太田述正コラム#13344(2023.3.6)
<江間浩人『日蓮誕生–いま甦る実像と闘争』を読む(その20)>(2023.6.1公開)

 (私が上述のように解釈したくだりについての、日蓮正宗の解釈が
http://monnbutuji.la.coocan.jp/gosyo/kaisetu/1-50/050.html 前掲
に載っているので、比較してみてください。)
 日蓮が、今回私が遅ればせながら気付いたように、多数の縄文人と少数の縄文的弥生人たる日本人達が住むこの日本、が、ユニークにして普遍的な存在であること、を認識していたとしか考えられない、ということからだけでも、日蓮が天才であったとの私の指摘(コラム#省略)に、皆さん、納得されるのではないでしょうか。
 日蓮のこのような発想が、日蓮とほぼ同時代人である神道家の渡会行忠(1236~1306年)と、思想遍歴の出発点において、相通じるところがあるのは興味深いものがあります。
 すなわち、渡会は、「正直・清浄の徳」・・私見では人間主義の徳・・を説くとともに、事実上の『神道五部書』の著者
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%A6%E4%BC%9A%E8%A1%8C%E5%BF%A0
として、「本覚<(注46)>思想を持つ天台宗の教義<を>流用<し>て」神本仏迹説に基づく神道論・・後に伊勢神道(渡会神道)となる・・を唱えた<(注47)>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E5%9E%82%E8%BF%B9
のですからね。

 (注46)「大意としては、衆生は誰でも仏になれるということ、あるいは、人間はもともと仏性を具えている・・悟っている・・ということである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%A6%9A
 (注47)但し、「伊勢神道においては・・・全体として反本地垂迹説的な主張は非徹底であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E9%81%93

 (付言すれば、私は、日蓮は、自分自身について、方便として宗教家を装い続けただけであって、晩年においては、科学者兼政治家である的な自覚をしていた、と、想像しています。
 他方、渡会については、私は、教義宗教ではない神道を教義宗教化しようとしたところの、もってのほかの宗教家だった、という認識です。)
 当時まだ非仏教国であったモンゴル帝国によって、仏教国の宋
https://www.y-history.net/appendix/wh0301-059.html
が南に追いやられ、仏教国の高麗は事実上征服されてしまったことが、同じく仏教国の日本で危機意識を募らせ、日本の、非仏教国はもとより他の仏教国に対する優位、を訴える必要性に迫られたことや、元寇を阻止できて日本の優位性が裏付けられたように見えたこと、が、日本の神仏混交性への注目をもたらし、日蓮と渡会の神本仏迹説・・但し、日蓮の場合は「仏」は「釈迦」を指し、渡会の場合は「仏」は「仏教」を指す・・が成立した、というのが私の考えです。
 いや、「私の考えです」と申し上げたけれど、私は、いずれも日蓮主義者であったところの、(晩年の日蓮を見届けたはずの近衛家基(1261~1296年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E5%9F%BA
の頃以降の歴代の近衛家当主達中の、例えば、)近衛信尹(コラム#省略)、及び、そのいずれもが近衛家の時の当主と濃厚な関係を取り結んだところの、織田信長、豊臣秀吉、島津斉彬、らの諸言動(コラム#省略)から推して、彼らが、日蓮の主張を、以上のようなものと受け止めていたと考えざるをえないからこそ私は以上のようなものとして考えている、と申し上げるべきかもしれません。(太田)

 「・・・仏とは、信じさせる立場の人なのだ」と釈迦は繰り返し伝えます。
 ところが弟子たちは、釈迦は特別な何かを「悟った人」だと思っているのです。
 そして、自分も特別な何かを「悟りたい」と願うのです。
 そう思うのも無理はありません。
 なぜなら、以前に釈迦自身が自らを「悟った人」だと言っていたからです。
 しかしそれは「特別な悟り」を「信じたい」人々に対して、そう説いてきたにすぎないのです。
 「信じたい」欲求にしたがって教えを説く以外、人々を信じさせることができないからです。
 方便品で初めて明かされる「信じさせる人」の立場は、それを読む私たちに、自分は「信じさせる人」の立場に立てるのか、それとも「信じる人」の立場から出られないのか、をストレートに問いかけてきます。
 釈迦の悟りは、実は「万人は同じく仏になれる」という一点だけです。
 その一点の深みと重みを、単に観念的にではなく、体験的に理解することなくして、釈迦を「ほかに特別な悟りを得た仏だ」と思うのであれば、その人はどのような理屈で胡麻化そうとも「信じる人」の代表である舎利弗と同じ悶絶を味わうに違いありません。」(266~267)

⇒「『止観輔行伝弘決』<(注48)>巻2には『十誦律』をふまえて、次のような話が記されている。ある在家の有力信徒から釈尊の弟子たちが食事の供養を受けた時、舎利弗ら長老などがおいしいものをたっぷり食べ、初心者たちは不十分な食事しかできなかった。これを羅睺羅[らごら](ラーフラ)から聞いた釈尊は、舎利弗に対して不浄な食事をしたと叱責した。舎利弗は食べた物を吐き出し、今後二度と食事の供養を受けないと誓った。」
https://k-dic.sokanet.jp/%E8%88%8E%E5%88%A9%E5%BC%97%EF%BC%88%E3%81%97%E3%82%83%E3%82%8A%E3%81%BB%E3%81%A4%EF%BC%89/
という話のことなのでしょうが、私は、今一つ、腑に落ちませんでした。
 いずれにせよ、江間には、この説話を併せて紹介して欲しかったところです。(太田)

 (注48)「『止観輔行伝弘決』(しかんぶぎょうでんぐけつ)<は、>妙楽大師湛然による『摩訶止観』の注釈書。10巻(または40巻)。天台大師智顗による止観の法門の正統性を明らかにするとともに、天台宗内の異端や華厳宗・法相宗の主張を批判している。」
https://k-dic.sokanet.jp/%E3%80%8E%E6%AD%A2%E8%A6%B3%E8%BC%94%E8%A1%8C%E4%BC%9D%E5%BC%98%E6%B1%BA%E3%80%8F%EF%BC%88%E3%81%97%E3%81%8B%E3%82%93%E3%81%B6%E3%81%8E%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%A7%E3%82%93%E3%81%90%E2%80%95/
 妙楽大師(みょうらくだいし。711~782年)は、「唐の僧。湛然[たんねん]のこと。<支那>天台宗の中興の祖。天台大師智顗が没して100年余りの当時、禅・唯識・華厳などが台頭する中、法華経解釈や止観の実践は、祖師・天台大師によるものこそ正当であるとして諸宗の教学を批判した。それとともに、天台大師の著作に対する注釈書『法華玄義釈籤』『法華文句記』『止観輔行伝弘決』などを著し、法華経こそが化儀・化法の四教を超えた最も優れた醍醐味の教え(超八醍醐[ちょうはちだいご])であるとして、天台教学を整備した。晋陵郡荊渓(現在の江蘇省宜興市)の出身で荊渓[けいけい]とも呼ばれ、妙楽寺に居住したとされるので、後世、妙楽大師と呼ばれた。直弟子には、唐に留学した伝教大師最澄が師事した道𨗉[どうずい]・行満[ぎょうまん]がいる。」
https://k-dic.sokanet.jp/%E5%A6%99%E6%A5%BD%E5%A4%A7%E5%B8%AB%EF%BC%88%E3%81%BF%E3%82%87%E3%81%86%E3%82%89%E3%81%8F%E3%81%A0%E3%81%84%E3%81%97%EF%BC%89/

(続く)