太田述正コラム#2106(2007.10.5)
<ギリシャ文明の起源(その1)>(2008.4.13公開)
1 始めに
 遅ればせながら、イギリス出身の歴史学者マーティン・バナール(Martin Bernal。1937年~)のギリシャ文明起源論である
Black Athena: the Afroasiatic Roots of Classical Ccivilization, vol. 1: the Fabrication of Ancient Greece, 1785-1985, Rutgers University Press, 1987
邦訳『ブラック・アテナ 1―古代ギリシア文明のアフロ・アジア的ルーツ (1) 』新評論2007年
Black Athena: the Afroasiatic Roots of Classical Ccivilization, vol. 2: the Archaeological and Documentary Evidence, Rutgers University Press, 1991.
邦訳『黒いアテナ―古典文明のアフロ・アジア的ルーツ (2)』(上下巻)藤原書店2004、2005年
の存在を知ったので、まずその内容のツボをご紹介した後、ギリシャ文明起源論の最新状況に触れ、最後に私の感想を記したいと思います。
2 バナールのギリシャ文明起源論
 1790年頃までは欧米人は、昔のギリシャ人、地中海人、及びエジプト人と同様、ギリシャ文明の起源がエジプト文明やフェニキア(Phoenician)文明にあると正しく認識していた。
 ギリシャが数学・政治制度・言語・文字・哲学・宗教をアフリカ人やセム人から借用したということは、ギリシャの歴史家のヘロドトス(Herodotos。BC484?~425?)、修辞学者のイソクラテス(Isokrates。BC436~338年)、哲学者のプラトン(Plato)、そして同じく哲学者のアリストテレス(Aristotle)らが指摘している。
 欧州文明自体、ギリシャ文明と渾然一体となったエジプト文明をヘルメティシズム(Hermeticism) やロシクルシアニズム(Rosicrucianism)(注1)の形で継受してきた。
 (注1)ヘルメティシズムはエジプトのトート(Thoth)神 に由来すると信じられてきた教義体系。ロシクルシアニズムは、ヘルメティシズムとキリスト教の混淆教義体系。(http://en.wikipedia.org/wiki/Hermeticism
。10月5日アクセス)。
 ところがこのような認識は、キリスト教によって次第に突き崩されて行く。
 そして最終的にこのような認識を葬り去ったのが、ナショナリズムに冒されたドイツの学界において、1785年から1830年頃にかけて登場したアーリア人なるフィクションだった。
 この背景にはフランス革命への嫌悪感があった(注2)。
 (注2)私に言わせれば、これはいつものイギリス人流の韜晦であり、「フランス革命への嫌悪感」は、要するに「アングロサクソン文明への劣等感」なのだ。
 彼らは、ギリシャ人もドイツ人もアーリア人(Aryan)ないし印欧語族(Indo-European)の一員であり、ドイツはギリシャ文明を最も純粋な形で受け継いでいる、と主張したのだ。
 この理屈が成り立つためには、ギリシャ人にエジプト人やフェニキア人の血が混じっていたり、またギリシャ文明の起源が、エジプト文明やフェニキア文明であっては困るので、歴史がねじ曲げられることになった。
 それと同時にドイツは人種差別的になり、反アフリカ人(反黒人)的かつ反セム人的(つきつめれば反ユダヤ人的)になった。
 そして、ドイツ以外の欧州諸国のみならずイギリスまでも、以上のようなドイツのギリシャ文明観に染まってしまったのだ(注3)。
 (注3)ただし、イギリス人は人種差別意識、就中反ユダヤ人意識は一貫して希薄だ。(太田)
 今こそ、アーリア人的歴史観を排し、かつてギリシャ人らが抱いていた歴史観へと戻るべきなのだ。
 (以上、特に断っていない限り
http://faculty.vassar.edu/jolott/old_courses/crosscurrents2001/blackathena/models.html
(10月5日アクセス)による。)
3 中継文明としてのクレタ文明
 バナールの上述のような主張が出てくるのがもっと早くても不思議ではなかったのです。
 というのは、ミノア(Minoan)文明が、ミケーネ(Mycenaean)文明とともに、ギリシャ古典文明の先駆けであることについては、かねてから異論がなかったところ、1900年にイギリスの考古学者のエバンス(Arthur Evans。1851~1941年)によってクレタ島(Crete)のクノッソス(Knossos)でミノアの宮殿が発見され、この宮殿の様式等がフェニキアやエジプトの影響を強く受けていることが分かったからです。
 ところが、イギリスにおいてさえ、1972年に至ってなお、イギリスの著名な考古学者のレンフリュー(Colin Renfrew。1937年~)がその著書’The Emergence of Civilisation’で、ミノア文明は他からの影響なしに生まれたと主張する始末でした。
 しかし、紀元前4,000年代の終わり頃のクレタは生きていくのがやっとの自給自足的農業社会で交易らしい交易も行われていなかったというのに、紀元前2,000年代の初め頃までにはクレタが巨大な宮殿、中央集権的権威、高度な専門的手工業、輻輳する交易、中央官僚機構が駆使する複雑な書き言葉を持つ社会へと変貌したことについては争いがないところ、こんな大きな変化が他からの影響なしに起こったとするレンフリューらの主張に対する疑問の声が、バナールのギリシャ文明起源論が出た頃から急速にイギリスで高まっていったのです。
(続く)