太田述正コラム#13306(2023.2.15)
<江間浩人『日蓮誕生–いま甦る実像と闘争』を読む(その1)>(2023.5.13公開)

1 始めに

 引き続き、日蓮がらみの表記を取り上げるシリーズをお送りします。
 なお、江間浩人は、「1970年東京生まれ。仏教系大学卒業後、サラリーマン生活の傍ら日蓮を研究。先哲会会員」(奥付)という人物です。
 「終始、大きな助力を惜しまず、ご指導ご教授いただいた東京大学史料編纂所教授の本郷和人先生、温かな励ましを送ってくださった東京大学史料編纂所所長の本郷恵子先生に深く御礼申し上げます。ご夫妻のお力添えなくして<この本>を仕上げることは到底できませんでした。・・・本書を今は亡き中西治先生に捧げます」(270~271)という記述を踏まえれば、中西治(1932~2020年)は、1977~2008年の間、創価大学教授を務めた「ソヴェト史、米ソ関係史、国際関係論等の研究<者>」であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%A5%BF%E6%B2%BB
ことから、江間の出身の「仏教系大学」は創価大学ではないかと想像されます。
 なお、この本を入手してから、江間がこの本で展開した主張と同じ主張の一部を、以前に(コラム#11375で)取り上げていたことに気付きました。

2 『日蓮誕生–いま甦る実像と闘争』を読む

 「・・・日蓮の出自については、安房国長狭郡東条郷の片海の「旃陀羅<(注1)>が子」という言及があるだけで、詳細は分からない。

 (注1)せんだら。「日本の中世の一時期から仏教経典の用語を概念化して、主として僧侶や知識層に広まった、被差別民への呼称。
 インドの被差別民チャンダーラが漢音訳されたものである。『マヌ法典』では首陀羅(しゅだら)の父と婆羅門(ばらもん)の母との混血児をいう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%83%E9%99%80%E7%BE%85

 しかも「旃陀羅が子」との自称も、実際の立場を指しているとは思えない。

⇒「日蓮は、承久4年(1222年)・・・、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)の漁村で誕生した。片海の場所については諸説あるが、内浦湾東岸の地とされている。
 両親について、父は貫名重忠、母は梅菊とする伝承がある。日蓮は自身の出自について「日蓮は、安房国・東条・片海の石中(いそなか)の賤民が子なり」、「海辺の旋陀羅が子なり」、「東条郷・片海の海人が子なり」と述べているので、漁業を生業とする家庭の出身と考えられる。ただし、両親は荘園を所有する領家の夫人から保護を受けており、日蓮自身、東条郷にある清澄寺で初等教育を受けているので、両親は最下層の漁民ではなく、漁民をまとめる荘官級の立場にあったと見られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE ※
、「日蓮は、弘安2年(1279年)の書状(聖人御難事)に「安房国長狭郡之内東条の郷、今は郡也、天照大神の御くりや、右大将家の立て給いし日本第二のみくりや、今は日本第一なり」と記している。・・・<これは、>現在の千葉県鴨川市付近と推定される・・・東条<(注2)>御厨(とうじょうのみくりや)<のことであろう。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%9D%A1%E5%BE%A1%E5%8E%A8 
という、日蓮の出生に係る諸伝承の中から、どうやらためにする意図に基づいて、江間が、一部だけを抜き出して紹介しているのはいかがなものでしょうか。

 (注2)「東條英機<の>・・・東條氏(安房東條氏)は安房長狭郡東條郷の土豪で、江戸時代に宝生流ワキ方の能楽師として、北上して盛岡藩に仕えた家系である(知行は160石)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F

 なお、私は、杉山元以降の歴代陸軍次官は、杉山構想を就任時に前次官から開示されたと見ている(コラム#省略)ところ、東條英機が同構想を1938年5月に前任の梅津美治郎から開示された際、同構想が(私の言う)大日蓮主義に立脚していることも併せて伝達されたと想像され、彼は、自分(東條家)と日蓮との縁(えにし)の深さに改めて感慨を覚えたのではないでしょうか。(太田)

 理由のひとつは、日蓮がもつ文字の素養である。
 日蓮の特にその幼少期は、御家人に文盲がいた時代だ。
 土地や領主に付属し、売買の対象でもあった庶民(下人・所従・田夫)に文字の素養はなく、出家もありえない。」(4)

⇒うさんくさい網野善彦説(注3)はさておき、同説を実証的に発展させたと見たいところの伊藤正敏説(注4)、そして、御厨の実態(注5)、等を踏まえつつ、日蓮の謙遜もまた一種の方便であると達観すれば、日蓮の父は、大網元で、母は貴種であって、父母とも、自分達が朝廷に直結する存在であるとの自負心を抱いていた、と見てよいのではないでしょうか。

 (注3)「網野善彦<は、>・・・中世の職人や芸能民など、農民以外の非定住の人々である漂泊民の世界を明らかにし、天皇を頂点とする農耕民の均質な国家とされてきたそれまでの日本像に疑問を投げかけ、日本中世史研究に影響を与えた。また、中世から近世にかけての歴史的な百姓身分に属した者たちが、決して農民だけではなく商業や手工業などの多様な生業の従事者であったと主張した。・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%B2%E9%87%8E%E5%96%84%E5%BD%A6
 (注4)「中世史家の伊藤正敏は、網野の「無縁」概念を発展させ、中世における大寺社(寺社勢力)が、朝廷や武家政権に対抗した巨大なアジール的空間であり、また「寺社勢力概念」により「農業中心史観」がさらに解体されるという説をとなえている。」(上掲)
 伊藤正敏(1955年~)は、東大文(国史)卒、同大院修士で、「一乗谷朝倉氏遺跡調査研究所文化財調査員、文化庁記念物課技官、長岡造形大学助教授、教授を務め、その後研究・執筆活動に専念。文献史学、考古学、文化財保護行政などをフィールドとしている。研究対象は日本村落史と中世寺社勢力論。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E6%AD%A3%E6%95%8F
 (注5)「御厨(みくり、みくりや)は、「御」(神の)+「厨」(台所)の意で、神饌を調進する場所のことである。本来は神饌を用意するための屋舎を意味する。御園(みその、みそのう)ともいう。・・・表現の一種として神饌を調進するための領地も意味する。そこに生産者(漁民など)が神人として属していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%8E%A8 
 「律令税制<において、>・・・特殊な税制として贄があった。贄とは、朝廷の儀式や天皇の食膳に供される山海の食物で、主として御厨から貢納される。御厨とは、「鵜飼」「江人」「網引」と称する漁民の集団を特定したものであって、彼らは水産物を贄として貢納する代わりに調として雑徭が免じられている(『令集解』)。」
http://www.edu-konan.jp/ishibeminami-el/kyoudorekishi/202010100.htm

 すなわち、日蓮は教養も財力もある両親の下に生れ、だからこそ、日蓮は早くから文字に親しみ、かつまた、(教養を身につけるという目的も兼ねて)出家することもできた、と考えられるのです。(太田)

(続く)