太田述正コラム#13221(2023.1.4)
<安達宏昭『大東亜共栄圏–帝国日本のアジア支配構想』を読む(その32)>(2023.4.1公開)

 「仏印では、1942年3月に日本が武力発動して直接支配下に置いた。
 日本は仏印をベトナム、カンボジア、ラオスの三つの領域に分け、それぞれ三国に独立宣言をさせる。
 ベトナムでは、フランス保護下で名目上の皇帝だったバオ・ダイ<(注53)>にベトナム帝国の独立を宣言させ政府をつくり、政治的実権は日本軍が掌握していた。

 (注53)1913~1997年。「阮朝大南国の第13代にして最後の皇帝(在位:1926年1月8日 – 1945年3月11日)、ベトナム帝国皇帝(在位:1945年3月11日 – 1945年8月30日)、ベトナム民主共和国最高顧問(1945年9月 – 1946年3月16日)、後にベトナム国国長(在任:1949年6月14日 – 1955年4月30日)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%A4
 「阮朝・・・は、1802年から1945年にかけて存在したベトナムの王朝である。1887年10月17日から1945年3月10日にかけて、フランス領インドシナの一部としてフランスの支配下にあった。
・・・
 阮朝は清に朝貢を行って形式上従属したが、国内の諸民族や周辺諸国に対しては皇帝を称し、独自の元号を用い、「承天興運」を国是として、小中華帝国を築き上げた。・・・
 阮朝は現在のベトナム社会主義共和国にほぼ等しい領域を支配した最初の統一王朝だった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AE%E6%9C%9D

 カンボジア国王のシアヌーク<(注54)>、ラオスではルアンプラバン王のシー・サワン・ウォン<(注55)>も独立を宣言するが、ベトナムと同様に日本軍の支配下に置かれた。

 (注54)ノロドム・シハヌーク(1922~2012年)。「カンボジア王族ノロドム・スラマリットとシソワット・コサマック妃の息子・・・。
 1941年、・・・祖父のシソワット・モニヴォン国王(コサマック妃の父)の崩御に伴い、請われて帰国し、18歳で即位した。
 カンボジアの王家はノロドム王(在位1840年 – 1904年)を祖とするノロドム家とシソワット王(在位1904年 – 1927年、ノロドム王の弟)を祖とするシソワット家に分かれ、王位継承に当たって両家の間で争われた。しかし、1941年当時カンボジアを含むフランス領インドシナの最高実力者であったフランス領インドシナ総督ジャン・ドゥクーの裁定により、シハヌークの即位が決定した。
 この背景には、シハヌークがノロドム、シソワット両家の血筋を引いている(シハヌークは両国王の曾孫にあたる)ことと、まだ若年のため宗主国フランスの意向に沿うだろうという思惑があったためと見られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%8F%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%82%AF
 (注55)シーサワーンウォン(1885~1959年)。「1904年、フランス領インドシナを構成するフランスの保護国であったルアンパバーン王国の国王に即位。
 太平洋戦争末期の1945年3月9日日本軍が明号作戦を発動し、インドシナに駐留するフランス軍を攻撃、駆逐した。当時のラオスは交通不便な山地であったため、日本領事渡辺耐三がラオス王宮にたどり着いたのは3月20日頃、同領事は、国王にフランス軍を駆逐したことを伝えたが、シーサワーンウォンは当初はこれを信じなかった。しかし、4月7日に日本軍部隊の姿を見るに到って、漸く領事の言を信じ、翌8日にラオス王国の「独立宣言」を発した。日本の敗戦後に独立を撤回。
 その後、1949年に再びラオス王国を建国し、立憲君主としてその初代国王となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%B3

 1945年8月15日の日本の敗戦を機に、ベトナムでは、部都民がハノイを占拠しバオ・ダイを退位させ、9月2日にベトナム民主共和国の独立を宣言。
 ホー・チ・ミンが初代国家主席兼首相に就任した。
 しかし、翌年12月からは植民地再建を図るフランス軍と交戦し、第一次インドシナ戦争が始まる。・・・
 日本人のなかにはインドネシア独立戦争に加わった者が1000名近くいたが、あくまで個人の意思とされ日本軍は彼らの行動を認めずに「現地逃亡兵」として扱った。」(227~228)

⇒前出のスハルトらが独立インドネシアの教科書を書かせた以上は、その内容が、下掲のようなものになるのは当たり前だろう。↓
 「現在の学校教育において、日本軍政はどう教えられているのか。筆者はインドネシアに駐在していた2014年ごろ、複数の市販教科書を調べたことがある。・・・
 こ<れら>の教科書では、日本軍政に関する肯定的記述の分量は、否定的記述の半分程度である。要するに「日本軍政は総じて言えば、インドネシア民衆にとって苛政であったが、中には独立につながる肯定的側面もある」というのが、この教科書の基本認識といえよう。そしてこの認識はインドネシア駐在期間につきあってきた各界各層との多様な交流に基づく筆者の直感からいえば、ほぼ平均的なインドネシア国民の日本軍政像と思われる。」
https://mainichi.asia/ogawa-column_1910/
 しかし、1000名近くの日本軍の「現地逃亡兵」もさることながら、下掲に目を通して欲しい。↓
 「8月11日にサイゴン郊外のダラットにおいて、既に寺内寿一大将よりスカルノとハッタに対して8月中のインドネシア独立許与の日本政府の意思が伝達されていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E7%B2%BE
 「8月15日に日本の太平洋戦争での敗戦が決まると、スカルノ、ハッタ両氏らは独立に向けて動き出し、翌16日には海軍武官府公邸の・・・前田精<(注56)>(まえだ・ただし)・・・邸に集まり、前田少将の保護の下で独立宣言文の作成に取り掛かったのだった。

 (注56)1898~1977年。海兵46期。「鹿児島県姶良郡加治木村小山田(現姶良市加治木町)出身。・・・オランダ公使館付武官、大本営海軍参謀、・・・1942年(昭和17年)・・・バタビア在勤武官を歴任し、1945年(昭和20年)に海軍少将およびジャカルタ在勤武官。その間、独立養成塾を設立。前途有為なインドネシア青年に愛国主義教育と軍事訓練を施し<た。>・・・
 死の前年の1976年(昭和51年)、インドネシア国家・国民へのたぐいまれな貢献の栄誉として同国建国功労章を授与された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E7%B2%BE

 その前田邸は現在「独立宣言起草博物館」(イマム・ボンジョルノ通り1番)として当時の様子を伝える博物館となっている。邸内の1階玄関を入ってすぐ右手のダイニングルームではスカルノ、ハッタ両氏、スバルジョ初代外務大臣が独立宣言文の文言を練る鳩首会談の様子が等身大の人形で展示され、正面階段裏の小部屋では宣言文を清書する担当者の様子も人形で再現されている。2階には前田少将の写真などが展示され、当時のインドネシアの状況が詳しく説明されている。」
https://japan-indepth.jp/?p=69083
 このような経緯で、陸軍と海軍の見事な連係プレイで、独立宣言に基づくインドネシア独立戦争が、インドネシアの人々によって「現地逃亡兵」達の献身的貢献付きで戦われる運びとなったわけです。(太田) 

(続く)