太田述正コラム#2365(2008.2.14)
<オーストラリアの原罪(その1)>(2008.3.26公開)
1 オーストラリア首相の謝罪
 オーストラリアのラッド(Kevin Rudd)首相は12日、オーストラリア原住民(Aborigines)に対して公式に謝罪しました。
 これは、1910年から1970年にかけて遂行された、原住民の血の入った子供達・・その大部分は欧米系の父親と原住民の母親との間の混血・・を孤児院、教会、養父母の下に送って育てることによって原住民の痕跡を消し去ろうとした、いわゆる吸収政策(absorption policy)について謝罪したものです。 
 この問題については、10年ほど前から、政府による謝罪と賠償金の支払いを求める声が起こっていたのですが、前首相のジョン・ハワード(John Howard)は遺憾の意を表明しつつも、過去の世代の不始末について非難されるべきではないとして、謝罪も賠償金の支払いも拒否したところ、ラッド氏は、賠償金の支払いは否定しつつも、謝罪することを公約して昨年11月、総選挙で勝利して首相になったという経緯があります。
 (以上、
http://www.guardian.co.uk/world/2008/feb/13/australia
(2月14日アクセス。以下同じ)による。)
2 上記政策の起源
 (1)宗主国英国の責任
   ア タスマニア島原住民の絶滅
 オーストラリアは1901年に自治権を付与されます(
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Australia_%281901-1945%29
)が、それまでは英国の直轄植民地であり、オーストラリアの地で起こったことは、英国に直接的な責任があります。
 タスマニア島の原住民は1803年に英国から植民者が到着した時には5,000人はいたのに、1830年までには数百人に減り、この時点で全員が30マイル離れたフリンダース(Flinders)島に移され、1876年にその最後の1人が亡くなり、全滅しています(
http://www.hinduonnet.com/2001/09/16/stories/13160611.htm)。
 英国議会の1836年の報告書には、「タスマニア島にはただの1人も原住民は残っていない。原住民を絶滅させる、公言された、あるいは秘密の計画が遂行されたためだとすれば、これは英国政府にとって拭い去ることの出来ない汚点となろう」と記されています(
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2008/feb/14/australia)。
 これはジェノサイドであったとする指摘がある一方、タスマニア島の原住民の主たる死因は英国人が持ち込んだ伝染病だとする指摘(
http://www.newcriterion.com/archive/21/apr03/blainey.htm
)もあり、決着はついていません。
  イ 英国の優生学運動と吸収政策
 
 冒頭に掲げたラッド首相による謝罪の原因となった吸収政策の発想は母国英国の優生学運動(English eugenics movement)から来ているという指摘がなされています。
 もともと帝国主義時代の英国にはイギリス人が人種的に優越していることを当然視する風潮がありました。
 当時の著名な経済学者のマーシャル(Alfred Marshall。1842~1924年)もそうでした。
 彼は1900年頃、次のように記しています。
 「イギリス人種が広く移住したことが世界にとって良かったことは疑う余地がない。人口増加の抑制がより知力の高い人種だけにとどまり、とりわけより知力の高い人種の最も知的な階級だけにとどまれば大変なことになる。例えば、イギリス人の下層階級が道徳的にも肉体的にもより優れた階級より速く増加するようなことがあれば、イギリス人全体が劣化するだけでなく、米国やオーストラリアの人々のうちのイギリス人の子孫まで劣化することになろう。そして、イギリス人が支那人より増え方が遅ければ、活気(vigor)溢れるイギリス人が地球上の人類中で占めるはずであった割合がこの生気のない(spiritless)人種によって置き換えられしまうことになろう」と。
 (以上、
http://www.wsws.org/articles/2004/jul2004/hiw8-j21.shtml
による)。
 このような背景の下、1884年にロンドンで創設されたフェビアン協会に集ったフェビアン流社会主義の旗手たちは優生学理論を優越した社会の形成に応用できると考えたのです。
 この社会主義の理論家のウェッブ夫妻(Sydney Webb。1859~1947年と Beatrice Webb。1858~1943年)、経済学者のケインズ (John Maynard Keynes。1863~1946年)、哲学者のラッセル(Bertrand Russell。1872~1970年)らがその典型です。劇作家のバーナード・ショー(George Bernard Shaw。1856~1950年)は「不適応な人々の絶滅」を唱えましたし、婦人運動家のストープス(Marie Stopes。1880~1958年)は「どうしょうもなく腐敗し人種的に病に冒された人々」の断種を訴えましたし、女性作家のウルフ(Virginia Woolf。1882~1941年)や作家のローレンス(DH Lawrence.1885~1930年)は私的な集まりで国家が痴愚者を根こそぎにすべきであると主張しました。 .
 オーストラリアの吸収政策は、このような思想を実践に移したものだ、という指摘がなされているのです。
 (以上、
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2008/feb/14/australia
前掲による。)
 私としては、1901年から1973年にかけて実施されたところの、非白人の移民受入を制限する政策であるオーストラリアの白豪主義政策(White Australia policy)(
http://en.wikipedia.org/wiki/White_Australia_Policy
)そのものが、このような母国英国における思想を実践に移したものである、と言いたいところです。
(続く)