギーによって与えられてきた、というわけです。
 考えてみると、これは1世紀前の、社会進化論を唱え、宗教は社会の絆であると主張した、英国のスペンサー(Herbert Spencer 。1820~1903年)や、宗教は人間集団が調和がとれよく調整された単位として機能するために生まれたと主張した、フランス生まれのユダヤ人にして社会学の創始者であるデュルケム(Emile Durkheim。1858~1917年)、更には(これは私見ですが、)宗教を人間集団(文明)の方向性を決定づけるもの(転轍器)であると主張したヴェーバー(Max Weber。1864~1920年)らの考え方への復帰です。
 ウィルソンら宗教・適応説をとる人々は、宗教やイデオロギーは、個人レベルでは、人間を、快適な気持ちにし、死についての思いに苛まれることから解放し、未来のことにより意識を集中させ、前向きに自分達の生活に取り組ませるとし、おかげで、宗教的(ないしイデオロギー的。以下同じ)な人間は、食物を発見し蓄えることがより上手になり、道徳的で従順であってきちんとした生活を送ることから、よりよい配偶者も得られる、と指摘します。
 彼らはまた、集団レベルでも、宗教的な集団は、団結力が強い上、集団のために自らを犠牲にする個人をより沢山抱えており、資源を分かち合うことや戦争を準備することにより巧みであるから、非宗教的な集団に比べて有利である、と指摘します。
 このような宗教的な集団のメンバーである個人は、非宗教的な集団のメンバーである個人に比べて、自分のエゴを自由に追求できないばかりか、集団のために犠牲になることすら求められることがあるという意味では大きなコストを甘受しなければならないところ、メンバーを平均すれば、そんなコストを支払ってもおつりがくる大きいメリットが得られる、というわけです。
 (もっとも、宗教的な集団が宗教的なメンバーばかりで構成されていると、ひどい誤帰因や誤解(コラム#1727)が原因で集団が一気に滅びてしまう危険性が高いことから、滅亡を免れた宗教的な集団は、非宗教的なメンバーを相当の割合で抱える集団であるらしい。)
 キリスト教を例にとれば、ローマ帝国の伝統的な考え方とは相反し、キリスト教は、大家族、夫婦間の貞節、熱心な子育てを奨励し、堕胎、嬰児殺し、生殖と無関係の性行動を禁止しました。そのおかげでキリスト教徒の女性の出生率は異教徒の女性のそれを上回り、ついにはキリスト教徒は、ローマ帝国において多数派を形成するようになり、やがてキリスト教はローマ帝国の国教になった、というのです。
 宗教やイデオロギーの中には、個人のエゴの追求を合理化するものもありますし、宗教やイデオロギーは一般に権威への従順さを個人に植えつけるため、往々にして専制をもたらします。
 このことから、宗教・適応説をとる人々は、宗教やイデオロギーは集団を非常に強固なものにすることがある一方で非常に危険なものでもあると指摘します。
集団を非常に強固なものにした典型的な例としては、初期キリスト教の信徒集団や強制収容所列島という趣のあったソ連が挙げられます。
 また、危険なものであるというのは、個人の利益にひどく反する規範・・例えば奴隷を容認する規範・・を個人に植え付けたり、集団の環境への適応を長期的には阻害するような規範を集団に植えつけたりする宗教やイデオロギーがあるからです。
(続く)