太田述正コラム#13229(2023.1.8)
<増田知子等『近代日本の『人事興信録』(人事興信所)の研究』を読む(その2)>(2023.4.5公開)

 「・・・横山源之助<(注3)>のルポルタージュ<である>「大名華族の家政」(明治37年発表)・・・の記述<から分かる>・・・特徴的なことは、同じ華族、爵位であっても富裕化に大きな差異があること、特に決定的なこととして、旧公卿家は旧大名家と較べると経済力、財政基盤において、比較にならないほど劣位にあったことである。

 (注3)1871~1915年。「富山県中新川郡魚津町(現・魚津市)出身のジャーナリスト。・・・代言人(弁護士)を目指して上京し、英吉利法律学校(現・中央大学)に学ぶ。その後、弁護士試験を数度にわたって受験するが合格できず、各地を放浪する。この時期に二葉亭四迷や内田魯庵、幸田露伴らと知り合う。特に二葉亭四迷からは強い影響を受け、ルポライターを目指すきっかけとなった。
 1894年、毎日新聞社(旧横浜毎日新聞、現在の毎日新聞とは無関係)に記者として入社。代議士島田三郎,実業家佐久間貞一の援助によって、下層社会のルポルタージュを中心に活動をするようになる。この頃、下層社会の女性の救済を訴える立場から、晩年の樋口一葉のもとを何度か訪ね、親交を結んだ。
 1896年から翌年にかけて、桐生足利、郷里魚津、阪神地方の調査を実施。帰京後、労働組合期成会に関与して、高野房太郎、片山潜を知る。1899年、『日本之下層社会』、『内地雑居後之日本』を相次いで刊行。同年、過労に倒れて帰郷、毎日新聞社を退社する。
 1900年、「職工事情」調査に加わった後、再び上京。大井憲太郎と労働者の海外出稼を計画するが失敗。以後、『海外活動之日本人』、『怪物伝』、『南米渡航案内』、『明治富豪史』、『凡人非凡人』をそれぞれ刊行。1912年にはブラジルに渡航し、『南米ブラジル』を執筆した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E6%BA%90%E4%B9%8B%E5%8A%A9

 社会全体で見ても、数千円~数万円の納税を行っていた多額納税者や豪農の方が経済力では、はるかに旧公卿家より優っていた。
 <上の方>に名を連ねる旧大名家は、幕末期の藩政改革に成功した諸藩だけでなく、幕政の中核を担っていた徳川家、親藩、譜代であった。
 徳川幕府の崩壊にもかかわらず、彼らは強大な財政基盤を持ち、産業化社会の発展とともに大富豪層に納まっていた。
 <その上位の順番は、>旧大名家<は、>毛利家・・・島津家・・・前田家・・・細川家・・・徳川(紀州)・・・池田(備前)・・・徳川(尾張)・・・浅野<、>・・・<そして、>旧公卿<は、>・・・鷹司家・・・一条家・・・岩倉家・・・二条家・・・九条家・・・近衛家・・・三条家・・・菊亭<、また、>・・・一年所得高<は、それぞれのトップの、毛利家が25万円、鷹司家が0.92円、だ。>・・・

⇒毛利家が旧大名家の筆頭、鷹司家が旧公卿の筆頭、とは興味深いものがあります。
 後者は旧公卿界全体と共に、現在はほぼ影も形もない状況であるのに対し、前者は、岸カルトへと完全変態を遂げ、依然、というか、毛利藩関係勢力としては初めて、日本を支配し続けているわけです。(太田)

 横山<は、>「富豪と華族の縁組」(『実業界』第1巻第2号、明治43年6月1日掲載)<の中で、>・・・「媒介」即ちハブとなる家があり、それにより身分違いの、旧公卿家、旧大名家、大実業家たちによるネットワークが誕生していたことを指摘している。・・・
 横山「我実業界の閨閥と財閥」(『実業界』第2巻第5号、明治44年3月1日掲載)<によれば、>・・・三井家に比べると、新興の岩崎家、安田家、大倉家、渡辺(治右衛門)<(注4)>家、前川(太郎兵衛)<(注5)>家などは単純で狭小な姻戚関係しか持てていなかった。

 (注4)1848~1909年。「武蔵国江戸日本橋の豪商、明石屋・8代渡辺治右衛門の長男として生まれる。・・・
 多くの企業の設立に参画し、東京商社頭取、通商司北海道産物掛頭取、第二十七国立銀行頭取、東京商法会議所議員、東京商工会創立委員、水産伝習所参事員、(有) 東京湾汽船会社相談役、深川電灯評議委員、東京馬車鉄道取締役、磐城炭鉱取締役、浦賀船渠取締役、東京瓦斯監査役などを務めた。
 その他、東京府会議員、日本橋区会議員を歴任し、1890年(明治23年)9月29日に貴族院多額納税者議員に任じられ、1897年(明治30年)9月28日まで在任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E6%B2%BB%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80
 (注5)1852~1926年。「農業,商業を営む前川善平の3男として近江国(滋賀県)犬上郡高宮村に生まれる。・・・京都の綿布商前川弥助,大阪の綿糸布商前川善三郎は実兄。寺子屋で学んだのち,上京して日本橋堀留の織物問屋で叔父の初代近江屋前川太郎兵衛に奉公し,・・・1862・・・年その養嗣子となる。横浜から輸入される綿糸布の取り扱いで・・・1866・・・年ごろより利益をあげた。明治13(1880)年ごろ本店の運営を任され,15年2代太郎兵衛を襲名。日比谷平左衛門の懇請により29年東京瓦斯紡績の初代社長に就任したが,その他の会社との関係には熱心でなかった。家屋や商品に保険を一切付けなかったという。・・・容易に金銭を人に貸さず,貸せばすなわち償還の見込みなきものとして生涯これを督促せず(信条)」
https://kotobank.jp/word/%E5%89%8D%E5%B7%9D%E5%A4%AA%E9%83%8E%E5%85%B5%E8%A1%9B-1109019

 そこでかれらは養子制度を積極的に活用してい<き、>・・・実子がいるにもかかわらず、有能な奉公人、部下などを養子とし、同姓同族を増殖させていった<という>のである<(注6)>。・・・

 (注6)「・・・わが国の「家」は、特殊日本的形態として、その累代性と重層性が指摘されるが、近世商家の場合、家業の継承をとおして累代的、祖孫一体的な家族集団が成立し、同時に営業規模の拡大に応じて分・別家を創設して、本末関係に基づくピラミッド型の重層的同族組織<暖簾内>が形成された。・・・
 相続は「家」制度の中核として、観念的には家名・祭祀・名跡等の相続を含めていたから、相続者は祖先の血統を受け継ぐ子孫の正嫡たることが第一義に要請される。町人社会の相続も、「家の跡目は、惣領に継す」が「世間の大法」・・・であった。・・・しかし企業の要求する合理性、功利性は、同時に惣領に「町人の家業なり天秤のかけひき帳面みる」・・・器量を要求する。現実には、こうした加算・家業維持の要求と血統保持の要求とが衝突し矛盾する場合の生ずることが非常に多かった。この際、彼らは躊躇なく廃嫡、養子縁組の措置をとっている。・・・」
http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/3899/1/16-1-1C-1.pdf

⇒私の言う、工業(産業化)時代における日本型政治経済体制の原型たる、農業(産業化前)時代のプロト日本型政治経済体制の大町人部分、と受け止めていただければ、と思います。(太田)

 当然のことながら、養子として人材を確保するには、分家させる資力も伴っていなければならない。」(245~246、249、251、254)

(続く)