太田述正コラム#13282(2023.2.3)
<大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか』を読む(その10)>(2023.5.1公開)

 「・・・総力戦という新たな戦争形態のもとに遂行された第一次世界大戦を経て、・・・日本発の本格的な政党内閣である原敬内閣(大正7年9月~大正10年11月)のもと、国家や市町村による新たな統合方策として、大正8年(1919)3月に内務省の民力涵養運動<(注37)>が開始された。

 (注37)「以下の五大要綱を掲げていた。
・立国の大義を闡明し国体の精華を発揚して健全なる国家観念を養成すること
・立憲の思想を鬯明<(ちょうめい)>にし自治の観念を陶冶して公共心を涵養し犠牲の精神を旺盛ならしむること
・世界の大勢に順応して鋭意日新の修養を積ましむること
・相互諧話して彼此共済の実を挙げしめ以て軽信妄作の憾みなからしむること
・勤倹力工の美風を作興し生産の資金を増殖して生活の安定を期せしむること
 国家思想の啓蒙、地域秩序の再編、デモクラシー思想の高まりへの対応、生活改善、労使・地主小作関係の調整など、雑多な内容を含む運動であった。1年目は内務省地方局の主導によって、2年目以降は社会局の主導によって推進されたと考えられている。
 なお民力涵養運動という名称についてであるが、『内務省史』によると、社会主義を連想させるという理由から「社会」の文字が嫌われ、その代用として「民力涵養」と呼ばれたということである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E5%8A%9B%E6%B6%B5%E9%A4%8A%E9%81%8B%E5%8B%95

 これは、床次竹二郎内相が主唱したもので、「日露戦争後の地方改良運動の改訂新版」だった。・・・
 また、床次は神道・仏教・キリスト教の各派代表者を官邸に招いて宗教界の協力を求めた。
 これは「三教会同の再版」だった。・・・

⇒いずれも、西園寺公望の指示によるものであったと私は見ています。(コラム#1318を参照。)(太田)

 しかし、この運動<も>長続きせず、挫折する。・・・
 国体神話の信憑性はますます低下していった。・・・
しかし、すでに国体神話は国民のあいだで自明化し、国体神話の信憑構造が形成されていたことも見逃すべきではない。・・・

⇒大谷が何を言いたいのかさっぱり分かりません。(太田)

 <さて、>大正8年(1919)に石原<莞爾>は日蓮仏教に帰依し、その教義と中国問題の研究に没頭する。
 その結果、翌<1920>年4月、中支那派遣隊司令部付として中国の漢口・・・に赴任する前、「国柱会の信行員となった」。・・・

⇒奇しくも同じ1920年の秋に宮沢賢治も国柱会に入会しています
https://core.ac.uk/download/pdf/229788389.pdf
が、先取り的に申し上げれば、莞爾は、「法華経、日蓮、田中智学」の教義に関心を抱いたのに対し、賢治は「」の核心的主張・・人間主義世界普及・・に感銘を受けたのであり、それが、戦後、莞爾の言説の陳腐化をもたらした一方、賢治の作品の人気をもたらしたのです。
 私に言わせれば、この違いのよって来る所以は、莞爾と違って、賢治は、教義など、核心的主張の広宣手段、すなわち、方便、に過ぎないと認識できたから、つまりは、莞爾は大秀才だったのに対し、賢治は天才だったから、です。
 (天才日蓮、と、日蓮の同僚転じて日蓮の高弟となった大秀才の日昭、のこと(コラム#12103)も、この際、思い出してください。)(太田)

 入会者は最初に研究員として入会し、日蓮主義を研究して信仰・修行が確立されたと教団から認められると、信行員に昇格した。
 石原<は>信行員として入会を許可された<わけだ。>・・・
 石原<が>日蓮仏教の研究に取り組んだの<は、>・・・「・・・兵」に・・・「国体に関する信念感激」をどのように叩きこむかに心を悩ませていた<からだ>。・・・
 ちなみに、・・・広田照幸<(注38)>(てるゆき)によれば、日露戦後、軍隊教育での精神訓話は軍事勅諭の具体的な徳目を教えこむことから、「兵卒の世界観(国体観念)全体の改造」を目標にするようになったという。

 (注38)1959年~。東大(教育)卒、同大院博士課程修了、同大博士(文学)。「南山大学助教授、東京大学教育学部・大学院教育学研究科助教授を経て、2006年、同教授に昇格するが、直後に辞職。2006年10月、日本大学文理学部・大学院文学研究科教授。1997年『陸軍将校の教育社会史』で、サントリー学芸賞受賞。・・・
 1977年に全国高等学校将棋選手権大会男子個人戦にて優勝(高校名人)するも、東京大学では将棋部から入部勧誘を受けたが入部をしなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E7%85%A7%E5%B9%B8

 いわば、兵士にたいする国体観念の涵養は、当時の陸軍全体の課題だったのである。」(254~256、286~287)

⇒これは、『陸軍将校の教育社会史』からの引用ですが、この個所を含めたところの、この本の内容の紹介、と、コメント、を次のオフ会「講演」原稿に盛り込みたいと考えています。(太田)

(続く)