太田述正コラム#13227(2023.1.7)
<増田知子等『近代日本の『人事興信録』(人事興信所)の研究』を読む(その1)>(2023.4.4公開)

1 始めに

 一昨年、表記が、中学時代の同級生で有料読者の渡洋二郎君から送られてきて、昨年のこの渡君の年賀状に「昨年<(2021年)>7月1日、名古屋大学法学部教授増田和子先生の論文「近代日本の『人事興信六』(人事興信所)の研究」が正元研究に大変有益であるため、翻刻・発行させて頂きました。」とあったのだけれど、タイトルがタイトルであるし、最初のあたりをパラパラとめくっていても面白くなさそうだったので放置していたら。その後、彼から電話がかかってきて、その折、いつか、必ず、シリーズとして取り上げるから、と約束してしまいました。
 話が前後しますが、渡君が送ってきた表記は、2017年12月から2019年6月まで、6回にわたって名古屋大学法政論集に掲載された論文群を、渡君らが、合本し、通し頁番号を付けたものです。
 昨年末に、遅ればせながら斜め通読をしたところ、率直に言って、渡正元(コラム#省略)研究に「大変有益である」かどうか、まだ分かっていません。
 表の類までちゃんと見てはいませんが、少なくとも本文中には政元は一切登場していなさそうですしね。
 また、大学の教官である増田らが研究費を申請・授与された理由との関係かも知れませんが、これが『人事興信録』の研究なのか、『人事興信録』を主要なソースとした、戦前の日本の政財界等のコネクション群の研究なのか、判然としませんでした。
 しかし、後者の側面において、興味深い箇所が少なからずあったので、渡君との約束通り、シリーズで取り上げることにした次第です。
 なお、筆者の増田知子(ますだともこ)は、青山学院大修士(1984年)、名大博士(2003年。法学)で、東大社研助手(1987年~)、横浜市大文理学部講師、助教授、同大国際文化学部助教授、名大法助教授、教授、同大総長補佐、ロンドン大バーベックカレッジ客員研究員、中共華東政法大客員教授、豪国立大客員研究員、名大法学研究科附属法情報研究センター所長、同大法学部長(学部長・研究科長)/研究科基幹法・政治学教授、という人物であり(表紙)、「増田知子等」の「等」は、佐野智也で、彼は、名大博士(法学。2014年)で、名大法学研究科研究員(2011年~)、名城大法学部非常勤講師、名大法学研究科特任助教、日本福祉大社会福祉学部非常勤講師、名大法学研究科特任講師、で、研究分野は、民事法学/明治民法/図書館情報学/人文社会情報学/法律情報、という人物です。
https://profs.provost.nagoya-u.ac.jp/html/100000698_ja.html
 なお、表記が対象としているのは、『人事興信録』(注1)(人事興信所)の第一版(1903年)から第14版(1943年)までです(4)。

 (注1)「フーズ・フー<(Who’s Who[ =紳士録])>・・・の名称を冠した出版物は,1849年イギリスのA.& C.ブラック社から創刊されたものが最初で,社会的地位のある人々の氏名,住所,経歴,職業,趣味,家族関係などについて記載するのが普通。日本では,<フーズ・フーに相当するものとしては、>1889年(明治22)の《日本紳士録》第1版(〔1889年に福沢諭吉の提唱で設立された社交団体交詢社が納税額を基準に著名人・・・を掲載して発行を始めた〕)が最も古く,1903年の《人事興信録》(人事興信所[–渋沢栄一の援助を受けて・・・私立探偵の先駆であった内尾直二が・・・東京に設立–])がそれに次ぐ。各業界,分野に限った紳士録も出ており,一般に年刊が多い。」
https://kotobank.jp/word/%E3%80%8A%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E8%88%88%E4%BF%A1%E9%8C%B2%E3%80%8B-1343562
https://www.wikiwand.com/ja/%E7%B4%B3%E5%A3%AB%E9%8C%B2 (〔〕内)
https://www.kishimotoyoshinobu.com/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0/p-y0otawmw/1/ ([]内)

 「注1」からも分かるように、こんなところにも、福澤諭吉や澁澤榮一が姿を現しているところ、それは当然なのでしょうか、それとも驚くべきことなのでしょうか。

2 『近代日本の『人事興信録』(人事興信所)の研究』を読む

 「・・・1902年(明治35)に内尾直二<(注2)>が創業した人事興信所の経営方針は商業興信ではなかった。

 (注2)うちおなおじ(1876年~?)。旧熊本藩士の子。東京専門學校、明治法律學校等に学び、「萬朝報自由通信社電報通信社等に記者たり曩に清國に遊び日清日露の役に方り熾に暗中飛躍を試む明治三十五年人事興信所を設立し人事問題の調査機關として普く社會の要求に應じ爾來歳と共に事業隆盛に赴くに從ひ大阪市に支局を設け東西相呼應して益々其眞價を發揮す又別に其一部の事業として人事興信錄を編纂發行し廣く人事調査の資料に供す」
https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-3325

 「社会の表面に立ち、交際の活発な紳士」についての戸籍調査や探偵業務を通じて本人および家族情報を収集し、その情報を必要としている顧客に販売するというものであった。
 ただし、同所は調査・探偵業に加えて、大変な手間とコストを要する『人事興信録』の編纂業務を行い、併せて、通常の個人情報のほかに結婚情報の提供を開始した。
 華族・親戚情報の充実している『人事興信録』は、そのためのカタログ的機能も発揮したと考えられる。・・・
 「人事興信所設立及び興信録発行の趣意」<にはこうある。>・・・
 「近時社会組織の漸く複雑に赴くや、門戸相對して互いに其姓名を知らざるものあり、事業相共にして互いに其經歴を知らざるものあり、殊に華族親属等の関係に至ては、親友舊朋と稱するもの亦相知らざる所多し、此れ畢竟社會組織の獨り複雑に赴き、之に伴ふ機関の整備せざるに起因せずんばあらず、人事興信は即其必要に應ずるものなり・・・・例へば茲に支配人を雇はんとする商舗あらば、人事興信は直に其人の素性、経歴、交友、親戚、華族、嗜好、習癖等を調査して、其需に應ずべし、又茲に女子を嫁せしめんとする良家あらば、人事興信所は直に其求婚者たる男子の血統、素行、性質、財産、家庭の状態、親戚の関係、及び婦人と醜交の有無を調査して、其需に應ずべし・・・」<とある。>」(227、234)

(続く)