太田述正コラム#13198(2022.12.24)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その21)>(2023.3.21公開)

 「・・・東南アジアへの日本企業の進出は、政府・軍の中央で選定した。
 この方法は、現地軍である関東軍が企業の選定に強力な実権を握っていた満州国の場合とは異なり、圏域全体を見通しての経済計画が立てやすかった。
 開戦当初の経済政策では、造船や資源開発設備の修理工業などを除いて、南方での工業を興さないとの方針が採られていた。
 その理由は、重要国防資源を日本に送ることを最優先とする一方で、日本からの工業資材の輸送を減らすためだった。
 しかし、1943年5月29日に大東亜省<(注37)>連絡委員会第一部会で決定され、6月12日に大本営政府連絡会議で確定した「南方甲地域経済対策要綱」によって、方針が転換する。

 (注37)「1942年・・・9月15日、『大東亜省設置案』と外務省行政簡素化実施案等が一括決定された。この『大東亜省設置案』は、日本商工会議所等から広域経済圏の担当省庁設置が要望され、企画院を中心として既に検討されていた案のひとつであった。
 大東亜省は、東條内閣(提案の中心となったのは鈴木貞一企画院総裁)の大東亜省設置案に準じ、1942年(昭和17年)11月1日に設置された。大東亜省は、拓務省廃止に伴い、他省庁(興亜院、対満事務局、外務省東亜局及び南洋局)とともに一元化したものであり、官房、参事、総務局、満洲事務局、支那事務局及び南方事務局によって構成されていた。
 [南方事務局の管轄には、タイ、インドシナも含まれた。「大東亜共栄圏」内における大公使館などの現地機関は大東亜省直轄官庁となった。所属官署に興亜錬成所、興亜錬成院があり、関係各官庁間の連絡機関として大東亜省連絡委員会が置かれた。]
 構想されていたのは、いわゆる大東亜共栄圏諸国を、他の外国とは別扱いとして外務省の管轄から分離させる[・・大東亜共栄圏内の「純外交ヲ除ク」政務にあたるために設置された<ものだが、>・・・「純外交」は儀礼的なもののみを意味し,外務省は大東亜共栄圏外のみの外交にあたる・・]ことにより、大日本帝国(日本)の対アジア・太平洋地域政策の中心に据えることであった。
 なお、大東亜省の設置の際、9月1日に外務大臣東郷茂徳は辞任し・・・た。東郷は、その設置が「二元外交」を招くとともに、上記地域の植民地支配を日本が画策しているという誤ったメッセージとしてアジア諸国や敵国(連合国)から受け取られかねないことを懸念したためである。ちなみに専任の大東亜大臣は初代の青木一男のみでありその後は外務大臣が兼務したものの、青木の在任期間は後の四代の合計よりはるかに長い。・・・
 1 青木一男 東條内閣 1942年11月1日-1944年7月22日
      大東亜大臣(大東亜省)・外務大臣
 2 重光葵 小磯内閣 1944年7月22日-1945年4月7日
3 鈴木貫太郎 鈴木(貫)内閣 1945年4月7日-1945年4月9日
4 東郷茂徳 鈴木(貫)内閣 1945年4月9日-1945年8月17日
5 重光葵 東久邇宮内閣 1945年8月17日-1945年8月25日」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E7%9C%81
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E7%9C%81-91669 ([]内)
 「外務省<では、>・・・34年6月,亜細亜局が東亜局と改称され,欧米局が欧亜,亜米利加の2局に分離した。40年11月に南洋局が新設されたが,42年11月,東亜局とともに大東亜省へ移管された。同時に,欧亜局と亜米利加局が合体して政務局となり,また33年12月設置の調査部がこのときに調査局に昇格したので,当時の機構は政務,通商,条約,調査の4局であった。」(上掲)
 青木一男(1889~1982年)。一高、東大法。「大蔵省・・・入省後、預金部運用課長、蔵相秘書官兼秘書課長、理財局国庫課長に就任。高橋是清蔵相時代にあたる国庫課長時に、迫水久常を甲府税務署長から呼び寄せ外国為替管理法案を策定。1933年(昭和8年)春に法案は国会を通過し、同年5月1日に施行された。同年月日に青木も初代外国為替管理部長に就いた。当時総合的な外為の国家管理を実施していた国はなく、外為法は米穀統制法(1933年公布)と共に、石油業法(1934年公布)などの各業法や、のちの国家総動員法など、日本における真の意味での経済統制法の嚆矢とみなされている。1934年(昭和9年)、理財局長となる。
 賀屋興宣・石渡荘太郎とともに「大蔵省の三羽烏」と謳われたが、広田内閣の馬場鍈一蔵相、長沼弘毅蔵相秘書官による刷新人事により対満事務局次長に転出を余儀なくされる。1937年(昭和12年)近衛文麿首相の要請により企画院の創設に携わり、次長に就任、1939年(昭和14年)には総裁となる。・・・
 同年8月、企画院総裁を兼ねたまま阿部内閣に大蔵大臣として初入閣。その後汪兆銘政権への特派大使顧問として南京に赴任し、経済政策を指導する。1942年(昭和17年)には東条内閣で初代大東亜大臣を拝命し、大東亜会議などの施策に携わる。部下に今井武夫らがいた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E4%B8%80%E7%94%B7

⇒当時の外務省が、(現在と概ね同様に、)陸軍だけではなく、大蔵省等の一般官庁からも、いかに軽んじられていたか、が良く分かりますね。(太田)

 この要綱では、重要国防資源の獲得を最優先とする一方、民衆生活を維持するため住民の生活必需物資の現地自活も重視していた。
 このために繊維工業などを現地で興すことを意図していた。
 この決定以後は日本から軽工業の中小企業が南方に進出することになる。
 政府・軍が政策を変更したのは、連合国軍の反攻に備えて現地住民にさらなる戦争への協力をさせるためだった。
 この要綱の「改定の要点」には、民衆生活の維持、民心の把握と現地経済の健全な運営を通して、戦争に寄与させるとの方針が示されていた・・・。」(102~103)

⇒何度でも繰り返しますが、杉山らは、そう遠くない将来における日本の軍事的降伏を当然視しており、件の要綱の実施により、大東亜共栄圏内に日本が整備することとなる諸インフラは、戦後、(独立するであろう)圏内諸国によって活用されることを見越していた、と、私は見ているわけです。(太田)

(続く)