太田述正コラム#2022(2007.8.25)
<スペインの異端審問(その1)>(2008.2.24公開)
1 始めに
 私が近現代史をアングロサクソン文明と欧州文明のせめぎあいととらえており、欧州文明の前駆はカトリック文明たるプロト欧州文明であると考えており、プロト欧州文明と欧州文明を結ぶものが、フランス絶対王政であると考えていることはご承知のとおりです。
 
 さて、プロト欧州文明の聖なる担い手がカトリック教会であるとすれば、その俗なる担い手の旗手は、当時の世界の覇権国たるスペインでした。
 英国にとってこのプロト欧州文明、すなわちカトリック教会ないしスペインの悪を象徴するのが、異端審問(Inquisition)だったのです。
 もともと異端審問は、11世紀の末にアルビジョン派(Albigensian)弾圧のためにカトリック教会によって開始されたものですが、一般に異端審問と言えば、1478年から1812年までスペイン(ポルトガル併合時代のポルトガルを含む)及びその植民地において行われたそれを指します。
 このたび、英バーミンガム大学の(?)グリーン(Toby Green)が’Inquisition: The Reign of Fear’という話題の本を出したので、その内容の概要をご紹介しがてら、異端審問について改めて考えてみたいと思います。
 (以下、
http://www.guardian.co.uk/comment/story/0,,2136624,00.html
http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,,2155588,00.html
http://arts.independent.co.uk/books/reviews/article2737896.ece
http://www.ft.com/cms/s/0/99a33c0e-397f-11dc-ab48-0000779fd2ac.html
http://www.theoxfordtimes.net/whatson/books/display.var.1622669.0.history_roundup.php
(8月25日アクセス)による。)
2 グリーンの指摘
 スペインの異端審問で異端として裁かれた人の数は約15万人に達するが、このうち処刑されたのは3,000~5,000人に過ぎないし、異端審問によって出版物の検閲が行われていたというのにスペインでは文学が隆盛を極めた、等々と異端審問を矮小化する見方が最近出てきているが、あしかけ4世紀にわたって世界中・・イベリア半島からカナリア諸島・ケープヴェルデ・ゴア・メキシコ・ペルー・コロンビア・ブラジル・アンゴラ・フィリピン等に及ぶ・・を恐怖に陥れた事実は拭いがたい。
 この異端審問は、カトリック教会に対する異端を排除するという名目の下、実はスペイン内における分裂や反抗の芽をつみ取り、同時にそのことで金銭的利得を得るという世俗的目的のために行われた。
 異端審問の全盛期は、異端審問開始直後の1480年頃から1550年頃にかけてであると考えられている。
 しかし、異端審問がエスカレートした結果、スペインはむしろ弱体化し、最終的にナポレオンによって異端審問は廃止されることになる。
  できたばかりのスペイン王国のフェルディナンド(Ferdinand)国王とイザベラ(Isabella)女王は、認めなければ対トルコ戦争で支援をしないと法王シクストゥス(Sixtus)4世を脅して、異端審問長官(Inquisitor-General)の任命には法王の承認を得るとの条件の下で、スペイン王室が独自に異端審問を行うことを認めさせた。
 初期の頃に異端審問の主たる対象となったのは、(ユダヤ人は追放されることになったので)キリスト教徒に改宗したユダヤ人(converso)と(イスラム教徒=Moor人、は追放されることになったので)キリスト教に改宗したイスラム教徒(morisco)だった。彼らは、トルコと、あるいはイスラム教徒と通謀しているというばかげた嫌疑をかけられたのだ。
 やがて対象は、イスラム教徒はもとより、ヒンズー教徒、ルター派信徒、ユグノー、アランブラド派(alumbrados)、重婚者、女犯僧、同性愛者、麻薬中毒者、自由思想家、更にはフリーメーソン等々へとどんどん拡大されていった。
 歴代の法王は、異端審問長官以外の異端審問官にも自分の息のかかった人物を就けようとしたが、ついにそれを果たせず、また、異端審問に伴う悪行(後述)を止めさせようと時々教書(bull)を出したり、赦免を求めたりしたが何の効果もなかった。
 スペインの異端審問には行きすぎと腐敗と悪行がつきものだった。
 1478年に開始された異端審問の最初の異端審問長官のデトルケマダ(Tomas de Torquemada)は、3年後に初めて開かれた大審問会(grand council=auto-da-fe)において、それまで法王庁がおこなってきた異端審問のルールでは有罪たりえない6名の男に杭にしばりつけての焚刑を言い渡した。
(続く)