太田述正コラム#1859(2007.7.10)
<スターリンと毛沢東の伝記(続)(その2)>(2008.1.10公開)
 毛沢東の実質的に最初の妻とは、楊開慧(Yang Kaihui。1901-1930)であり、彼女は、1920年に毛沢東と結婚し、毛岸英(Anying)、毛岸青(Anqing)らをもうけるのですが、1927年に毛と別離生活に入り、1930年に処刑されます(
http://www.iisg.nl/~landsberger/ykh.html等。7月10日アクセス)。
 彼女の処刑に至る経緯は次のとおりです。
 別離後、毛が率いる共産党の一派は、火付け、殺人、誘拐、掠奪を常とする盗賊とみなされるようになっていました。彼女は、毛がいつつかまって処刑されるか気が気でない生活を子供達とさびしく送ります(PP83)。
 彼女は毛とは違って、虐げられた人々への同情心から共産党に入党をしていましたが、こんな毛のやり方に批判を募らせ、共産主義にも幻滅します。
 彼女は、「ああ、殺人、殺人、殺人、ということばかりが聞こえてくる。どうして人間<(=毛)>はこうも悪(ワル)なのか。どうしてこうも残酷なのか。・・私には理解できない。・・私には<共産主義に代わって>信ずるもの(faith)が必要だ。」と記しています。
 しかし、彼女は、こんな毛、しかも彼女を裏切って重婚までしていた毛に対する強い愛情を抱き続けました(PP86)。
 1930年、毛は、よりにもよって彼女の住んでいた地域に攻撃をしかけます。
 しかし、毛は、彼女や自分達の子供達に何の顧慮も払いませんでした。逃げるよう言うでなし、救おうともしなかったのです。(PP86)
 この地域を支配していた国民党系の軍閥は、彼女と岸英(8歳)を毛の妻子であるというだけの理由で逮捕します(
http://en.wikipedia.org/wiki/Yang_Kaihui
。7月10日アクセス)。
 この軍閥は、彼女に、毛との離婚と毛への批判を宣言すれば命は助けてやると言ったのですが、彼女が拒否したため、岸英が見ている前で彼女に拷問を加えた上で(ここはウィキペディア上掲による)、11月14日、彼女を銃殺刑に処します。
 さすがの毛も、この時ばかりは嘆き悲しんだといいます。
 しかも、晩年になるほど、毛は彼女のことを思い出すようになったともいいます。
 (以上、PP80)
 毛にも人間性のかけらは残っていたと見えます。
 
3 毛沢東が共産党のリーダーになれたわけ
 こんな毛沢東が、どうして共産党のリーダーになれたのでしょうか。
 ソ連の命ずることに忠実に従う犬であったが故に、ソ連のお眼鏡にかなったためです。
 そもそも、中国共産党は、ボルシェビキ(ソ連)がつくったのであり、当時の中国共産党は、ソ連の資金で運営され、あらゆる決定はソ連が行っていました。
 1920年1月にソ連が中央シベリアを確保し、支那への往来ができるようになると、ソ連はエージェント(Grigori Voitinsky)を上海に送り込み、5月に陳独秀(Chen Tuhsiu。1879~1942年)に中国共産党を設立させます。
 この時の8名の創設メンバーの中に毛は入っていません。
 毛は陳独秀の取り巻きの一人ではありましたが、まだ共産主義者ですらなかったのです。
 このため、毛は後に歴史を改竄し、自分が最高幹部の一人となった翌年の1921年7月に中国共産党が創設されたことにしたのです。
 (以上PP19による。)
 この1921年7月は、ソ連が新たに2名のエージェント(ソ連の軍事諜報員のニコルスキー(Nikolsky)とオランダ共産党員のマーリン(Maring))を送り込んできた月です。彼らは公式に中国共産党を発足させるために、第一回共産党大会を開催させます(PP25)。
 1921年10月から1922年6月までの9ヶ月間の中国共産党運営経費の94%はソ連からのカネで賄われています(PP27)。
 毛にも潤沢な資金が流れてきて、この頃から毛は豪奢な生活を送るようになり、それは生涯変わりませんでした。
 ソ連が中国共産党を設立した目的は、ソ連が奪取した外モンゴルの「独立」を認めない当時北京政府を打倒することでした。
 しかし、設立されたばかりの中国共産党は力不足であったため、ソ連は中国国民党に接近し、リーダーの孫文(Sun Yatsen。1866~1925年)に外モンゴルの「独立」を認めさせ、引き続き国民党を意のままに動かすため、中国共産党員達に国民党への加入を促します。
 当然、共産党の中からは強い反発が起きます。
 しかし、この指示に忠実に従ったほとんど唯一の共産党幹部が毛だったのです。
 1923年、国民党と共産党を指導するためにソ連はボロディン(Mikhail Borodin。1884~1951年)を送り込んできます。
 ボロディンは国民党を共産党のような組織に作り替え、1924年、最初の党大会を開かせ、毛を始めとする多数の共産党員を送り込みます。そして、国民党にもソ連の資金を潤沢に投入し、国民党軍を錬成し、士官学校を設立します。
 毛は例によってボロディンに取り入ることには成功するのですが、共産主義理論に大した関心を示さず、しかも、教宣活動を全くといってよいほど行わず、他の共産党員と同志的な対等な関係を築こうとするどころか、常に独裁者然としていた毛への反発が強まり、毛は、1924年から25年にかけて、党中央を逐われてしまいます。
 この時のことも、毛は中共の公式史から抹殺しています。
 (以上、PP31~34による。)
 その毛を救ったのが、国民党幹部であった、そして日華事変の時に親日政府を樹立することになる、あの汪兆銘(Wang Chungwei。1883~1944年)であったのは、歴史の皮肉以外のなにものでもありません(PP37)。
(続く)