太田述正コラム#13316(2023.2.20)
<江間浩人『日蓮誕生–いま甦る実像と闘争』を読む(その6)>(2023.5.18公開)

 「・・・細川重男<(注15)>氏は「宗尊の京都送還以降、鎌倉将軍は君臨すれども統治せざる完全に装飾的存在となった」とされ、村井章介<(注16)>氏も「宮将軍は、得宗によって、至高の権威とはうらはらに、なんらの実質的な権力をともなわない存在としてまつりあげられた」とされたが、再考が必要と思う。・・・

 (注15)1962年~。東洋大文(史学)卒、同大院修士、立正大印博士後期課程満期退学、同大博士(文学)。「東洋大学・國學院大學非常勤講師。日本史史料研究会主任研究員。・・・専門は日本中世政治史、古文書学。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E9%87%8D%E7%94%B7
 (注16)1949年~。東大文(国史)卒、同大院修士、同大博士(文学)。東大史料編纂所助手、助教授、教授、同大文教授等、同大名誉教授、立正大文教授、同大退職。2014年角川源義賞受賞<。>・・・専門は、日本中世史・対外関係史。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%BA%95%E7%AB%A0%E4%BB%8B

⇒宗尊親王が1266年に(6代)将軍を解任され京へ送還されますが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%B0%8A%E8%A6%AA%E7%8E%8B
それまでの1263年に日蓮は二度目の流罪(伊豆)を赦免されており(※)、かつ、宗尊親王と近衛宰子の子である惟康親王・・当時は王ですが・・が7代将軍に就任し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%9F%E5%BA%B7%E8%A6%AA%E7%8E%8B
・・ちなみに、近衛宰子は、これらの全てに関わったところの、当時の8代執権の時宗の父である5代執権の北条時頼の猶子です(上掲及び、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E5%AE%97 )・・また、1281年に日蓮が行なった朝廷への諫暁が、朝廷、幕府どちらからも問題視されなかった(※)、こと、から、日蓮ないし日蓮の宗門に対する迫害の再生起はない、と、日蓮は確信していたと思われるところ、1284年に時宗が亡くなる前の1282年に日蓮は死去しており、惟康親王以降の歴代将軍が実質的な権力を持っていたかどうかを詮索する必要などありますまい。
 なお、私自身は、通説と思われる、細川/村井説乗りです。(太田)
 
 細川重男氏は、<北条>時宗が描く理想は将軍・源頼朝と執権・北条(江間)義時の治世だとされた。
 細川氏は、得宗専制政治の論理を次のように提示する。
 「源頼朝の後継者である鎌倉将軍の『御後見』として、北条義時の後継者である得宗は、八幡神の命により鎌倉幕府と天下を統治する」
 この理想のために、将軍だった惟康は7歳で皇族から離れて源氏賜姓を受け、「源朝臣惟康」となり、親王将軍ではなく源氏将軍になる。

⇒執権北条時頼の時に初の皇族将軍となったところの、(惟康の父たる)宗尊親王は、源氏賜姓を受けていない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%B0%8A%E8%A6%AA%E7%8E%8B
ので、惟康・・当時は惟康王・・への源氏賜姓は、時頼の子の時宗による新機軸であったことは確かです。(太田)

 これで「源頼朝の後継者である鎌倉将軍」誕生の準備を整え、頼朝をなぞり官位も正二位、右近衛大将へと昇る。
 源氏将軍惟康を後見するのが、義時の後継得宗の時宗だ。
 将軍源惟康・得宗北条時宗の態勢を準備したのは、時宗自身だと細川氏は指摘された。
 清和源氏の氏神の八幡神を、鎌倉幕府・関東の守護神として鶴岡八幡宮に勧請した<(注16)>。

 (注16)「1063年8月に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現 材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである。1081年2月には河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。
 1180年10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、12日に宮を現在の地である小林郷北山に遷す。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していった。1191年に、社殿の焼損を機に、上宮(本宮)と下宮(若宮)の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請した。1208年には神宮寺が創建される。
 源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、源義家が勧請した経緯もあり、武家の崇敬を集めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E5%B2%A1%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE

⇒「注16」に照らし、細川か、または、細川について書いている江間か、が間違っています。(太田)

 時宗の理想には、八幡神の守護により、将軍・得宗体制は国を安穏に統治するという論理を含む。」(98~99、101~102)

⇒「八幡神の守護により」を「注16」的に解するという前提の下でですが、細川/江間の言いたいことに首肯はできます。(太田) 

(続く)