太田述正コラム#1894(2007.8.5)
<10の決断と第二次世界大戦(その1)>(2008.2.6公開)
1 始めに
 第一次世界大戦と来たら次は第二次世界大戦です。
 英シェフィールド大学教授のカーショウ(Ian Kershaw)の’FATEFUL CHOICES Ten Decisions That Changed the World, 1940-1941’という本が今話題になっており、英米の主要メディア全ての書評で採り上げられています。
 10の決断とは、1940年5月から1942年1月までの19ヶ月間において英独日伊米ソ6カ国が行った以下の諸決断を指します。
一、チャーチルを首班とする英内閣は、ドイツがフランスを敗北させため、ドイツとの和議を求める強い声が英国内で出たにもかかわらず、英国単独での戦争を継続することを決断。(1940年5月)
二、ヒットラーがソ連攻撃を決断。(1941年6月)
三、ヒットラーがフランスを敗北させたことを奇貨として、日本が仏印進出を決断。
四、ムッソリーニがヒットラーの側に立った参戦(ギリシャへに侵攻)を決断。
五、ローズベルトがlend-lease法でもって英国を支援することを決断。
六、スターリンが、その前兆が十分すぎるほどあったにもかかわらず、ドイツが侵攻してくることに備えないことを決断。
七、ローズベルトが、大西洋戦域への米海軍を用いた実質的参戦(海兵隊のアイスランドへの進駐を含む)を決断。
八、日本が真珠湾攻撃による対米開戦を決断。(1941年12月)
九、ヒットラーが米国に宣戦することを決断。
十、ヒットラーがホロコーストを決断。
 このうち、特に重要なのは一、二、八、ですが、この3つを含む10の決断が、欧州と東アジアで行われていた別個の戦争を一つの世界戦争へと転化させ、5,000万人もの人々が死亡する結果をもたらしたのです。
 決断(decision)と言う以上、カーショウは、異なった決断が下される可能性があったと言いたいわけです。
 (ここまでを含め、
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-kershaw16may16,0,2803435,print.story?coll=la-opinion-rightrail
http://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?xml=/arts/2007/06/07/boker04.xml
http://www.nytimes.com/2007/07/08/books/review/Boot-t.html?ex=1186459200&en=b94095df8fe40862&ei=5070
http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,,2109848,00.html
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/08/02/AR2007080201559_pf.html
http://www.historywire.com/2007/06/book_alert_fate.html
http://www.bloomberg.com/apps/news?pid=20601094&refer=book&sid=akyLbEiHMnCs
http://www.nypost.com/seven/06172007/postopinion/postopbooks/if_only_hitler_hadnt_postopbooks_max_gross.htm
http://www.leadershipnow.com/leadershop/9781594201233.html
(いずれも8月5日アクセス)による。)
2 いくつかの決断について
 それでは、いくつかの決断について、もう少しカーショウの言うところをご紹介しましょう。
 1940年の5月末、英国の欧州派遣軍がダンケルク(Dunkirk)周辺に追いつめられていた頃、3日間にわたって英国で閣議が開かれ、ムッソリーニを仲介者としてヒットラーと和平交渉を行うかどうか侃々諤々の議論が行われた。
 外相のハリファックス卿(Lord Halifax)は和平交渉派だったが、首相のチャーチルはこれに反対し、前首相のチェンバレンの同意も取り付けて最終的に議論に勝つ。ただし、ムッソリーニを仲介者とする和平交渉というオプションは残すこととした。
 ムッソリーニによるギリシャ侵攻の決断は、都合の良い仮定、いいかげんな情勢分析、素人的判断等がもたらした希望的観測の結果だった。
 ヒットラーはムッソリーニがギリシャで無様な目に遭わないようにギリシャ方面に援軍を差し向けざるをえず、対ソ戦(Barbarossa作戦)の開始が6週間も遅れてしまう。
 このためにヒットラーは対ソ戦に敗れたとまでは必ずしも言えないが、これが北アフリカのドイツ軍の進撃に悪影響を及ぼしたことは確かだ。
 ヒットラーのソ連攻撃の決断は、ソ連の軍事能力の過小評価を前提に、東方にドイツ勢力圏(Lebensraum)を確保すると共にソ連を牛耳っているとヒットラーが思いこんでいたボルシェビキ的ユダヤ的陰謀を粉砕するためになされたものだ。
3 カーショウ批判
 (1)他にも重要な決断がある
 カーショウのこの本に対する批判の第一は、他にも重要な決断があったのではないか、というものです。
 ヒットラーが1939年8月31日にポーランドを攻撃し、9月3日にチェンバレン英首相がドイツに宣戦布告したことが何と言っても最も重要な決断だったのではないか、というのです。
 ドイツが1940年5月にダンケルクに追いつめた英軍を攻撃せずに撤退するのを許したところの決断も、攻撃されれば5万人の英兵士か撤退できないかもしれないと英軍当局は懸念しており、そうなれば英国が戦争を続けることはほとんど不可能になっていたであろうだけに重要だし、ドイツ空軍が、もっぱら英国の対都市攻撃を行ってかえって英国人の闘争心に火を付けてしまうこととなる決断を行ったことも重要だ、という指摘もあります。
 日本が1941年6月に、ドイツの対ソ攻撃に呼応してソ連を東から攻撃しなかった決断も重要だ、とする指摘もあります。
 また、スターリンの決断としては、六よりも、同じ1941年10月19日の、首都モスクワに自らがとどまり、その防御を固め、死守するとの決断の方が重要だとする指摘もあります。
 当時、正規軍の大部分をドイツによって殲滅ないし捕虜とされ、ソ連の工業生産能力の三分の二、食糧余剰の60%がドイツの手中に帰していたという状況であり、通常の近代国家であれば降伏していても不思議でない状況であったことを考慮すればなおさらだ、というのです。
 このほか、ローズベルトに係る五と七の決断はかなりオーバーラップしており、一つの決断と言ってよいのではないか、という指摘もあります。
 これに関連し、ローズベルトの決断としては、孤立主義的ムードが米国で依然強かった中で、1940年春の段階では世界第20位の規模の(第19位のオランダ陸軍の後塵を拝する)陸軍しか持っていなかった米国を、1941年に入って陸空軍大増強計画(5万機の軍用機の生産を含む)を策定することによって、軍事大国へと変貌させることとなった決断の方が重要だとする指摘もなされています。
(続く)